一蝉丸神社を訪ねて一
逢坂の関 蝉丸神社
一蝉丸神社を訪ねて一
逢坂の関 蝉丸神社
これやこのゆくも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸
百人一首のこの読み札には、眼を閉じた頭巾の僧が坐っている絵が描いてあったと記憶している。僧が琵琶を抱えていたかどうかは思い出せない。扇子を持っていたような気もする。
蝉丸(せみまる、あるいはせみまろ、とも)は逢坂に庵を結んで住んでいたという伝説の歌人で、盲目であったが琵琶の名手であったという。逢坂には古くから関があり、畿内と畿外の境界の関であった。逢坂山はほとんど都の外れの地、蝉丸はそこで世捨て人のように生きていたのだろうか。蝉丸とは本名とも思えないが、音曲の神として逢坂の三つの神社に祀られている。
今昔物語、謡曲、浄瑠璃などに蝉丸が登場しており、貴人に仕えた雑色(下人)、また盲目ゆえに幼少時に棄てられた皇子、盲目の琵琶法師、など蝉丸に関しては、時代によって身分の異なるさまざまな伝承がある。その人物像については定かではないが、いずれも盲目で琵琶の名手であったという点では共通している。
新古今集にも蝉丸の歌が二首載っているが、そちらの歌はあまり知られていなくて、蝉丸といえば、これやこの、の逢坂の歌が有名である。百人一首に入ったことにより、世に知られ、その名も後世に残ったのであろう。
繰り返しこの歌を呟いていると、何やら呪文のような響きが感じられる。反復、対句によるものだろう。「も」が四回使われているのは多すぎるような気がするが、一度聞いたらこのリズムが心のどこかに残ってしまうような面白い感覚があって、妙に印象が強い。
逢坂の関とはどのような所なのだろう。また、神となって社に祀られている蝉丸とはいったいどういう人物なのだろう。
地図で見ると、蝉丸の名を冠した神社は分社、上社、下社とそう遠くない場所に並んでいる。逢坂は万葉集にも詠まれた歌枕の地、今日は蝉丸ゆかりの地を歩いてみることにする。
逢坂の関は滋賀県大津市にある。逢坂山は畿内と畿外の境界に位置している。山城と近江の境といえばわかりやすいだろうか。逢坂には古くから関が設けられていた。さらに古い重要な関としては愛発(あらち)関(越前)があり、こちらは藤原仲麻呂の乱の折にも登場するが、(愛発関を塞いで、越前に逃れようとした藤原仲麻呂の退路を絶った)平安前期になって愛発の関が閉じられると、代わりに逢坂の関が使われるようになり、不破の関(美濃)、鈴鹿の関(伊勢)と並んで三関と呼ばれるようになった。
枕草子にも、関は、逢坂、須磨の関、鈴鹿の関、とその名が挙がっている。きっと賑わいも趣のある所だったのであろう。
蝉丸神社 分社
降客もまばらな京阪京津線大谷駅に降り立った。見回すとそこには静かな集落が開けている。山間部であるが、ほとんど山道を歩くこともなく、目の前にもう神社のものらしい石段が見えていて、それが蝉丸神社分社であった。小さな村の鎮守社という感じを受ける。
境内の碑には、前述の蝉丸の歌が刻まれていた。蝉丸神社はここ以外に上社、下社の二箇所あり、ここが一番新しく十七世紀に建てられていて、上社、下社は十世紀の建立であるという。それぞれ蝉丸、猿田彦命、豊玉姫命を祭神としている。
蝉丸は音曲芸道の神として、また猿田彦命、豊玉姫命(玉依姫と同様、神に仕えた女性の名か)は、峠や道の神、境界を守る性格を持つ神として祀られているようだ。分社は蝉丸が主祭神で二神が合祀され、上社、下社は逆に猿田彦命、豊玉姫命が主祭神で、蝉丸が後で合祀されたのだそうだ。
三つの神社はほぼ道沿いに並んでいて、そう離れてはいない。なぜ近接して蝉丸神社が三社もあるのかと素朴な疑問も湧いてくる。上社と下社は、逢坂の関趾を越えた坂の向こう側にあってここからは見えない。
分社はひっそりとした雰囲気で、人の気配もなく、静まっていた。建立年でいえばここが一番新しい。あるいは蝉丸の庵跡なのでそのことに因んで集落の人々が社を建てたのかとも思ったが、神社の由来には、それに関しては何も書かれてはいなかった。
小さなお社であるが、神楽殿が設けてあるのはさすがだと思った。ここで琵琶の演奏や能が奉納されたのだろう。
今昔物語 巻第二十四 「源博雅(ひろまさ)の朝臣、逢坂の盲(めしい)の許(もと)に行きたる語(こと)」を少し見てみよう。
・・・・今は昔、源博雅朝臣という人有けり。延喜の御子の兵部卿の親王と申す人の子なり。管絃の道になむ極めたりける。琵琶をも微妙に弾きけり・・・・。
この時に、会坂(おうさか)の関に一人の盲(めしい)庵を造りて住みけり。名をば蝉丸とぞ云ける。此れは敦実(あつみ)と申しける式部卿の宮の雑色(ぞうしき)にてなむ有ける。
其の宮は、宇多法皇の御子にて、管絃の道に極まりける人なり。年来琵琶を弾き給ひけるを常に聞きて、蝉丸琵琶をなむ微妙に弾く・・・・。
蝉丸は敦実親王という皇子に仕えた人、それも雑役を務める下人であったが、琵琶の名手であった皇子の弾く曲を耳で聞いて、習い覚えたというのだ。やがて目を患った雑色は都を離れる。源博雅は会坂に住む盲人が琵琶の上手と聞き、京に呼び寄せようと思って使いをやるが、盲人は断りの歌を返してくる。
世の中はとてもかくても過ごしてむ 宮も藁屋もはてしなければ
(世の中はどのように過ごしても同じこと、宮殿も藁屋も所詮は仮の住まいですから)
博雅はそれを聞いて、ぜひ盲人に会いたいと思うようになる。
・・・・琵琶に流泉、啄木という曲あり。此れは世に絶えぬべき事なり。ただ此の盲のみこそ此れを知りたるなれ。構えて此れが弾くを聞かむ。・・・・
仕えていた皇子が亡くなり、琵琶の流泉、啄木の秘曲を知るものは、雑色の盲人だけになった。博雅はぜひ秘曲を聞きたいと願って、夜な夜な会坂に通っていき、庵の近くで耳を澄ますが、蝉丸はその曲を弾くことがなく、空しく三年の月日が過ぎていった。そして中秋名月の夜がきて、盲人は琵琶を取って弾き始め、独り言をいう。
・・・・哀れ、興ある夜かな。今夜心得たらむ人の来かし。物語せむ。
それを聞いた博雅は名乗り出て、ずっと庵に通っていたことを明かす。
・・・・盲此れを聞きて喜ぶ。博雅も喜び乍(ながら)、庵の内に入りて互いに物語などして、博雅、「流泉、啄木の手を聞かむ」といふ。盲、「故宮はかくなむ弾き給ひし」と件の手を博雅に伝えしめてける。博雅、琵琶を不具(ぐせざ)りければ、ただ口伝を以て此れを習ひ、返す返す喜びけり。暁に返りにけり。
・・・・蝉丸賤(いや)しき者なりといえども、年来宮の弾き給ひける琵琶を聞き、かく極めたる上手にて有けるなり。其れが盲に成にければ、会坂には居たるなりけり。其れより後、盲の琵琶は世に始まるなりとなむ語り伝えたるとや。(今昔物語)
蝉丸は身分が低かったが、親王の琵琶を聞いて習い覚え、琵琶の名手となり、目を患ったのちは逢坂に移り住んだ。博雅は噂を聞いて三年も逢坂に通って機会を待ち、ようやく蝉丸から念願の秘曲を習ったというのである。その熱意や、身分にかかわらず、名手に教えを請おうとした態度が、音曲の道に励もうとする人のいわば美談めいたものとして紹介されている。
「月少し上ぐもりて、風少し打ち吹たる夜・・・・」名月の晩に、静かな空気を震わせて最初の琵琶の音色が響き渡り、博雅は思わず「これを聞きて、涙を流して哀れと思ふ」のである。
蝉丸の質素な住まいが、この辺りに建っていたのだと勝手に想像してみる。庵といってもおそらくは一間で、簡素な室内で、屋根も藁でかろうじて雨露を防ぐような粗末な拵えであったのだろう。けれども月の美しい夜に、琵琶を弾くにはいかにもふさわしいような静けさに満ち、深い樹木に囲まれた庵には白い月の光が差し込んでいたという気がする。
境内にたたずんで見回すと、辺りには人影もなく、神楽殿を風がゆるく吹き抜けていくばかりであった。
境内の一隅には、旧街道の「車石」の一部が、今も保存されていた。近寄って眺めると、これは切り石を掘り窪めて溝を作り、荷車が通りやすいようにした装置で、大津から京の都まで敷かれていたという。雨が降れば道はぬかるむ。こういう工夫があれば助かったに違いない。窪んだ形のレールが通っていた、といえばよいのだろうか。それは江戸時代のものと説明されていた。すり減ったその敷石の一部や轍の跡をしばらく見ていた。
往時は人馬の往来で活気があり、茶店も何軒かあって大道芸人なども立ち、峠は賑わいをみせていたことだろう。なんといってもここはかつての東海道なのである。
分社を出て、峠を目指して歩いていく。今はほとんど人通りもない道であった。進んでいくとほどなく国道一号線との合流点に出る。国道に近づくなり様相は一変した。
国道にはびゅんびゅんと車が行きかっている。峠は切通しになっていて、両側の山はかなり切り崩されており、昔の面影もすっかりなくなってしまったのだろうが、とにかく交通量と通り抜ける車のスピード、その騒音の激しさに圧倒されてしまった。絶え間ない騒音に気持ちが落ち着かない。
現代の逢坂の峠は、ちょっと道路の向こう側に走って渡るのも恐ろしい場所に変貌しており、絶えず左右に気をつけていないと交通事故に遭いそうな所であった。ここはゆっくりと古を偲び何かを思うという場ではないようである。
見ると峠には、逢坂常夜燈と彫られた古風な石灯籠が、目立つところにちゃんとあった。それは江戸時代のものであった。
そして峠の頂上部の辺りには、「逢坂山関址」の石碑が建っていた。近づいて碑を眺めていると、すぐ背後を大型トラックが掠めていく。風圧を感じぞっとした。本当の関の位置は確かでなく、ここにあったのではないらしいが、峠の上なので象徴的に碑を設置したのであろうか。何かしらここは長居をしたくない不安と身の危険を感じる場所であった。
峠や四辻、集落の境界、国と国との境、そういうさまざまな人が行きかうところは、人や物だけでなく、古来厄災や目に見えない魔ものも侵入しやすい場所と考えられ、怖いところであったという。村の入り口に塞ノ神やお地蔵様が祀られたりするのもそのためである。今逢坂の峠の上に立ってみて感じる恐怖は、単にトラックにはねられるという心配だけでなく、古人が境界や峠に感じていた潜在的な、目に見えない魔への恐怖も加わっているのかもしれないと思う。
次に逢坂の関を詠んだ歌として、知られているものを二、三挙げておこう。
はじめの歌は、罪人として流された人が詠んだ歌である。三首目はあまりにも有名であろう。
我妹子に逢坂山を越えて来て 泣きつつ居れど逢ふよしもなし 中臣宅守
(万葉集巻十五)
逢坂をうちいでてみれば近江の海 白木綿花(しらゆふばな)に波立ちわたる
(万葉集巻十三)
世をこめて鶏の空音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ 清少納言
(百人一首)
蝉丸神社 上社
峠を越え、ゆっくりと大津側へと降り始める。歩道が設けられておらず、かなり急坂であった。あいにく曇り日で琵琶湖は遠望できず、行く手には密集した大津市内の町並みが、折り重なって見えているのみであった。道は左手に大きく回り込み、その間にも次々と猛スピードの車が背後から近づいてきて、そのたびにはっと緊張させられる。
やがて左手の山側に蝉丸神社上社の灯籠が見えてきた。しばらくこの国道から離れられると思いほっとする。
神社の石段を登っていくと、そこには思いがけず静謐な空間が開けていた。鳥居があり、それをくぐるとさらに石段が山に続いている。さっきの分社にもあったが、ここにも古い神楽殿があり、さらに石段がのびている。奥まで上り詰めるとやっと小さな古びたお堂にたどり着いた。山の斜面を利用する形で参道が造られたお社であった。
お堂はほとんど手入れもされておらず、細工も剥落して色あせその一部は風雨に傷んで崩れかけたところもあるが、私はこういう古い雰囲気を持つ建物が好きである。
しばらく座って落ち葉の積もった石段を眺めていた。羽虫が顔の周りを飛び交い、蜂の唸りも遠く近く聞こえ、点々と落ちた椿の花が石段に散ったまま干からびて枯れている。少し山に入り込んだせいで車の騒音が遠のき、道を隔てた向こう側には緩やかな山の緑が広がり、それを見ていると、気持ちが和んできた。
蝉丸が、皇子として生まれたが、盲目であるため逢坂に遺棄されたという伝承があることを前述したが、(能の「蝉丸」では棄てられた盲目の皇子と放浪する逆髪の姉が登場する)調べてみると、その伝承に近い皇子は実在の人であった。
第54代仁明(にんみょう)天皇の第4皇子に、人康(さねやす)親王という人がいる。同母兄の時康(ときやす)親王は、後に光孝天皇となっており、人康親王も高位についていたが、目を患ったため、出家して山科に隠棲し、山科宮人康親王と呼ばれたという。
伊勢物語 第七十八段にも「山科の禅師の皇子」として登場し、在原業平とも親交があったように作中では描かれている。
実際皇族の人たちが珍しい庭石を人康親王に贈って庭園に置き、親王の心を慰めたようである。親王が手で石に触れ、水をせきいれて流れる音を楽しめるようにしたのだろうか。また親王は琵琶の名手であったと伝えられている。
親王は琵琶を盲人たちに教え、蝉丸はその弟子の一人であったともいわれているそうだ。人康親王の死後、その徳を偲んで親王は琵琶法師の祖神として祀られるようになったというのである。山科の邸宅跡には親王の碑があり、そこには蝉丸の名も刻まれているという。
幼少時に、盲目ゆえに父の帝の命で逢坂に棄てられた薄幸の皇子、という蝉丸伝承とは少々異なっているが、蝉丸の伝承の一つに、琵琶の上手な山科の人康親王の姿が重ねられているのかもしれないと思う。山科は逢坂とそう遠く隔たってはおらず、逢坂の西に当る。
蝉丸神社 下社
蝉丸神社上社を出て、再び国道に降りる。坂を下っていくと、ちょっと道がわかりにくくなり、迷いそうになったが、下社を見つけることができた。
神社のすぐ目の前を京阪電車の線路が横切っており(遮断機はない)、お参りは線路を踏み越えて入るのである。こういう神社は珍しいのではないかと思う。ぼうっとしていると、がらがらと音を立てて電車が不意に現れ、横切っていった。至近距離であった。逢坂の峠の上も車が恐かったけれど、ここもぼんやり者にとっては危ない場所であった。
他の二社にあった石段がここにはなくて、そのまま境内に入ってみると、なんとも古く美しい神社である。線路際の石灯籠には関清水大明神とあった。
逢坂の関の清水に影見えて 今や引くらん望月の駒 紀貫之
と刻まれた歌碑があり(これは行事を詠んだ歌という)、もう一つの歌碑には、
これやこの行くもかえるも別れつつ 知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸
とあった。百人一首では別れても、であるが、ここの碑では別れつつ、になっていた。こちらのほうが元の歌なのであろう。
やはりここにも神楽殿があった。三社を巡ったが、ここが一番立派な舞台を持っている。境内も他にくらべれば広い。今は全体にくすんだ色になっているが、かつては多くの見物人が見守る中、この舞台上でゆかりの能が演じられ、琵琶の秘曲も奉納されたのであろうとその様子を思い浮かべてみる。
普通蝉丸神社といえば、この下社のことを指すのだそうだ。この神社は室町時代から江戸時代にかけて、音曲芸道に関する免状を発行していたという。一種の興行権で、その免状と関の明神の縁起由来を記した巻物を手に入れた人々は、全国を流浪して芸を見せ、説教節を語ったという。
神社は町中に位置しているためか適度に人の賑わいも温もりも感じられ、近接する町の雰囲気とうまく溶け合っている。親しみやすい感じであった。
奥にある本殿へと向かう。そこは回廊でぐるりと巡るようになっていて、合格祈願やピアノ、ギター上達などを願う現代の子供たちのたくさんの絵馬が掛かっていた。
ここで少し能「蝉丸」の世界をみてみよう。
・・・・延喜帝の第四皇子、蝉丸の宮は生まれながらの盲目であった。父の帝は清貴(きよつら)に命じ、皇子を逢坂山に棄てさせる。哀れみながら清貴は皇子を剃髪して僧形にし、服を着せ替え、蓑と笠と杖を与える。皇子は盲目の身は前世の報いであり、この世で善根を積むことで良い来世が得られる、という父帝の気持ちをくんで、誰も恨むことはしないという。宮殿は藁屋に、衣服は蓑に、そして従者も都へと帰ってしまい、残った供は杖一本となった。一人になると寂しさに耐えかねて、蝉丸は琵琶を抱えて泣き悲しむのだった。
・・・・皇子は後にただひとり、御身に添ふものとては、琵琶を抱きて杖を持ち。臥しまろびてぞ泣き給ふ。臥しまろびてぞ泣き給ふ。
一方延喜帝の第三皇女、逆髪の宮は生まれながら髪が逆さまに生えており、櫛でとかしても髪は下りず、そのためか物狂いとなって都を離れ、人々に嘲笑されながら各地をさまよって歩く。
・・・・今や引くらむ望月の、駒の歩みも近づくか、水も走り井の影見れば、われながらあさましや、髪はおどろを戴き、黛(まゆずみ)も乱れ黒みてげに逆髪の影うつる、水を鏡と夕波のうつつなのわが姿や。
逆髪は、逢坂山までやってきて、ふと琵琶の音色に引き寄せられ、盲目の弟を見つける。二人はつかの間の再会を喜び、互いに身の不運を嘆き合うが、いつまでも留まることはできず、やがて姉はどこへともなく去っていき、弟は一人それを見送る。
(能「蝉丸」より)
悲しい内容である。どこにも救いがなくて、盲目の弟と逆髪の姉という組み合わせも絶望的であるし、悲惨である。この場合の逆髪の姉というのはいったい何を表しているのか、さまざまにいわれるところであるが、一つの説を紹介すると、逆髪(さかがみ)とは坂に祀られる神、坂の神の意であるというのである。逢坂山の神ということであろうか。あるいは坂神に仕える巫女とも考えられ、その髪が逆立つとは神がかり状態の形容だというのである。
琵琶は神降ろしの際に用いられた、いわゆる古代の小型の琴に類する聖なる楽器、そうなると蝉丸も逆髪も神に仕えた古代の人たちの面影を強く引きずっており(古来、体になんらかの障害を持つ人は、その異形、畸形のしるしゆえに、神に選ばれたものとして神に仕えることもあった)この「蝉丸」は逢坂山にいます神、その神に仕えた神人に捧げられた曲という側面も考えられる。
もし彼ら姉弟が神人であったという見方をとれば、ふつう浮かばれない怨念の霊を僧が供養して成仏させてしずまる、という能の多くの筋書きから外れているこの「蝉丸」の不可解な結末の謎も解けてくるのだろうか。
神に仕えた巫女やかんなぎが、僧の読経によって慰霊されるという筋も、この場合不自然であるだろう。いったん神とかかわった者の宿命として、彼らはその役を自ら降りることなく受け入れ、永遠に自分の神とともに生きるしかないとも考えられるのではないだろうか。蝉丸は日々琵琶をかなでて神を呼びおろし、逆髪は神つきによる錯乱を続けて生きるよりほかなく、仮に神から逃れようとどこをさまよい続けても、神に呪縛され、神に魅入られた者の定めは避けようもないということになる。
松本徹著「夢幻往来」異界への道(人文書院)には、蝉丸に関して興味深い記述があるので最後に少し引用してみよう。氏は逆髪の正体をこう見ておられる。
・・・・しかしいまは、逆髪の素性を洗ひ出すつもりはない。おどろおどろしく天に向かって生えのぼる髪は、決してこの世に入れられることのない運命を背負ったものの象徴であるとともに、その運命を生きなければならぬ者の発する、天へのすさまじい抗議の叫びが形象化されたものと、見ておけばよかろう。すなはち逆髪は棄てられた蝉丸の悲嘆を一段と烈しく突きつめた姿なのである。悲嘆が純粋化され、人間のかたちをとって狂い歩いているのだ。 「蝉丸 ゆくもかえるも」の章より
蝉丸についてのあれこれを、本殿にたたずんで考えていた。人物像はやはり謎のままであるが、その歌だけが明瞭な存在感を持ち、聞いたこともないのに、風に乗って流れる幻の琵琶の調べとともに、心のどこかに記憶されていった。
今日巡った三社のうち、印象深かったのは、上社であった。たとえ寂れていても、崩れかけていても、峠の山の神の住まいにふさわしい風格と雰囲気が感じられた。下社は上社に対する里宮としての親しみやすさがあるし、分社は、集落の人々に大切にされている鎮守の趣が漂っていて、それがよかった。実際に歩いてみて、逢坂の関がすっかり現代に呑みこまれてしまっているのがわかって少々残念ではあったが、旧跡を歩いて何かを感じてみる、その土地の持つ遠い記憶と触れ合い、昔日を思ってみる、そういう体験ができた一日であった。