鬼 神 の 声
鬼 神 の 声
岡山県の吉備津神社は桃太郎伝説や御釜の占いで知られ、また上田秋成の雨月物語にも登場する。歴史のあるこの神社を訪ね、周辺を歩いてみることにした。
岡山駅からローカル線に乗り換え、吉備津駅で降りて松林の道を進むと、風格ある構えの吉備津神社に出る。石段を登っていくと、比翼入母屋造り檜皮葺の壮大な本殿が現れた。丹塗りの柱や壁は落ち着いた柿渋色で統一され、周囲の山の風景とよく調和がとれている。
由緒によれば、崇神天皇の時代に倭の皇子五十狭彦(いさせりびこ)がやって来て、民を苦しめていた温羅(うら)という鬼と弓矢で戦った。皇子は鬼を滅ぼして吉備津彦を名乗り、この地を統治したというのである。皇子は桃太郎のモデルになった人でこの神社の祭神である。
また「日本廻国記一宮巡歴」(川村二郎著)吉備津神社の項には、
・・・・中世の説話集「十訓抄」には、備中に来て神前で演奏しなかった楽人が、祟られて雪のような白髪になり、愕いて引返し秘曲を吹くと、髪が元に戻ったとか、舞の上手が神前で舞って見せると、これは神が喜んでだろうが、「宝殿大いにゆすりひびきておびただしかりけり」、次の上手がさらに心をこめて舞うと「始より増りたるに宝殿ゆすりていと恐ろしかりけり」とかいった話がでてくる。社伝によれば、正殿の「御神は即ち鬼神也」という、奇怪な伝承がある・・・・。
と記されている。社殿見取図では本殿は外陣、中陣、内陣、内々陣と何重にも迷路のように囲い込まれた構造になっており、最奧に神が祀られている。
「御神は鬼神なり」の一節が蘇る。表向きの祭神は吉備津彦だが、真の祭神は鬼の温羅ということだろうか。社を建てるときは社殿の向きが重要だが、ここの本殿は艮(うしとら)(東北)つまり鬼門を向いている。そして外陣の一隅には「艮みさき」として鬼を祀っているそうだが、古い縁起によれば、それは温羅とはまた別の鬼ともいわれ、社の祭神は謎に包まれているのだった。
せっかく来たので釜の占いを体験したいと思い、申し込む。用紙には祈願内容欄があり、文を書くのが好きなので、人の心を真に揺り動かす言葉の発動、力ある言霊(ことだま)を神に乞い願いたいのだが、そういうことを具体的に書くのもためらわれたので心願成就としておいた。
祈祷殿でお祓いの後、数百メートルある回廊を歩いて釜殿へと向かう。古い木の温もりが感じられる下り坂の通路で、先へ先へと背を押されていく。もう途中で立ち止まることもできず、引き帰すこともできないような妙な気持ちになってくる。まるで蛇の腹の中をくぐっていくようだ。
古びた釜殿の建物を覗くと、正面には真黒い大しゃもじが飾られ竈が据えてあった。黒い大釜が掛けられ、その上に蒸篭(せいろ)が何段か載せてある。釜には水が張ってあるのだろう。蒸篭からは絶えず湯気が上がっていた。竈の下では赤い炎が生き物のように揺れている。室内は板壁も床も柱も漆を塗ったように黒い。それも墨で塗り重ねたような濃い黒色だった。
入って座り、巫女が準備に立ち動くのを見ていた。この占いは鳴釜神事といって、その起源は古代に遡る。「古事記」「日本書紀」「社伝」の伝承を見てみよう。
書紀の崇神天皇紀に四道将軍が各地へ派遣されたという記述がある。北陸道、東海、丹波、吉備にそれぞれ皇族将軍が赴き、吉備には五十狭芹彦が兵を進めて、倭に服(まつろ)わない人々を平定したという。
古事記の考霊天皇の項には、五十狭芹彦は異母弟の稚武彦(わかたけひこ)とともに現在の加古川で酒瓶を地に据えて神を祭った後、吉備に入り平定したとあるが、温羅の名前までは出てこない。
一方吉備の伝承によれば、温羅は百済から来た王子で、当時この地を支配していたという。倭軍はここに兵を置き、北西にある鬼ノ城の温羅一族と弓矢で戦った。城の石積は今も山中に残っていて、発掘調査によれば、山城は七世紀ごろに築かれたものだそうで、皇子と温羅の戦いが崇神天皇の時というのなら、それは弥生時代に当るので年代的には合致しない。
皇子は捕らえた温羅の首をはねて曝したが、恨みの残る温羅は大声を上げ唸り続けて止むことがなかった。そこで犬に食わせて髑髏にしたが唸り声は続き、ついにはこの社の釜の下に埋めたがそれでも止まなかった。やがて皇子の夢に温羅が立ち、
「妻の阿曽の郷の祝(はふり)の娘阿曽媛(あそひめ)をもって釜殿の神饌を炊がしめよ。もし世の中に事あれば、竈の前に参り給へば、幸あれば穏やかに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう」と告げたので、皇子がそのようにすると温羅の霊は鎮まった。これが釜の占いの起源であるという。ここの巫女を阿曽女といい、今でも阿曽の女性がその役を務めているそうだ。以後釜の怪異は、時代を経て人々に語り継がれることとなり、後白河法皇の「梁塵秘抄」にも、
「一品聖霊吉備津宮 新宮 本宮 内の宮・・・・艮(うしとら)みさきはおそろしや」
と歌われ、また雨月物語「吉備津の釜」にも、御釜の占いで凶と出たのにもかかわらず嫁いだ娘の悲劇が怪異譚として描かれた。吉備津の釜が世に知られていたことがうかがえる。
・・おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいき、そこへ桃がどんぶらこと流れてきて・・と語り出され、桃太郎が成長して犬、猿、雉を家来とし鬼を退治して財宝を持ち帰るという桃太郎の筋書きは、多くの人に馴染み深い。
でもこのおとぎ話が、温羅にまつわる伝承をもとにしているというのなら、鬼が恨みを持っていつまでも祟り続けたという暗黒の部分は、きれいに消されてしまっている。釜殿の下に封じられても、唸り声を上げて止まず、殺された側の恨みの深さを示し、吉凶占いの神として祀られる条件でもって鎮まったというのは、おとぎ話の結末として、決してふさわしいものではないだろうけれど。
黒い釜殿の中で赤い炎が静かに揺らめいている。湯がたぎって湯気が盛んに上がり始めた。年配の巫女が神事の準備が整ったことを教えてくれた。
願い事を書いた紙が持ち運ばれてきて、竈の前の三方に祀られると竈を挟んで神主、巫女が座について厳かに祝詞が始まった。古代の霊を呼び出す声である。にわかにその場の空気が引き締まるのを感じた。思わず居住まいを正す。
巫女が立ち上り、容器に入った玄米を蒸篭の上で大きな所作で振り動かした。そのたびにざざっと乾いた米の音が、空気を切るように室内に響いていく。同じ動作が何度か繰り返され、息を止めてその様子を見守っていた。米の音がとぎれると、ふっと静寂が訪れる。鳴るのか鳴らないのか、やはり自分の耳でじかにその音を聞いてみたい。
やがて静寂を破って、釜の辺りから低く唸るような地響きとも、何とも形容しがたい音が聞こえ始めた。音は地底から響く波のようだった。耳で捉えるというよりは、体の内部に強い波動として伝わってきた。音に乗って体が揺れるような、渦巻き状に浮遊していく奇妙な感覚がある。
冷静に考えれば、このような音の出る現象は科学的に説明のつくものなのだろう。理性でそうとわかってはいても、現に間近でこのように低くお腹の底に響いてくる摩訶不思議な音に接していると、聞きようによってはそれは鬼の声とも、神の声とも思えてくる。
神か魔か。心の中で揺れ動きつつ、低く地を伝い這うようにうねる音にただ聞き入っていた。神官と巫女と二人して、燃える火を前にして尽くされる古の所作は、その一つ一つが丁寧であり真剣であった。そのように心と気持ちを込めなければ、どのような神の出現もありえないとでもいうように。
釜は不気味に振動し続ける。時を超え、眼前に突如古代の場が立ち現れてくるのを感じて怖くなった。
いったい何に出会いたかったのだろう。戸外は明るい日ざしが降り注いでいるのに、竈殿の中では空気は重く震え、重なった分厚い時の壁を一瞬にくぐり抜け、神官と巫女によって呼び出された滅ぼされた古の吉備の王、温羅の切ない声が、今も生命を持つもののごとく、炎の中から呼びかけてくるのだ。
伝承では、この釜の下に温羅の首が埋められたという。この黒ずんだ釜殿は、火災に遭って建て直されたとはいうものの、すでに四百年経っているのだそうだ。柱にも壁にも何かが染み込んだような暗黒が感じられる。
釜は唸り続ける。鳴動に籠もる声にならないその重苦しい怨念を、聞くともなく聞いていた。逃げ出したくなる思いと、いつまでも音に聞き入っていたいという気持ちが混ざり合い、体の芯が震えてくるようなひとときであった。
気がつくと静かに釜から湯気が上がっていた。立ち動いていた巫女は、使用した容器類を元の位置にゆっくりと納めて、神主は一礼して室内を出ていった。さきほどから釜殿の中に漂っていた、怪しい何ものかの気配はすでに退いて、この場から消え去っている。
「どうでしたか」
話しかける穏やかな巫女の声に我に返った。神事は終わり、大釜は鎮まっていた。音ひとつなく元のように湯気だけがゆるく室内に立ち込め、炎だけがゆらゆらと動いている。始まる前とまったく同じである。終わってみれば、さほど恐ろしかったわけでもなく、映画の中の一場面にでも立ち会ったような気さえする。でもあの釜の唸る音だけは強烈で今も耳に残っている。
「何か、こう、心に感じられるものがありました」
「それはよかったですね。最初から最後まで、ずっときれいに鳴っていました」
巫女は頷く。言霊などと、大層なことをさっきは思ったものの、今はもうそんなことは、特に神に願わなくてもいいような気がしてきた。また願って得られるようなものでもないだろう。そういうことの成就よりも、ここに座って現実に不思議な音を耳にし、古代をじかに感じたこと、そのことのほうが大切であったような気がする。
占いの判断については、神官も巫女も特に何も言わないしきたりらしい。この占いでは祈願した人が自身でその意を判断し、吉凶を感じ取ることが大事なのだそうだ。
竈殿を出て神社の裏山へ登ってみることにした。山腹に刻まれた長い階段を上がっていくと、吉備津彦の陵墓、中山茶臼山古墳があった。前方後円墳で三世紀半ばか後半のものであるという。
右へ進むと、石舟古墳へ降りる小道があった。温羅の胴体部を葬ったと伝えられている。分岐にマムシ注意の立札があったので行くのは断念した。
石舟古墳は、石室の中が常時水浸しになっているという。潮の満ち干によって水位は変わるそうだ。石室は残っているが、被葬者の亡骸や副葬品などはとうに失われてしまい、内部は空になっている。このような山中での古墳内の湧水をいぶかしく思うが、古代は現在とは地形が異なる。地図には吉備津と隣り合って福田海という地名も残っている。かつてこの辺りは海だったのだろう。
温羅の首と胴体部は、別々に埋葬されたことになる。切り離して埋めるということ自体、呪術めいたものを感じさせる。その石舟古墳では温羅の霊を鎮め疫病退散を祈る花鎮めの祭りがあって、長くとだえていたが最近また復活し、桜の季節に行われているそうである。
花の季節に、温羅の霊に花を捧げて、その霊を慰める。水に浸かる古墳に花びらが降りかかる。笛の音に乗せて少女たちの舞を奉納する。何か暖かいものを感じる。地元では、温羅は決して悪鬼ではなかったのだろう。
行く手に鏡岩という巨大な磐座が現れた。数メートルの大きさで苔のついた岩群の迫力に圧倒されつつ奥宮の磐座を巡る。古代祭祀の中心であった場だろうか。古墳時代から弥生、縄文へと思いは次第に遡っていく。「環状石籬」の表示に立ち止まり、人為的に石を囲んで結界をつくった磐境(いわさか)を見つめる。古の墓所なのだろう。青草が生い茂りひっそりとしている。最後に元宮の磐座を見る。
大岩が一つ忘れられたように鎮座していた。祀り手を失って久しいそれはどこかうら寂しい光景であった。日迎え日送りの祀りがかつてここで行われ、それは春分、秋分、夏至とも深くかかわるものだったのだろう。古代に思いを馳せながら岩の前にたたずむ。人が神と交流した聖地。重量感のある岩は苔むし、梢の緑は濃く積もった落ち葉は厚い。時折野鳥の鳴き声がするほかは深閑としていた。
(2010・12・2号)