一北海道の旅一 (三)
釧路湿原
一北海道の旅一 (三)
釧路湿原
釧路湿原
バスと列車で移動して釧路に入った。塘路駅で降りて、駅構内の喫茶店(貸自転車屋を兼ねている)で自転車を借り、二時間ほど湿原や湖畔を走ってみることにした。
もらった地図を見ながら、二本松を経てコッタロ湿原の辺りへと向かうことにする。青い塘路湖を右手に見て心惹かれるが、道路から左手の道をとり、コッタロ湿原の表示板の通りに進んでいく。途中から砂利道に入ると、急に走りにくくなった。
釧路川がうねりながら流れゆく二本松という所で橋を渡る。ここにも湿原を見る展望所はあるようだが、さらに先へ進む。
この辺りは釧路湿原の端にあたる地域で、左右に広がる風景は、湿原というよりも草原に近いものであった。所々に沼や池が現れるのを眺めつつ走ってゆく。水辺には青々としたヨシが生い茂り、水面には水草が浮かんでいる。
心安らぐ水辺の情景なのであるが、残念なことに、道は未舗装道路、車が立てる砂埃には悩まされた。近づいてくる車の気配を感じると、端に寄り息を止めて通過を待つのだが、こちらの事情にはお構いなし、速度を緩めず、もうもうと砂埃を巻き上げて走り去る車には、ため息が出るのであった。でもそっといたわるように最徐行で横を通っていく車もあり、そんなときは、気配りに深く感謝した。要はその人のふだんの心が、運転にもあらわれるということであろう。
砂利道には深く車の轍の跡が残っており、何度かはまり込み転びそうになる。波板状に刻まれたタイヤ跡も同様で、その上をがたがたと走るのは、かなり身にこたえるのであった。実は、転倒しないように走りに集中するあまり、景色を見る余裕がなく、そして日ごろ電動自転車にばかり乗っているので、体力も持久力もないのであった。
そんなわけで走りつつ断片的に眺めた、青みを帯びた夢のような湖沼のたたずまい、行く手に忽然とあらわれたうねる釧路川、湿原とは言い難いような彼方に広がる草原、まるで幻をみるように情景と印象がいくつか短く記憶されたのみで、あとはよく思い出せず、そして帰りもまた(二時間の制限時間を気にして)必死に漕ぎ続けたため、苦行めいたことになり、なんのためにこんな苦労をしているのかわからなくなった。でも往復十四キロをなんとか走りきり、時間内に自転車を返すことができてほっとしたのであった。
駅には思いがけず「ノロッコ号」という観光電車がとまっていて、偶然ではあるが、まるでそれに合わせて急いだような具合になった。本数が少なくて人気の電車であるという。
流れが緩やかな釧路川に差しかかると、川下りのカヌーを楽しんでいる人たちが何組もいて、ノロッコ号のお客さんと手を振り合っていた。川というよりは穏やかな水路という感じ、互いに笑顔が見えるくらいの距離である。列車は部分的にではあるが、ゆっくりと釧路湿原を走ってくれるのである。
釧路湿原駅(無人駅)で降り、細岡ビジターズラウンジを経て、細岡展望台まで歩いていった。駅からは二、三十分の緩い上りで、丘に設けた二つの展望所を訪ねることができる。下にある展望台のほうが、風景が開けていて、湿原の広がりを感じることができた。観光写真や絵葉書などでお馴染みの夕陽の名所なのだそうだ。カメラの機材を持った人たちが、日没の瞬間(まだ二時間以上もある)をとらえようと展望台の先端で時間待ちをしていた。西日がまぶしい上、ヤブ蚊やブヨも寄ってくるし、頭上の木から虫も下がってくるのだが、皆さん粘り強い。
展望台にたたずみ、蛇行する釧路川と、緑の湿原を眺めてしばらく時を過ごした。遠景の静止画面である。そうやって遠くから見つめる釧路湿原は、たしかに絵画的できれいである。でも、先ほど自転車で湿原の中に入り、苦しい走行のさなかに眺めた、青々と広がる草原、道端に咲き乱れていた赤や黄の可憐な草花、ヒツジグサの浮く湖沼のたたずまい、静かに流れゆく釧路川、そこを吹き抜けていった初夏の風、橋から見つめた水面の情景、などが鮮明に脳裏に焼きついているので、ここから受ける風景の印象は、ごく普通のものと感じられた。
細岡ビジターズラウンジまで戻ってくると、前庭を二匹のキタキツネが歩いていた。それほど人間をおそれている様子ではない。用心しながらも建物のすぐ近くまで歩いてきて立ち止まり、じっと人のいるほうを見つめる。実に鋭い目である。思わずこちらも動かずに、二匹を観察した。人間に食べ物をもらったことがあるのだろう。ほとんど二メートルの距離にまで寄ってきた。そして、まっすぐな目で見つめてくる。人が食べ物を出して、自分に投げ与えてくれるかどうか、キツネの関心はその一点にあるようだ。野生動物に餌を与えてはいけないことは知っているので、期待を抱かせないように、そんな素振りはみせず、こちらも無言のままじっと見つめていた・・・・。旅の最後になって至近距離で出会った二匹のキタキツネであった。
久しぶりに北の旅の紀行文である。最近は神社紀行が多くなっているけれども、この北海道の八日間の旅のあいだ、神社を見かけることはあまりなかった。神社の造営は、時の政治とも結びついているだろう。けれども神社がないからといって、北海道に神がいないというわけではないと思う。その土地には土地の地霊が鎮まっているはずだし、アイヌの聖地といわれるところも数多くあるのだと思われる。
たとえば知床半島で、忽然と雲の間からあらわれた羅臼岳を仰ぎ見たとき、まさに神宿る山だとその威容に心打たれた。羅臼岳の山頂にも麓にも、いわゆる神社は存在しないかもしれないが、神は社の有る無しにはかかわらない。社に祀られるものだけが神ではないだろう。知床の自然の中にいると、風景の中にある聖性を感じ、この半島自体が聖地であるかのような感覚を持った。
北海道の味
釧路で、駅の近くの和商市場に行ってみた。テレビでよく紹介される勝手丼を試してみたのである。白いご飯を買い、サーモンやイカ、えび、まぐろ、ほたてなど、好みのものを載せてもらい、自作の海鮮丼を作るしくみである。贅沢にするのか、質素にするのかは、自分で決められる。五、六種類を選んで盛りつけてもらうと、千数百円ほどであった。この量にしては、少し値段が高いような気もしたが、これも旅の記念、観光客が楽しむままごと遊びであろう。市場の活気の中での、旅の味の思い出づくりである。テーブルの汚れやごみの散らかりは見ないことにして、周囲を見まわすと、観光客の皆さんは楽しそうに食しておられた。(土地の人は、まずこんな所には食べに来ないであろう)ただお店のおばさん、お兄さんたちの声かけ、呼び込みはかなり派手で、気後れした。
釧路の町では、前夜、夕食にザンギというからあげも試してみた。鶏肉をざんぎりにして揚げたことからの命名らしい。もともとは鶏肉で作ったようであるが、食材は貝、魚類などいろいろあるようだ。ころもに濃い味がつけてあり、牡蠣のザンギにレモンを絞ったものがあつあつで美味であった。またさんまと、にんじんなどの野菜を麹に浸け込んで発酵させたという飯鮨も珍しいものであった。
ほかには、羅臼で出されたエゾシカのシチューの一皿(鹿さんごめんなさい)、知床で食べたかに、ほたて、鮭のチャンチャン焼、こけもものソフトクリームなどが、北海道らしい味わいであった。