海幸彦と山幸彦の世界(二)
鹿児島神宮(大隅一宮) 隼人塚
海幸彦と山幸彦の世界(二)
鹿児島神宮(大隅一宮) 隼人塚
鹿児島神宮
JR隼人駅から一キロほど線路沿いに国道を北西へ歩くと、大きな朱色の両部鳥居があり、参道へと入る。古い石の橋を渡り、階段を上がると正面に勅使殿、立派な構えである。御神木は大楠。横から回り込むと拝殿で、見上げると格天井がとてもきれいである。格子状に区切られた天井には季節の花の絵、身近な植物や野菜の絵が色とりどりに描かれている。社殿は島津氏による造営という。
主祭神は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、別名山幸彦)。豊玉比売命。
相殿には仲哀天皇、神功皇后、応神天皇(八幡大神)、仲姫命。
創始は神代とも、また神武天皇の御代とも。
彦火火出見尊(山幸彦)は神武天皇の祖父。尊は当地に高千穂の宮を営んだという。御陵は北西十三キロにある高屋山陵とされる。
当社はまた大隅正八幡宮と称し、由緒には別の伝承もあるので記しておく。
震旦国の王女大比留女(おおひるめ)は、七歳にして朝日の光を胸に受けて懐妊、皇子(八幡神)を生んだ。父王は驚きうつぼ舟に母子を乗せ「着いた所を所領とせよ」と海に流した。日本の大隅に漂着し、皇子は正八幡神として祀られた。
奇妙な伝承であり、どう読み解くのかわからないけれども、うつろ舟で波間を漂う父のわからない子とその母の姿には、哀しみがある。震旦国とは古代中国の呼称、なお各地にこうしたうつぼ舟の伝承はあるそうで、罪ある女性や、下の病を患った女性が追放されるなど話の型も少しずつ違うらしい。ついでにいうと「雛流し神事」で知られる和歌山県加太の淡嶋神社にも、うつぼ舟伝承がある。
神社の裏手に回り、山の稲荷社の方に手を合わせ、石體(しゃくたい)神社へと進んだ。徒歩十分程度の距離である。石体宮(しゃくたいぐう)ともいい、実はここに高千穂の宮居があったとされており、ひっそりとした山中のお社である。境内には苔のついた大きな岩が見られる。御神体は石だというが、お社の奥深くに秘され、一般人は見ることができないそうだ。小さなお社だが歴史の感じられる場所、という印象を受けた。社殿の横には石塔が立ち、丸い小石がたくさん積まれてある。祈願石であろう。安産や子育てを願う女性たちの思いがひしひしと伝わってくる空間になっており、静寂に包まれている。樹々の緑は濃く全くひと気はなかった。
豊玉姫は産み月が近づくと、山幸彦を追って来て、地上で御子を出産しようとする。その場所には諸説あるが、仮にこの近辺であるとして、浜辺に産屋を建て鵜の羽で屋根を葺こうとしていたとき、産気づいて子が生まれたのである。なぜ鵜だったのだろう。
調べてみると、鵜飼で鵜は呑み込んだ魚をつるんと吐き出すので、その連想から安産の呪(まじな)いとされていたようだ。
そんなにも古くから鵜飼漁法が行われていたというのには驚くが、稲作と鵜飼漁法はかなり早い時代に伝わったらしく、例えば山口県の土井ヶ浜遺跡(弥生時代)では、胸に鵜を抱いて埋葬された女性の人骨が見つかっている。(「日本の古代」8海人の伝統 大林太良 中公文庫)
その掲載写真を見ると、確かに左胸に小さな骨を抱いており、祭祀者だったとも、お産で亡くなった女性が葬られる際の、来世での安産を願う呪術だったかもしれないとも想像される。また以前訪れた能登一宮の気多大社で、海鵜を神前に放って占いをする神事があったことなども思い出された。(能登の海の岩場でも、鵜を見た記憶がある)鵜はよく見かける鳥だが、古では霊力を持つ特別な鳥と考えられていたのであろうか。
豊玉姫が出産の際に、元の身をあらわし鰐になったとされる点であるが、鰐とは鮫のことと解する説が有力らしい。いわゆるトーテムとして、海人族はそれぞれゆかりのある守護神、守護霊、南方熊楠のいうところの族霊、を持っていたかと考えられるが、出産など大事の折には特に加護を願い、それを象徴的に用いて模擬的に演じる、などの呪術を行う信仰のかたちがあったのではないだろうか。繁殖する鮫にあやかろうとし、身をくねらせて出産する鮫の、何らかの模倣の所作が行われたのではと想像する。これをそっと覗き見た山幸彦はさぞ驚いたことであろう。
また山幸彦が帰還する際、大鰐に送られて故郷に着くが、お礼に紐のついている小刀を解いて鰐の頸につけて返し、それでその一丈の鰐を佐比持の神という(古事記)、というくだりがある。「さひ」とは鋤であり武器と注にある。つまりこれは「しゅもくざめ」のことを表現しているのではないかと想像する。
山幸彦が返してもらった釣針とは、どんなものだったのだろうか。釣針は古くは動物(鹿など)の骨などで造られたという。「し」の字の形をしたもので大きいのは数センチくらいのものもあるとか。巻貝や石を削ったものもあるそうで、時代が進むと金属になる。
山幸彦が償いに剣を潰し、箕(み)一ぱいの釣針を造った、とあるので、金属製とわかる。兄は同じものにかなり拘っているようなので、それは特別な装飾を施したか文様を刻んだ呪的なもの、それを用いると霊威をもたらすものだったかもしれないと考えられる。
異類、異族間、あるいは仙郷で異性と契りを結んだ場合、神話の型では、約束を守らなかったときにその関係は破綻、あるいは消滅していく。文化や習慣、宗教の相違、禁忌を乗り越えて、異族の男女が添い遂げることは、難しいものがあったのだろう。
大林太良氏の見解によれば、海幸山幸の神話は、中国江南やベトナム、インドネシアなどに類似する古い伝説があるそうで、失われた釣針の話型や、山(陸)と海の対立で洪水が起きるという伝承、異類の女と婚姻するが、夫が「見るな」の禁を破ったとき、別離に至る、などの共通項もみられるという。
「浦島太郎」は、丹後半島の伝説がよく知られているが、相模、讃岐など各地にあるという。その内容や展開は、海幸山幸と似ているところもあるが、相違点も目立つ。浦島太郎のほうは中国の説話や洞庭湖の民間伝承、また琉球諸島に伝わるニライカナイ伝説に近いともいわれているそうだ。海幸山幸の話は、必ずしも浦島伝説の原話、ともいえないそうだが、いずれもその起源をたどってゆけば、海外の広い地域に分布する伝承や説話につながる、という点は興味深い。
豊玉姫と山幸彦が交わした歌についてみておこう。
妹玉依姫に託した豊玉姫の歌。
赤玉は緒さへ光れど白玉の 君が装(よそひ)し貴くありけり
(赤い珠はその通した緒まで光るようですが、真珠のようなあなたのお姿はなんと神々しかったことでしょう)
赤玉とは琥珀と注にあり、瑪瑙(めのう)という説も。赤と白を対比した表現になっている。
穂穂出見尊(山幸彦)の返歌。
奥(おき)つ鳥鴨著(ど)く島に我が率寝(ゐね)し 妹(いも)は忘れじ世の尽(ことごと)に
(水鳥の鴨が降り着く島で、私が契りを結んだ妻のことは忘れられない。この世の尽きるまで) (参照 引用は新訂「古事記」角川文庫より)
奥つ鳥は枕詞で、鴨が着く島とは水鳥のように漂着した様子をいうらしく、島とは国や領域のことを指すという解釈もあるそうだ。山幸彦が海底の宮、竜宮に着いたという幻よりははるかに現実味があり、納得もしやすいかと思う。
隼人塚
神社を出て隼人駅に戻り、「隼人塚」(古くは熊襲塚とも)を訪ねた。駅の南西数分の所にある史跡である。祟り鎮めの塚が築かれたと伝承されているが、建造の時期には諸説あって定かではない。反乱を起こし、大和朝廷軍に平定された隼人族の怨霊を慰めるため、平安時代に塚と供養塔が建てられたという説が有力という。
現在周辺には芝生が敷かれ、公園風に整備されている。塚の上には石塔が三基、それを囲むように石像四体が立っている。甲冑を着け武器を手にした武人の姿で、これは四天王像であるという。古い資料を見ると、武人石像は半身が草に埋もれたままの状態で放置され、その体の向きもさまざまで虚空を睨み、異様な印象を受ける。
石塔、石像ともに風雨に晒されて傷んでいたため、修復と復元が行われたそうで、現在四天王像は掘り起こされて整えられ元通り全身像となり、石塔の四隅に定位置を与えられて立っている。
四天王とは持国天、増長天、広目天、多聞天のことで、仏教世界を守護するという。隼人塚は古くは熊襲塚とも呼ばれていたそうである。熊襲はたびたび大和に背いて服属しなかった古い時代の呼称とされ、後の時代には隼人と呼ばれるようになったらしい。薩摩隼人、大隅隼人、日向隼人など地名を冠した呼び方があり、隼人、熊襲についてはいろいろな説がある。
海幸彦山幸彦と関連する伝承をみてみよう。
山幸彦の操る塩盈珠(しおみつだま)、塩乾玉(しおひるだま)の呪術に敗れた海幸彦は、「僕(あ)は今より以後(のち)、汝が命の夜昼の守護人(まもりびと)となりて仕えまつらむ」とまをしき。かれ今に至るまでその溺れし時の種々の態(わざ)、絶えず仕えまつるなり。(古事記)
「兄は褌(ふんどし)をして、赤土を額に塗り、身を汚して俳優(わざおぎ)になろう」と弟に告げ、足を上げて踏み鳴らし、苦しそうな様子をした。はじめ潮が差して足を浸してきたときには、つま先立ちをした。膝にきたときには足を上げた。股にきたときには走り廻り、腰まできたときには撫で回した。脇に届いたときには手を胸に置き、首に届いたときには手を上げてひらひらさせた。それから今に至るまで、その子孫の隼人たちはこの所作をやめることがない。・・・・
兄は弟に「狗(いぬ)人として仕えます。哀れんでください」といって服従した。それで海幸彦の後裔のもろもろの隼人たちは、今に至るまで天皇の宮の垣のそばを離れないで、吠える犬の役をしてお仕えしているのである。 (日本書紀現代語訳 神代 下 講談社)
井上辰雄著「熊襲と隼人」によれば、溺れ苦しむ様子を卑屈に再現して演じたのではなくて、本来このようにして地を踏むような所作は呪的なもので、海岸に出て海水で禊(みそぎ)をし、次第に身を浸しながら、海から来る神を依り憑かせる神事が原型であり、神霊がつま先から全身に充満していくさまを表現し、最後に手をひらひらされる動作は、神がかりを示す、ということである。そして犬の吠える声で貴人を警護したとされることについても、それは犬の声を出して邪霊を遠ざけ打ち払う呪術であった、と解するそうである。
本来は隼人の人たちの神事にもとづく鎮魂、魂振り、呪能のわざであったものが、服属儀礼に取り込まれていくうち、少しづつ変容しながら別のかたちに定着していった、と氏はみておられるのである。
隼人は何度も反乱を起こしたそうである。北部九州は早くから大和の傘下に入っていたが、南九州は服属が遅れていて隼人はたびたび反抗し、中でも七二〇年の隼人の反乱は大規模で、大隅国守が殺害されるという事態に至った。大和政権は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任じ、九州各地から多くの兵を徴集して鎮圧、戦は長びき一年半に及んだという。多くの戦死者を出して隼人はようやく完全に服属、以後朝廷に仕えたという。
隼人の支配については、古くから隼人を畿内に移住させるという政策が取られていたそうで、軍に組み入れて畿内各地に配置、また近習隼人として宮中の警護や門番などの役に当て、隼人同士で相撲を取らせたり、隼人舞を演じさせたり、笠や籠などの竹製品を作る仕事にも就かせていたようである。
隼人塚に佇んでいると、夕刻になってきた。塚のすぐ後ろをJR日豊本線が通っているので、この石像は列車からもちらと眺められるはずと思い、来るときは駅に近づくとだいたいこの辺り、と見当をつけて車窓から気にして見ていた。すると何やら黒い塔と像が目に入り、風景はすぐに流れ去っていったが、そこだけ古代の雰囲気の漂うただならぬ空間であることが、瞬時にして伝わってきたのだった。隼人塚の築かれている地、隼人駅の周辺は古代の戦場であった。
「令和」の元号
大軍を率いて任務を帯び、隼人の乱を平定した大伴旅人であったが、その九年後、政治の実権を握りつつあった藤原四兄弟によって左遷された。大宰府の長官として妻を伴い下向することになったのである。軍事の名門の大伴氏であったが、旅人はこのときすでに六十歳を超えていた。そして大宰府に赴任後すぐに妻の大伴郎女を亡くしている。
大宰府の要人、役人ら三十二人を招いて梅花の宴を私邸で催し、このとき多くの歌が詠まれて、それらは万葉集に収められた。
この歌会の序文「初春令月 気淑風和」(初春の令月にして 気よく風和らぎ)の一節から新元号「令和」が採られたのである。
海幸彦と山幸彦の世界(一)は枚聞神社(薩摩一宮)の項に