一海峡の古社一
住吉神社(長門一宮) 和布刈神社
赤間神宮 壇ノ浦
一海峡の古社一
住吉神社(長門一宮) 和布刈神社
赤間神宮 壇ノ浦
長門一宮 住吉神社
JR新下関駅から長門一宮の住吉神社へと向かった。バスに乗って一宮で下車し、ゆるい勾配の坂道を数分上ると、こんもりした緑の森が見えてくる。街の中に建つお社である。石鳥居をくぐって参道を行くと、左手には周囲の木々が水面に映える神池が広がっており、石灯籠と厳島社の祠が望まれる。
池には寄らず正面の参道を進むと、小さな赤い反り橋が設けられているのに気づき、さっそく渡ってみた。摂津の住吉大社の大きな赤い太鼓橋を思い出す。摂津の橋は虹をかたどったような半円であったと思う。ここは丸みを帯びたかたちで、とても可愛く造ってある。本来は神様用のものかもしれないが、参詣人も渡ることができる「みそぎの橋」かと思われる。橋の下は神池なので、橋を越えると、水をくぐったのと同じく身を清められるという考えに基づくようである。俗世から神域へと入るいわば結界の橋であろう。傾斜があるので降りる際は、やや足元が滑りやすい。
石段を上ると楼門があり、その先に正面に拝殿と本殿がある。拝殿に掲げられた神額には「住吉荒魂本宮」とあった。ちなみに荒魂(あらたま)とは、ことに当たって勇猛で活発な行動として顕れる神霊、その働きや様相をいい、和魂(にぎたま)とは、荒魂がしずまり穏やかになった神霊、またその様相をさすという。当社は日本三大住吉の一つとされており、他の二社は摂津一宮の住吉大社(大阪)、筑前一宮の住吉神社(博多)である。
祭神は第一殿に住吉三神。表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)の三柱の荒御霊(あらみたま)。
第二殿に応神天皇。第三殿に武内宿禰命。第四殿に神功皇后。第五殿に建御名方命。創建当初は住吉神のみの祭祀であったとされ、時代を経るにつれて神々が追祀されてゆき、五殿の祭祀となったのは後世ということである。
由緒は古く、神功皇后の時代にまでさかのぼるという。日本書紀によれば、西征の途中、仲哀天皇が筑紫でにわかに崩御、身重の神功皇后が軍を率いて外征しようとした折に、住吉神が託宣し、武内宿禰を将とする皇后の軍船を導いた。
・・・・既にして神の誨(おし)ふること有りて曰(のたま)はく「和魂(にぎみたま)は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。荒魂(あらみたま)は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」とのたまふ。 (日本書紀 神功紀)
外征は成功し、軍団は新羅を討ち無事に帰着して、皇后は宇美で御子(応神天皇)を出産した。神々の加護により外征を終えた皇后は、神々に謝意を示し、各地に社を建てつつ大和に帰還した。
神話的にみれば上述のようになるが、皇后が率いて海を渡ったとされる軍団は、九州の宗像族、住吉族、安曇族、また若狭、但馬、丹波、紀伊、伊勢など各地の軍団で構成されていたそうである。協力した各船団、各氏族にはそれぞれが奉じる神々があったかと思われる。たとえば住吉族は住吉三神、宗像族は宗像三女神というように。戦で功績のあった船団、その氏族の奉じる神々に対し、順次褒賞が行われていったようである。皇后は九州に帰りつくと、各地に社を営み、また戦勝祈願をした社に神田を定めるなどの褒賞をしている。
皇后は大和への帰途も、各地で社を造営し、祭祀を行いつつ旅を続けていった。穴門(長門、下関)の「神がのぞまれた地」においても祭祀が営まれ、住吉三神の荒魂を祀る祠が建てられた。これが当社の起源であるという。
・・・・是(ここ)に、軍(みいくさ)に従ひし神、表筒男(うはつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのを)、三(みはしら)の神、皇后に誨(おし)へて曰(のたまは)く「我が荒魂をば、穴門の山田邑(むら)に祭(いは)はしめよ」とのたまふ。(日本書紀 神功紀)
住吉の神については、博多の住吉神社や、摂津の住吉大社の項でも触れているが、住吉神は海上交通、航海と関係のある海人族の守護神であった。筒男命の筒の意味については、船玉、星、津(港)の男、など諸説あって判然としないが、個人的には、船を導く神であるので、オリオン三星を神格化したという説に惹かれるものがある。
神功皇后の大和への帰還の旅の途中、神への謝意として、当地に社が建てられたことはすでに述べた。社が定められるということは、祭祀者とその氏族集団がそこに住んで祭祀権を得、神田を領有、社領とした地から山川の産物を得、海辺なら海上交通の支配権も持つということを意味したようである。
今このお社は交通量の多い街の中に位置しているが、往時の海岸線は今とは異なっていたと思われる。もっと海は近かったかもしれない。今回は立ち寄らなかったが、仲哀天皇が九州遠征時に営んだとされる行宮、穴門豊浦宮跡が、地図で見るとここから三キロほどの所にある。長門二宮の忌宮神社である。そこも今よりさらに海辺には近かったのではないだろうか。
仲哀天皇は日本武尊の第二皇子であった。その治世は短く、遠征の途中で崩御、ということであるが、その死は謎に包まれており、真相は不明である。神がかりした皇后が告げた新羅討伐の託宣を疑ったため、神の怒りに触れて俄かに筑紫橿日宮において崩御、遺体は武内宿禰によって筑紫から穴門豊浦宮に運ばれて、仮の殯の宮が営まれたという。また別の説によると、熊襲討伐に向かい敵と戦った折、矢を受けて亡くなったともいわれている。父の日本武尊も遠征の帰途で命を失っており、父子ともに遠征の旅先で死に見舞われていることになる。
住吉神社の本殿は、五殿が連なった優美なもので、国宝に指定されている。思わずみとれるほどの造形である。九間社流造、五つの千鳥破風が美しく、国宝というのもうなずける。これは大内氏による造営という。拝殿のほうはそれより後の時代の毛利氏の造営、こちらのほうは国の重要文化財、古色が感じられ本殿とよく釣り合っている。前に佇んで眺め、横に回って長いこと本殿の屋根の曲線を見つめていた。
社殿の右手に行くと森になっていて、落ち葉を踏んで進むと神木の大楠がある。見上げるような大木で、その威容に圧倒される。神樹の名にふさわしい風格であった。説明板によると、樹齢は千八百年といい、武内宿禰のお手植えという伝承を持つ。楠は二つに分かれているが樹の根回りは六十メートルだそうで、えぐれている根元の部分には小さな石祠があった。
近くに稲荷社があり、その近くにも大きな楠がある。そちらのほうへも行ってしみじみと眺め、引き返していると、目の前の落ち葉の上を音もなく小蛇が横切っていくのに気づき、息を呑む。古木の楠には洞があるので棲んでいるのであろう。ほかにもまだいるかもしれないと心配になり、足元に気をつけてそっと歩き、森から離れ社殿のほうへと戻った。
和布刈神社
関門海峡には、歩行者用の海底トンネルがあって、歩けることを知り、良い機会なので下関側から門司側へ歩いてみることにした。下関側の壇ノ浦の「トンネル人道入口」からエレベーターで五十メートルほど降りると、前方に一本の真っ直ぐな通路「関門トンネル人道」が延びている。距離は七八〇メートル、所要時間は約十五分、通行料は無料。自転車、原付の人は押して歩く決まりという。
海底を歩けるというのが珍しいので、歩き始めは興味津々であった。側壁に描いてある魚や海草のイラストを眺めつつ歩いてゆく。ゆるやかな傾斜の下りになっているが、思ったよりも明るい地下通路であった。前方の出口はなかなか見えてこない。途中で山口県と福岡県の県境と書かれた表示線を見て、中間点まで来たのを知った。境界線を通り過ぎて歩いていると、改めて海底にいるという思いが起きてくる。再びゆるい上り道となって、ほどなく門司側に着いた。
エレベーターで地上に上ると、ぱっと視界が開けたように感じられた。長い海底通路という閉塞空間を歩いてきたせいであろう。目の前にある大きな関門橋はより巨大なものと感じられ圧倒される。海に目を向けると、今しがた歩いてきたばかりの海峡が青い帯状に広がり、対岸の壇ノ浦の情景が遠望できるのだった。
すぐ近くに和布刈(めかり)神社が見えたので、鳥居をくぐる。九州最北端の神社とのこと、古社のようである。関門橋がまるで神域の上を横切っているかのように感じられるので、近代と古代が交錯する不思議な空間となっている。神社は海峡を見降ろす海沿いの斜面にあり、社殿は海際に建てられている。境内から直接海へと続く石段があって、下の段は打ち寄せる波に洗われていた。潮の流れが速い海中には、古い石灯籠が一基あって、まるで人が一人海に浸ってぽつんと佇んでいるような風情である。海峡の向こう側には壇ノ浦が見えており、背後の山が少しかすんで望まれる。平家一門は壇ノ浦の戦いの前夜、この社で戦勝を祈り酒宴を開いたと伝えられる。社殿の近くから海を眺めていると、風景に寂寥感が漂っているようにも感じられ、もの哀しい気分になった。
祭神は比賣大神(ひめのおおかみ、宗像三女神)、日子穂々出見命(ひこほほでみのみこと、山幸彦)、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと、日子穂々出見の子、神武天皇の父)、豊玉比賣命(とよたまひめのみこと、海神の娘、日子穂々出見の妃となる)、安曇磯良神(あずみのいそらのかみ、神功皇后に潮満珠、潮干珠を与え、秘法を授けて外征を助けた)の五柱。
由緒によると、和布刈神社の創建は古く、神功皇后による創建とのことである。皇后は新羅を討って大和へ凱旋する旅の途中、戦に貢献した神々への謝意として各地に神を祀り、社を建ててゆくが、ここもその一つとされている。皇后自ら神主となって天皇家の祖先の神々と、戦に協力した神々を祀り、西門鎮護の神として当地に奉賽したとのことである。古くは速戸社と呼ばれていたそうである。
この神社の神事でよく知られるものとして「和布刈神事」がある。創建以来伝わるものだそうで、旧暦の一月一日午前二時に、正装の神官三人がそれぞれ役割を分担して松明、鎌、桶、を手に厳寒の暗い海中に入り、若布を刈ってゆく。想像するだけで冷気が身に染みてくるような儀式である。刈り取った若布は神前にお供えされるという。若布は万物に先んじて芽を出し、自然に繁茂するので幸福のしるしとされ、また神の依り代としての意味も持つそうである。
この和布刈神事は、長く秘儀の神事であったというが、現在は一般人も見学できるそうだ。前述の長門一宮住吉神社にも和布刈神事があり、同様に壇ノ浦の浜辺で旧暦の正月に若布を刈り取ってきて神前にお供えするそうだが、住吉神社の神事のほうは今も非公開とのことである。
海草を神に供えるのは、ここに限らず各地の神社でも行われているという。たとえば出雲の日御碕神社では、正月に神主が箱めがねで海中の新若布を刈り上げてお供えし、豊漁祈願をするという。島根、伊勢、能登の神社でも、海草を刈り取って神前にお供えする神事があるそうだ。私事であるが、以前出雲の神魂(かもす)神社を訪れた際、海草がお供えしてあるのを見たことがあった。プチプチと実のようなものがついた黒いホンダワラが新聞紙を敷いた三宝に載せてあって、言いにくいが女性の髪の毛に見えて、どきっとした記憶がある。
出雲の佐太神社でも、社殿の横に黒く濡れたホンダワラが竹の筒とともに掛けてあって、こういう情景を見慣れないので、異様な感じを受けた。これは家に不幸があった際、穢れを祓う忌明けに用いる潮草(しおぐさ)ということであった。ホンダワラには不浄を祓う力があるという考え方があるのかもしれない。
話が脱線してしまったが、海草は海の産物なので、一般に神饌として昆布や若布はよく供えられるそうである。新鮮な元旦の若布は神様の好まれる物なのであろう。古に神功皇后がお供えしたとされる若布は、今も海の神への良き供物とされている。若布は縁起物としてだけでなく、葬送の折の儀礼の供物としても用いられるそうである。
社殿に挙げられた五祭神の名を見ていると、書紀のこんな記述が想起された。
・・・・皇后、豊浦津(とようらのつ)に泊りたまふ。是(こ)の日に、皇后、如意珠(にょいのたま)を海中に得たまふ。(日本書紀 仲哀紀)
如意の珠とは宝玉で、これを持てばすべての願いが叶うとされる珠であるという。この珠を手に入れたので、皇后は神通力を得て新羅を討つことができたし、その後も先妻の二皇子を倒して政(まつりごと)を行い、息子(応神天皇)を皇位に就(つ)けるなど、望みがかなったとされる。この珠の入手方法については、皇后が海岸で珠を拾われた、住吉神の化身である龍神から借り受けた、安曇磯良からもらったなどの説がある。
不思議な珠と聞けば、海幸、山幸兄弟がそれぞれの猟具を交換する、という記紀の神話が思い起こされるだろう。兄から借りた釣り針を失くし、海底に探しにいったという弟の日子穂々出見命(山幸彦)。海神の娘の豊玉姫を娶って三年暮らすが、陸に帰るとき、海神から失くした釣り針と潮満珠、潮干珠をもらい受け、この二つの珠を用いて潮を自在に操り、兄を支配したという。この逸話は珠の霊威について語っているが、珠を得た神功皇后の外征の成功譚と重ね合わせることができるであろう。
この社に祀られている古の神々は、霊力ある不思議な珠、それをもたらした海神の霊威、と海の神秘に深くまつわっているようである。神がかりをよくし、巫女的な性格を持っていたとされる神功皇后。謎めいた存在といわれるが、皇后が自ら祭主となって神を祀ったと伝承されるこの古社には、佇んでいるとなにやら怖いような気配も感じられ、さまざまな思いとともに社殿の下を流れゆく潮を見つめたのであった。
壇ノ浦
トンネル人道を引き返し、地上に出て壇ノ浦を歩いてみた。源平合戦の古戦場の面影はすでに失われ、現代の風景の中にあえて昔を偲ぶほかない。壇ノ浦は「みもすそ川公園」として整備されており、赤く塗られたミニチュアの橋、安徳天皇入水の碑、古戦場跡の碑、八艘飛びをする鎧兜姿の義経像、碇とともに入水する平知盛の像などが建てられている。背後には関門海峡が広がり、対岸には門司の町並みが望まれる。
一一八五年三月、源氏と平氏の両軍がここでぶつかり、最後の決戦が行われた。義経を大将とする源氏軍は八四〇艘、知盛率いる平氏軍のほうは五〇〇艘の水軍であったという。
海上で合戦が始まると、当初は平氏が優勢であった。潮の流れを読むことに長けた水軍は満珠島・干珠島(神功皇后が、住吉神が化身した龍神から借りた珠を返すと、二つの島になったと伝わる)の辺りまで源氏の軍団を追いやった。けれども海峡の潮の流れが変わると源氏軍は猛攻勢に転じ、一気に優勢となった。船を漕ぐ水夫を狙って射る、という戦の掟に反する行為があったともいわれるが、定かではない。平氏の退路は絶たれ、上陸しようにも陸地も源氏軍が押さえており、劣勢を知って源氏に寝返る平氏の軍船もあったと平家物語は伝えている。
大勢は決まり、敗北を目前にして覚悟を決めた平氏一門の人々は、次々に海に身を投げていった。清盛の妻である二位尼(にいのあま)は、幼い安徳天皇に「波の下にも都がございます」といって、天皇を抱くと神璽とともに入水した。母の徳子も後を追って入水するが、源氏方に救い上げられ、京に送られて出家(建礼門院)、大原の寂光院で一門の菩提を弔いつつ生涯を終えた。
平家大将の平知盛は「見るべきほどの事は見つ」と、鎧二領を着て(碇を負ってとも伝わる)入水、主だった武将や女官たちも次々海に呑まれていった。戦闘は一日で決着がつき、栄華を誇った平家はこの地で滅亡したのであった。
海に飛び込んだが、泳ぎが達者であったため、陸にたどり着いた平家の武将も、捕まって斬られたという。また漁師に救助された女官や侍女たちも、水死は逃れたものの、結局はこの地で遊女として生きていくほかなく、彼女たちは許された範囲で一門の人々の菩提を弔いつつ、ここで生涯を終えたそうである。
海岸を歩き、海を眺めて時を過ごした。海峡を大小さまざまな船が行き交い、海からは冷たい風が吹き寄せてくる。絶え間なく打ち寄せては返す波。そんな現代の情景の中に、壇ノ浦の戦いの阿鼻叫喚の様相が浮かんでは消えていくのだった。
赤間神宮
壇ノ浦からバスで赤間神宮へと移動するうちに陽が傾き、夕暮れとなってしまった。辺りはすでに暗くなっている。今から神社を訪れるのには怖い時間であるが、赤間神宮は大通りに面しており、海に面した水天宮の神門がまばゆくライトアップされているので、その輝きを心頼みに石段を上っていった。
漆喰塗りの中央にアーチ形の通路のある神門は、くぐるとき独特の雰囲気が感じられる。真正面にある拝殿、本殿ともに立派である。辺りはすでに薄暗く、社殿の奧にともる灯りだけがほの明るく、灯りに導かれるようにして拝殿に佇む。
祭神はわずか八歳で入水された安徳天皇。高倉天皇の第一皇子で、母は清盛の娘の徳子(建礼門院)。天皇は壇ノ浦で祖母の二位尼に抱かれ、神璽とともに海に沈んだ。
幼い安徳天皇の霊を祀るため、当初ここに建てられたのは阿弥陀寺であった。明治に入ると、廃仏毀釈の煽りを受けて寺院が廃されることになり、ここは神社となったという。地名にちなみ赤間宮と称せられたが、後に赤間神宮と改称された。その社殿は空襲を受けて焼失してしまったが、昭和四十年に再建されたという。現在見られるような美麗な水天宮を神門とする堅固なお社が、新たに造営されたのである。水天宮とは、水神や水神と関連のある神霊を祀る神社のことで、水神信仰、母子神信仰にもとづくものという。
社殿の左手には、平家の人々のお墓と、ラフカディオ・ハーンの短編で有名な、耳なし芳一像を祀る芳一堂(芳一はここにいた琵琶法師だったという)があるようだが、昼間ならともかく、すでに日は落ち辺りは闇になっており、とても怖くてお堂や塚に近寄ることはできなかった。その方向に向かいそっと手を合わせた後、しんと鎮まった無人の暗い境内を引き返していった。見上げると闇に包まれた中で水天宮だけがまばゆく輝いている。つい引き寄せられるように池の前のベンチに坐って、改めてこの赤と白の対比が美しい神門を正面から眺めた。龍宮造と呼ばれる龍宮城をかたどった楼門である。
今ぞしる みもすそ川のおんながれ 波の下にも都ありとは (二位尼)
入水の折の二位尼の辞世という。この辞世にちなみ、幼帝やそのお供をして海に沈んだ平家一門の人々の慰霊として、このように華麗な楼門が手向けられたのであろう。華やかさの中にも哀しみが感じられる。
鳥居を出て道路を渡り、海辺に寄ってみると、そこには大碇が奉納されていた。謡曲「碇潜(いかりかづき)に因む寄進ということであった。左右には石灯籠が立ち、海へと降りてゆく石段の上、海を眺める位置である。下の石段は潮流に洗われており、打ち寄せる波の音が高く、潮は暗く黒いうねりとなって流れている。怖いような速さである。目を上げると、闇の中で輝く門司の夜景が光の帯のように広がっていた。心に染みるように感じられて、明かりに彩られた対岸の町をしばらく放心して眺めていた。
青海島・萩・秋吉台・秋芳洞
下関を後にして、幡生(はたぶ)駅からJR山陰本線で、各駅停車の旅を続けていった。下関から萩へと向かうのだが、特急がなく普通列車しかない。海岸沿いを走る所では車窓から日本海が望まれ、砕け散る波や青い海の色が印象的であった。弥生時代の土井ケ浜遺跡はこの近くだろうかと思いつつ、流れ去る風景を眺めていた。見ていると無人駅が多いようである。ひっそりとした駅舎の脇にコスモスが咲き乱れている情景がどこか侘しい。ぼんやりと駅名をたどっていると「特牛(こっとい)駅」という珍しい駅を通り過ぎる。難読で、とても正しく読むことはできなかった。
長門市駅で降りて、バスで青海島を訪ねてみることにした。周囲四〇キロの島は青海大橋で陸と結ばれており、島内には遊歩道がつけられている。
歩き始めると、いきなり断崖絶壁となり、眼下には奇岩、怪石が目白押しであった。日本海の海の色は深く青く澄んで美しいが、観光客は驚くほど少ない。荒々しく激しい波に削られた海蝕洞が多く、象の鼻と名づけられた大岩がひときわ目立つ。点在する十六羅漢という岩を眺めてから引き返した。厳しい自然美の中に、寂れた雰囲気が漂っており、辺りには人影もなく、どこか不安になってくるような場所であった。
萩市内を少し歩いてみた。区切られた町並みはどこも清潔で、質実な感じを受ける城下町である。こちらは観光客の姿が多く、皆さん幕末史に詳しいらしく、地図を手に松陰神社など熱心に見て回っておられる。古いものが丁寧に保存され、大切に守られているのが好印象であった。
萩城址へと行ってみた。水をたたえた堀に囲まれた毛利氏のお城跡である。背後には指月山がある。天守跡、庭園や茶室跡などを見て歩いているうちに、日が傾いてきた。夕暮れにならないうちに、と滑り込みで城跡前の武家屋敷を訪れると、もう閉めてしまっておられたが、おじさんが出てきて雨戸を一枚ずつ繰って説明して下さり恐縮した。屋敷は長屋になっていて五つに区切られ、身分の高い人の詰所は畳敷きで天井も高く、下手に行くほど簡略になり、最後は簡素な板間になっている。古い住居、室内を眺めていると往時の人々の生活の様子が偲ばれるのだった。
秋吉洞を訪れた。洞窟からは川が流れ出ており、入口の橋に佇むと、澄んだ青い水の色に見とれてしまう。洞窟に入ると、湿潤でひんやりした空気が漂い、思ったより天井が高く内部が広く開けているのに驚いた。開祖は大洞寿円禅師、十三世紀の人という。干ばつの際、村人のために洞内に籠もって雨乞いの修法を続けた。霊験あって雨が降るが、禅師は水かさの増えた洞内で水死したという。今も開山堂に祀られている。
洞内には青天井、百枚皿、千畳敷、黄金柱と形状に応じて名づけられた見どころが多くあり、順にたどりつつ奧まで進んでゆく。どれも自然がかたづくった不思議な造形である。太古の昔からの気の遠くなるような長い時の流れを思いながら歩いていった。洞窟内を流れる川に沿って道がつけられており、薄暗さに慣れてくるにつれ、地下世界の住人になったような気分になってくる。奇妙なかたちの鍾乳石や石柱、石筍が次々と現われて目を奪われる。昔の人は手燭や松明を持って入っただろうから、影絵のように照らし出されるものを見てさぞ怖かったであろう。コウモリも多かったらしく、魔ものの棲みかとして恐れられていたそうである。
洞窟内は派手な色のライトアップはされておらず、落ち着いた地味で柔らかい照明、それも控え目であった。華美にならないように工夫されており、自然光に近く好もしいが、滑りやすい足元がやや暗く感じられるのが難点であった。
エレベーターで地上に出て、秋吉台を歩くことにした。展望台があり、広々としたカルスト台地の様相を見ることができる。なだらかな地形で草原になっており、ススキが揺れ、その中を縫うように道がついている。草原には石灰岩特有の白いごつごつした岩が点在していた。
三億五千年前にはサンゴ礁の海であったそうだ。流れ込んだ雨水の浸食作用で長い時間をかけて石灰岩が溶けてゆき、現在のような地形になったという。
道はよく整備されており、歩き始めると、丈の低い草の間に大小の石灰岩の塊や、ドリーネと呼ばれるすり鉢状の穴や浅い窪みが見られた。萩が咲き乱れて道の両側を彩っており、道のある限りどこまでも歩いてゆけそうである。若竹山から長者ケ森のほうへ行く道をゆっくり散策した。渡ってくる風が心地よい。
昔、学校の授業で「カルスト台地」のことを習った。教科書に載っていた秋吉台の写真を見て、そのとき、どんな所なのかいつか行ってみたい、とふと思ったのだった。子どもの頃のその願いが、今実現しているのだと感じられた。草の中を歩きながら感慨深いものがあった。