一妙義山麓の社と一宮一
貫前神社(上野一宮) 中之嶽神社 妙義神社
一妙義山麓の社と一宮一
貫前神社(上野一宮) 中之嶽神社 妙義神社
上野国一之宮 貫前(ぬきさき)神社
妙義神社前から観光乗り合いタクシー(ワゴンタイプのバス)を利用した。これはいわゆるコミュニティバスのことである。「神社裏」で降り、そこから坂道を上っていった。予想よりも勾配が急であることに加えて距離も長く、いったいどこまで続くのだろうと思いはじめたころ、やっと坂道が終わった。脇参道から入ることになった。
立派な総門がそびえている。門の左側には大銀杏の木、美しく色づいた葉がみごとである。総門をくぐると参道ははるか下へと続いていて、ふっと目がくらみそうになる。石段を下った所に社殿が営まれているのである。苦労して坂を上ってきたのだが、そこにお社はなく、谷底に降りてゆくのであった。下り宮というらしい。
見回すと、総門の辺りは長い岡の頂上部分のようで、台地状の地形になっている。おそらく古にはこの辺りは森が広がっていたのだろう。神様を祀る場合、普通は小高い地点にお社を造営しようとするだろうが、台地の上や丘の頂にお社を建てたのでは落雷の心配があるし、当地は風の強い地域らしいので、災害で壊れてしまう恐れがある。倒壊を防ぐには低い谷間に造営するのが安全、ということなのであろう。
以前羽黒山を訪れた折、随身門から谷間へと降りてゆくと、みごとな五重塔があったのを思い出す。杉に守られた風の当たらない谷間という地形を選んだからこそ、五重塔は倒壊せず長い間持ちこたえられたのではと思う。
因みにいうと、難波の上町台地の上にある生国魂神社は、風の強く当たる位置にあり台風、火事、戦災と繰り返し被害を受けたので、現在は非常に堅固なコンクリート造りになっている。頑丈にという神社側の思いはわかるが、外観の雰囲気という点ではちょっと・・・・である。造営に際しては高い位置を避け、災害から守ってゆく、ここのように谷間に美麗なお社を建てるのは、社殿の維持のため、という意味ではよい考え方かと思われる。
階段を下りてゆくと、美しい楼門、社殿の佇まいである。極彩色の細かい装飾が施されており、朱と黒の漆塗のお社が、まるで静謐な異空間に在るように営まれていた。江戸時代の建造とされる。地域性もあるのだろう、先ほど訪れた妙義神社の社殿とよく似通った印象を受ける。季節なのか菊の鉢がたくさん展示されて並べられており、こちらは花に彩られた香り高いお社となっていた。
由緒によると祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)、姫大神。経津主は武神で、武甕槌神(たけみかづちのかみ)とともに天から降り、地上の葦原中つ国を平定、天孫降臨を助けた神とされる。経津主命は物部氏の祀る神。姫大神は、地域の古い養蚕機織りの神という。
創建は安閑天皇の御代。もとは赤城神社が一宮であったが、当社に一宮の座を譲り、二宮に下ったとも。
かつては抜鉾大神(ぬきほこおおかみ)、貫前大神(ぬきさきおおかみ)の二神を祀る神社であった、という伝承もあるそうだ。また主神は稚日女尊(わかひるめのみこと、天照大神の幼名、妹とも)、相殿が経津主命という説もあるという(一宮巡詣記 橘三喜)。祭神名については時代、文献、史料によって諸説あるようだ。本殿を拝すると、千木は内削ぎで、女神を祀るお社の特徴を示していた。
裏へ回ると、藤太杉というご神木があった。樹齢千二百年とされる。藤原秀郷が平将門追討の折に植えたそうである。戦勝祈願だったのであろう。当時の秀郷の年齢と同じ三十六本を植え、その中で残った最後の一本とされる。秀郷は下野の武人で、百足退治で勇名をはせた人。(三上山登山 御上神社の項で書いている)
秀郷は剛の者であった。あるとき近江の瀬田の唐橋の上にいる大蛇を、少しも恐れず踏んで通ったので、美女(実は龍神)に頼まれ、近江の三上山の大百足を矢で射ることになった。二度矢を放つが失敗、三度目は八幡神に祈願し、唾をつけた矢を使うと命中した。唾による呪力で魔物を倒せたのだという。お礼として中身が減らない俵などを貰ったので、俵藤太秀郷という名に変えたとされる。
見上げると、武将が奉納したという藤太杉はすでに枯れていた。根元にしめ縄はかかっているものの、杉としての命が尽きてしまったようである。けれどもすべての葉を失い幹だけの姿となった今も、杉は真直ぐに谷間に立っているのだった。
中之嶽神社
妙義山はいくつもの山々の総称で、金銅山、白雲山、金鶏山を表妙義というそうだ。妙義山は耶馬渓、寒霞渓とともに日本三大奇景の一つとされ、奇岩の連なる景勝地として知られる。金銅山(中之嶽)山麓には中之嶽神社、白雲山麓には妙義神社があり、山岳信仰の名残りを今もとどめている。妙義山麓の二つの古社を訪れた。
中之嶽神社は人里離れた山中に営まれており、松井田駅からだと車で二十分以上かかる。鳥居をくぐると、右手に剣を持つ巨大な黄金大黒様が境内に鎮座、その大きさにまず驚かされる。なぜここまで派手な金色に、と疑問が起きるが、もしもこの大きさで全身真っ黒であれば、見る者を威圧し、それはそれで恐ろしい。
神社由緒によると、中之嶽神社の祭神は、日本武尊、外十六柱。古には波胡曽神(はこそかみ)が山の主としてお祀りされていたが、日本武尊が勅命による関東巡幸の際に登嶽された。また社殿の創建は、欽明天皇の御代、妙形氏によって造営された、ということである。
当初は土地神の「波胡曽神」が主祭神であったが、後の時代になって日本武尊が祀られるようになったらしい。時代の変遷や、時の施政者の方針で、新来の神が旧来の神に替わっていったのであろう。神の交替はここに限ったことでなく、各地の社でよくみられ、旧い神も新しい神にその主座は譲ったものの、本殿の隅や境内摂社などで祀られている例は多い。公式祭神に遠慮して名を消したり名を変えて祭られる場合(隠れ祭神、裏祭神)もあるという。祭祀の仕方が変り、人々の記憶から古い神の名が遠ざかる場合はあるかもしれないが、神が滅んでしまうことはない。
橋を渡ると、正面に大國神社が見えてくる。左右に大黒様の像が置かれ、こちらの身の色はともに黒で、右のほうは剣を持つが、左は普通に小槌。
このお社の祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。大国主命と大黒様は習合して一体化してしまっているようである。大国主命とは普通は出雲の神様を指すとされるが、必ずしもそうとは限らず、各地で祀られる場合、皆出雲から勧請した神とも言いきれないそうである。大国主命はそれぞれその土地の神、国つ神の称え名とされることも多いという。地域の開拓英雄を、固有の名ではなく、大国主命の名で祀っているのだと考えられる。
先ほど仰いだ金色の巨大大黒様は、お顔は福々しい表情だが、剣を持つ姿に造形されていた。神社側の説明では、そのお姿は不動明王と習合したことによるもので、手に持つ剣は厄災や悪霊を祓う剣であり、また轟岩にあった神社の宝剣伝承に由来するということである。
それにしても剣を持った大黒像というのは珍しい。武器を持つ古い神であるというのなら、山岳地帯であることから、古の狩猟神の性格を持つ神とも考えられるし、あるいは武人であった国つ神の名残り、剣を携えて遠方からやって来た開拓英雄の面影を象徴するものであるのかもしれない。
山の上へと続いてゆく長い石段があり、これを上ると轟岩(とどろきいわ)をご神体とする主祭神のお社がある。勾配が急で、立てかけた梯子のようで怖いが、ゆっくりと登ってゆく。高所に弱いかたは、途中で振り返らない方がいいと思う。
石段を登りきると、直立する巨大な岩がそびえていた。これが轟岩である。岩に食い込むかたちで正面にお社が営まれ、日本武尊が祀られているという。
見上げれば天に屹立する険しい岩山、というよりも塔のような磐座、高さもあるし迫ってくるような重量感、ごつごつした質感に圧倒されて立ち尽くす。こういう場所は、古から強いエネルギーの渦巻く聖地として、人々に畏れられてきたことであろう。
左手に回ると、柵に囲われた祠、小さな石祠が磐座に寄せて祀られていた。名はよくわからない。複数の神霊、地霊を磐座に依りつかせるかたちで祭祀しているらしい。
轟岩というからには、音が反響するのではと思い、人のいないのを幸い、岩に向かって何度か手を打ってみた。拝殿前は音が響かない。何度か場所を変えてみる。神様も柏手が続いてうるさいだろうと、申し訳なく思いつつ、左手の方に行って打つと、思いがけず音が岩に跳ね返って、こだまか山彦のようにきれいに反響する地点があったので、自分なりに納得した。
こういうことをしたのには理由があって、以前に志摩一宮の伊雑宮に行ったときのこと、近くの山に鸚鵡(おうむ)岩という大岩とお社があり、下で人がものを言ったり音を出すと反響するのであった。(伊勢・志摩 原風景への旅、の項に書いている)そこでは音が試せるようにと、拍子木が置いてあった。下の「語り場」で打つと、上の「聞き場」では、音がふわっと岩上から降って来るように聞こえる。昔の人はそういう現象を神秘と感じたようで、そのことを思い出したので、轟岩と聞いて勝手に「反響」を連想したのであった。もっともここの轟岩の命名の由来は、落雷による轟音からかもしれない。この高さだし、過去に何度か落雷はあったようである。あるいはそれとは別に、不思議な岩鳴動の逸話があるのかもしれないが・・・・。
このような巨大な岩山、磐座を前にしていると、自然が生み出した造形の偉大さに心打たれ、岩をご神体として崇めた古代人の気持ちにも共感できるような気がする。仰げばおのずと畏怖の念が起きこの大磐が真の祭神なのであろうと改めて思うのであった。
中之嶽神社を辞し山を下りることにした。次に向かう妙義神社まで七、八キロあるらしいが、景色を眺めつつ車の行き交う道路をゆっくり歩くことにする。「熊出没」の注意看板が立てられている。熊が棲んでいるような深い山なのだ。道路に面して「石門巡り」の入り口があったので、ほんの少しだけ入って上り、第一石門を立木越しに眺めてみた。アーチ形になっていて面白い。
「さくらの里」を通り過ぎてゆく。季節ではないのに、一部の花が開いて風に揺れている。可憐な白い花びらを眺めた。遠くの山はまだ紅葉が始まったばかりで、緑が多い。歩いてゆくと尖った山の峰々が林立し、中国の桂林のような景観の場所に出た。しばらく佇んでその変わった景色を楽しむ。雨模様の日に、山に霧が濃く薄く流れれば水墨画のような情景が広がるのかもしれない。
妙義神社
中之嶽神社から二時間半ほど歩いて下ると、妙義神社に着いた。この日はもう夕暮れ近かったのでそのまま宿に入り、次の日の朝、妙義神社を参拝した。
偉容を誇るごつごつした山の稜線を仰ぎ見る。山腹にくっきりと白い大の字がのぞまれ、不思議に思うが、これは妙義大権現の大、信仰のお山なので、登拝する人がこれを目印にしてきたのだとか。神社は白雲山山麓に位置し、格式ある古社である。参詣するにはかなり階段を上ることになる。
創建は宣化天皇の御代、祭神は日本武尊、豊受大神、菅原道真公ほか一柱、古には波己曽大神(はこそおおかみ)が祀られていたそうである。
総門を入り、参道を進み石段を上ってゆく。右手に「波己曽社」が見えてきた。土地神を祀る美しく重厚さを備えた趣ある社殿である。細かい彫刻や装飾が施されている。
中之嶽神社のところでも触れたが、波己曽神とはこの辺りの山々を領した地主神、古い神の名という。今は妙義山といっているが、古には波己曽山と称したそうである。古に祀られていたという波己曽神は、新来の日本武尊に主神の座を譲ったらしい。神の新旧交替は珍しくはなく、それはその時代に地域での支配者が変り、新来の勢力が自分たちの新しい神を持ち込んで祭祀したことを意味するだろう。
山中の大きな磐座や樹木、泉や滝に神が降臨するという自然崇拝にもとづき、当地では山中に奇岩怪石が多くあることから、古来聖地として崇められ、特に巨岩、磐座に対する人々の畏敬の念が強かったのでは想像される。波己曽神はこの境内にある岩に降臨されたそうである(影向岩)。
波己曽神の「はこそ」は何の意味かと思うが、一般に「こそ」は社を指す古い言葉、磐座の「いは」がつづまって「は」となり「いはこそ」から「はこそ」へとなった。意味は岩の神の社、岩社というような解釈があるようで、それで妥当ではないだろうか。
「こそ」を社の意とするのは、たとえば紀伊の伊太祁曽(いたきそ)神社、難波の比売許曽(ひめこそ)神社、河内の波牟許曽(はむこそ)神社など、いくつか例があって、畿内の例でいうなら「こそ」のつく社号は、渡来人、渡来系に関連する人々が祀った社ともいわれている。
境内にはいわくありげな大岩、磐座らしいものが散見できる。ひとつひとつには謂れもあり由来もあるのかもしれないと思いつつ、そっと側を通り過ぎる。石段は傍らの樹の根の力で押し上げられたのかうねっている所もあり、そこを上るとほどなく唐門、くぐると本殿へと辿り着く。
大そう美しく整えられた社殿である。黒漆塗は独特の渋い色艶を放ち、丁寧で細かな彫刻、凝りに凝った細工がなされた意匠、細部にまで実に手が込んだ装飾が施されている。日光の東照宮を思わせるような華麗さである。江戸時代の建造といい、贅を尽くしたそのきれいな仕上がりには驚嘆させられた・・・・。でも個人的な好みをいってもいいのなら、豪華絢爛なものより簡素で神さびた佇まいのほうが、自分の気持ちには合うのであった。
裏に回ると、天狗様が祀られていて、何やら怖い雰囲気が漂い、神仏習合の気配も濃厚なお社周りであった。北門を出ると、そこにも由緒ありげな磐座があり、これが影向岩とのこと、もとの神様である波己曽神の降臨磐座という。下部は洞になっていてその奥は暗く、手前に小さな石の祠が置かれている。どの時代までさかのぼって考えればよいのかわからないが、古にはここで祭祀が行われたのであろう。
かつて祀られた神様はもうここから遷られ、先ほどの波己曽社に鎮まっておられるのだが、降臨の磐座はここにあって今なお存在感を示し、古の記憶と痕跡をとどめているのであった。
磐座から緩やかな道を降りていった。こちらは女坂というそうで、水神社などが祀られている。歩いていると、どこからともなく鈴の音が響いてきた。風鈴のように雅な音であるが、背後の山や付近の森から、風に乗って遠く近く流れてくるその音の正体は、実は登山者が熊よけのために身につけている鈴の音であった。