稲垣足穂
「一千一秒物語」「弥勒」(新潮文庫)
稲垣足穂
「一千一秒物語」「弥勒」(新潮文庫)
一冊の本の中にこれほど多くの内容が詰まっているのは珍しいのではないだろうか。表題作であるメルヘンタッチのショートショート「一千一秒物語」、童話風の作品である「チョコレット」、古代ファンタジーの「黄漠奇聞」、純文学作品の「弥勒」、風変わりなエッセーなど。
まさに「足穂ワールド」なのである。この本に出会ったのはかなり以前のことで、そのとき強く惹かれたのは「弥勒」だった。それから何年か経って再び読み返してみたときには「チョコレット」「一千一秒物語」の中に漂う詩情や叙情性に打たれた。その後読み直したときには「黄漠奇聞」のファンタジー性、エッセーの独自性を面白いものに感じた。
そして今回。とにかく懐かしいのである。この本を読んでいたころに流れていた過去の自分の時間が目の前に戻ってきて、しばしタイムスリップしていた。ほぼ十年に一度ぐらいの割でこの本を読んでいることになるのだが、考えてみると、なぜか私は自分の人生の節目に当たるころになると、この本を取り出してきて読んでいる。
今文庫本を手にとって見ると、もう変色して端が茶色になってきている。これは確か古本屋で買った記憶がある。タイトルを面白く感じて買った。本の雰囲気からいうと、薄暗い古本屋の棚の隅のほうで、ひっそりと埃に埋もれたまま、愛好してくれる読み手を何年も待っているという、そういう感じのする本である。私はこの本としょぼくれた出会い方をしたのだが、絆は深くて、今も私の密かな愛読書の一つになっている。
「一千一秒物語」
最初から余談で申し訳ないが、子供のころ、母に何かお話してと頼むと、
「浦島太郎は亀を助けて、おなべに入れて炊いて食べてしまいました」
とユニークな話を展開するので、私はびっくりした。でもそういう強烈な話は意外性があって今でも忘れられない。
このことを何かの折に夫に言うと、夫は若いころ海外旅行に行ったとき、海辺の岩場で浅瀬に立っていると、海蛇?(またはエイ)に追われたイセエビが夫のほうに逃げてきて、夫の足の間に潜り込んで隠れたのだそうだ。夫がじっとしていると、海蛇は諦めて行ってしまったという。
それからどうしたの、と聞くと、夫は何とそのイセエビを捕まえて茹でて食べたのだという。夫はそのときどうも飢えていたらしい。
「助けてもらおうと思って逃げてきたのに」
私は呆れたが、考えてみると、それは私の母が昔語ったのと同じ話の展開であった。夫は今ではそのイセエビを食べたことを悔いており、
「あの時エビを助けていれば、何か恩返ししてもらえたかもしれないな」
などというのである。助けた亀に連れられて竜宮へ行く、などというおとぎ話は話の中だけのことで、大人の現実世界は実際にはこういうリアルな話で満ちている。
「一千一秒物語」を読んでいると、普通のおとぎ話、童話には見られないその意外性、作者独特の自由自在な展開や奇抜な発想にまず驚かされる。昔話、寓話などによくある決まりきった物語系のパターンではないのである。題材には星とか月、月夜、月夜の道を歩く人などを扱いながら、そこには日本的な情緒、湿潤な感情の発露がなく、乾いた無機質の小宇宙のドラマを見る思いがする。
それは例えば、冷たく光る月を手で触ったらたぶんこうであろう、落ちてきた星をかじったらこんな感じがするであろう、という風変わりな硬質なイメージのもとに構成されている。
その着想自体ユニークであり、アイデアも面白い。そしてその表現、感性はほとんど詩に近いものであろう。天体詩、月と星の詩集といってもいいのではないだろうか。どちらかというと大人が心を預けて遊べる空間、それも星と月に惹かれる人の心に広がるメルヘン世界に足を踏み入れた思いがする。
私は二人の子供を育てたが、寝る前のお話として「一千一秒物語」を時折読み聞かせていた。手持ちの普通の絵本に親子で飽きていたときに、ふとこの本を思いついたのだった。私はこのお話群が好きだったので、勝手に読み聞かせのレパートリーに加えたのだが、子供たちにはどうだったろう。
「チョコレット」「黄漠奇聞」なども面白いので読みたかったが、寝る前の子供には長すぎると思ったので、適当に縮めて話して聞かせることにした。でも私の母のように、現実感のあるちょっと怖い話にすり替える勇気はなくて、ただ短くしてみただけであった。それでも「黄漠奇聞」は話がなかなか終わらなくて、こちらのほうが語り疲れてしまったのを覚えている。
「黄漠奇聞」はバブルクンドの王が砂漠に大理石の壮大な都を造り、君臨したのだが、旗印に使った新月が本物の三日月に劣るのにこだわって、砂漠の果てまで三日月を追いかけていって地に落とし、箱に閉じ込めた。年月をかけて都に帰ってみると、そこは廃墟と化し、箱を開けると元の砂漠に戻ってしまった、という話である。
「チョコレット」はポンピーが夜明けの道で星の精に出会い、言葉巧みに持っているチョコレートに入るように誘導した。チョコレートは硬く鉱物のようになって割れない。鍛冶屋に頼んで割ってもらうと、爆発して宇宙の彼方に飛んでいくという話である。
今は大学生になっている子供に当時のことを聞いてみると、よく覚えているという。一風変わった内容も面白くて好きだったという。そんな風に印象に残っているのだとしたら、読んであげてよかったのだろうか。
「一千一秒」シリーズの中からごく短いものを一、二篇選んで紹介してみよう。だいたいの雰囲気がお分かりいただけるかと思う。
「黒猫のしっぽを切った話」
ある晩 黒猫をつかまえて鋏でしっぽを切るとパチン!と黄色い煙になってしまった 頭の上でキャッ!という声がした 窓をあけると、尾のないホーキ星が逃げて行くのが見えた
「赤鉛筆の由来」
昨夜 自分は夢に赤いホーキ星が煙突や屋根を掠めて通ってきて物干し場の竿にひっかかって落ちたのを見た ところでけさ起きてしらべてみると この赤いコッピーエンピツが落ちていたのである
一千一秒とは、十六分と四十一秒なのだそうだ。ちょうどそのくらいの時間で読めるSSという意味かなともとれるし、千一夜物語を読んで想起した、たるほ版の月や星にまつわる千一夜物語なのかもしれない。この本は、師の佐藤春夫の助力で出すことができた、最初の本だそうである。
「弥勒」
主人公は江美留という男である。自伝的小説であるという。年譜によると稲垣足穂は大阪生まれ、十代のころは関西で過ごしていたようである。子供のころから飛行機好きで、それが高じて上京し、飛行家を志すが目が悪く、挫折して帰阪した。
文学にも憧れていて、原稿を佐藤春夫に送ってその縁で再び上京、佐藤家に下宿している。ほどなく震災にあって住所を変え、友人宅に居候したり、アルコールに溺れるなど、以後は流転の人生が続くらしい。関西に戻って遅い結婚をして京都に住み、六十代で文壇に登場して、独特の作風が評価されていくのである。
解説を参考にしながらみていくと、この小説は神戸が舞台になっているらしい。小説を志す江美留は、東京の作家H・S(佐藤春夫)に書いたものを送り、感想を貰うなどして将来の作家を夢見ている。現実には生活は苦しく、なかなか作家として浮かび上がることはできないのだが、想念は自由に飛翔し、東西の芸術、文学、哲学を語って飽きない。その至福感は現実の不遇の生活を乗り越えていく。ここまでが前半である。
後半は、主人公の極貧の生活がこと細かに語られる。安下宿で貧乏と闘いつつ創作、思索を重ねていく。赤貧という言葉があるが、こういう状況をいうのであろうと思われるような生活描写が続いていくのである。
例えばこんな具合である。「江美留は煙草を吸おうとしてマッチ函が空っぽであることに気づく。表へ出て探していると、やっと一本が、どこかの勝手口に落ちていた。それは湿っている。しかし彼の部屋には昼間も電気が来ている筈だから、その電球で数分間暖めてから軸木を擦ればよいわけであった」
この主人公の貧乏生活はまた際立っていて、凄まじいものがある。人に寄付してもらった生活用品も次々質に入れて、お酒を買ってしまう。そんなときは自らの心が鬼を出し、自ら鬼になっているのだと思う。空腹の末、除虫液の匂いに誘発されて松茸の幻を見るなど、さまざまな食べ物の幻影に悩まされつつ、それでも本を読み、思索し、好きな天体を見つめ、ものを書き続けようとするのである。そしてこういう。
「通りかかりの女とそして塀越しの若葉とが、この初夏ほどに瑞々しく美しく見えたことは今迄になかった」
収入がないから生活は窮していく。売れる物は売り払い、すべて質に入れつくし、身辺はとうとう無一物になってしまう。
「時たま手にする新聞で、唯一の興味は自殺記事である」というようなところまで落ちていく。冬なのに火鉢はなく布団夜具すらない。着るものもないので裸体にカーテンを巻きつけて、震えながら過ごすような状況に陥ってしまう。
そんな中で、江美留はふと誰かの差し入れの同人雑誌の表紙にあった「昆虫めく半跏思惟像」に惹かれ、見つめるのである。それは以前知人の家で見たことのある仏像写真と同じものであった。
「まだ時期が来ないので起つことができない、それで坐像か臥像しかないのだという」修行中の仏であった。
不意に江美留にインスピレーションが閃く。五十六億七千万年後、地上の人々を救済するために、この世に出現することになっているという弥勒菩薩、それが裸体に古カーテンを巻いた自分自身であることに彼は気づくのである。
貧乏生活の細部は、かなりリアリティがある。もともと貧乏伝説で有名な人だったらしい。同人誌の人の没原稿を貰い受けてきて、裏に作品を書いたとか、小学校の校門に行って、落ちている鉛筆を拾ってきて使ったとか、その種のエピソードには事欠かない人らしい。
際限もなく続くかと見える困窮生活を読まされていると、この小説がいったい何処に着地するのであろうかと、終章に近づくにつれ、読み手は次第に不安な心持ちに襲われる。普通はこういう破滅型の主人公であれば、その帰結として、行き詰って自殺するとか餓死するとか、あるいは発狂とか、ひどい結末を思うし、あるいはそこに至るような袋小路を暗示して終わるとか、どちらにしてもいい結末を思わない。
ところがこの作品はそういう大方の予想を裏切って、実に思いがけない方向に読み手を引っ張っていくのである。主人公が貧窮して、その程度がまさに生の極限状況に陥ったとき、死の一歩手前まで来たところで、その精神世界は反転する。
今まで俗の世界での悲惨の極みと見えたものが、俄かに宗教性を帯び、弥勒の聖性という一点に収斂していくのである。鮮やかな手つきである。惨めな無一物の裸体の主人公が、内面世界で衆生救済の弥勒菩薩に還元していくというラストシーンは、主人公の心にも、読み手の心にも、真の救済をもたらしてくれるという意味で、忘れられない場面である。
実は私はここが読みたくて、面倒な記述の続く前半部分を辛抱して、ページを繰るのである。この作品は最後まで読み進むこと自体、修行のようなものであろう。そして最後は何度読んでも上手いなあと思ってしまう。
ほっそりした少年のようなあの弥勒菩薩像が、読み手の心の中にも、確かに存在していることを、この作品は気づかせてくれる。この世に在るということは、この世の汚濁や、貧困や無理解や苦難のただ中で生きていくということは、皆それぞれの弥勒を生きることに他ならないのだと、語りかけてくる足穂の肉声が、行間から聞こえてくるような気がするからである。