水無神社(飛騨一宮)と両面宿儺
水無神社(飛騨一宮)と両面宿儺
飛騨一宮の水無(みずなし、みなし、すいむ、とも)神社を訪れた。最寄りの飛騨一ノ宮駅は高山駅からJR高山本線でひと駅なのだが、本数が極端に少なくて、日中は三時間に一本である。そのため片道は路線バスを利用したが、そのバス便も少なく、訪れにくい交通事情になっている。夏の盛りだったので暑さは覚悟していたが、曇りがちで過ごしやすい天候だったのが幸いであった。
社前には宮川が流れている。橋にたたずんで水面を覗き込むと水は澄み、緑の藻(バイカモ)がゆらゆら靡いて涼しげである。杉木立に囲まれた境内へ入るとすがすがしい空間が広がり、手水舎には湧き水が使われ、お社の背後は静かな森であった。
祭神は水無神。その神には諸説あり、お社の創建も神代の時代とあるだけで、由来もはっきりしていないのだそうである。主祭神の水無神とは御歳(みとし)神(穀物神)とも、水主(みぬし)神(水を司る神)ともいわれ、また土地の守護神であるとも。祭神の素性はわからないとしても、ここ飛騨の地に古くから祀られていることから、まずは土地の神霊とみるのが自然かと思われるのだが・・・・。
配祀神として大己貴神、神武天皇、応神天皇、など多くの神名が挙がり、計十四柱が祀られている。神体山は位山(くらいやま)という霊山で、標高は千五百二十九メートル、ここからは数キロ離れていて、山麓までの交通機関も見つけにくい。思いついて気軽に登るという山ではないようだが、水無神社の奧宮があり、山腹、山頂には巨石、磐座などがあるという。
宮川の源流となる位山は、日本を表裏とに分ける分水嶺である。飛騨の南部と北部を分ける境界の山でもあり、イチイの木の産地としても知られており、天智天皇の大津京の造営時にも、伐り出されて使われたという。また笏(しゃく)の用材としても用いられ、現在でも改元、天皇即位の際には、ここのイチイの木の笏を献上する慣わしがあるという。
ここで飛騨に伝わる両面宿儺(りょうめんすくな)の伝説にも触れておこう。両面宿儺とは、仁徳天皇の時代に飛騨を支配していた人で、その姿かたちはひとつの胴体に前後ふたつの顔があり、手は四本という異形の人であった。結合双生児のような表現である。膝はあるが、ひかがみ(膝の裏)とかかとがなかったとも。これは飛騨の山の民のつける装束の様相ともいわれているそうだ。両面宿儺は敏捷で武勇にすぐれていたが、天皇に従わなかったので、都から武振熊という武人が遣わされこれを滅ぼしたという。
・・・・飛騨国に一人の人有り。宿儺(すくな)といふ。其れ人となり体(むくろ)をひとつにして、両(ふたつ)の面(かほ)有り。面おのおの相背(そむ)けり。頂(いただき)合ひて項(うなじ)無し。おのおの手足有り。其れ膝有りてよほろくびす無し。力多(さは)にして軽(かろ)く捷(と)し。左右に剣を佩(は)きて四の手に並びに弓矢を用ふ。
是をもって皇命に随(したが)わず。人民を掠略(かす)みて楽しみとす。是に和珥(わに)臣の祖難波根子武振熊(たけふるくま)を遣わして誅(ころ)さしむ。(日本書紀 仁徳紀)
確かに異様な身体の人として記述されている。飛騨の支配者であったようだが、皇命に従わないので賊徒として殺されたようである。たとえば葛城の先住民の土蜘蛛が神武天皇の軍に抵抗したので殺された、とか、崇神天皇の御代、吉備津の温羅(うら)が暴虐の王であったので、倭から来た皇子が討伐した、などという話と同型のようである。背いたほうは貶められて悪く表現されることが多いので、実際に宿儺がそのような身体つきの人であったかどうかは疑問であるけれども。ほかには宿儺は兄弟、双子の王であったとか、統治者として一人で二人分の働きをしたため、など色々な解釈もされておりその存在は謎めいている。
調べてみると飛騨の伝承では、両面宿儺は善政をしいた王とされていて、皇軍に滅ぼされたが、その勇敢な戦いぶりを賞賛されたとも。また千光寺には宿儺は救世観音の化身という伝承があり、お寺を開いた人とも。寺の開基とされるのには時代的に少し無理があるようだが、それとは別に、水無神社の祭神という説もあるらしい。
宿儺の地元での言い伝えをみていくと、そこには書紀の奇怪な鬼神であるかのような記述とは異なり、飛騨地域の国造りの英雄としての像が浮かび上がってくる。実際そうだったのではないだろうか。逆らって皇軍に殺されはしたが、民を守ろうとした宿儺に、飛騨の開拓者としての面影をみるほうが自然なのかもしれない。後の時代になって、円空上人がこの地を訪れて両面宿儺像(坐像)を刻んでいるが、それを見ると、正面の顔の表情は荒々しさの中にも柔和さがあり、その右側についた顔は憤怒の相を表しているようにみえる。宿儺の中にある優しさと強さ、その二面を表現したのだろうか。
別の伝承によると、位山には七儺(しちな)という別の鬼がいて、それを両面宿儺が皇命を受けて退治したとされているそうである。そしてその七儺の頭髪が水無神社におさめられているという伝えもあるそうだ。おさめたのは宿儺であったのだろうか。けれども結局はその宿儺自身も朝敵として滅ぼされ、飛騨はこのときから朝廷の支配下に入ったのだと思われる。そして討伐の逸話が日本書紀に記されていくのである。仁徳天皇の御代に、飛騨に現れた異形の人として印象づけられ、その異様な姿かたちが読む人に記憶され続けていく宿儺、その悲しみをここに来てふと思うのであった。
雨が落ちてきた。雨に濡れた背後の森の緑は濃く、境内は静かである。たまに近隣の人がお参りに訪れるほかは何の物音もしない。
次の列車まで時間があるのでゆっくり境内を散策する。ご神木のネジの木は、昔氏子たちが伐ろうとしたところ、幹も梢も一晩で捻じ曲がってしまうという不思議を起こしたので、神の祟りをおそれ、お詫びしたと伝承される木である。今は幹の部分だけが残り、斜めに筋がついてぎゅっとねじったようなかたち、どうしてこうなったのかはわからないが、何か力がこもっていそうである。
雨が激しく降りはじめたので、左手にある絵馬殿に逃げ込んで雨宿りした。大きな吹き抜けの素木の建物で、がらんとしていて涼しい風だけが通り抜けてゆく。建物の内部に飾ってある奉納されたたくさんの絵馬や、昔の額の絵を順に見て、絵馬殿の由来も読んでゆく。それによると慶長の頃、領主の金森氏による寄進とあり、江戸時代に一揆があった折、ここの神主が加担したとして処刑され、社殿も取り壊されたが、この建物だけは免れて残ったそうである。この絵馬殿に神主や農民が集まってひそかに一揆の計画が練られたのであろうか。辺りをうかがいながらの話し合いは、さぞ緊迫した雰囲気であったことだろう。
明治になってからも、絵馬殿は拝殿として使用されていたといい、戦後になって新しい今の拝殿が造営されたときに、現在地に移されたのだということであった。重い歴史を持つ由緒のある建物なのだと気づき、もう一度往時を思いながら内部を歩いてみた。風雪に耐え柱も壁も古びて傷んできてはいるが、大切に保存されていることが改めて感じられる絵馬殿であった。
やがて雨は小降りになってきて、空が明るみ、雲が切れはじめた。階段の上部に坐って雨を見ていると、雨だれの音がきれいに響いてきて、まるで水琴窟のようで、じっと耳を澄ませて、奏でられる自然の音楽に聞き入っていた。列車の時間が近づいてきたので帰途につくことにし、神社を出て一ノ宮駅への道を歩きながら、位山の方向を眺めてみるが、山の峰は重なり合い、雲がかかってよく見えないのが少々心残りであった。