一信長ゆかりの地を訪ねて一
安土城跡
一信長ゆかりの地を訪ねて一
安土城跡
少し前のことになるが、爽やかに晴れ渡った五月のある日、最寄のJRの駅で友人と待ち合わせをしていた。
預かっていた書類を友人にお返しするためだった。そのことだけなら用はすぐに済むのだが、せっかくの日和、歩くのにはいい機会なので、そのまま米原行きの列車に乗って歴史の町安土まで行き、散策してみることになった。
列車は石山、瀬田と順に駅を通過して行く。
石山は紫式部が参籠して祈願し、源氏物語を執筆したといわれる石山寺で有名である。また瀬田川は壬申の乱などにも登場し、古来軍事の要衝であり、近江八景の一つ、瀬田の唐橋でもよく知られている・・・・。
歴史の一こまを心の中で辿っているうちに、いつしか草津、近江八幡へと進み、窓の外にはのどかな緑の水田風景が広がっていく。
降り立った安土の駅はひと気もなく、住宅もまばらな静かな町だった。
ここはいうまでもなく織田信長ゆかりの地である。駅で貰った地図を見ながら、安土城跡、博物館、摠見(そうけん)寺、セミナリヨ跡・・・・と目で追っていく。
どこから歩き始めようか。
まずは珍しい花があるという沙沙貴神社を目指すことになった。
境内ではちょうどその「ナンジャモンジャ」の花が満開であった。名前を聞いたことはあったが、実際に花を見るのは初めてである。
近づくと、ほのかな香りが辺りに漂っている。白い数センチほどの十字状の細かい花が、びっしりと枝につき、ふんわりと雪が積もったようにも見える。モクセイ科で、正式名はヒトツバタゴとか。
清楚で可愛い感じの花に、変な呪文のようなこの名は似つかわしくないだろう。花に対しても気の毒な気がする。
神社を出て、安土城考古博物館へと続く、野中の一本道を歩いていく。時々思い出したように車が来て、私たちを追い抜いて行く。
アゲハチョウが畦道を舞っている。見渡すと一面の青々とした麦畑である。
子供のころ、通学路の脇に畑があり、黒く傷んだ麦の穂を見つけると、手を伸ばして折り取った。黒い穂に限っては、貰ってもいいことになっていた。茎で麦笛を作り吹き鳴らして遊ぶのである。
遠い日々を思い出し、思わず立ち止まって穂に触れてみる。湿った温かい土と青い麦の匂いが懐かしい。
正面に見える緑の山は繖(きぬがさ)山である。山麓には中世ヨーロッパの教会堂を模したらしい造りの博物館の建物が見える。
緩やかに広がっている山並の、清々しい樹木の緑が目に染みる。畑の中の道をゆっくり歩き、山に少しずつ近寄っていく感じがとてもいい。
かつてイエズス会のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、信長の庇護のもと、安土に滞在して湖畔に神学校(セミナリヨ)を建てて少年たちを教育し、布教活動を行っていた。
フロイスは信長に気に入られたらしい。信長との会見は十八回にも及んだという。フロイスの著書を読むと、当時の様子が記されていて興味深いので、少し引用してみることにしよう。
・・・・この市の端に、形の上では三つに分かれた大きい山が聳えている。これらの山は、樹木と水のために生き生きとしており、年中、草木におおわれている。その山の辺りを湖水がひたしているので、その場所は非常に美しく堅固であり、中央の山は他に比べて一段高く抜きん出ている・・・・。
「フロイス日本史」より
フロイスもこの辺りを行き来しながら、緑濃い中央の繖山を印象深く仰ぎ見ていたことが、文章からうかがえる。ただ当時とは地形が異なっていて、今私たちが歩いている辺りは、青い水をたたえた湖だったようである。
フロイスの目に映った信長の行動をみてみよう。
・・・・巡察使ヴァリアーノが、金の装飾を施した濃紅色のビロードの椅子を、贈呈していたのである・・・・信長はこの椅子をことのほか喜び、自分の入場に威厳と華麗さを加えるために、それを四人の男に肩の高さに持ち上げさせて、自らの前を歩かせた。そして行事の最中、彼の身分を誇り、その偉大さを表示するために、一度馬から降りて、椅子に座って見せ、他よりも異なる身分であることを示した・・・・。
「フロイス日本史」より
金の飾り、赤いビロード張の椅子を珍しく感じて、人々の前で誇示するようにそれを使ってみせる、信長の表情が目に見えるようである。
食堂に入り休憩をとった後、博物館でちょうど開催中の特別展を見ることにした。
近辺の古墳出土の銅鏡、勾玉、銅鐸などを間近に眺めて、束の間古代の世界に浸る。
この地は古く縄文の時代から開けていた土地で、安土山にも幾つかの古墳があったという。
記録を読んでみると、信長は安土城を建てる際に、安土山にあった横穴式石室の古墳を破壊し、古墳の石組みなど使えるものは転用したらしい。最近の安土城跡発掘の折にも、土器の破片や古墳副葬品の一部が出てくることがあるそうだ。
その時の破壊を免れたのだろうか、瓢箪山古墳という四世紀の大型前方後円墳も、地図上に見える。
博物館を出て、城のあった安土山に向かう。
繖山の山頂には、かつて観音寺城という佐々木一族の堅固な山城があった。信長に滅ぼされるまで約四百年間、佐々木氏が近江地方を支配していた。ここを訪れた白州正子はその著書にこう記している。
・・・・観音寺城は、私たちが普通考えているような城の概念とは違って、山全体が砦であるような印象を与えた。
近江はよい石をたくさん産出する地方で・・・・坂本の続きには穴太(あのう)という集落があり、そこには昔から穴太衆と名づけられる石積みの集団がいて、石垣ばかりでなく城も彫刻も造っていた。観音寺城も安土城も大方彼らが築いたものに違いない・・・・
「私の古寺巡礼」より
いつしか道は安土山に入り、大手道と呼ばれる石段を上っていく。
豊臣秀吉や前田利家など主だった家臣の住居があったところである。石段には石塔や仏塔、墓石なども使われたという。足元をよく見ると、踏まれて磨り減ってはいるが、刻まれた梵字、家紋や字らしいものが見えるものもある。
信長廟に出た。信長の墓は高野山の奥の院にあり、ここが墓所ではないと思うが、道から少し入ったところに廟があり、菊の花が手向けられ、丁寧に祀られている。
道は何度か折れ曲がる。
敵の襲来に備え、その侵入を少しでも遅らせるために、わざと曲がりくねった道にしてあるのだという。やがて行く手に、二の丸の石垣が現れた。
穴太衆が高度な技術を結集して積上げたものなのだろうか、四百年以上の時を経ていても、堅牢で隙間がなく、見た目も美しい石積である。
さらに上って行くと天主跡に着いた。
礎石が升目状に整列して並んでいるのをしばらく無言で眺める。手近な石に腰掛けて一息入れる。頭上に重なって揺れる緑の梢を見上げつつ考える。ここにどんな天主が聳えていたのだろう。
以前テレビで、CGの画像を使って安土城を再現した番組を見たことがあった。それは複雑な構造を持つ、凝った造りの七階建て木造高層建築だった。
安土城の建設が始まったのは、一五七七年のことである。
安土山と繖山はそう離れてはいない。信長は繖山の頂上にある佐々木氏の観音寺城を見て、それをも凌ぐような規模で、見事な石積みを持つ山城を、とまずは考えたかもしれない。
けれども安土山にはそれほどの広い空間はない。それなら縦に、とでも構想を膨らませたものだろうか。
信長は奇抜な着想でもって、五層七階(地下一階)という歴史上かつて出現したことのない形の楼閣風の城を、安土山に三年かけて完成させていく。材木は湖西の山々から伐り出されたものが、琵琶湖から安土まで水路で運ばれたという。
「信長公記」には一万余の人が三昼夜を費やして、巨大な「蛇石」を山へ上げたことなども記述されている。
古代からの運搬具であるV字型の修羅に巨石を載せ、引き上げたものと思われる。この石は未だ特定されておらず、摠見寺近辺の幾つかの大石がそうであるとか、石垣に使われたとか、また天主の礎として地中深く埋められたともいわれ、謎の石となっているそうだ。
急拵えの大手道の石段用に、手近な墓石を持ってきて使っているくらいだから、そんな途方もない巨石を、この時代に、遠隔地からわざわざ取寄せたとは考えにくい。
おそらくは安土山に元からあった古代の磐座(いわくら)か、または古墳の石室の石なのでは、と勝手に推測している。例えば奈良の明日香村の石舞台古墳で見られるような巨石が思い浮かぶのだが・・・・。
もし古墳の石だとしたら、安土山に葬られていた古代の王も、突如平穏な眠りを破られた上、石室を解体され、驚いたのではないだろうか。単に墓を暴かれるだけでなく、大勢の人に跡形もなく踏み砕かれてしまったのだ。そのことに強い怒りを覚えたかもしれない。
どちらにしても巨石は通路の邪魔になるので、移動させることになったのだろう。てこを使い修羅引きで運び上げ、本丸の石垣にでも埋め込んだのかもしれない。
安土城に関してフロイスの印象はどのようなものだったか。
・・・・信長は山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、ヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである・・・・。
・・・・築城後信長は、男女を問わず何人も幾日かの間は自由に宮殿と城を見物できる許可を与え、入場を認めた。諸国から参集した群集は後を断たず、その数はおびただしく、一同を驚嘆せしめた・・・・。
「フロイス日本史」より
狩野永徳が描いた豪華な障壁画に彩られた、夢殿のような八角形の朱色の部屋。最上階は中国の古代の皇帝や龍が描かれている金色の部屋。ふんだんに金箔を使い、内部装飾に贅を尽くしたその華麗さに、当時の人々は目を見張ったことであろう。
重なり合う枝越しに雲が緩く流れていく。この空間に壮大な天主が建っていたのだ。
一五八二年六月二日、本能寺の変が起きる。明智光秀の謀叛と、信長、信忠親子横死の知らせはすぐに安土にも届いて、たちまち城下は大混乱に陥った。
フロイスはこう記す。
・・・・都から五里のところに、信長が作らせた瀬田の橋と称する美しい橋があったが、信長の訃報に接すると、指揮官は明智の軍勢が余り迅速に安土に向かって通過できぬように、橋梁を切断せしめた・・・・。
・・・・明智が来れば、市街全体は城も邸も何一つ残さずに焼却されるだろう、といわれていた。
・・・・安土の町はこの時、最後の審判の日を示したようであった。婦女の声、子供らの泣き声、男たちの叫びなど、民衆の混乱の狂気の沙汰は慨嘆すべきものがあった・・・・。
「フロイス日本史」より
フロイスの記述はこの後も続き、それによると、瀬田の橋を直ちに修理した明智は、軍を進めて安土に着き、一旦は安土城に入って蔵を開き、高価な茶の湯の道具や金銀財宝を従来の家臣、新たに従属した家来たちに分配し始めたのだが、安土の領民が危惧したように、このときは城も町も焼かれなかった。安土城守備のために兵を分けて残し、明智は秀吉と戦うため、三日ととどまらずに、引き返して行ったのである。
しかしその直後から城下は無法状態に陥り、家々の略奪、強奪破壊、追剥が横行したとある。神学校も物品は鍋や戸に至るまですべて持ち去られ、柱と屋根を残すのみであったという・・・・。
本能寺の変から十一日後、山崎の戦いで秀吉に敗れた明智は、坂本を目指して敗走する途中、山科の郊外で農民の手にかかって惨めな最期を遂げた。
そして明智の死が安土に伝えられると、混乱の中で安土城は炎上してしまうのである。当時安土城を守備していた光秀の娘婿、秀満が退却の際に、放火していったという説や、失火説などもあるが、フロイスはこうみている。
・・・・信長の子、信雄(のぶかつ)は普通より知恵が劣っていたので、何らの理由もなく邸と城を焼き払い、城の上部がすべて炎に包まれると、彼は町にも放火したので、その大部分は焼失してしまった・・・・。
「フロイス日本史」より
炎上の真相は分からない。ただ信長の誇った、室内の装飾や瓦にまで、惜しげもなく金箔を張ったと語り伝えられる華麗な安土城は、まるでその館の主の死に殉じたかのように、この世から消え失せてしまったのである。
少し日がかげってきたので、山を下りることにした。来たときとは違うほうの右手の道を取って降りていくと、摠見寺というお寺に出た。
安土城から距離があるために、類焼は免れたらしく、現在も三重の塔と楼門が残り、ひっそりと山の中腹に往時の姿をとどめている。
摠見寺に関するフロイスの記述をみてみよう。
・・・・神々の社には、通常日本では神体と称する石がある。安土にはそれがなく、信長は予自らが神体である、と言っていた。
ある人物が盆山(ぼんさん)と称せられる、ふさわしい一個の石を持参した際、彼は寺院に窓のない仏龕を作り、その石を収納するように命じ、領民に触れを出し、すべての民が、彼が生まれた日に、同寺とそこに安置されている神体を礼拝しに来るように命じた。
「フロイス日本史」より
フロイスの観察の通りだとすると、信長はこの時から、遂に神になったらしいのである。そのことを人々はどう受け止めただろう。普通に考えれば、行き過ぎた振る舞いのようにみえる。でもおそらくそんな行為をやめるようにと、信長に対し制止したり諌言できる人がいなかったのだろう。
信長が殺されたとき、心の中で密かに、その死を仏罰と感じた人は多かったと思う。三千人の僧侶たちを殺したという比叡山の焼き討ち、婦女子を含む一向宗門徒二万人の長島での虐殺など、人々は信長がそれまで行ってきた、多くの破壊や残虐行為の報いを見る思いだったのではないだろうか。
涼風が吹き抜けていく。
境内の広場に佇んで、眼下に広がる町並と西の湖を遠望する。
ここはおそらく摠見寺の伽藍があった所なのだろう。視界が大きく開けていて、実に気持ちのよい眺めである。見降ろす青い波の煌きに、四百二十年前の遠い日を重ねてみたくなる。
もしこの位置に能楽堂があったとすると、背景は一面青い鏡のように広がる湖水であったろう。当時は西の湖が直ぐ下まできていて、安土山は、遠くから見ると湖に浮かぶ島のようにみえていたらしい。さぞ美しい情景だったと思う。
「信長公記」によると、寺の境内には能舞台もあり、信長は本能寺の変が起きる少し前に、安土を訪れた徳川家康とともに、ここで幸若舞や能を見て楽しんだそうである。
信長はこのとき一週間後に訪れる死を予感していただろうか。
信長は強いカリスマ性を保ったまま、劇的に炎の中で死んでいった。死後もなおその残像は鮮明である。
当時の人々の思いの中には、恨みを抱く重臣による「主君殺し」の衝撃が強く刻み込まれ、脳裏には信長最期の場面が反復され、長く消えなかったことだろう。
明智の謀叛という凄まじい負のエネルギーを目の当たりに見せつけられ、当時の人々は根底から動揺し緊張し、また人の心が持つ闇の深さについても考えさせられたのではないだろうか。
誰もがほんの少しは光秀であり、同時に秀吉であったかもしれない。もし本気で望めば、自分の運や決意次第でそのどちらかになれる可能性もあった。
信長は油断と傲慢の果てに滅び去り、豪華絢爛を天下に誇った安土城も火に包まれ、跡形もなく燃え落ちてしまった。それは何と儚いこの世の幻だったことだろうか。
信長という強い求心力を失い、混乱の中で人々は大きな流れを見定め、取り残されるまいとして、必死でこの時代を生き抜こうとしたに違いない。
楽市楽座で賑わったと語り伝えられる信長の安土。それは青い湖水の輝きに隣り合うように広がっていたはずである。
諸国からの商人たちが集まって繁栄した安土の町を思うとき、行き交う城下の人々に混じって、つば広の黒い帽子を被り、僧服に身を包んで、縦横に動き回る、一人の外国人の姿が見え隠れしてくる。
ルイス・フロイスである。
「フロイス日本史」は、この時代に居合わせた個人の記録としては、かなり厖大なものである。けれど彼の書き残したものは、今読み返してみても少しも色あせてはいない。
時に伝道者としての偏った見方や、外国人特有の小さな誤解も含まれるものの、その丁寧な記述を通して、今も私たちはこの時代の雰囲気を充分に感じ取ることができる。
そして信長をはじめ、多くの戦国武将たちの生き生きした人間像を、自分なりに結んでみることもできるのだ。
フロイスはしっかりと身辺の出来事を見つめ、記憶し、多くの人々と接して、日々感じたことを克明に描写し続け、後世に残してくれた。
ユニークな歴史の語り部としての姿がそこにはあるだろう。
参考文献
完訳「フロイス日本史 3」 中公文庫
「私の古寺巡礼」 白州正子 法蔵館