馬場都都古和気(別)神社(陸奥一宮)
八槻都都古別神社(陸奥一宮)
馬場都都古和気(別)神社(陸奥一宮)
八槻都都古別神社(陸奥一宮)
馬場都都古和気神社
東北新幹線新白河駅に降りると、白河の語源が書いてあった。白河の関の下を流れる「白川」説と、アイヌ語で「自分たちの陣地」を指す「シラガー」説とがあるそうだ。アイヌ語説のほうに関心が向き、この地での古の戦いを思いつつ説明を読み、駅前広場に出ると、旅姿で杖を持ち彼方を見つめる芭蕉翁の像もあった。「やや年も暮れ、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ・・・・」「心もとなき日かず重なるまゝに、白河の関にかゝりて旅心定りぬ・・・・」(おくのほそ道より)
翌日、JRバスで陸奥一宮を訪ねることにした。南湖公園を過ぎ、関山口、関辺、古関、と関にちなむゆかしい停留所名が続いていくのを順に目で追っていった。白河の関は少し距離があるため、今回は時間の都合で立ち寄れない。
このバス路線は途中からバス専用道路に入っていくのが珍しい。戦時中、金属供出で国鉄の線路が取り外され、そこに代行バスを走らせたのがはじまりであるとか。いちめんに緑の畑がつづき、畔道を幅広くしたような野中の一本道をバスは進んでゆく。まるで「となりのトトロ」の世界にきたような感じである。
高木、三森(みもり)のあたりにくると、ふっと右手前方にこんもりとした緑の深い森があらわれる。神さびた雰囲気が漂い、鎮守の森かなと思って気になり、通り過ぎる間じゅうずっと見ていた。
磐城棚倉(いわきたなぐら)で降り、陸奥一宮の馬場都都古和気(ばばつつこわけ)神社を探す。土地のかたに訊くと裏参道の近道を教えてくださったが、表参道から入りたいと思ったので、遠回りのほうの道を教わった。神社まで徒歩二十分、少しわかりにくい所にある。
石段を上ると、いきなり目の前の地面にからすが二羽いて、近づいても逃げない。間近で眺めるとからすは実に大きく、その堂々とした様子を見ていると、ここは彼らの世界、侵入者はこちらのほうなのだと気がついた。そっと進んでゆくと、神門の内側にはたくさんの掲示物があった。当社関連の新聞雑誌の切り抜きコピー、印刷物、写真、神社関係のさまざまなポスター、今年届いた年賀状(各地の一宮神社、近隣社)までピンで留めてあり、情報が豊富である。思わず読み耽ってしまい、神門天井に水墨画の龍、とあったので見上げると、天に向かう珠持ち龍と降り龍が描かれていた。部分的に墨が薄れてきているのが惜しいけれども、確かに双龍である。ふつうは天井を気にしないで通るので、この掲示がなければ見逃すところであった。
参道を進む。境内はひっそりと静まり、苔むした参道は掃き清められ、社殿は滴るような緑の樹々に囲まれた湿潤な森の中にある。社殿は桃山時代のものだそうで、古びて荒れつつあるが、そのたたずまいは古社の寂れた美しさをまだ保ち続けていた。背景の森に自然に建物は溶けこみ、ほとんど一体化しているような感じを受ける。誰もいないのに、目に見えないもののひそやかな気配が漂っているような聖空間、精霊の森という印象である。社務所はあるが閉じられており、お参りの人影も見えず、樹木の間から野鳥のさえずりだけが絶え間なく降ってくる。
祭神は、味耜高彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)、配祀は日本武尊(やまとたけるのみこと)。神社由緒によれば創祀は古く、景行天皇の御代、日本武尊が東国鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都都古山(表郷村、建鉾山とも)に鉾を立て祭祀を行ったのがはじまりであるという。その後、坂上田村麻呂が都都古山より神霊を遷し、現棚倉城趾に社殿を造営、相殿に日本武尊を配した。さらに時代が下って十七世紀、棚倉城築城の際に替地を得て、現在地の馬場に遷宮(解体移築)したようである。
日本武尊が鉾を都都古山の山頂に立てたとは、戦勝祈願、あるいは皇軍勝利の後、土地の領有を明らかにした呪術的行為とみていいだろうか。鉾は神の依り代、神座であるので、鉾に神霊を招き寄せ、悪霊を鎮めるなど、祈願や占い、祭事の折によく鉾が立てられたそうで、複数の鉾を用いることも多かったようである。(各地に鉾立山、鉾立て石、鉾立神社などの伝承、地名がある)
都都古山の場合、新たに祭祀権を得た人が地霊を鎮め、とり行った儀式かとも想像できる。おそらくこのときから白河地域は大和王権の支配下に入ったのであろう。新たな神(味耜高彦根神)も地主神として祭祀したようである。
いきさつから推すと、都都古山は特別な山で、先住民の聖地であったかもしれないとも思う。土地には土地にこもる国魂(くにたま)があり、古には国魂を獲得した人が、その地を真に支配できるという考え方があった。祭祀と政事が重なる時代、祭祀権を得た支配者に霊的な力は付与されていく。
帰宅してから調べてみると、バス停から気になって眺めていた高木、三森の辺りが、都都古山神社、都都古山(標高四〇四メートル)の登山口に当たるようであった。知らずにそばを通っていたらしい。都都古山には祭祀遺跡があり、古代の祭祀場であったという。それは東北最大のもので、多くの勾玉、鏡などが発掘されているということであった。またこの地域には古墳も多く築かれていたそうである。
都都古山は古からの神南備山で、みもりは御森、神の坐す森という意味、聖地を指すのであろう。磐座などもあるようだから、先住民が斎いていた古の聖なる山だったのではないだろうか。支配者が替わっても、山で儀式や祭祀が行われ、その後も聖地として祭祀は続けられていったようである。
社号の「つつこわけ」とは聞きなれない名であるので考察してみよう。古くからの土地固有の神、地主神とも考えられるが、「わけ」がついていることが気になる。
「わけ、和気、別」はよく王族、皇子につけられる名で、主として崇神、垂仁、景行天皇の時代に、皇族将軍として各地に遠征した皇子たちが、そこで領地を得て支配者となり、その子孫にもつけられることが多かったようである。古代の天皇にわけの名を持つかたは複数おられるが、おもに天皇の位には上らなかった皇子たちの称号に別、和気が多くみられるようである。
・・・・七十余の子(みこ)は、皆国郡(くにぐに)に封(ことよ)させて、各々(おのおの)其の国に如(ゆ)かしむ。諸国(くにぐに)の別(わけ)と謂(い)へるは、即ち其の別王(わけのみこ)の苗裔(みあなすえ)なり。(日本書紀 景行紀)
記紀には崇神から垂仁、景行天皇の時代、王族、皇子たちは軍を率いて各地に向かったと記述されている。四道将軍の伝承、日本武尊の遠征などがそうである。そしてその足跡を示すかのように「わけ」のつく神社は、たとえば伊豆、陸奥の地域でみれば、合わせて約十数社あるといい、それは大和による王権支配が、東国にまで及んでいった時期とも重なっているという。
つつこわけに類似した王族の名前がないだろうかと、古事記の系譜をみていくと、開化天皇の孫に大筒木垂根王(おおつつきたりねおう)という人がいた。山城国綴喜(つづき)郡、現京田辺市(後の継体天皇筒城の宮もここにあった)に当たる地域を支配していた人で、娘の迦具夜比売(かぐやひめ)は垂仁天皇の妃の一人になっている。
(余談だが、山城地方は現在でも竹林が多く、日本有数の筍の産地、またかぐや姫ゆかりの地ということで「竹取物語」の舞台地ともいわれている。古語で星をつつというのだが、この場合、大筒木王のつつきとは筒状の木で竹のこと、垂根はしっかりと広がる根の形状であるとされている。竹は成長が異様に速いため神秘とみられ、内部が空洞なのでそこに神が宿ると考えられたそうである。同地には月神を祀る月読神社もあり、竹取物語の内容といろいろ関連づけて考える説がある)。
この大筒木王には、大筒木真若王(おおつつきまわかおう)という名の親族(甥か)もいたようである。勝手な憶測だが「つつき」が「つつこ」へと転訛した可能性もないではない。そう主張する論拠はないし、そして別の親族かもしれないけれども、つつきの名を持つ王族の「つつこわけ王」が、古にこの白河の地に来て支配者となっていた可能性もあるかと思うのである。その人は日本武尊とともに従軍してきたのか、あるいはそれ以前に先遣として来ていたのか、それとも日本武尊の後にここを任されたのか、経緯はわからないけれども・・・・。
付け加えておくと、京田辺市にはここと同様に棚倉、鉾立という地名があり、棚倉孫(ひこ)神社も存在している。棚倉とは本来は穀物を収蔵する倉庫の意味だが、古の綴喜郡では、渡来系の人たちによる養蚕が盛んに行われた時代があったらしく、蚕(天の虫)を飼う棚をしつらえた倉のことを棚倉といい、神聖なものと考えられていたたそうである。
先ほどバスを降りたのが磐城棚倉という地名であったことと思い合わせ、「つつこわけ」という神社名から想起し、京田辺市にも当地にもある「棚倉」「鉾立」という共通地名、また大筒木王の系譜伝承(古事記による)など、当地と大和の王権とのつながりについてあれこれ推測してみた。
都都古和気神社の由緒からみると、古にはここは先住のアイヌの人たちと皇軍との間で戦があったとみられる。なにしろあまりにも古代の出来事であるので、勝手な想像ということになるのだが、都都古山には先住民の崇めた地霊、山の神霊、多くの霊が鎮められたような気がする。それら先住の神々の名は、時代を経て新来の神の名に吸収され消えてゆき、あるいは別の名へと変わっていったかもしれないが・・・・。それでも土地の神々は今も当地のたとえばここの森とか、都都古山のどこかに、とどまっているような気がするのである・・・・。なにはともあれ、往時敗北した先住民の一団は、さらに北方へと逃れるしかなかったであろう。そしてここはさらに皇軍が北へと向かう前線基地となってゆくのである。
祭神の味耜高彦根命についてみてみよう。この神は出雲系の神で、大国主の子、農業神、水神、(蛇体の神とされる)大和葛城で祀られている(高鴨神社)。この神が登場する場面があるので、古事記から少し引用してみよう。
・・・・下照姫は大国主の娘であったが、高天原から葦原中国平定の命を受けて降ってきた天若日子(あめのわかひこ)と結婚する。若日子は地上に留まり、高天原に復命せず背いたため、天からの返し矢で殺されてしまう。嘆き悲しむ下照姫の泣き声が風に乗って天に届き、若日子の死を知った家族が降りてきて、喪屋を造り葬儀を行った。下照姫の兄、阿遅志貴高日子根(あぢしきたかひこね)の容貌が若日子に酷似していたので、若日子の父母は息子が蘇ったと思って喜び、取りすがったので、阿遅志貴高日子根は不吉なこととして怒り、剣で喪屋を切り伏せた後、天に飛び去った。その兄の名を明かすために、下照姫はこのように歌った。
天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の項(うな)がせる 玉の御統(みすまる)御統(みすまる)に あな玉はや み谷二(ふた)わたらす 阿遅志貴高日子根(あぢしきたかひこね)の神ぞ (古事記)
(天においでになる織姫が首にかけておられる玉の首飾り、その首飾りの穴のあいた玉のように光っています。でもあれは、谷ふたつを光り輝かせてお渡りになる、あぢしきたかひこねの神でございます)
この歌でみるかぎり、味耜の神は夜空に輝く星とか、あるいは虹とか、天空の美しいものを想像してしまう。味耜高彦根の父は国土開拓の大国主命、母は宗像三女神の多紀理毘売命である。神名に味耜とある通り(あじは美称、すきは農具の鍬)農業の神として信仰されている。あるいは雷神(雷雨は農業にとって恵みである)とも。
陸奥一宮はもう一社あるので、ここを辞して八槻都都古別神社へ向かうことにする。静寂に包まれた境内を降りていくとき、小鳥のさえずりに混じってほととぎすの声が頭上から立て続けに聞こえてきて、思わず耳を傾けてしまった。ほかの鳥にくらべて鳴き声が大きいので、印象が強いのである。合間にひよどりの鋭い声も響き渡り、その姿も見かけた。ひよどりは私の住む近畿地方では、冬の間中ずっと柿をついばんだりしているので見慣れているが、この季節(六月)になると、渡りに入るのか見かけなくなる。でもここでは盛んに鳴いている。なんとなく懐かしい思いで久しぶりにひよの姿を眺めたのだった。
八槻都都古別神社
JR磐城棚倉へと急ぐ。水郡線の昼間の運行は少なく、これを逃すと四時間ほど列車はないのである。ようやく間に合ってほっとし、二駅先の近津駅に降りた。めざす陸奥一宮の八槻都都古別(やつきつつこわけ)神社へは、南へ徒歩十五分ほどである。近津川を渡り、涼しい風が木陰を吹きぬけていく神社脇の道を進むと鳥居前に出る。
境内は広々としていて樹木も多い。神門、社殿は落ち着いた丹塗り、古びてきてはいるが装飾や彩色にどこかかすかに桃山時代の華やぎが感じられる。神社は平地にあり、住宅やコンビニ、道路が近いため、先ほどの馬場都都古和気神社ほど俗塵を離れた感じはしないけれども、境内の雰囲気はどこか似通うものがある。
祭神は味耜高彦根命、配祀は日本武尊。馬場のほうの神社と同じ、創祀伝承もほぼ同様である。社伝によれば、日本武尊が東征の折、八溝山の蝦夷の将と戦って苦戦していたとき、面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)、事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)の三神が出現し、立鉾山より箭(矢)を放ち、その加護により皇軍は勝利をおさめることができた。矢の着いた所に社を建てたのがはじまりであるという。また一説には、日本武尊が矢を放って敵将を射たとき、その矢が着いた所に都都古別神社を創建したとも。
矢の落ちた所に社を定めるとは、矢落(やおち)明神の伝承を思わせる。ご参考までに、矢に関する神社伝承の例を二つほど挙げておく。
大和の矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社(別名矢落明神)の社伝では、神武天皇よりも前に、天磐船に乗って天降ったという饒速日命(にぎはやひのみこと)が、空から地に向けて三本の矢を放ち、二番目に落ちた地に住居(神社)を定めたとされている。放たれた矢はどれも近距離に落ちた。矢田の地で、饒速日天降りの際に先住民と戦いがあったかどうかについてはよく知らないけれども、空から何度も矢を放つという行為は、卜定というより、戦いの様相に近く、その一端を表現したようにも思われる。
また備中一宮の吉備津神社社伝では、大吉備津彦(皇軍)が討伐に来て、鬼神の温羅(うら)と戦った際、互いの矢がぶつかって勝敗がつかなかったが(矢喰宮)、矢取明神が出現し、鬼神の矢を空中で奪取して皇軍を勝利に導いたとされる(矢置き岩)。大吉備津彦(桃太郎の原型という)を祭神とする一宮神社は備前、備中、備後と三社もあり、そのうちの備前、備中の社は近接している。吉備津の伝承は、そこが激戦地であったことを今も伝えていて、吉備津の名を冠した同祭神の一宮神社が三社ある、というのも往時の戦の名残とみてよさそうである。
それでは都都古別神社の場合はどうであろうか。近接して一宮が二社もあり、しかも神社名も祭神も同じ都都古別神社で、地名により馬場と八槻を冒頭に付して区別するのだと聞いていたが、それ以外にもう一社、一宮を名乗る石(いわ)都都古別神社もあるということである。そちらは訪ねていないのでよくわからないが、社号から推すと境内に巨石、磐座が多くある神社のようである。
このように多くの同名古社が同一地域に存在し、それぞれ戦にまつわる由緒を今に伝えているのは、やはり古にあった激戦の痕跡とみていいのではないだろうか。
次に陸奥の国の風土記逸文の記述を少しみてみよう。
・・・・八槻と名づける由来は、巻向の日代の宮で天下を治められた天皇(景行天皇)の時、日本武(やまとたける)の尊(みこと)は、東国の夷(えみし)を征伐しようとしてこの地に着かれ、八目(やつめ)の鳴鏑(なりかぶら)矢でもって賊を射て、お倒しになった。その矢が落ちた所を矢着(やつき)というのである・・・・。
また古老は次のようにも伝えている。昔この地に、八種類の土蜘蛛(つちぐも)が住んでいた。その一を黒鷲(くろわし)という。二を神衣媛(かむみそひめ)という。三を草野灰(くさのはい)という。四を保保吉灰(ほほきはい)という。五を阿邪尓那媛(あざになひめ)という。六を栲猪(たくしし)という。七を神石萱(かむいしかや)という。八を狭磯名(さしな)という。その各々に一族がいて、八箇所の岩屋に住んでいた。この八箇所は、すべて要害の地であった。よって服従することはまったくなかった。国の造(みやつこ)の磐城彦(いわきひこ、土地の豪族であろうか)が土蜘蛛との戦いで敗走した後は、人々を奪い去ることがしばしばあった。
巻向の日代の宮で天下を治められた天皇(景行天皇)は、日本武(やまとたける)の尊に命じてこの土蜘蛛を征伐させなさった。土蜘蛛たちは互いに連携して防戦した。また津軽の蝦夷(えみし)とも連絡を取り共謀して、多くの狩猟用の強弓(ごうきゅう)を、岩城に連らね張り、狩猟用の矢で官兵を迎え射った。それで官兵たちは一歩も進むことができなかった。
そのとき日本武の尊は、槻弓(つきゆみ)と槻矢(つきや)を手にとって七発(ななさ)に放たれ、八発(はちさ)に放たれた。その七発の矢はまるで雷鳴のように鳴り響いて、土蜘蛛以外の蝦夷の一群を追い散らし、八発の矢は土蜘蛛の首長の八人を射殺し倒してしまった。その土蜘蛛を倒した矢は、すべて芽を出して槻の木(けやき)となった。そこを八槻の郷(さと)というのである。ここには役所がある。神衣媛と神石萱の子孫は命を許されて、この八槻に住んでいる。今、綾戸(あやべ)と呼んでいる一族がこれであるという。(風土記 小学館版 逸文 陸奥の国 八槻の郷より)
長く引用してしまったが、注によると、文中の鳴鏑矢は戦闘用の矢ではなく、おもに相手を威嚇するために鳴らす特別な矢で、戦闘開始の合図として使われる矢なのだという。調べてみると木、竹、鹿の骨、金属などを細工して中を空洞にし、いくつか穴を開けたものを矢の先に装着し、射ると高い音が出るという。
古事記には、景行天皇の宮は纏巻日代(まきむくひしろ)の宮といい、その宮殿には立派な槻の木(けやき)があったということである。槻の木は聖樹、霊木、神木のような存在として描かれる。雄略天皇の項にそのことが歌われているので少し紹介しよう。
雄略天皇の宮殿の庭にも大きな槻の木があって天皇がそこで宴をされた折、三重の釆女が盞に葉が落ちたのに気づかないまま、お酒を捧げてしまった。天皇は激怒され、采女はその場で殺されそうになったが、この歌を歌うことによって許され、逆に誉められたという。
纏向(まきむく)の 日代の宮は 朝日の 日照る宮
夕日の 日翔る宮 竹の根の 根足る宮
・・・・新嘗屋(にひなへや)に 生い立てる
百(もも)足る 槻が枝は
上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東(あづま)を覆へり
下枝は 鄙(ひな)を覆へり
上つ枝の 枝の末葉(うらば)は 中つ枝に落ち触らばえ
中つ枝の 枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばえ
下枝(しずえ)の枝の末葉は あり衣(きぬ)の 三重の子が
捧がせる 瑞玉盃(みずたまうき)に・・・・ (日本書紀 雄略紀)
(景行天皇の御代、巻向にあったその日代の宮は、朝日が照り渡る宮、夕日の光りが差す宮、竹の根が満ちる立派な宮でございます。・・・・新穀でお祀りをなさる御殿に生い立っているよく茂った槻の木の枝は、上の枝は天を覆い、中の枝は東のほうの国を覆っています。下の枝は西の方の田舎を覆っています。上の枝の枝先の葉は、中の枝に落ちて触れ合い、中の枝先の葉は下の枝に落ちて触れ合い、下の枝の枝先の葉は、衣を三重に着ますその三重から来た子の、捧げている立派なさかづきに・・・・)
盃に槻の葉っぱが一枚入っていたという不始末を、古の景行天皇の宮にあったという槻の木を誉めることからはじめ、日本の当時の全地域を、景行天皇が支配されたことをたたえて、雄略天皇の治世、今あるこの宮の槻の木につなげて重ね合わせ、みごとにことほぎ歌ったのである。盃に浮いた槻の葉がまるで霊威の象徴であるかのように・・・・。槻の木は古代では神聖視されて斎槻(ゆつき)といわれ、大木となるので宮殿の庭によく植えられ、その下で宴や儀式などがおこなわれたという。
日本武尊が槻の木で作った弓矢で八人の夷敵を射て、そこに槻の木が芽を出して槻の木になったと、「槻の木」伝承が風土記で強調されているようである。それは天皇の支配が遠方にまで及んでいったという史実を、こうした聖樹、槻の木がからむ伝承でもって象徴的に表現しているかとも思われる。逸脱したが八槻という言葉の連想から、記紀の槻の木に関する逸話を思い出したのでそれについても触れてみた。
明治のとき、神社の社格の認定をめぐって、この地では何か揉め事があったそうである。馬場のほうの都都古和気神社が国幣中社と選定されたが、八槻側はそのことに納得せず抗議を続け、結局二社が認められて同格になったいきさつがあったという。近接して一宮が二社もあるのはそういう事情によるそうだ。
ここの境内はかつて神仏習合期には寺院も多く建てられていたようだが、現在は取り除けられ空白地になっている。社務所には神職のかたが常駐しておられるようで、広々とした神社なのに全体に整然として掃除もゆきとどき、お参りの人こそ見かけなかったものの、きれいな神社であった。