一中山寺の磐座探訪一
白鳥塚古墳 奥の院 白鳥石
三神の窟 五神の窟 七神の窟
一中山寺の磐座探訪一
白鳥塚古墳 奥の院 白鳥石
三神の窟 五神の窟 七神の窟
宝塚市の中山寺は、西国第二十四番札所で、安産祈願のお寺として知られているが、境内には白鳥塚古墳があり、奥の院と山中には磐座があるという。神功皇后の御代、皇位継承をめぐる争いがあり、武内宿禰の軍に討たれた忍熊(おしくま)皇子(忍熊王とも)と、その母の大中津比売命(大仲比売、大中姫とも表記)の霊が奥の院に祀られているという。どんな所なのか、訪ねてみることにした。
阪急中山観音駅で降りると、すぐ参道がありお寺へとそのまま続いていた。境内には季節のさざんかの鉢がたくさん並べられ、本堂への石段脇にはエスカレーター、エレベーターが設置されている。
ご本尊は十一面観音菩薩(平安時代の作)、お寺の創建は聖徳太子とされている。寺伝によれば、聖徳太子十六歳のとき、夢見により大中津比売と忍熊皇子の鎮魂のため、長尾山山中に寺院(奥の院)を開かれたというのである。現在の伽藍は後の時代の再建という。本堂で手を合わせ、まずは閻魔堂の裏にある白鳥塚古墳へ。
白鳥塚古墳
白鳥塚(はくちょうづか)古墳、または中山寺古墳というそうである。羨道があり開口部は暗く、奥には家型石棺がひっそりと安置されている。横穴式石室で七世紀初頭の造営、石の櫃(からと、唐櫃)とも呼ばれているそうだ。寺伝では、仲哀天皇の先の后である大中津比売命(おおなかつひめのみこと)の墓と伝えられている。記紀の世界を少し見てみよう。
・・・・仲哀天皇の御代、先の后の大中津比売には、香坂(かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子の二皇子があった。
これより後、仲哀天皇は熊襲討伐のため九州へと向かわれた。後の后である気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)も、滞在先の敦賀を発ち天皇と合流された。香椎宮で天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(さには)をつとめた神降ろしの場において、皇后が神がかりし、思いがけなく外征を告げるが、天皇は神託を信じなかったため、にわかに崩御された。身重の皇后は神々を奉じ、多くの軍団を率いて海を渡ると新羅は服属した。帰国後、皇后は筑紫で誉田別皇子(応神天皇)を出産された。
皇后は戦に貢献した神々のお社を各地に建てつつ大和へ帰還してゆくが、大きな不安があった。それは先の后の生んだ香坂皇子、忍熊皇子の存在であった。二皇子は、筑紫で誕生した幼い弟の皇子が皇位を継ぐことを恐れ、叛乱を企んだとされる。
二皇子は先帝の陵墓造営を理由に兵を動員し、皇后の軍を迎え撃とうとしていた。武内宿禰は、幼い御子は亡くなられたと嘘を流し、喪船には兵を隠して戦に備えた。皇后は叛乱計画を知って船を迂回させるが、船が回転して進まなくなったので、武庫の湊に入り神意をうかがい、神が望まれた地に、廣田神社、長田神社、生田神社、また住吉神社を造営して祈願し、神々を祀り鎮めた。
これより先、二皇子は戦の吉凶を占う「うけひ狩」を兎餓野(とがの、神戸説と大阪説がある)で行うが、兄の香坂皇子は猪に襲われて亡くなり、不吉な前兆となってしまう。兄を失った弟の忍熊皇子は予定通り兵を挙げた。忍熊軍は住吉の地に引き、さらに宇治に退いて、そこで武内宿禰、武振熊軍と対峙した。忍熊軍からは将が進み出て「貴人は貴人同士、親友は親友同士、互いに堂々と戦おう」と歌よみをして戦に臨んだ。
このとき武内宿禰は偽りの降伏の振りをして武器を川に捨て、弓絃を絶ってみせ、それを信じた忍熊軍にも同様に弓矢、太刀を捨てさせる。そして頭髪の中に隠し持っていた絃を出して弓に張り、予備の真刀を佩き攻撃を開始した。武器を失った忍熊軍は敗走するしかなく、逢坂を越えて近江へと逃げ、忍熊皇子と臣下は追いつめられていった。船に乗って逃れようとしたが力尽き、忍熊皇子は「敵に痛手を負わせられるよりは、鳰(にお)鳥のように・・・・」と歌を詠むと、自ら瀬田川に入り沈んでいった。(古事記、日本書紀より)
気比神宮の項にも書いたので重複するが、香坂皇子、忍熊皇子の母の大中津比売は皇統の血が濃く、神功皇后よりも身分の高い女性であった。皇位継承の資格でいうなら、誕生したばかりの幼い皇子よりも、香坂皇子、忍熊皇子のほうが、ずっとふさわしかったのである。二皇子が叛乱を企んで戦を仕かけ、滅んだとされているが、実際にはどうだったのであろうか。実は逆だったという説もあり、神功皇后が実子に皇位を継がせるため、先妻の二皇子を排除した、とみる説もあるという。いずれにしても、ことの真相については不明である。
相手を先に力で倒したほうが皇位に就く、そういう時代であったのだろう。武内宿禰と武振熊は皇后派で幼い皇子を擁立し、倉見別(くらみわけ)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね)は香坂、忍熊皇子側を支持し、二つの勢力が激しく対立したようである。
兄の香坂皇子は猪に襲われて亡くなったとされるが、刺客に殺された可能性もあるだろう。(香坂皇子の霊は、宝塚市塩尾寺の砂山権現に祀られているそうだ)香坂、忍熊皇子はこのときまだ少年だったとも考えられ、戦においては経験がなく、武内宿禰軍のほうが、戦略に長(た)け兵力の点でも勝っていたと考えられる。
大中津比売の墓と伝承される白鳥塚古墳を見つめた。大中津比売がいつ亡くなったのかは、記紀にも記されておらずわからない。この女性は、仲哀天皇の姪に当る人であった。おそらく二皇子を残し、若くしてすでに世を去っていたのではないかと思われる。寺伝によると、忍熊皇子も母の埋葬地と同じこの地に葬られたようである。後に皇位に就いた異母兄弟の応神天皇が慰霊の使者を送ったところ、忍熊皇子の霊が「怨みを捨て厄除け神になる」と答えたという。そして古墳の中から白鳥が飛び出し、山中の石(奥の院の白鳥窟)に消えたとされる。また聖徳太子が忍熊皇子の石棺の蓋を開けると、中から白鳥が飛び出し、山中の大岩の中に消え、その岩から水が湧いたとも(奥の院、白鳥石大悲水)。
塚から白鳥が飛び出したというのは、人の霊が白い鳥になって他界へ飛翔すると信じられていたことにもとづくのであろう。倭建命(やまとたけるのみこと)が死後白鳥となって空を翔け、故郷の大和の地を目ざした、という逸話が思い起こされる。忍熊皇子の父の仲哀天皇はその倭建命の第二子、忍熊皇子は倭建命の孫であった。
そういう伝承の白鳥塚古墳であるが、調査では七世紀の造営とされ、時代的にみれば伝承とは合致せず、往時の地域の首長墓と考えられているそうである。悲運の皇子にまつわる白鳥伝説が、この古墳に仮託され、後の世まで語り伝えられたのであろうか。
奥の院 三神の窟 白鳥窟
奥の院への山道をたどっていった。参詣の人やハイキングのグループ、たくさんの人が行き交っている道である。参詣道は、左手の墓地を通り、左側の道を上ってゆく。階段状になっていて上りやすい。お地蔵様や石仏、道しるべ、岩などがあって、見晴らしのよい地点には岩群れがあり、あずまや風の休憩所も設けられている。そこを過ぎると、「夫婦岩」という大きな磐座に出る。大岩が集っており、目を引く。太古の神降臨の神籬(ひもろぎ)ともいわれているそうだ。命名は、大岩を夫と妻、小岩を子どもたち、と見立てたのであろうか。この夫婦岩は地図にも載っており、大切にされているようで、岩全体を柵で囲ってきれいな小石を敷き詰め、周囲にベンチも設置し、整備や保存に努力されているようであった。一見庭園風、箱庭のようなしつらえにしてあった。
さらに山道を上ると、「聖徳太子ご修行」とある禊場を通り、「宇多天皇ご自彫」という天神岩へと続く。この辺りまで来ると、木立は薄暗く空気は冷えて山の雰囲気が漂う。宇多天皇が刻まれたという岩を眺めるが、苔がつき線も薄れているので、鑿のあとは見えるものの、全体のかたちまではたどれなかった。ここを過ぎてさらに進むと、ようやく奥の院に着いた。平らに開けた地にはお堂があり、滝、いくつかの祠が祀られている。中山寺境内からここまで徒歩一時間であった。
奥の院本堂は、「三神の窟(いわや)」と呼ばれ、「下の神所」とも。忍熊皇子と父母の仲哀天皇、大仲比売命(大中津比売)を祀っているという。建物が奥の磐座の上を覆うように建てられており、そこに複数のみたまがお祀りされているようである。
その左手横に注連縄のかかった白鳥窟が鎮座している。実に大きな岩である。岩の間から湧水がこんこんと流れ出ているのが、不思議な印象であった。白鳥石(白鳥岩)、大悲水と呼ばれているそうだ。命名は、溢れ出る水を母子の涙と見立てたのであろうか。湧水に触れてみると冷たかった。忍熊皇子の短い生涯、また二人の皇子が非業の死をとげた大中津比売の心中を思いつつ、大岩の前にしばらく佇んでいた。
五神の窟 七神の窟
奥の院からさらに上へと進み、「五神の窟(いわや)」(中の神所)という磐座を探した。中山山頂への登山道を上ってゆくと、左手に龍神の道しるべがあり、登山道からそれて細い道を左へ入ってゆくと巨大な磐座が現れて驚かされた。奥の院から十分程度の距離であった。
実に堂々とした大岩で、白龍大明神が祀られ、五神の窟の説明もしてあった。天照大御神から天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)まで五柱の神の名があがっている。記紀によく登場し、各時代の神話でその名を知られる神々である。
足元が危ないが、磐座の周りを巡ってみる。立地は勾配が急な傾斜地になっており、磐座の裏面を見ると、まるで鏡岩かと思われるような平面状であった。まな板を斜めに差したような感じ、不思議な思いに捉われて、石板のような面を眺めていた。古代の人ははじめて山中でこの磐座に出会ったとき、畏怖して見つめたことであろう。
元の道へ戻らず、五神の窟の裏からこのまま真っすぐに山の斜面を登ってゆく。数分上ると、次の磐座「七神の窟」(上の神所)が見えてきた。磐座の横から回りこんで降りてゆく。大岩の上に丸い岩が積み重なっているようである。説明によると、七神とは、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさづちのみこと)から伊弉諾尊(いざなぎのみこと)までの七柱の神々、その神名を見ていると、日本の国土の始原に立ち現れる神々のようであった。こちらの磐座には黒龍大神が祀られている。
丸みを帯びた柔らかなかたちの大きな磐座であった。ここまで来ると人の気配も絶え、辺りは静寂そのもの、山の冷気に浸されるまま、古代のことをあれこれ思ってしばらく時間を過ごした。
やがて夕暮れが近づいてきたので、同じ道を引き返すことにした。先ほどの五神の窟まではすぐであった。そのまま山道を降り、奥の院の白鳥石の横に坐り、魔法瓶の熱いお茶を飲んでしばらく休憩した。未知の山中に分け入ったので、心が緊張していたようだ。大岩の間から湧水が静かに流れ落ちていくのを、放心して見ていた。
ハイキングの人たちの流れに混じって下山し、中山寺境内の賑わいの中に戻ってゆくと、異界をさまよって現世に帰り着いたような気持ちになった。