一古の神々の里へ一
敢国神社(伊賀一宮)
一古の神々の里へ一
敢国神社(伊賀一宮)
古代遺跡や古い神社に惹かれるまま、各地を歩いている。特に一宮に絞っているわけではないのだけれど、先日数えてみたら、全国六十六国の一宮のうち、いつのまにか半分以上の一宮を巡っていた。今まで訪れた一宮で印象深いのは、大神神社(大和)、吉備津神社(備中)、厳島神社(安芸)、雄山神社山頂奧宮(越中)、諏訪大社上社前宮(信濃)など・・・・。今回は、伊賀と伊勢の一宮を訪ねることにする。
関西本線の佐那具(さなぐ)駅にははじめて降りた。伊賀上野から一駅東、佐那具というどこか古代的な響きを持つ駅名である。さなぐはさなき(さなぎ)と同義で、鉄鐸や蛇のことを指すとも。(諏訪大社の神事に使われる細長い形の鉄鐸をさなぎ鈴というそうだ。古では金属製の鐸、銅鐸もさなき、さなぎといったらしい)
この辺りの地図を見てみると、御墓山(みはかやま)古墳という弥生時代の前方後円墳が神社から一キロ北にあり、これは今から向かう敢国(あえくに)神社の祭神、大彦命の御陵と伝えられている。
朝から雨である。青春18きっぷを買ったのだが、期間限定のため年内は今日しか遠出の都合がつかず、このような雨の日に一宮巡りを行うはめになった。日中は風雨が強くなるとの予報だったので、空を見上げると、幸いなことにまだ雨は小降りである。
柘植川を渡り、府中神社を左に見て通り過ぎ、国道に沿ってしばらく西に歩いてさらに南へ。田畑の向こうに広がる山なみにはきれいに霧がかかり、水墨画のお手本のような情景である。見とれながらほとんど人や車にも出会わない道をとぼとぼ歩いていく。小雨の中いつしか2キロ以上進んでおり、敢国神社の参道に着いた。
表参道と裏参道が平行している。帰りは裏から降りることにして、緩い坂になっている表参道のほうへと進む。社殿に向かい合っているはずの神体山の南宮山は、雨でかすみよく見えない。参道は左に折れ、朱塗りの両部鳥居をくぐってすぐの石段を上って社殿に入り、ようやく傘をたたんで一息ついた。
祭神は三柱あって、主神が大彦命(おおびこのみこと)、配祀に少彦名命(すくなひこなのみこと)、金山比咩命(かなやまひめのみこと)。異なる時代の祭神が重なっているようである。大彦命は孝元天皇皇子で崇神天皇のとき、四道将軍の一人として北陸、東北を平定、後にこの伊賀の地に住んだとされる。少彦名命が祀られた由来としては、伊賀の地にはもともと渡来系の秦氏が住んでおり、南宮山頂に少彦名命を祀っていたが、天武天皇のとき、神社創建時に山から降ろし大彦命とともに合祀したようだ。そして空いた山頂には、金山比咩命を美濃一宮の南宮大社から勧請して祀ったという。さらに後の時代になると、神意により金山比咩命も里に降りることになり、現在三柱の神が祭神となっている。社号の敢国は、阿拝(あへ)郡に住んでいた大彦命の子孫阿拝(阿閉、阿部、安倍など)氏が祖神大彦命を祀ったことによる命名という。
日本廻国記一宮巡歴(川村二郎著)によれば、氏がふと気になった本殿横の小祠の祭神を尋ねたところ、老神職は甲賀三郎のみたまを祀っていると答えたという。その事を思い出したので、どの社かと思って見回すがよくわからず、掲げられた公式祭神名の中にも甲賀三郎の名は見当たらなかった。おそらく以前には祀られていたのであろう。今は大彦命ら三柱の神に遠慮して甲賀三郎の名は消してあるのかもしれない。あるいは正式に名は挙げてないものの、今も祀られているのかもしれないと思う。
それでは甲賀三郎とはいったい何者なのか。素朴な疑問が生じてくるので、少々記してみることにする。まず「神道集」諏訪縁起事からみてみよう。
・・・・甲賀三郎には太郎、次郎の兄がいたが、父の遺言で三郎が甲賀の地頭を継ぎ、美しい妻、春日姫も得た。あるとき三郎が伊吹山で巻狩を行った際、山麓にいた春日姫が姿を消してしまう。天狗の仕業とみた三郎は、二人の兄とともに全国各地の山を巡り、ようやく信濃蓼科山の人穴で妻が残した片袖を見つけ、藤づるで編んだ籠に乗って洞窟に下り、妻を取り戻した。けれども妻が大事な唐鏡を忘れ、地底に置いておくと鏡を頼りに天狗が追ってくるというので、三郎が引き返し洞窟に下りたところ、三郎を妬んでいた次郎が悪心を起こし、縄を切ってしまった。
次郎は三郎の代りに地頭となり、甲賀を支配するようになる。春日姫は従わず殺されそうになるが、救われて実家の大和春日に帰り着いた。三郎のほうは穴の底を通って多くの地底の国々を遍歴、最後に維縵(ゆいまん)国にたどり着き、そこで出会った維摩姫を妻にして、この国の風習である鹿狩りを日課として暮らすようになる。
あるとき三郎は春日姫を夢で思い出し、地上に戻ることを維摩姫の父に願い出て許される。投鎌などの武器、武具や鹿の生き胆で作った千枚の餅をもらい、一日一枚ずつ食べながら道を進み、毒蛇や百足の川を越えて藤蔓をよじのぼり、信濃の浅間山に出る。甲賀に戻った三郎が父を追善する釈迦堂に入っていると、子どもたちが、大蛇がいるといって逃げ、三郎は蛇体になっていることを知った。仏壇の下に隠れていると、夜更けに僧侶たち(実は白山権現、富士浅間大菩薩、熊野権現など)が来て経文をよみ、三郎が蛇身なのは、維縵国の衣装をまとっているからで、それを脱ぐ方法を語ってくれた。いわれた通り石菖を植えた池の水に入り、四方に向いて呪文を唱え、禊を行うと三郎は人間の姿に戻った。
三郎は春日姫と再会し、二人は神から神通力を授かって、三郎は諏訪大明神の上宮として顕れ、春日姫は諏訪下社として顕れて祀られた。維摩姫もこの国に来て浅間大明神として顕れ、太郎は下野国に、次郎(改心したので)は若狹に顕れた。(神道集より)
この話は三郎が地下世界から戻ったときに、蛇体になっていたというくだりが衝撃的で怖い。(たしか泉鏡花がこれを元に「海神別荘」として作品化していたと思う。変身する主人公は若い娘であったが)甲賀三郎の受難の物語は、神仏の功徳による救済で決着するが、舞台地として出てくる甲賀、妻が失踪する伊吹山、巡歴地の信濃の国の地下の異界、そして伊賀がつながってみえることが意味ありげで興味深い。ただ甲賀は近江にあり、ここ伊賀とは国が違っているのが気になることだが、国境の山を越えればそこはもう甲賀なので、そう距離があるわけではなく、伊賀の地で甲賀三郎が祀られていたとされることには、空間的には違和感がないそうである。
また「梁塵秘抄」にはこのようにある。
南宮の本山は 信濃の国とぞ承(うけたば)る さぞ申す
美濃の国には中の宮 伊賀の国にはおさなき児(ちご)の宮
歌の解釈は、美濃一宮の南宮大社の本山は、信濃の諏訪大社であるといい、美濃の南宮大社は中の宮であり、伊賀の敢国神社がちごの宮だといい、この三社がつながっていることを歌っている。川村氏は敢国神社が子どもであるなら、諏訪大社は親にあたるとみておられる。信濃と伊賀は、甲賀三郎という共通項があるとも指摘しておられる。
谷川健一氏の説によれば、古代において蛇神(ときに雷神と同一視されるとも)は金属精錬と関係が深いそうである。諏訪も美濃も、伊賀、甲賀も、そして三神社ともに製鉄、金属精錬をよくした氏族に関連があるとみておられるようだ。ただこの謎めいた歌の真意はよくわからない。
信濃の諏訪大社には、社の背後の山に南宮山という名はみられないようだが、公式祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は古くは南方刀美神(みなかたとみのかみ)ともいわれたそうで、南の字が入っていることから、南の宮を意味しているという説があり、そうなると南宮という言葉が三神社に共通することになる。また神道集では、春日姫が伊吹山で天狗にさらわれる設定であるので、伊吹山麓にある美濃一宮の南宮神社も、甲賀三郎の物語と関係を持つことになり、三神社共通に甲賀三郎の名がからむことになる。南宮、蛇神、甲賀三郎、これらの言葉が、三つの神社を結んでいることになる。
甲賀三郎とはごく普通の人のような名である。神とするのには俗に過ぎるような気もするが、その行動をみてみると、異様な地底遍歴とか異世界からの奇跡的な帰還、蛇身からの脱皮譚と、とても常人には見えない。名前だけでは人か神か正体はよくわからないけれども、はじめは人から出発し、苦しい試練を科せられて神の資格を得、最後は諏訪明神になったということであろうか。甲賀三郎の物語は、その原型は小さな伝承であったと思われるが、各地に持ち運ばれて語り継がれるうちに細部が膨らんで増殖し、話がとんでもなく広がって大きくなっていったようである。
(勝手な空想ではあるが)おそらくは甲賀三郎という勇気ある人が、洞窟に落ちた人を救出したが、自分は穴で毒蛇に噛まれてしまった。蛇毒が体に回って死にかけ、朦朧として苦しんでいる間に神秘的な幻覚をたくさん見て神を感じ、やがて助けられて正気を取り戻したときには、こうした強烈な臨死体験のため意識が変革され、人生観も変り、以前とは違う宗教的な人格になってよみがえり、人々を導いたので尊敬されるようになった・・・・。
あまり神様に対して失礼なことを述べるのも申し訳ないので、もうここで止めることにする。甲賀三郎が苦しい試練のさなか、神に出会ったというのなら、それはやはり三郎の中にもどこか神性があったということであろう。神と真に向かい合い、神と対話ができる人は、やはり神の素質を持つ人であろうから。
帰りは摂社が並ぶ裏参道を通ってみた。むすび社の階段を上ってみると、お社はちょうど本殿を裏から見降ろすかたちになっていて、こういう配置は意外であった。ほかにも磐座信仰の痕跡がみられる大石社(今は磐座はない)などがあり、静かで雰囲気のある裏参道であった。
この敢国神社は、倭姫の巡行地の候補地であったことを思い出した。倭姫の一行は、神鏡を奉持し大和を出て伊勢へ向かうのだが、宇陀を通って名張から柘植、甲賀へと旅が続けられていく。途中滞在した伊賀敢都美恵(あえとみえ)宮は、ふつう柘植の都美恵(つみえ)神社に比定されているが、たしかここ敢国神社も候補地の一つだったかと思う。敢国神社には、倭姫による天照祭祀の伝承はみられないようだが、旅の道筋にあたるので、ここを通過点とみてもおかしくはない。
元来た道を佐那具駅へと引き返していく。さっきより風が強くなっていて、あるところに来ると急に正面から風が吹き降ろし、あおられるようでひどく寒い。厳しい気候の日に来てしまったのだった。前方の伊賀と甲賀の国境の山のほうから吹きつける風で、いまちょうど風の通り道にいるのだと感じた。振り返ると、来るときはほとんど見えなかった南宮山の輪郭が、強風のため霧の中からきれいな稜線とともに姿を現していた。けれどもはっきり見えたのはわずかな時間で、すぐ厚い雲に閉ざされていった。