羅城門・西寺跡を歩く
羅城門・西寺跡を歩く
桓武天皇が794年に、長岡から平安京へと都を移したとき、都の正門に当たる羅城門を挟む形で、官寺として東寺と西寺が建てられた。東寺は空海の真言密教の根本道場となって現在に続いている。
一方西寺の方は完全に廃れ、朱雀大路の南端にあったという羅城門も、今はその痕跡すらない。
東寺から九条通りを西へ数分歩いた花園児童公園の中に「羅城門跡」がある。説明文を読むと、門は二層で瓦ぶき、屋根には金色の鴟尾(しび)が置かれ、正面32メートル、奥行き8メートルの壮大な門であったという。
都の凱旋門としての役割も果たしていたのだが、平安中後期になると、荒廃して盗賊の住みかとなった。
今昔物語に「玄象(げんじょう)といふ琵琶、鬼のために取られたること」という話が載っている。
琵琶と笛の名手、源博雅がある夜、見事な琵琶の音を聞き、その音色に引き寄せられるまま羅城門まで行ってみると、鬼が屋根で内裏から盗み出した琵琶を弾いていた。やがて鬼は上から縄で吊り下げて、返してくれたという。
また芥川龍之介の短篇「羅生門」にも、当時のすさんだ人々の様子が描き出されている。
980年に羅城門は風で倒壊し、再建はされなかった。今ここには墓標のような碑が立つのみで、礎石一つ残っておらず、往時の面影を偲ぶものは何もない。民家の軒がすぐ目の前に迫り、開けた空間すらないのである。逆に、遺構が全く残されていないことが、凄まじい荒廃を物語っているともいえる。
公園を出ると、ふと唐橋羅城門町という表示が目に入った。門は消滅してしまったが地名には残されて、人々の心にこれからも記憶されていくのだろう。
西寺の跡を訪ねてみる。更に数分西へ歩くと、唐橋小学校の北にひっそりとした広場があった。中央に小高い丘があり、踏まれてすり減った礎石が点在する草地が広がっていた。そこが史跡西寺跡で石碑が立っている。
ここには東寺とほぼ同じ規模と配置で、塔や伽藍があったという。律令体制の衰えと共に寺も勢力を失い、その上火災も相次いで鎌倉時代に西寺は滅びてしまった。今目に映るものは寂しく草の間に埋もれた礎石だけである。
東寺と西寺は朱雀大路を挟んでまるで吉と凶、陽と陰という形に運命が分かれていったのだ。東寺の繁栄を目の当たりにしながら、こちら側は次第に荒れ果てていったのだろう。ここに漂う寂寥感は、かつてここに暮らし、衰退の時代を生きた人たちの思いそのものであったかもしれない。
(2005.9.14)