海幸彦と山幸彦の世界 (一)
枚聞神社(薩摩一宮) 新田神社(薩摩一宮)
海幸彦と山幸彦の世界 (一)
枚聞神社(薩摩一宮) 新田神社(薩摩一宮)
鹿児島県開聞岳の山麓にある枚聞(ひらきき)神社は、「海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)」の物語の舞台地として知られている。
漁をする兄の海幸彦と狩をする弟の山幸彦は、あるとき道具を取り替える。兄の大切な釣針を海で失くした弟は兄に責められ、海底の宮を訪ねてゆく。そこで出会った海神の娘を娶り、釣針を返してもらい、さらに海神から宝珠も授かって帰郷した山幸彦は、珠の威力で兄を懲らしめ従属させる、という内容である。民話「浦島太郎」の原型という説もあるようだ。海幸彦と山幸彦ゆかりの古社を訪ね、周辺を歩いてみた。
まずこの神話の背景と概要をみてみよう。
記紀によると、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、命を受けて葦原中津国を治めるため、日向の高千穂峰に降臨した。笠沙(かささ)の岬で大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘木花之佐久夜比売(このはなのさくやひめ)を見初めて求婚すると、承諾した父神は、永遠の生命も授かるようにと、姉娘の石長比売(いわながひめ)とともに嫁がせた。ところが尊は美人の妹のみを妻とし、姉は送り返したので、天孫の御子らの命は木の花のようにはかないものとなった。
一夜で孕んだ佐久夜比売は疑われたので、誓約(うけひ)をして産屋(うぶや)に火をかけ、無事に三人の皇子を出産した。このうち兄が、海幸彦(火照命 ほでりのみこと)弟が山幸彦(火遠理命 ほおりのみこと)である。
道具を交換した山幸彦は、兄の釣針で漁をするが魚は取れず、大切な釣針を失くしてしまう。償いとして自分の剣を潰し、多くの釣針を拵えて差し出すが、兄は同じ釣針を返せと要求する。海辺で嘆いていると、塩椎神(しおつちのかみ)が助けの手を差し伸べ、山幸彦を竹で編んだ籠の舟に乗せ海神の宮に送った。
海底の綿津見宮(わたつみのみや)の井戸で、山幸彦は海神の娘豊玉姫(とよたまひめ)と出会って結ばれ、そこで三年を過ごした。やがて目的を思い出した山幸彦は事情を打ち明け、鯛の喉にあった釣針を海神に見つけてもらい、さらに塩盈珠(しおみつだま)と塩乾珠(しおひるだま)という霊珠も授かって、一尋鰐(ひとひろわに)に送られ、地上に帰り着いた。
山幸彦は海神から教わった呪法で釣針を返すと、兄は貧しくなった。そして恨んで攻撃してくる兄を、二つの珠を操って溺れさせたり活かしたりして懲らしめ、自分への服従を誓わせた。以後海幸彦は平伏して弟に仕えることとなった。後に山幸彦が天皇の祖先神となり、従属した海幸彦の子孫が隼人となった。隼人が天皇の傍らで狗(いぬ)の鳴き声をして警護をしたり、塩盈珠の力によって海で溺れたときの様子を、服属を忘れないため御前で演じてみせるようになったのは、このことが起源である。
山幸彦が帰還した後、懐妊していた豊玉姫は、産み月が近づくと山幸彦の後を追って地上にやって来て、浜辺で出産しようとした。元の身になるので産屋(うぶや)を覗かないように、と念を押されたのに、その言葉を怪しんで見てしまった山幸彦は、豊玉姫が鰐になってのたうっているのに驚愕した。
砂浜に建てられた産屋が、鵜の羽でまだ葺き終わらないうちに子が生まれ、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名づけられた。豊玉姫は元の姿を見られたことを知ると子を残し、自分は海へ去っていった。けれども子が案じられるので、妹の玉依姫を養育のために地上へと遣わした。鵜葺草葺不合命が後に玉依姫を娶り、生まれた四人の子のうちの一人が神倭伊波礼比古命(かむやまといわれひこのみこと)、神武天皇である。
新田神社
新田神社を訪れるため新幹線を利用し、JR川内(せんだい)駅に降りた。神亀山には海幸彦山幸彦の両親、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花之佐久夜比売の陵墓があるという。
新田神社は薩摩一宮二社のうちの一社、鎌倉時代に開聞岳北麓の枚聞(ひらきき)神社と一宮の名称を巡って争った経緯があるというが、現在はともに一宮とされている。
市内循環の「くるくるバス」が神社前を通っている。お社は駅から川内川を越え北東約二・四キロ、神亀山という丘の山頂近くに営まれ、瓊瓊杵尊の山陵が社の裏にある。市内各所には尊の宮居の伝承があり、神亀山にも宮があったとされるが定かではない。また当社にはかつて八幡三神が祀られていたので、新田八幡宮とも称するそうだ。
大きな朱色の両部鳥居(二の鳥居)をくぐり、雰囲気のある石造りの反橋「降来橋」を渡ると、左右に門守社が立ち、参道の石段が真直ぐに続いている。
石段を上ったところに、勅使殿がある。その奥に舞殿、拝殿、本殿。御神木は大樟、山中なので建物はそう大きくはない。山腹に旧社があったが十二世紀に焼失し、現在地に遷座したということである。社殿の周辺には湿潤な空気が漂い、木々の間から鳥の囀りが聞こえてくるほか、森はひっそりと静まっている。主祭神は、
天津日高彦火瓊瓊杵尊
天照皇大御神
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
の三神である。本居宣長の見解によれば、火瓊瓊杵尊は「穂の丹熟(ににぎ)の神」で、稲穂の豊かな実りを表すという。穀霊を神格化した神名ともいわれている。
神社の右手に回ると、可愛山陵(えのみささぎ)があった。瓊瓊杵尊(神武天皇の曽祖父)の陵墓で、緑に包まれた静かな空間である。神亀山は亀に似たかたちで、背の頂上には瓊瓊杵尊の御陵があり、妃の木花佐久夜比売の陵墓は亀の頭の部分に営まれ、こちらは端陵(はしのみささぎ)というそうだ。また兄に勝利した山幸彦の陵墓は、ここではなく霧島市に高屋山陵として営まれているという。
神亀山の一段低くなった首の部分には、敗れた海幸彦の陵墓がある。それは小規模に営まれ、中陵(なかのみささぎ)というそうだ。海幸彦は敗者なので、果たして墓所があるのかどうかもわからないと思っていたが、両親と並んで祀られているのを知って安堵した。なお母子のほうの陵は未見である。
天孫降臨伝承について少しみておこう。
瓊瓊杵尊が降臨したとされる高千穂の峰の地には二説あり、霧島連峰の高千穂峰(標高一五七四メートル)と宮崎県高千穂町、ともに天孫降臨地という伝承を持っている。また尊が高天原から天降りしたとされる、その高天原の位置についても、天上説、海外説(雲南など)、国内説(九州、大和、常陸など)など諸説あり、定かではない。
天上説は措(お)くとして、仮に海上から異族の船団が各地に新しい土地を求めてやって来たとする。その場合まず上陸しやすかったのは湾や入江、河口だったかもしれない。(九州上陸地としては、笠沙など諸説あるそうだが)優れた武器、先進技術や文化を持ち、また植物や穀物の種子を携えてやって来た集団は、適地を求めどこかに上陸、先住の民との摩擦はあったかもしれないが、少しずつ土地を獲得し開拓し、土地の人との通婚を重ね、定住していったのであろう。
古来聖地とされる深い森や泉、川の上流の水源地、高い山の頂、謂れのある磐座、そのような場所には地霊、神霊が坐すので、土地の先住の長に祭祀権があった。新勢力は川を遡上し、水源を押さえ水利権を得ることに加え、聖域の山の頂に上って鉾や旗を立てるなど自分たちの手で儀式や供物、祭祀を行って神の加護を乞い、その地域の新たな祭祀者としての姿勢を誇示したのではないだろうか。
神霊のいます山の頂で神招(お)ぎをし、そこに領有支配のしるしの物(王杖、斎串など)を刺して象徴とした一行は、儀式を終えて山を降り川を下ってゆき、その後も各地に国求(ま)ぎ、妻求(ま)ぎの旅を続け、徐々に支配地を広げていったのではとないかと考える。天孫降臨を想像するとき、勝手にそのような場面を思うのである。
枚聞神社
もう一つの薩摩一宮、枚聞(ひらきき)神社は、JR指宿枕崎線、開聞駅から北に約一キロの所にある。開聞岳(標高九二四メートル)を神体山として祀るお社で、開聞を通る列車は一日に二本のみである。車窓から桜島がくっきりと見え、青い海を眺めているうち指宿に着き、そこで大半の観光客が降りていった。さらに進むとJR最南端の駅という西大山駅で、開聞岳が眼前に大きく聳え立ち、美しい山の姿に見とれてしまう。開聞岳は薩摩富士の名の通りなだらかな緑の稜線を広げており、いつまでも見飽きない。列車は畑の中をのんびりと郷愁を誘うように走り続ける。山に近づいてゆく感覚を楽しんでいるうち開聞駅に着いた。数組が降りたが、皆さん神社ではなく山へ向かう登山客であった。
開聞駅から神社までは徒歩で十数分。山を遥拝するお社で(山頂に奥宮)参道からは開聞岳が正面に望まれる。
創始年代は不詳、延喜式には枚聞神社とあるそうだ。
現祭神は大日孁貴(おおひるめのむち、天照大神)命。五男三女神。
古には開聞の神が祀られていたという。時代を経るうちに祭神名が塗り重ねられていったようである。また当地には豊玉姫の父、豊玉彦の宮があったとされることから、豊玉彦夫妻を祀るという説、また中大兄皇子(天智天皇)が筑紫朝倉宮に滞在の折、仕えた大宮姫が当地に隠棲、その女性を祀るという伝承もある。
なお神社はもとは開聞岳南麓の鳥居が原にあったと伝わり、貞観の頃の噴火で一時指宿に遷った後、現在地に遷座したそうである。
枚聞神社の境内には、左右に長庁という建物があり、珍しい布置である。正面に勅使門、回り込むと拝殿、その奥に幣殿、本殿と続く。社殿は全体に鮮やかな丹塗りで柱の装飾も派手なもの、この日は快晴で眩しいほど光が溢れ、明るく色彩豊かな神社という印象を持った。御神木は大楠。
神社を出て、北へ数分歩くと「玉の井」がある。そこだけこんもりと木が茂った薄暗い空間になっていて、奥に小さな井戸がある。山幸彦と豊玉姫が出会ったという綿津見の宮の井戸とされる。
塩椎(しほつち)の神、・・・・すなはち間(ま)なし勝間(かつま)の小船を造りて、その船に載せまつりて、教えてまをさく「我、その船を押し流さば、やや暫しいでまさば、御路(みち)あらむ。すなはちその道に乗りていでましなば、魚鱗(いろこ)のごと造れる宮室(みや)、それ綿津見(わたつみ)の神の宮なり。その宮の御門に到りたまはば、傍らの井の上に湯津香木(ゆつかつら)あらむ。かれその木の上にましまさば、その海の神の女、見て議(はか)らむものぞ」と教えまつりき。(古事記)
間なし勝間の船とは、竹で編んだ目の詰まった船とのこと。調べてみると、丸い籠の舟で、一本の竿や櫂で操り一人または二人乗り、一寸法師のお椀の舟を連想すればよいらしい。竹の細かい隙間は樹脂(例えば松やになどの樹液か)を塗って固めたようである。ベトナムでは竹の籠舟として今も漁師が使い、編んだ隙間は樹脂や牛糞で固め、鹿の皮など張ったものもあるらしい。
記紀を読むと、綿津見宮はまるで海底にある幻の異郷のように描かれているが、当地の伝承に添って考えると、舟は潮に乗って近くの海岸に流れ着き、山幸彦は人家を目指して歩き、集落の入り口の井戸を見つけるのである。
青木繁の絵「わだつみのいろこの宮」はこの場面をモチーフとしている。壺をささげる豊玉姫は赤い衣をまとい、木の上に座る山幸彦を情熱的な瞳で見つめている。古事記の注を見ると、魚鱗(いろこ)の宮とは、大陸風の建築で屋根がうろこのように重なったものとある。そこは渡来系の人たちの集落だったのだろうか。
因みにいうと、古の薩摩地方の地下式墳墓の屋根は、特徴的なのだそうである。「槨壁(かくへき)の上に板状石を持ち送り式に積み重ね、上から見ると魚鱗のような天井部ができる石室墓」(「熊襲と隼人」井上辰雄著 教育社)ということである。同書に載っている説明図を見ると、たしかに板状の石を花びらのように重ね、うろこ状、菊花状にした独特の屋根を持った石棺である。板石積石棺墓ともいわれるそうだ。
「玉の井」と名づけられた由来は、普通には清らかな玉のような水の湧く井戸、という意味だろうが、当地ではそれに加えて山幸彦の持っていた玉にも由来するらしい。
水汲みに来た侍女に山幸彦が水を求め、差し出された器に山幸彦が首飾りの玉を解いて、口に含んでから入れると、くっついて取れなくなった。侍女は館に戻り豊玉姫に器を見せて告げると、姫が井戸へ出てくるのである。(古事記)
玉を器につばき入れることは呪術で、玉は魂(たま)に通じる。このとき助力を必要としていた山幸彦は、異族であり言葉でうまく意思疎通ができなかったので、この行為に何らかの思いを籠めたのであろう。記紀には書かれていないが、おそらく他の人ではなく豊玉姫が触れたときに玉はすっと取れ、その不思議に姫は感じ入り、美しい玉(白い珠、鮑珠、真珠か)はそのまま求婚の贈り物とされたのでは、と勝手に空想する。
古来、唾には魔を封じる力、呪力があるとされた。例えば伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の別離の誓約の際に唾を吐く(日本書紀 神代上)とか、矢に唾を塗って射ると魔物に命中して倒せたとか、眉に唾を塗っていれば狐狸に騙されないとか、怪我の傷に唾を塗ると早く治るとか、唾に関する民俗、俗信は現在でもかなり多いようである。
山幸彦は豊玉姫の父に紹介されると、気に入られて歓待され、そのまま婿となって綿津見の宮で暮らした。地名としては拝顔(玉の井)、山幸彦を御馳走でもてなした京田(饗殿)、姫が承諾したという御返事川、二人のために父の豊玉彦が建てた宮があったとされる婿入谷などが、今も地区名として残っている。
なお豊玉姫は知覧に安産の神「豊玉姫神社」として祀られており、豊玉姫陵も知覧にあるそうだが未見である。
「玉の井」はこの日、とても風が強かった。周囲にはのどかな緑の田畑が広がっているのだが、吹きつける風で能「玉井」の説明板が二度も地面に倒れ、帽子も飛びそうになる。能では、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと、山幸彦)が失くした兄の釣針を探して竜宮に着き、瑠璃の瓦を敷いた門の桂の木蔭に佇み、水を汲みに来た豊玉姫と出会い契りを結ぶのである・・・・。
樹木の隙間から婿入谷や御返事川の方角を遠望して時を過ごした。井戸には古事記にあるように湯津香木(ゆつかつら)、つまり桂の木が植えてあるのかも、と探したが見つからなかった。ついでにいうと、桂の葉は香りがあり対生で丸みを帯びたハート形、若い二人の出会いの場面にはふさわしい。
この後バスで長崎鼻へと回った。豊玉姫を祀る赤い竜宮神社があり、岬の先端には白い灯台、そこからの海の眺めは雄大である。島影も幾つかあり、海上の薄い雲のため屋久島は確認できなかったが、三島村の硫黄島(俊寛の流罪地)と黒島は遠望できた。また開聞岳もはっきりと見えていた。
岬には浦島太郎と亀の像が置いてあった。竜宮神社に因むらしい。また山幸彦はこの辺りに上陸したという伝承もあるそうだ・・・・。仮にそうだとしても「玉の井」までは遠いので、集落近くの入江か川辺に舟を寄せた、と考えるほうが自然であるが。
灯台から青い海原を眺めていると、岩に波が打ち寄せては砕け散ってゆく。岩場に一羽の黒い鳥が飛んできて止まった。それは海鵜(うみう)であった。
鹿児島神宮(大隅一宮) 海幸彦と山幸彦の世界(二) に続きます