吉備津彦神社(備前一宮)
吉備津彦神社(備前一宮)
一年半ほど前になるだろうか。吉備路を旅して、備前一宮の吉備津彦神社と備中一宮の吉備津神社の二社を訪れたことがあった。二つの神社はそう離れてはいない。吉備津神社は折悪しく大がかりな修復工事中で、建物全体に青いシートがかけられていた。写真などで見る壮大な国宝の吉備津造りの本殿、拝殿を楽しみにしていたのだが、シートに覆われて何も見えず残念であった。
長い回廊を歩いて御釜殿という所に回り、鳴釜神事という古代から伝わる占いをこのとき初めて体験した。湯を張った釜にせいろを載せ、中に玄米を入れて振ると、釜がうなるような音を立てることがある。その鳴り具合によって吉凶を占う、というものである。高らかに鳴るほどよいとされ、音のないのは不吉のしるしである。上田秋成の「吉備津の釜」には、この御釜占いで凶と出たのにもかかわらず嫁いだ娘の悲劇が怪異譚として描かれていて、吉備津の釜が当時もよく知られていたことがうかがえる。
私が占ってもらったとき、釜は最初からよく鳴って大変不思議な思いに打たれた。願い事をあらかじめ書いて社務所に出すのだが、具体的に書くのは恥ずかしいので、ただ心願成就としておいた。常日頃文章が上手くなればいいなと思っていたので、書く言葉にもっと人の心を動かせるような力がこもりますように、と言霊を祈願したのである。
竈の前に座って、古代から伝わる所作そのままに、神主さんが唱える祝詞を聞き、竈の向こう側で立ち上がってせいろを振る巫女さんの動きを見ているうちに、次第にその場の雰囲気の厳粛さに圧倒され、軽々しく言霊をなどと神に願ったことが間違っているような気持ちになってきた。言葉はその人の人格の表れ、願って得られるようなことではないと気づいたのである。
備前一宮 吉備津彦神社
先日、なにげなくネットを見ていたら吉備津神社の社殿の修理が終わったことが報じられていた。新装なった社殿はどんな風であろうかと想像するうちに、秋の一日、吉備を再訪することを思い立った。
前回と同様、岡山駅からローカル線に乗り換えて、一宮駅で下車する。吉備津彦神社と吉備津神社は近いので、今回も続けて訪れることにした。無人駅の低いホームに降り立つと、そこには細長い石棺の蓋が置いてあって、旅人はいきなりホームで古代の文化財に遭遇するのであった。前回はこのことを知らず、うっかり見逃したのである。
説明板には中山山中の石舟古墳とある。弥生時代のものであるという。その石棺の色は暗く黄色味を帯びていて、そういう目で見れば、なにやら時代を経たものが時にかもし出す特有の重い雰囲気が漂っている。戸外に雨ざらしであるが、形はそう崩れておらず、これ一つだけで、古墳の埋葬人物を偲ばせるに充分なある気配を持っている。伝承では温羅(うら)という名の吉備の王で、この人物については、備中一宮の吉備津神社の項で触れることにする。
まず備前一宮である吉備津彦神社のほうに向かう。駅からは近い。ここは広くてとても静かな神社である。参拝の人はあまりいない。背後には磐座のある中山が見える。その樹木の緑が本殿のたたずまいを引き立たせている。
主祭神は孝霊天皇皇子、大吉備津彦命(亦の名をいさせりびこのみこと)で、ほかに一族の神々など十二柱の名が並んでいる。
吉備津彦の温羅退治の話は、昔話の桃太郎の原型といわれている。桃太郎のモデルになったという倭(大和)の皇子が主祭神で、その一族の将軍たちがともに社殿に祀られ、そして滅ぼされた鬼もまた土地の神々などと境内の祠に鎮座しているというわけである。見回すと社殿の周辺に小社や祠の数は多い。
ここはまた別名を朝日の宮ともいう。夏至の太陽がちょうど正面鳥居から上り、拝殿の鏡に入るということから、そう呼ばれるのだという。社を建てるときにまず太陽の位置を思い、その方位が重要視されたのであろう。古代の太陽信仰の形がそのことからもうかがえる、大変興味深い社なのである。古に祭祀を執り行ったのは、おそらく女性であったかと思われる。夜明け前に起きて身を清め昇ってくる太陽を迎え拝礼する、そのような儀式が日々繰り返されたのであろう。夕べにも沈む日を丁重に見送ったかもしれない。古代人にとって、太陽とのかかわりは今の私たちが想像する以上に大切なものであったろう。
この神社の祭神の中には、吉備津彦の姉である倭迹々日百襲媛(やまとととびももそひめ)の名もみえる。軍事を司る弟や一族の将軍たちとともに、この女性は祭祀の役割を担って従軍してきたとも考えられる。倭の箸墓古墳に葬られている倭迹々日百襲媛が卑弥呼であるという説が近年濃厚なので、吉備の国邪馬台国説もそのあたりを根拠にしているものと考えられる。吉備津彦はまた桃太郎のモデルといわれている人なので、そうなると卑弥呼と桃太郎が姉弟であったという説が生まれることになる。
犬猿雉を従えた桃太郎像が駐車場の一角に建っている。比較的新しいもののようで、勇猛な将軍ではなく、ほっそりしたあどけない少年像に造形されている。それを遠くに見ながら神社を出て、次の目的地である備中一宮の吉備津神社へと向かう。左手に中山を見ながらその山裾に沿っていく。山はそう標高は高くないが、峰は複数あってなだらかにつながっている。
緑濃い山を見上げていると、前回山中を巡って多くの磐坐を見た記憶が鮮やかに蘇ってきた。山頂には吉備津彦を葬ったとされる前方後円墳の茶臼山古墳があり、公園風に整備されていた。そこを通り過ぎていくと、道は狭くなった。石舟古墳へと降りるさびしい脇道を見たが、マムシ注意の立て札もあったので、私は立ち寄ることを断念した。
そのまま進んでいくと、前方に迫力のある大岩が次々現れて、見ているだけで圧倒された。苔むした磐坐に触れてみるとひんやりと湿った感触が伝わってくる。また環状石籬といって、草に埋もれた列石がゆるやかに環状をなしている所もあった。それらはここに住んだ古の人々の墓所であるのかもしれないが、古代の磐坐が、山中に重い雰囲気をまとったまま古代そのままに残されているということに畏怖の念を覚えた。大岩から大岩へと導かれるように山道をたどっていると、ふっと現代が消え、そこは古代の時間が流れていると感じられる不思議の異空間であった。
(備中一宮 吉備津神社へと続きます)