南宮大社(美濃一宮)
南宮大社(美濃一宮)
岐阜県不破郡の南宮大社と岐阜市の伊奈波神社を訪れることにした。伊奈波神社の祭神五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと、垂仁天皇皇子)には謎があるという。日本書紀では、皇子は石上神宮の神宝管理を続け、年老いて職を譲ったように記述されているが、伊奈波神社社伝によると、勇猛果敢な武人であり、奥州平定の成功を妬まれて讒言され、稲葉山で謀反人として嫡子とともに討たれたという。事の真相はわからないが、伊奈波神社を訪れた後、金華山に向かい、伊奈波神社の旧社地も訪ねてみたいと思っている。
青春18きっぷを使い、米原行きのJR新快速に乗り込んだ。京都を過ぎ野洲が近づくと、秀麗なかたちの三上山がのぞまれ、彦根の辺りからは次第に雪が増えていくのがわかる。米原から大垣行きに乗り換え、左手の車窓を見ていると、冬空に聳え立つ伊吹山は、もう真っ白の峰であった。
垂井駅に降り立つ。道路の積雪を心配していたが、ここは全く大丈夫であった。たださすがに吹きぬける風は刺すように冷たい。冠雪の伊吹山を遠望していると、身が引き締まるようであった。住宅街の中のわかりにくい道を南西の方向へ、南宮大社に向かって歩きはじめ、路上に立つ大きな鳥居をくぐりぬけて進んでいくと、駅から約二十分で華麗な楼門前に着いた。飲食店が並び門前町らしい雰囲気が漂っている。
楼門前には古びた石の反橋があるが、それは神様用なので閉じてあり、人は横にある別の橋を渡る。雪対策なのか滑り止めにむしろが敷いてあった。今日は一月七日、何軒も屋台が出ていて、食べ物の匂いや湯気がさかんに立ちのぼり、境内は初詣の人たちで賑わっていた。早口で交わされる土地の人たちのやりとりを聞いていると、よそ者である自分がここの住民のようなつもりになって、土地の神様の所にお参りに来てもいいのだろうかと思えてくるのであった。
南宮大社は美濃国一宮で、祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)。その名が示すように鉱山、金属の神である。この神の誕生のいきさつは母親の死と結びついている。母神の伊邪那美命は多くの国や神々を産んだ後、火の神迦具土(かぐつち)神を産んで火傷を負い死去するが、その病臥の折の嘔吐物から化生した神が、金山彦と金山姫であった。死の苦しみの中で生まれたのである。金山姫命のほうは元宮とされる南宮御旅神社に祀られており、金山彦命とは姉妹神とも夫婦神の間柄ともいわれている。
南宮大社の創始起源は古く、神武天皇の御代までさかのぼるそうだが(ここではなく別地に祀られたとされる)、崇神天皇のときに、現在の美濃仲山山麓に祀られるようになったという。社号は、往時の国府からみて南に位置していたためとされる。社殿は関が原の兵火で焼失してしまったので、現在の立派な社殿は徳川家光による再建という。
敢国神社の項でもすでに書いたことであるが、この神社に来れば、やはりこの歌を挙げておかなければならないであろう。
南宮の本山は 諏訪の国とぞうけたばる さぞ申す
美濃の国には中の宮 伊賀の国にはおさなき児(ちご)の宮 (梁塵秘抄)
呪的な響きも感じられて、歌の奧には何かが隠されているような気がする。表面的には南宮のお社が三社挙げられていて、その中で一番霊威が高いのは諏訪大社(延喜式では南方刀美神社)で、次が美濃南宮大社で、その次が伊賀の敢国神社と歌っているようであるが。解釈はさまざまにあると思われるが、南宮という言葉の持つ意味についても、諸説があるらしいので、その中で有力な説を紹介しておく。
古来、鍛冶場、製鉄たたらの炉では、四方に柱を立てたそうである。押立柱といい、おそらくは結界を意味すると思われる(四本の柱といえば、諏訪大社の御柱がまず思い浮かぶが)。その中で南の座が製鉄の神の座であるので、南の柱が特に神聖視されたそうである。南の柱には金山彦神(金子屋神)が祀られるならわしで、南の宮、南宮という言葉もこのことに由来するという。この神様は生誕のいわれが母神の死と深くかかわるかたちなので、そのせいか死の穢れを少しも忌まれないのだそうである・・・・。
広々とした境内には楼門、舞殿、拝殿、本殿とどれも朱塗りの華麗な建物が並んでいて壮観である。境内の左手に森へ入る道があったので、惹かれるまま歩いてみた。椿の森というそうである。この神社のご神木は白玉椿で、かつてはみごとな古木があったらしい。境内にも椿が多く植えられているのだが、まだ花は開いておらず、わずかに日当たりの良い場所に紅い椿が少し見られたのみであった。枝に触れてみると椿の葉はつやがあって美しい。神体山の南宮山(磐座などもあるという)への登山道は、たぶんここからはじまるのだと思うが、今日は時間の余裕がなく山麓の散策のみにとどめる。椿の木が多く、緑が濃くてきれいな森である。
明治の神仏分離まで、本殿裏のこの辺りには、三重塔、鐘楼、本地堂、など多くの堂宇が存在していたという。廃仏毀釈により、神宮寺などのお寺は無残に壊されることが多く、各地でそんな例もいくつかみてきたが、ここでは人々の信仰が厚く堂塔の破壊も売却も行われず、村人が奉仕して大切に持ち運び、塔も仏様も四百メートルほど離れた別地に移し換えたそうである。(重文の本地堂、三重塔も現存しているという)
かつて堂宇があったと思われる跡地には木立が縦横に枝をのばし、また元の森にかえりつつあった。ふと見ると古い瓦を供養する瓦塚があり、使用済みの飾り瓦を組み合わせ、塔に造ってある。立派な鬼瓦、えびす様、大黒様、布袋様をかたどった瓦もあり、それぞれの表情で四方の森と空を見つめている。説明を読むと、長年社殿を守ってきた古瓦をむげに始末することは許されないので感謝し・・・・とあった。葺き替えや統廃合の折に出た瓦らしいが、そういう古い物にも魂が籠っているとし、捨てずにこういうかたちで残してあるのだった。
ほかには聖武天皇の大仏建立勅願所跡、行幸地の碑などが立つのみで、建物としては参道脇に荒魂社、東照宮などの摂社がわずかに残り、また船形の磐座などもみられた。
ここにはかつてどんな情景があったのだろうか。神宮寺も三重塔もお堂も消えた椿の森はしんとした静けさに満ちた緑の空間に戻り、本殿近くの混雑に比べると、はるかにこちらのほうが好ましい雰囲気に包まれているようであったが・・・・。
森の中の参道はゆるやかに山に続いており、進んでいくと赤い鳥居の列が現れ、それをくぐり抜けると奧にはひっそりとしずまる南宮稲荷神社があった。ところどころに雪のみえる山の斜面にも祠やお社が点在しているようで、上って訪ねてみたいとも思うが、今日の散策はここまでとし、同じ道をゆっくりと引き返していく。
境内へ戻ると社殿の周囲はさっきより人が増えていた。祝詞や拍手の音が絶え間なく聞こえ、境内には焚き火の煙が流れ、屋台も賑わって・・・・どちらかというと混んでいる神社は苦手なほうなので、静かな森の情景を心にとどめ、南宮大社を後にする。