伊奈波神社 金華山 岐阜城
伊奈波神社 金華山 岐阜城
JRに乗って岐阜市へと向かう。岐阜の町は活気があって交通の便がよく、バスに乗って伊奈波通りで降りて山側に寄ると、そこはもう伊奈波神社の参道であった。初詣の人で賑わっており、焼きそばやたい焼きの屋台が軒を並べている。南宮大社より参拝の人は多く、さすがに県庁所在地であった。
伊奈波神社は美濃国三宮である。主祭神は五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)。配祀には妃の渟熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)、母の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)、臣下の物部十千根命(もののべのとおちねのみこと)などの名が並んでいる。
五十瓊敷入彦命は垂仁天皇皇子で、景行天皇の兄。妹には倭姫がいる。倭建命(やまとたけるのみこと)の伯父に当たる人といったほうがわかりやすいだろうか。
社伝によれば、五十瓊敷入彦命は勅命を受けて奥州を平定するが、遠征に同行していた中臣豊益連がその成功を妬み、先に大和へ帰って皇子には謀反の心があると讒言、皇子は朝敵とされ、兵を差し向けられて嫡子とともに当地で討たれた。その死を悼んだ妃の渟熨斗媛は大和を離れ、皇子終焉の地で生涯を過ごしたとされる。
伊奈波神社の創建は古く、社伝では皇子薨去の翌年の景行天皇十四年、夢見によって皇子の無実を知った天皇は、武内宿禰を派遣して稲葉山(金華山)山麓椿原(現在の岐阜公園丸山)に五十瓊敷入彦命の霊を祀ったという。
後の時代になると、壬申の乱の折、天武天皇が美濃の南宮大社に戦勝を祈願したが、伊奈波神社の神が霊験をあらわして南宮の神を助けたので、天皇は感謝し伊奈波神社に厚見郡を神領地として寄進したと伝えられている。また戦国時代に入ると、斉藤道三が稲葉山山頂に稲葉山城を築城するにあたり、神社を城から見降ろすかたちになって不敬であるため、伊奈波神社を現在地に遷したという。そしてその地にあった物部十千根命を祀る物部神社を合祀、稲葉山城の鎮守として崇敬したという。
それでは記紀には、五十瓊敷入彦命はどのように語られているのだろうか。まず古事記からみてみよう。
・・・・この天皇(垂仁天皇)、氷羽州比米(ひばすひめ)命に娶ひて生みませる御子、印色(いにしき)の入日子命・・・・。・・・・印色の入日子の命は、血沼(ちぬ)の池を作り、また狭山(さやま)の池を作り、また日下(くさか)の高津(たかつ)の池を作りたまひき。また鳥取(ととり)の河上の宮にましまして、横刀(たち)壱仟口を作らしめたまひき。こを石(いそ)の上(かみ)の神宮に納めまつる。すなはちその宮にましまして、河上部を定めたまひき。(古事記)
(垂仁天皇は氷羽州比米を娶られ、生まれた御子の印色の入日子命は、ちぬの池、狭山池、高津池などを造られ、鳥取の河上の宮で、大刀一千振りを作られ、石上(いそのかみ)神宮に納められた。そしてその宮にゆかれて河上部を定められた)
古事記ではこれのみである。日本書紀ではこれに加えて次のような記述がある。
・・・・天皇、五十瓊敷入彦、大足(おおたらし)彦尊に詔(みことのり)してのたまはく、「汝等(いましたち)各(おのおの)ねがはしき物をもうせ」とのたまふ。兄王もうさく「弓矢を得むと欲(おも)ふ」とまうす。弟王もうしたまはく「皇位(きみのくらい)を得むと欲(おも)ふ」とまうしたまふ。ここに天皇、詔してのたまはく「各(おのおの)情(みこころ)の随(まにま)にすべし」すなはち弓矢を五十瓊敷命に賜ふ。よりて大足彦尊に詔してのたまはく「汝(いまし)は必ず朕(わ)が位を継げ」 (日本書紀 垂仁紀)
(天皇は、五十瓊敷命と大足彦命に対し、「お前たちそれぞれ望むものを言ってみよ」といわれた。兄王は「弓矢が欲しいです」といわれ、弟王は「天皇の位が欲しいです」といわれた。そこで天皇は「それぞれの望みのままにしよう」といわれた。弓矢を五十瓊敷命に賜り、大足彦命には「お前は必ずわが位を継げ」とおっしゃった)
兄弟間で皇位が弟に渡ったいきさつが語られている。そして老齢になった五十瓊敷命が、石上神宮の武器管理の役を妹の大中姫命に譲ろうとするが辞退され、結局大中姫は物部十千根にその役を授けて管理させた、と古事記にはない記述もみられるので、少し引用してみよう。
・・・・この後に五十瓊敷命にみことおほせて、石上神宮の神宝をつかさどらしむ。
・・・・五十瓊敷命、妹(いろも)大中(おおなかつ)姫にかたりていはく、「我は老いたり。神宝をつかさどること能(あた)はず。今より以降(のち)は、必ず汝つかさどれ」といふ。
大中姫辞(いな)びてもうさく、「我は手弱女人(たおやめ)なり。何ぞよく天神庫(あめのほくら)に登らむ」五十瓊敷命のいはく「神庫高しといへども、我よく神庫の為に梯(はし)をたてむ。あに庫に登るに煩はむや」・・・・然(しこう)して遂に大中姫命、物部十千根大連(おおむらじ)に授けて治めしむ。(日本書紀 垂仁紀)
書紀には、五十瓊敷命が勅命で奥州を平定し、帰途に讒言されて謀反人として稲葉山で討たれたという話は載っておらず、五十瓊敷命はずっと大和にあって石上神宮の神宝管理を続け、年老いて役職を妹に渡し、妹から物部氏に管理役は移ったとしている。(東征の命を受け、管理権を妹に譲ったと読めなくもないが・・・・)。そしてこの皇子の陵は、大阪府岬町の淡輪(たんのわ)にあるとされている。(もっともこの淡輪の古墳には確証がないともいわれているが)
五十瓊敷命はどのような死を迎えたのであろうか。伊奈波神社の伝承は、皇子は東征に赴いて使命を果たすが、帰途讒言により稲葉山で討たれ、皇子の死を知った大和の妃が来て住んだこと、また後になって天皇の夢見により、椿原に神社が建てられたことを語っていくが、記紀はこれらのことに関しては沈黙している。
皇子は(皇位継承に関して)父から問われると、弓矢を望み(軍事を担当したということであろうか)、弟のほうに皇位を渡している。そして皇子は池や溝を造って河内、和泉で土木、開拓に貢献し、また泉南の地で一千振りの剣を造って石上神宮に納め、老年に至るまでその管理を担ったという事跡を伝えるのみである。
真実はわからない。本来なら五十瓊敷入彦命は、その諡号に祖父の崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖)、父の垂仁天皇(活目入彦五十狭茅)と共通の名を持つことから、正当な後継者だったとも思われるけれども・・・・。景行天皇は大足彦忍代別、おおたらしひこおしろわけで、入の名は入っておらず、以後成務天皇(稚足彦)、仲哀天皇(足仲彦)、神功天皇(気長足姫)天皇と、足(たらし)の名を持つ天皇が続いていくことになる。兄弟間での皇位争いにこのとき兄は敗れ、河内か和泉に去ったとも考えられるが・・・・結局弟の方が皇位を得て、景行天皇の時代となっていく。
五十瓊敷命は大和で老いて生涯を終えたとみるのがいいのか。それとも勇猛な武人の面影濃い皇子の東征とその非業の死は封印され、史書から抹消されたとみるべきだろうか。そして景行天皇の皇子である倭建命の悲劇の物語には、東征の逸話が盛り込まれているが、記紀の東征経路には二通りの道筋が示されている(書紀の方が遠くに行ったことになっている)。いったんは消されたかにみえた、伯父の五十瓊敷命の東征逸話が倭建の旅に託され、かたちを変えて投影されているとみるのがいいのだろうか。
初詣の人波は境内にとぎれずに続き、ぼんやりしていると人にぶつかりそうになる。元からの地主神である摂社の黒龍社を訪ねる。境内ではパワースポットと表示のある看板を見て滝を探す人・・・・この神社が岐阜で人気のある神社なのだと改めて知った。個人的にはひと気のない静かな神社が好もしいので、お正月のこの時期を避ければよかったのだということに、今になってやっと思い至ったのだった。
混雑から逃れるように神社を出て、金華山(旧名は稲葉山、古くは因幡とも)を目指す。そう遠くないので伊奈波神社から山沿いに歩いていき、道路を横切って岐阜公園の中に入っていく。近代的に整備されて今は何の跡形もないけれども、この辺りはそれこそ古の五十瓊敷命の戦や、戦国時代に繰り返された数々の戦闘、死屍累々、激戦の古戦場ではなかったろうか・・・・。おそるおそる信長居館跡とある草地を通り抜けて、ロープウェイ乗り場に行き、そのまま山頂へと運ばれていった。
山頂駅から少し歩くと鉄筋コンクリート造りの岐阜城が見えてくる。観光化された城であった。山頂には磐座と思われる大岩が露出している。この鉄筋のお城を造るときにかなり削ってしまったのではないだろうか。各階には土器などの発掘品や武具が並べてあるが、すぐに見終わってしまい、階上の展望台へと上ってみた。そこから長良川や市街地が見渡せたので、四方を巡ってしばらく眺める。岐阜城は思いのほか高い山頂(標高三二九メートル)に建てられているのだった。室内から一歩外に出ると、たちまち強風が吹きつけてきて寒く、ここでの冬の生活の厳しさがしのばれる環境であった。
お城の外から周辺の地形をよく見ると、山頂は山の端にあり、山脈は南北方向に横たわっている。この山麓にはかつて五十基もの古墳が存在していたというが、破壊されてしまい、現在はあまり残っていないそうである。戦国時代、斉藤道三、織田信長と城主が変わっていくが、築城の都度、山頂遺跡もかなり壊されただろうに、それでもまだ立派な大岩が残っていることに驚く。どうも稲葉山は全体に硬い岩盤で形成されているようだ。古代にはこのような立派な磐座の山頂は聖地とされていたのではないだろうか。特にちょうど岐阜城の建つ近辺は、何かしら古代祭祀の跡を感じさせるような、岩に力がこもっているような場所であった。
山を降りていく。「馬の背道」「七曲り道」など何通りもの登山道があるそうだが、「瞑想の小径」を下ることにした。山頂近くは急峻で、地面の岩がぎざぎざに尖っていて、その部分が絶えず靴底に当たるので痛くて歩きにくい。これを瞑想の小径というのは・・・・皮肉というものである。良い履物もなかった昔の人は、大変な思いをしてここを歩いたのだろうと思いつつ下っていった。途中磐座かと思われる大岩も見るが、ほどなく伊奈波神社の旧跡という丘があらわれた。
烏帽子岩という三角型の磐座があり、見たところは鏡岩のように平たくなっている。この磐座は長良川に沈んでいたものを引き上げたという伝承があるようだ・・・・。少し小高い所に台座があり、さらにその先にも同様の土台や、石積みの跡がみえる。少し上って確かめてみるが、細長く緩やかな傾斜地になっていて奧に続き、そこにも祠らしいものの跡がみられた。
夕暮れが近づいてきて、ひと気のない旧跡にたたずみ、冷たい石に触れ、今しがた降りてきた山を振り返り、眼下に広がる景色を眺める。野鳥の囀りが遠く近く聞こえ、枝が揺れて風が吹き抜けていく。静けさの中でいいようのない寂寥感にとらわれた。
記紀には何も語られなかったが、やはり五十瓊敷命は稲葉山で無念の死をとげたのであろうと思われる。妃の渟熨斗媛は景行天皇皇女であるが、夫(伯父にあたる)と嫡子が逆賊として殺されたのであれば、大和に留まるのはいたたまれず、つらかったことであろう。自分の父親が夫と子を誅したのであるから・・・・。妃の母方の祖父は美濃の八坂入彦命、母は八坂入姫といい、美濃は妃にとっては母親の実家でもあった。妃はおそらく大和を逃れるように離れて実家の人々を頼り、夫と息子の眠る地で暮らすことを選んだのであろう。
先に訪れた伊奈波神社のほかに、市内には妃の渟熨斗媛を祭神とする金(こがね)神社、嫡子の市隼雄命(いちはやおのみこと)を祀る橿森(かしもり)神社があり、父と母と息子は寄り添うようにこの地にしずまっているのである。
帰途につく。道を降りていると、夕陽が差してきて木々の葉を赤く染めた。つやのある緑の葉が夕陽を受けて赤く輝いている。椿の木だろうか。ここを古くは椿原と呼んだということをぼんやりと思いつつ道を降りていった。