一大台ケ原を歩く一
一大台ケ原を歩く一
原生林保護のため、西大台ケ原に入るのを許可制にすることになったという記事が新聞に載っていた。一日当り五十人、事前に申し込む必要があり、現地でのレクチャーが義務付けられる・・・・などとある。九月一日から実施というので、八月末に滑り込みで大台ケ原に出かけることにした。
何年か前の春に、東大台ケ原のほうを歩いたことがあった。原生林と聞いていた通り、ブナやミズナラの大木が目を引いた。足元にシダやスギゴケが残る綺麗な森ではあったが、一方ではトウヒが立ち枯れて無残な姿をさらし、倒木と笹だけになってしまった斜面も多く見られた。コースには木道が設けられ、起伏が少なく歩きやすい。楽に歩けるということは、また多くの観光客がここを訪れるということであろう。
せっかくの森も、年ごとに樹木が減りつつあり、その分イトザサが広がっているということだった。笹を食料とする鹿が増え、樹皮をかじるので樹が傷み、森が後退するという事態が生じ、正木が原ではそれを裏付けるかのように、何度も野生の鹿の群れと出会った。食べ物をねだって寄ってくる奈良公園の鹿と違い、人が近づくと慌てて逃げてゆく。
牛石ケ原という草原を歩いていると、神武天皇の像があった。そういえばバス停の近くで神道系の教会の建物を見た。草原に立つ神武像を眺めていると、ここが神武東征の道、という伝承地であったことに思い至った。
神武天皇が大和へ入るときに通った道筋については、記紀でその経路が違っている。あれこれ思い出しながら、古代に思いを馳せた。
神武天皇像は、悪鬼を封じ込めたという牛石の近くにあり、まるでそれを見張っているかのような形で立っていた。悪鬼というのは、神武東征の逸話によく出てくる討伐された先住民を指しているのか、あるいはまた別の時代のものをそう呼んでいるのか、よくわからないが、黒ずんだ大きな牛石と神武天皇像は一組の風景となって、青々と茂る草の中にあった。
明るく開けている場所ではあるが、地に伏しているような牛石をみていると、何かしらまがまがしい古代の気配が漂ってくるような気もした。説明文によると、高僧が怪物を封じた石というが、これは以前葛城古道で見たことのある、蜘蛛塚(先住民を葬った塚)と同じものかもしれない、とも感じた。
その先にある大蛇嵒(だいじゃぐら)という千メートルの絶壁に行ったときには、周囲の景色は雄大で素晴らしいのだが、足がすくんでどうしても下を見ることができなかった。そういうことがいくつか今も記憶に残っている。
今回は西大台ケ原を歩くことにした。
前回同様、大和上市から大台ケ原行きのバスに乗り込んだ。便数が少ないので、乗り遅れないかと気になることも、前と同じである。
しばらく吉野川に沿って遡っていくうち、ふとバス停の停留所名を見ると宮滝であった。思わず目の前を流れていく深い水の色を見つめる。
宮滝とは優雅に響く地名である。いかにも立派な滝がありそうだけれど、滝はないという。歴史のほうでみると、まず思い浮かぶのが宮滝遺跡であろう。縄文や弥生に遡る土器が出土している古の地であり、記紀にも宮滝の名は登場してくる。
古くは神武東征時に一行が吉野川流域を通り、この辺りに滞在したことが記述されており、時代がもっと下っていくと、斉明天皇が吉野宮を建てたことが記録にみえ、後に吉野離宮と呼ばれることになったという。
天武天皇は壬申の乱の折、宮滝から出発して挙兵したし、また持統天皇は宮滝の地を好み、在位九年間に三十一回も宮滝を訪れたといわれている。
夢のわだ、天武天皇の皇子たちの宮滝の誓い、万葉集や記紀に出てくる印象的な場面が浮かんできて、降りて水辺を散策したいような気持ちにもなってくるが、それはまた別の機会に、と思い直す。
バスはゆっくりと橋を渡っていく。吉野川に向かって張り出した平たい岩を、青い川水が洗っている情景を心に刻みつつ通過する。
緑に包まれた川上村をバスは進んでいく。何気なく窓の外を見ていると、井光(いひか)へ向かう分岐の道路表示があった。記紀に出てくる井氷鹿の里、であろう。
神武東征の伝承を記紀から少し見てみよう。
神武軍は大和へ入るため、浪速の海を進み、当時は入り江になっていた河内の日下から上陸するが、応戦した土地の長髄(ながすね)彦軍に敗れてしまう。神武の兄の五瀬命が矢傷を受けたため、軍は引き返し船で南下していった。
五瀬命は傷が悪化して亡くなったので、紀伊の竃山に葬った。神武軍は紀の国の名草での戦いのあと、さらに海沿いに回り込んでいき、上陸も試みるが地元民の抵抗に遭う。新宮の先では嵐に遭って難破して兄二人を失う(書紀)など、痛手を蒙った。けれども土地の高倉下(たかくらじ)の協力を得て体制を立て直し、八咫烏(やたがらす)の道案内により、熊野を越えて宇陀へ至り大和に入ろうと図る。宇陀の前に、井光を経たことが古事記に見える。
・・・・幸行でまししかば、尾ある人、井より出で来。その井光れり。「汝(いまし)は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕(あ)は国つ神名は井氷鹿(いひか)とまをしき。こは吉野の首(おびと)等が祖なり。すなわちその山に入りまししかば、また尾ある人に遇へり。この人、巌(いわほ)押し分けて出で来(く)。ここに「汝は誰ぞ」と問はしければ、答え白さく、「僕は、国つ神名は石押分(いはおしわく)の子・・・・。其地より踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき。(古事記)
書紀では、先に宇陀へ行き、その後で吉野へ行ったことになっている。
・・・・菟田(うだ)の穿邑(うかちむら)より、みずから軽兵を率ひて巡り幸(いでま)す。吉野に至る時に、人有りて井の中より出でたり。光りて尾あり。天皇問ひてのたまはく、「汝は何人ぞ」とのたまふ。対(こた)えてもうさく、「臣は是国つ神なり。名を井光といふ」とまうす。これすなわち吉野の首(おびと)らが始祖なり。 (日本書紀)
井氷鹿や石押分は土地の有力者で、たぶんこのとき神武軍に協力したため、記紀に名も載ったのであろう。光る井戸とは、何のことかと疑問に思うが「古代の朱」(松田壽男著 ちくま学芸文庫)によると、この辺り一帯は、古代には水銀を含む鉱物を産出する地であったという。
当時鉱物の採取は盛んに行われていて、水銀と硫黄の化合物は、朱砂、辰砂(しんしゃ)と呼ばれ、価値あるものだったという。水銀は岩の間などからガスになって吹き出てくるのだが、そういう地の砂は実に美しい赤色に染まっているという。
朱砂を採取するのに穴を掘っていくのだが、水が湧き出てくると、当時は排水しながら掘り進む技術がないので井戸を放棄し、また別の露頭を探して掘ったという。
竪坑は、真紅の壁面に自然水銀を汗のように吹き出していて、底には水銀が溜まっているという。水銀は丸い粒になっていて、互いにくっつきあう性質がある。それがきらきら光ることから、その井光れり、という表現になったと松田氏はみておられる。
井光とは朱砂を取る竪坑、また石押分というのは横坑を指すのではないかとも。
朱砂は防腐効果があるので、用途が広く、建物や土器に塗り、あるいは模様をつけ、墳墓に撒いたり、鏡を磨くとか、また無機水銀のほうは、微量を摂ると薬にもなったそうで、丹薬といって不老長寿の秘薬であったという。
「はそう」という、空気穴を一つ開けた丸い土器に朱砂を入れ、ぴったり蓋で密閉して加熱し、空気穴から管でもって、中で発生するガスを水中に導くと、水銀が得られるという。はそうは穴が開いているため謎の土器で、酒器ともいわれているらしいが、氏は水銀蒸留器とみておられる。
水銀はみずがねと呼ばれていて(ちなみに鉄はくろがね、銅はあかがね、銀はしろがね、鉛はあおがね)水銀を司る女神の名は、丹生都比売(にうつひめ)、水銀は古代に日本の中央構造線上の各地でよく産出されたそうで、吉野にも鉱脈があり、それら産出地に沿ってみていくと丹生神社、丹生川、など丹の字がつく地名が多いということであった。
内部が赤く映え、水銀で銀色に光っている井戸、情景が目の前に浮かんでくるようである。
そうなると、尾のある人という言い方も気になってくる。通説では異族の服の形容とみなされている。井戸に入るときの命綱とか、屈んでする作業に便利なようにと、毛皮などで尻当て(引敷)をつけていたのを、しっぽと表現したらしい。
井光とはどんな所なのだろう。想像では、何かゆかりの古い社が残っている静かな山里という感じがする。古代には水銀を産出していたあかつちの地・・・・。不思議な光を発する井戸と当時は思われていたであろう。記紀では、井光の地名は両方に載っていたように思う・・・・。
バスはそのまま国道を上がっていく。
車窓から眺める緑は次第に深くなっていく。折り重なった山また山である。伯母ケ峰の辺りで、再び古代に引き戻された。地元神社による伝承では、たしか神武軍の行程中に伯母ケ峰の名が出てきたのではなかっただろうか。
神武軍の一行は嵐で難破の後、船を捨て、熊野山中に入っていく。その経路は熊野大社を経て、折立から玉置山に登って神を祭る儀式を行い、笠捨山から池原の薬湯に浸かって怪我人の治療をし、大台山で国見をしてから、伯母ケ峰を降り、井光、宇陀へと続いていく。
この大台ケ原ドライブウエイは、その行程とかなり重なっている。古代の道が現代でも使われていることを改めて思う。
神武軍といっても、一体どのくらいの人数がここを通過していったのか、不明であるが、このような険しい山中での食料や水の調達、熊や狼など野生動物に襲われる危険、泊まる場所の確保・・・・。道筋に当った村々は、突然現れた神武の一行を見てさぞ驚愕したことだろう。軍に協力の諾否の選択を迫られれば、村人の間で、動揺や混乱も生じたに違いない。どなたかの本で読んだことであるが、この辺りでは、ある村は神武軍に従ったが、自分の村は抵抗した、というような言い伝えが、今も残っているそうである。協力した村、抵抗した村、直前に逃げ出した村、と対応はさまざまであったろう・・・・。
そういうことをあれこれ考えているうちに、バスは大台ケ原の駐車場に着いた。
大台ケ原は非常に雨の多い所である。年間総降雨量は5000ミリとか。そう聞いていたので、今回も雨具の用意は整えてきていたが、空を見上げると、幸いなことに晴れている。
今回の目的地の西大台へは、大台教会のほうの道から下りていく。泥よけマットでよく靴底をこすってからコースに入っていった。誰も歩いていないので何となく不安になるが、前方にちらほらハイカーの姿を見かけて安心する。
降りきったところに沢があり、水音が心地よく聞こえていかにも涼しげである。黄色がかった白いバイケイソウや、紫色のカワチブシがあちこちに咲いている。思わず見とれてしまうが、花の可憐さに反して、バイケイソウは有毒、カワチブシも猛毒のトリカブトの一種であるという。この辺りは少し開けた空間になっていて、感じのよい場所であった。
流れを渡り、さらに進んでいく。周囲は緑の森である。時折車の音がするので、右手に大台ケ原ドライブウエイが近づいたり離れたりするのがわかる。歩く足元には苔が敷き詰められたように広がり、見上げるとどこまでもブナの林が続いていく。
やがてドライブウエイを完全に離れたらしく、いつしか静寂の森になった。上り下りを繰り返し、沢の流れの音と鳥の囀りの中を黙々と歩いていくうち、七ツ池湿原への分岐をどう見逃したのか、行き過ぎて岩場に出てしまう。引き返すのも時間が惜しいので、そのまま進むことにする。
川原に出たので、リュックを下ろし、お弁当を開いてそこでしばらく休んだ。水は澄んでいて、流れに手をつけると冷たくて心地よい。小さな魚が群れて泳ぐのが見える。林のどこかで、キツツキがかちかちと細かく木を叩く音が聞こえてきた。
「あれは、アカゲラじゃないかなあ」
誰かが言っている。双眼鏡で鳥が見えたらしい。どこかの団体ツアーの人たちが到着し、たくさんの人が足を投げ出して休んでいた。
この後は開拓地跡に出た。百年以上も経っているので、すでに建物は朽ち果てて片鱗も見当たらず、むろん畑も何もなく、わずかに人の手で切り開かれたらしい林に、跡地を示す表示板だけが、墓銘碑のようにぽつんとあった。
土地が痩せていて、穀物がうまく育たなかったのだそうである。高地であり雨や霧の多いこと、気温が低いことも影響しただろう。ここで生きることを選び、入植してさまざまに努力した人たちの無念の気持ちや落胆の様子が、今も伝わってくるような侘しい場所であった。
歩き始めたときは晴れていたが、次第に雲行きが怪しくなってきて、空が分厚い雲に覆われ始めた。天候の急変、これが大台ケ原のいつもの姿なのであろう。見ている間にも空はどんどん暗さを増し、雲がいくつにもちぎれて風に乗って流れていく。道も急に薄暗くなる。
展望台への分岐まで来るが、この天気ではたぶん眺望はなく、何も見えないであろうと思い、行くのを止めることにした。
赤い吊り橋を二度渡り、急登の坂を一気に上がり、急いだのでかなり息が切れ「たたら力水」という水場に着いて、くたびれて休んだ。ついにぽつぽつと雨が落ちてきて顔にかかる。たたら力水というのは、見ると非常に大きな岩である。これは古代の磐座ではないかと思うほど迫力がある。岩の間からこんこんと湧き出ている冷たい清水に手を浸してみた。
この西大台は空海が歩いた地ともいう。開拓地跡の近くには、そういえばコウヤ谷と名づけられた谷があった。空海は伽藍を建てる地を求めてさまざまな土地を巡ったらしい。ここも候補地の一つであったというが、あまりに地形が急峻であるので、断念して高野山のほうに行ったと伝えられている。
もう一息で出発地点というところまで戻ってきたところで、急に激しく雨が降り始めた。勢いのある雨である。さっきまで見えていた山が見る間に姿を消していく。周囲の樹木を叩く雨の音が次第に大きくなり、道は濡れて滑りやすくなった。薄らぼんやりとした視界の中で振り返ると、強まっていく雨脚の向こうで、大台の森はもう深い霧に包まれていた。 (2007年)