第一夜 焚き火
第二夜 冬の日
第三夜 河王
第四夜 水晶川
第五夜 睡蓮
第六夜 秘泉
第七夜 水影
第八夜 砂上
第九夜 白猫
第十夜 聖なる岩
第一夜 焚き火
湖に夕暮れが近づいていた。ぼくは岸辺でテントを設営する適当な場所を探していた。平らで石が少ないところ、できれば立ち木のそばがいい。
枝を張った樺の木を選んだ。その横に、薄いグリーンのテントを開き、草の上に石でペグを打ち込んでいく。張り終えると、ちょうど目の前の湖の向こう側の山に、夕日が落ちていくところだった。湖が赤く染まり、水がゆらゆらと揺れている。光が筋になって水面を滑っていく。何という鳥なのか、頭上を黒い鳥影が掠めていった。
ザックを探って食べ物を取り出す。フランスパンとチーズとウインナーソーセージ、トマト。予備のコンビーフ缶。朝食用のクラッカーも一箱ある。
辺りを見回して適当な枯れ枝を拾い集めていると、ふと人の気配を感じた。振り返るとぼくと同じくらいの年恰好の若い男が立っていた。ぼくみたいにリュック一つで旅をしているようだが、テントは持っていない。何だか元気がない顔をしている。
「やあ」
声をかけると男は頷き、ぼくのテントのほうをちらっと見た。
「一人かい」
「ああ」
「枯れ木を集めているんだね。燃料の」
「そうだよ。今から晩めし作ろうと思ってさ」
半時間後、男が拾い集めてくれた枯れ木を組んで火をつけた。そこで湯を沸かしている間に、フランスパンを取り出し、ナイフでチーズとトマトを薄く切った。コンビーフ缶も開けて、中身をパンに挟んだ。出来上がったサンドイッチを男に手渡すと、男は最初の一切れは遠慮がちに受け取ったが、やがて次々口に押し込み始めた。実際にはどうもかなり空腹だったらしい。
コーンスープの素をお湯で溶いて、男のカップに注いでやった。
火は赤々と燃えていた。湖からは、時折魚が跳ねるのか微かな水音が響いてくる。月が昇ってくると、向かいの山の稜線が、黒く柔らかい曲線を描いて、遠くに連なっているのがくっきりと見えた。
男は暖かいスープと食べ物がお腹に入ると、表情が明るくなり、口数が多くなってきた。それをみてぼくは少しほっとした。
ソーセージを細い木の枝に刺し、焚き火であぶりながら二人で食べる。
「旨いなあ、これ」
男は嬉しそうに口に運び、ぼくの工夫にしきりに感心した。
風はなかった。頭上には無数の星が瞬いている。見上げると天の川がはっきりと見えていた。男とぼくは焚き火の前に座って旅の話をした。これまでどんな町を通ったとか、男は幾つもの地名を挙げていった。知っている町も知らない町もあった。聞きながら未知の土地の情景をぼくなりに想像した。
二人で静かに揺れる炎を見つめていた。焚き火の前に座って時を過ごしていると、そばに話し相手がいるのもいいものだなと思った。向こうも打ち解けてきて、いろんな話をしてくれた。好きな音楽。最近見た映画。聞いていると、ついさっき出会ったばかりなのに、以前から親しかった友人と一緒にいるような気がした。
夜が更けて次第に眠くなってきた。やがて男は草の上に自分の寝袋を広げて、寝る支度を始めた。ぼくは自分だけテントで眠るのも悪いような気がしたので、狭くなることはわかっていたが、男に勧めて、ぼくのテントに一緒に泊めてやることにした。
翌朝はクラッカーにジャムを塗って、熱いブラックコーヒーで朝食を摂った。それとりんごを半個ずつ。男は食べ終えると、夕べからの汚れたカップ類や小鍋を洗い始め、きれいに後片付けをしてくれた。
その日も快晴だった。湖は眩しい陽光を受けて煌き、水は冷たく底の小石が見えるほど澄んでいた。緑の木々を渡ってくる風は乾いて爽やかだった。木陰で寝転んでいると時が経つのを忘れた。
男が話しかけてきた。
「おれ、泳いでくる間、荷物みていてくれないかな」
「ああ、いいよ」
男はその場に服を脱ぎ捨てると、湖へ入っていった。しばらく水際にいたようだが、やがて中ほどまで泳いでいくと、こちらへ向かって笑顔で手を振った。ぼくも片手を上げて応えてやった。やがて男は戻ってくると、水はとても気持ちよかったと、さっぱりした涼しそうな表情で言った。
「ちょっと泳いできたら」
ぼくは昨日、水に入っていないのを思った。
「じゃあ、そうしようかな」
ぼくはテントに入り、貴重品をリュックの中に入れ、水泳パンツに着替えると、そのまま泳ぎに行った。そして男がさっきして見せたのと同じように、浅いところでしばらく水に馴染んでから、ゆっくりと湖の中ほどまで泳ぎ、岸にいる男に向かって手を振ろうとした。
男はいなかった。目を凝らすが見えない。たまたまその場を離れたのだろう、と思った。背後の涼しい木陰にでもいたのかも知れない。ぼくは岸に向かって泳ぎながら目で探し続けた。
岸に上がった。見回すが男の姿はどこにもなかった。男の荷物もない。テントの中を見たがいない。
(どうしたんだろう。急に出発してしまったのだ。ぼくに一言の挨拶もなしに)
変だなと思った。でもじきに戻ってくるような気がした。
(明日、湖の向こう側へ一緒に行ってみよう)
昨晩焚き火の前で、親しくそんな話をしたことが思い出された。
草の上に座ってしばらく待っていたが、いつまでたっても男が現れる気配はなかった。不安になってきた。そのとき不意に恐ろしい予感が閃いて、テントの中をもう一度見に行った。そして置いてあったぼくのリュックを開いてみた。中は乱雑に誰かの手で掻き回された後があった。調べると財布に入れてあった数枚の紙幣がなかった。それは今回の旅のぼくの全財産だった。
呆然となった。俄かには起きたことが信じられなかった。まさかあの男がこんなことをするなんて・・・・。
騙されたとはどうしても思えなかった。ただただ不思議で奇妙な思いだけが心を占め、ぼくはその場に立ち尽くした。現金がなくなっているのに、盗られたことが明らかなのに、まだ心のどこかではそのことをちゃんと受け入れられなかった。お金のことも、何かの間違いであるかのような気がしていた。
(やあ、ごめんごめん)
男が何事もなかったように、ふっとここに現れるような気がしてならないのだった。
どこか気持ちが空ろだった。やりきれない思いのまま、遂にその日は何もする気になれず、そこにぼんやりとどまって時を過ごした。夜になって火を起こし、焚き火のそばで、昨日と同じように闇の中で揺れる火を見つめながら、乏しくなった食料を一人で食べ、改めて昨晩のひと時を思っていた。
翌日、手持ちの食料も尽きてしまったので、力ない手つきでテントを畳み、その場を後にした。ヒッチハイクをしようにも車はあまり通らなかった。たまに通る車に手を上げて合図してみても、無視された。ひどく暗い顔をしていたのだと思う。仕方なくその日は一日中湖添いの道路をとぼとぼと歩き通した。
日暮れ時、木の枝越しに、一筋立ちのぼる煮炊きの煙らしいものを見た。誰かがキャンプしているのだ。そばに車が止めてあった。その焚き火に引き寄せられるようにぼくの足は道路を離れ、再び湖畔に向かっていた。近づくにつれシチューの旨そうな匂いが漂ってくる。耐え難い空腹だった。初老の男が一人、鍋のそばにしゃがんでいるのがみえた。そっと背後から声をかけた。
「こんにちは」
男は振り返ってぼくの姿を見た。二こと三こと言葉を交わすうち、
「ちょうどいいときにやって来たな。よかったら一緒に食わないか」
誘ってくれた。嬉しかった。ぼくはありがたくご馳走になることにして、男に頭を下げた。
シチューは旨かった。男が自分で採ったというキノコがたっぷり入っていて、肉も玉ねぎも柔らかく煮えていた。すっかり体が温まり、自分に起きた嫌なことを一時忘れるほどだった。
「どうしたんだ。お前、何か元気がないな」
実は、と思わず言いそうになったが、うまく話せないような気がした。どう説明しようかと言葉を探しているうちに、つい言いそびれてしまった。
「まあ、若いうちはいろんな目に遭うさ」
男は重ねては訊かず、棒切れで火を掻き起こした。新しい炎が上がる。暖かい火の色をぼくは黙って見つめていた。
男は釣りが趣味らしく、これまでに行った川やそのとき釣った魚の話をしてくれた。休日には一人で色んな所へ出かけていくらしい。
聞いているうちに、まぶたが重くなってきた。もうテントを設営する気力も失せていたから、草の上に寝袋を広げてその中にもぐり込んだ。
頭上には星が瞬いている。細かい星の粒まではっきりと見える。しばらく眺めていた。でも前の晩よく眠れなかったせいなのだろう、ほどなく深い眠りに落ちた。
朝食は男が拵えた。卵を二個ずつ使ってキノコ入りのオムレツを焼いてくれた。熱々の卵料理とロールパンと紅茶を貰った。後片付けはぼくがした。
昨日に続き空は青く晴れ渡っていた。朝晩は冷え込むが、昼間はかっと照りつける太陽が眩しい。まさしく真夏の暑さだった。
「泳いでくる間、ぼくの荷物みていてもらえますか」
「ああ、いいとも」
ぼくは服を脱いで自分の荷物にかけると、湖に泳ぎに行った。財布にはコインがあるだけだった。ズボンのポケットにも小銭が少し。無くなって困るものといえば、時計ぐらいのもので、特に気にすることはなかったのだが・・・・。岸の近くでしばらく泳いだ後、岸に上がった。服を着終わったぼくに男が言った。
「じゃあ、今度は俺の番だ」
男はパンツ一枚になると湖の方に歩いて行った。
湖はきらきらと日の光を反射して輝いていた。周囲には緑の木々が木陰を作り、遠くには山並みが連なっている。辺りには人影はない。一昨日のあの午後と同じように。
そのときふとぼくの視線は、男の脱ぎ捨てた服の上に留まった。ポケットから膨らんだ財布らしいものが、ちらっと覗いているような気がした。見てはいけないものを見ていると思った。でも凝視していた。それからぼくは自分でも何をしているかわからないまま、服を探って男の財布に手を伸ばしかけた。まるで自分じゃない自分がそうしているようだった。心臓がどきどきした。
でも踏みとどまった。ぼくにはできなかった。ただそんなことをしようと思った自分が嫌になった。ぼくはいたたまれないような、恥ずかしい気持ちになって、このままここにいてはいけないように感じた。急いで荷物をまとめると、リュックを背負い、その場から逃げ出すように離れた。
道路に出ると、ちょうどやってきた最初の車に向かってぼくは必死で手を上げた。もう早くここから遠ざかりたかった。トラックは目の前で止まり、運転手が気さくに声をかけてきた。
「よう、乗っていくかい」
ぼくは頷くと急いで助手席に乗り込んだ。トラックはそれから走り続けて町に着き、ぼくを降ろしてくれた。
ぼくは、駅に向かおうとしていた。残った金ではたしてどこまでの切符が買えるか不安だったから、財布を取り出して開けた。そしてその場に釘付けになった。
紙幣が何枚か入っていたのだった。
ぼくは一瞬混乱した。でもそれを見ているうちに、次第に恥ずかしさや、感謝の気持ちや、黙って立ち去ってしまった後悔で一杯になった。あの初老の男はぼくが泳いでいる間に、放り出してあったぼくのくたびれた衣類や薄い財布を何となく見たのだろう。そして空っぽのぼくの財布に小遣いを入れておいてくれたのだ。
できるものなら引き返して、あの男にきちんとお礼を言いたかった。食事を貰ってどんなに助かったこととか、荷物の番を頼まれたのに、黙って行ってしまったことも謝りたかった。でも実際には足は動かなかった。心の内で男に感謝しつつ、ぼくは駅で切符を買い、そのまま列車に乗った。
座席でうとうとしていた。心も体も妙にくたびれている。浅い夢のうちに、一昨日からの出来事の断片が脈絡なく現れ、浮かんでは消えていった。
・・・・ぼくはその日のうちに湖へ引き返し、記憶を辿って男のいた場所へと戻って行こうとしていた。見覚えのある場所に出たが、でももうそこには、車もあの初老の男の姿も見当たらない。一言の挨拶もなく、消えてしまったぼくに対して、何だ、勝手な奴だったなあ、親切にしてやったのに、という思いが、男には生じたことだろう。男はテントを畳み、もう次の目的地かどこかへ、立ち去って行ってしまったのに違いない。すっかり日が落ちた湖のほとりを、ぼくは昨夜の男の焚き火を求めて、いつまでも歩き回っていた・・・・。
第二夜 冬の日
車の中で地図を広げて住所を見た。電話でもう一度確認しようかと携帯に手を伸ばしかけたが、何となくためらった。引越しを依頼してきたのは、若い女だった。
おれは前方に並んでいる住宅の一つ一つを、探るように見た。約束の時間にはまだ余裕がある。
引越しをする家は、門が開いていることが多い。荷物の一部が玄関脇に出ていることもあるし、ごみも普段よりたくさん出るから、どこか他とは雰囲気が違っている。車の音を聞きつけて人が外に出て来て、向こうから手を振って合図してくる場合だってある。
ここかなと見当をつけた。住所は合っているのに、その家はひっそりと静まっている。チャイムを鳴らすと、ほっそりしたロングヘアーの若い女が出てきて門を開けた。
「これだけなんですけど。お願いします」
指差すのを見ると、玄関の土間と上がり口に段ボール箱やら布団袋などがまとめてある。中年の男が奥から現れてその横に鏡台を一つ置いた。
男は奥から更に幾つかの箱や物を持ってきて玄関に並べていく。
小型の旅行カバン、カラーボックス。プラスチックの衣装箱。女物ばかりだった。おれはばたばたと玄関と車を往復して荷物を積み込んでいった。若い女はその作業を眺めている。運び出されていく自分の荷物をぼんやりと目で追っている。
運送の仕事をしていると、色んな家に入るし、部屋を見る。男女の組み合わせにしても、夫婦なのか、恋人なのか、兄妹なのか、親戚なのか、単なる友人なのか、ちょっと見ただけではわからない。最初は見当がつかずよく間違った。
でも場数を踏んでいるうちに、入ったときの部屋の感じや、ちょっとしたやり取り、寄り添っている男女の印象から、何となく関係が透けて見えるようになった。
引越しにもさまざまな背景があって、明るいのもトラブル絡みのもある。暗いのはかなわない。でも引っ越しでこれまでの過去を清算しようとする人は、案外多いものだ。
学生の入学、就職、帰郷、独身サラリーマンの転勤などは比較的気楽だ。でも借金や揉め事や、喧嘩別れを引きずっているらしい「訳あり」の引越しは、こちらも気を遣う。はらはらすることもある。女が泣き腫らした目をしていたり、男が不機嫌だったり、何より客の感情が高ぶっているのは苦手だし、応対にも困る。
目の前で言い争いが始まってしまい、それが延々と続くのでうんざりすることもあった。あまり係り合いたくないから、聞くまいと思うのだが、激しいやり取りやびっくりするような悪態につい聞き耳を立ててしまい、そうなるともう揉め事の内容が筒抜けである。
(この男女は、どうも親子じゃないようだな)
荷物を運びながら直感でそう思った。女は二十代半ば、男は四十代後半くらいか。長年暮らした家族とも違うようだ。全然どこも似ていないし、互いに妙に遠慮し合っている。二人は不自然なくらい口を利かないし、顔も見ないようにしている。室内には何ともいえない微妙な男女間の空気が流れていた。
女はどこか悲しそうな目をしている。まだ別れたくないんだろうな、たぶん。そんなことを考えてると、もう息苦しくなってくる。おれは黙々と仕事をする。
この二人、しばらく一緒に暮らしていたけど、何か事情があって、今回女が出ることになったんだろう。
「荷物これで全部ですね。あの、先に車のほうに乗ってますんで」
最後の荷物を運びながら、二人に声をかけ、その場から逃げ出すように離れた。二人の愁嘆場なんかに立ち会いたくない。
待っていると、思った通りしょんぼりと女だけがやってきて、無言のままちょっと頭をさげて、助手席に乗り込んできた。
車は走り出す。バックミラーでちらっと見たが、男の見送りはなかった。女はまっすぐ前を向いたままだ。こわばった表情をしている。気軽に話しかけるのも悪いようで、引越し先の住所、所番地を地図で確認すると、おれは運転に集中する振りをした。
信号に引っかかってなかなか進まない。カーラジオのスイッチを入れた。ふと横を見ると、女が泣いている。あーあ、と思った。これだから嫌だ。涙で目のふちのマスカラだか、アイシャドウだかが流れている。
ちょうどジャンパーのポケットに、貰ったチョコレートが入っていたのを思い出した。昨日はバレンタインデーで、職場で女の子が配ってくれたものだ。まるで旅行の土産菓子を配るみたいに渡してくる。義理チョコというより、義務チョコなのか。そうまでして皆に配らなくてもいいようなものだけど。どういう女の子の趣味なのか、去年も今年も動物チョコだった。
「よかったら、チョコレート食べてください」
おれは女に勧めた。何か話しかけて元気になってもらいたかったが、おれは口下手なので、何を言ったらいいのかわからなかった。よりによってこんなときにパンダチョコというのもなあと、思ったが、女は小声で礼を言うと、案外素直に口に入れた。空腹だったのかも知れない。
曇り空からちらちらと白いものが落ち始めた。
雪だった。見上げるとどんよりとした雪雲が重く広がっている。女もフロントガラスの向こうに舞い落ちる雪のかけらを見ていた。さりげなく話しかけてみる。
「降ってきましたね」
女は頷く。
「でもこれって積もらないですよね」
女は二つ目のチョコに手を伸ばしている。よかった。チョコレート好きだったんだ。もしかしたら大して好きでもないのかもしれないけれど、とにかくおれの気遣いに対して、気を遣ってくれたんだ。
女は食べながらラジオから流れる軽い音楽に耳を傾け始めた。もう大丈夫だろうな。横目でそっと見ると、涙は止まっていた。
引越し先は、こぢんまりした中古マンションの二階だった。この辺りは集合住宅が立て込んで、おれの職場にもアパートにも近いところだった。
どんどん運び入れていくと、大した時間もかからずに片付いた。大きいものは位置を聞いて壁際に固定して置き、重いものはなるべく奥へ運んでおいた。
(なあ、くよくよするんじゃないよ。あんな中年男、どうせ碌でもないやつなんだろ)
おれは無言の激励をした。仕事が終わって代金を貰い、ドアを閉めるときに見ると、またさっきと同じ沈んだ表情に戻っていた。今にも泣き出しそうな目だった。
次の週に、駅前通りで同じ女を見かけた。通勤途中だったのだろう、肩にかけたショルダーバッグを片手で押さえ、小走りになって駅へ急いでいた。仕事に出かける女の顔だ。めそめそしている様子じゃない。よかったと思った。
一月ほどたったとき、近所のスーパーでまた見かけた。髪を短く切っていたので最初わからなかったが、洋酒の売り場で偶然横に並んだ女があの女だと、おれは気づいた。何やら熱心に選んでいる様子で、女はやがてブランデーを一本手に取ると、そっと籠に入れた。
その後も時折、歩道や商店街や、スーパーで行き合った。おれはそのつど気づいてみていたが、向こうはおれのことは全く覚えていないらしく、気にもしていない。
仕事の帰りに、女のいるマンションの前を通るときには、何となく窓辺からもれる明かりを眺めるようになった。
ある日、若い男と連れ立って、浮き浮きと夕食の支度らしい買い物をしている女を見かけた。二人で仲良くカートを押している。そんな場面に偶然居合わせたことが悪いようで、別に盗み見していたわけでもないのだが、おれは慌てて目を逸らせて二人に背を向けた。
その男とはしばらくは続いていたようだが、やがて男は姿を見せなくなった。やっぱりどこかに無理があったのだろう。何しろあの中年男と別れてまだ日が浅いのだから。
それともその若い男とは、あまり本気ではなかったのかも知れない。女は再び一人でスーパーの籠に、少しばかりの食料品を入れるようになっていた。
男と別れた後は、ひどく顔色が悪くて元気のない様子に見えた。部屋に帰って一人になるのが嫌なのだろう、いつまでもアーケードの中の洋品店や鞄屋、本屋の中で、だらだらと時間を潰していた。そして険しいとも寂しいとも取れる表情で通りを歩いていた。
ある日、急に一つの仕事がおれに回ってきた。住所を見てちょっとびっくりした。あの女のマンションだった。引越しからちょうど一年が経っていた。
行ってみると、既に荷造りが済んだ荷物が室内にきちんと並んでいた。女は一人で荷物を数え、その数は思ったより少なくて、電気製品の幾つかはここにそのまま置いていくらしく、きれいに磨いてあった。管理人が要らないものを皆引き取ってくれるようで、話もついているという。
荷物の宛先には、遠い地方の住所地が書かれてあった。おれの今回の仕事は、この荷物を営業所まで搬送することだった。
女の傍らにはボストンバッグが一つあった。この後そのまま旅に出るような身なりをしており、何の感傷もなく、さっぱりとした表情をしていた。
郷里へ戻ってやり直すのだろうか。それともこの住所地は、新しい男の住所で、そこでまた新しい生活を始めるつもりなのだろうか。
運び出しはごく短時間で終わった。
「じゃお願いしますね」
落ち着いて代金を払う様子にも、この一年で強くなったらしい女の心のありようを感じた。もうチョコレートなんか要らないだろう。
(一年前のおれのこと、もう覚えてないだろうな)
それにしても、今年もバレンタインデーは、またしても動物チョコだった。犬チョコなんか貰っても仕方がない。彼女なし、貰うのは義理チョコだけ。もうため息が出てくる。
お釣りを数えて手渡すときに、ふと女と目が合った。
おれを見て、何か微かに思い出そうとしている様子だった。でもあんまり記憶にないらしい。
(まあ、そうだろうな)
いつも会社支給の同じ帽子、同じ作業服で年中通している。無個性なのだ。誰が誰だかわかりゃしない。皆同じに見えるだろう。
決まり文句の営業用の挨拶をして、くるりと回れ右をする。そのまま進み、階段を下りていく。そんなおれの背中に向かって、上からふんわりとした女の声が、追いかけるように降ってきた。柔らかい声だった。
(チョコレート、どうもありがとう)
慌てて振り返ったが、そこには誰もいない。扉は閉まったままだ。気のせいだったのか。自分の靴音だけが響く階段を、おれはとんとんと下りていった。
第三夜 河王
アフリカのある国に行ったとき、道で話しかけてきた男がいた。
「ワニを見に行く船があるんだが」
「ワニ・・・・」
おれはためらった。
「世界中でここだけでしか、見られない。ナイルワニだよ。それも一匹や二匹じゃあない。河の上流に一杯集まっているところがあるんだ。滅多にない珍しい光景だよ。そこまで客を船で連れて行く。安全だ。絶対に事故は起きない。そこの船着場からもうすぐ船が出るんだけど、行かないか」
多少気持ちが動いてきた。
「どんな船。もしかして客はおれだけとか」
「いいや。他にも客は大勢乗っている。大きな観光船だし、安全対策は万全だ。護衛のために銃を持った人間も乗せていく。今までに一度も事故はない。料金、今日は特別に割り引いとくよ」
迷っているうちに、幅の広い濁った河水が見えてきた。鈍い陽光に川面が光っている。男は歩きながら説明し続けて、巧みにおれを河のほうに誘導したらしい。
「おいおい、おれはそのワニツアーに行くって言ったわけじゃないよ」
男は構わず歩いていく。
「この近くのホテルの中に、とてもうまいコーヒーを飲ませるところがあるんだ。そこで友だちが働いてるから、おごるよ。寄っていこう」
「そんな」
「いいんだよ」
成り行きで男に誘われるまま、小ぎれいな感じのホテルに入った。すぐに香りの高いコーヒーが二つ運ばれてくる。
「ちょっとコーヒー飲んで待っててくれるかい。代わりに手続きしてくるから」
「何の」
「チケットだよ。船の」
「え」
ああ、うまく乗せられたと思った。でもまあいいかと考え直した。これを外すと、野生のナイルワニを見物するなどという機会はないだろう。
「あなたも今からワニを見に行かれるんですか」
隣のテーブルにいた白人の男が声をかけてきた。頷くしかない。
「私たちもなんですよ」
見ると夫婦に男の子二人の家族連れだった。大きいほうは十二、三歳ぐらい、下の子は八歳ぐらいに見える。あの子たち、今から何を見に行くのか、巨大ワニってことがちゃんとわかっているんだろうか。
(あんな小さい子を連れてよく行くよな。子供が川に落ちて、食われる心配しないんだろうか)
でもそういうおれも怖いもの見たさで、金を払って船に乗るわけだった。心理は同じなのだ。
出発することになった。ホテルの庭先から船着場へは、ほとんど道が繋がっている。
ワニの攻撃から客の身を守るために雇われた、ライフル銃を持った男たちが現れた。船着場へ行くまでの道の両側に潅木の茂みがあり、そこからもしワニが不意に出没して、突進してきたときの用心なのだという。
男たちがものものしく銃を構え、客を両側から挟むようにして歩き始めた。お座なりでしてそういるのでなく、真剣な表情である。いつワニが現れても瞬時に撃てるという構えである。
案内人は長い棒を持っていて、前方の草むらを探りながら行く。それを見ていると緊張が高まった。こうまでするからには、きっとここで事故が起きたことがあるのに違いない。
ワニの動きは実に素早いという。人は自分に向かってくるワニを見ると、恐怖で凍りつき、足がすくんでしまって思うように動けないらしい。
そうだろうなと思う。ワニを見てから、仮に全速力で走って逃げたとしても、結局は助からないだろう。ワニは時速五十キロ(それ以上かもしれない)で走れるそうだから。
ようやく船に乗り込んで周囲を見回すと、客はさっきの家族連れとおれだけだった。確かに頑丈そうにできている船だが、どことなく古い船のような気がする。果たしてこれで大丈夫だろうか。
船は濁った河水を掻き分けてゆっくりと遡り始めた。エンジンの音に、鳥が慌てふためいて飛び立っていく。やがて川岸に古材木が何本も並んで見え始めた。
長さは五メートルか六メートルぐらい。汚れた木の色だった。でもそれがワニなのだという。信じられなかった。遠目にはどうみても巨大な丸太だった。木のこぶやごつごつした節、汚れや木の皮目など、見た目は木にそっくりなのだ。
じっと動かない。材木と見分けがつかない。目を凝らしていると、材木と思われたその一本が不意に動き始め、岸を離れて水中に沈んでいったので、やっと納得した。
更に遡っていく。やがて材木の一大集積場とおぼしきものが見えてきた。百や二百ではない。見たところ数百はいるんじゃないだろうか。
流れは緩やかでほとんど池のようなところである。そこにひしめきあっている材木がすべてナイルワニであった。こんなにいるのだ。驚きと興奮と恐怖が入り混じってどう言ったらいいかわからない。
船は近づいていく。一見周囲には無関心なようだが、案外ワニは動く船の存在を気にしているのかもしれない。材木の顔の向きというか、彼らの視線がどうもこちらに集まってくるような気がして仕方がない。そろそろと船が寄っていく。あまり近づき過ぎないようにしているらしい。少しずつ船のスピードが落ちた。当然だろう。
遂に船が止まった。しばらく見物させてくれるらしい。写真を何枚も撮った。背景にワニまたワニ。これは珍しいに違いない。互いに交代してシャッターを押し合った。
「あれが一番大きいね」
「いやこっちかな」
「とにかく、すごいね」
などと言って、指差して眺めているうちに三十分ほどたった。船はずっとそこに止まったままである。
照りつける日差しはきつくて暑くて、いくら珍しくても動かない同じワニの光景なので、次第に飽きてきた。
ふと船内の様子が何か変なのに気づいた。現地語で話し合う乗組員の声の調子が、何か緊張し、困惑したような感じがするのである。外人家族はおれよりも早くそのことに気づいていたらしく、彼らの交わす会話にじっと耳を澄ませている。
「何だかエンジンが動かないと言っていますよ」
「え」
「どこか壊れたらしい」
のけぞった。そういえば船はさっきから風に流されるのか、ゆっくりと同じところを回っている。気のせいか、風向きの具合で回りつつ材木集団に近寄っていくような気もする。
乗組員の表情が緊迫している。しばらくすると一人の年かさの乗組員がやってきて、おれたちに状況を説明した。
「申し訳ありませんが、エンジンが故障して、全く動かないのです」
「直りそうなの」
「わかりません。必死にやっていますが」
材木を見た。もう目が合うほど近くへきている。特に大きいのがじっとこちらを見ている。恐怖で皆押し黙った。
外人夫婦は子供たちを引き寄せ、腕に抱きしめた。子供たちは二人とも怖そうに身を縮めている。
おれはなるべくワニと目を合わせないようにして、家族連れのほうを見ていた。この家族のうちの、誰が言い出したのかわからないけど、船に乗ったことをさぞ後悔してるんだろうな。
夫人のほうは目を閉じ、震えながら祈りの言葉を呟き始めた。全く血の気がない。死の恐怖に直面したとき、人の顔色がこんなにも生気を失って白くなるのを初めて見た。
夫人のちょうど正面にはワニがいた。そして夫人はワニに向かって祈るかたちになっていた。もう脇目も振らずに声に出して祈っている。そばで見ていてそれがよくわかった。真剣な気持ちが伝わってくる。
(助けて下さい。夫と子供たちの命を助けてください。私は死んでも構いません)
夫人は涙ぐんでいる。
(何とかこの子たちだけでも助けてやって下さい。私の命と引き換えにして下さい。お願いです)
夫人が自分の命を投げ出しますと、ワニに誓ったちょうどそのときだった。
まるでそれに応えるかのように、下からふっと唸り声に似た機械音が断続して聞こえた。
辺りの空気を震わせて、聞きなれた振動が体に伝わってくる。一旦途絶えたその音は再び響き始め、段々リズミカルに、そして弾けるように力強くなっていった。
「よかった。助かったぞ」
乗組員たちが口々に喜びの声を上げた。船は恐怖の材木置場からゆっくりとだが、少しずつ身を捩るようにして離れ始めた。
見開いたワニの目玉がやっと遠ざかる。巨大材木群も視界から霞んできて、ただの木切れに近い眺めになってきた。
(ああ怖かったな)
もう全身の力が抜けて床に座り込みたくなった。
危機を脱した乗組員たちは急に饒舌になって、互いに肩を叩き合ったり、声高にしゃべっている。彼らだってよほど怖かったのに違いない。
行きに比べて帰路は早く、流れに乗って船は快調に水の上を滑っていった。家族連れがどうしているか見ると、夫人だけがまだ青白い顔のまま悄然と河を見ていた。
元の船着場に戻った。
行きと同じようにライフル銃で護衛されて無事に庭を通り抜けて、ホテルのコーヒーハウスに帰り着いた。
「やあ、ナイルワニが沢山いただろう。面白かったかい」
テーブルで談笑していたさっきの客引きの男が、おれを見てにっと笑いかけてきた。
「大変な目にあったんだぜ。おれたちが・・・・」
言いかけたとき、不意に後方で誰かの短い悲鳴が上がった。何かがくずおれるような、人が倒れるときのような不吉で大きな物音が室内に響いた。
「ママ、ママ」
甲高い叫び声に、振り返った。床に倒れたのはあの夫人だった。夫がすぐ駆け寄って抱き起こそうとする。
「どうしたんだ。大丈夫か」
「気を失ったんじゃないか」
「いや、心臓発作らしい」
「早く医者を呼べ」
「それより病院だ」
その場は大騒ぎになった。ちょうど運よくホテルに居合わせたのか、やがて泊り客らしい老ドクターが呼ばれてやって来た。ドクターは床に膝をついて屈み込んで、夫人の心臓の音を聞き、脈や瞳孔を順に調べていった。家族が見守る中で、蘇生のための必死の努力がしばらく続いていった。やがてホテル側が連絡したのだろう、救急車が到着して、夫人は病院に搬送されていった。心配そうな顔の家族も、一緒に乗り込んで行ってしまった。
「大丈夫だろうか」
「ああ、助かるといいが」
皆は口々に言っていた。
老医師はずっと視線を落としたままだった。そして誰にともなく、静かに首を振った。
第四夜 水晶川
フレームつきのリュックを背負って、普段着のTシャツと磨り減ったサンダルで海外に出かけて行く。旅先では安宿に泊まる。節約のために移動はヒッチハイクかバスか鉄道・・・・。ぼくが学生の頃、若者の間でそんな旅が流行っていた。ぼくも熱に浮かされたように、外国へ出ていった一人だった。
あれはアフリカのどこかの国だったと思う。
旅先の安宿で賢一や翔太と知り合った。偶然同じ宿に泊まり合わせたのだ。同じ日本人で互いに学生同士、何となく気が合って、男三人でしばらく旅をすることになった。
摂氏四十度を超える日差しの中、風はなかった。暑く乾いた空気が押し寄せてくる。雲もない。何度かリュックを揺すって背負い直した。肩に食い込む荷物が一瞬軽くなるような気がするが、それは錯覚で再び重さは肩に掛かってくる。
低い潅木の茂みの続く森を抜け、小さな集落を過ぎると、視界が開けた。そこに広がっているのは、思いがけず透明な水をたたえた湖だった。賢一が早速地図を取り出し、位置を確認しようとした。
「おかしいな。載っていない」
覗き込んでみた。確かにない。賢一の持っている地図は汗と汚れでぼろぼろになっていた。あまり何度も取り出して眺めるので、折り目が破れ、セロハンテープで繕ったにもかかわらず、そこも裂けてきている。
「案外きれいな水だ」
翔太が呟いた。彼はこんな場合いつも対象に近づいて観察を始める。
翔太が水辺へ歩いていくと、どこからともなく村の子供たちが現れて、興味深そうな顔つきで取り囲んだ。男の子たちはリュックや寝袋にしきりに触れたがる。中を見たがる子もいる。翔太は面倒がらずに相手をしてやっている。真っ直ぐな翔太の髪の毛に関心を示して手を伸ばす子もいるが、彼は触りたがってくる子にはしたいようにさせ、覚えたての現地語を駆使して道を教えてもらったり、食堂や宿屋のありかを訊いたりする。
「ここはどうも水晶湖っていうらしいぜ」
戻ってきた翔太はそう言い、ぼくらはきらきらと日を受けて輝いている湖水を眺めた。
さっきの子供たちは湖に入って、互いに水を掛け合い、笑いさざめきながら遊び始めた。泳ぎの得意な子は岸から離れ、深い場所で潜ったりして楽しそうだ。さっきは気がつかなかったが村の女たちが数人、岸辺でしゃがんで洗濯をしているのが目に入った。
「ぼくらもここで休憩して、ちょっと泳いでいこうか」
翔太が汗を拭いながら言った。
「ああ、そうだな」
「連中が泳いだり、洗濯してるってことは、まあ安全ってことだろうし」
賢一が頷いた。
「交代で泳ごう。先に行ってこいよ。荷物の番してるからさ」
ぼくは二人に言った。
木陰を見つけて荷物を置き、その傍らに寝転んで、ぼくは遠くで泳ぐ二人を眺めていた。
時折アブなのか蜂なのか低く唸る虫がやってきて、ぼくの周囲をしつこく飛び回る他は何事もなく、いつかうとうと居眠りしていた。
バタンと車のドアが閉まる音がして、目を開けると、一人の白人の男がおんぼろの車から降りて、ぼくの方を目指して急ぎ足でやってくるところだった。挨拶も抜きで、男はいきなり訊いてきた。
「きみ、もうあの湖で泳いだかね」
「あ、あの」
突然の問いに口ごもった。
「水に入ったのかね」
「いいえ、まだ。でも泳ごうと思っていたところです」
「ああ、よかった。きみはラッキーだ。いいか、この湖に入ってはいけない。絶対に駄目だよ。この湖には、恐ろしい病原性原虫がいるんだ」
「・・・・」
「それは肉眼では見えない。顕微鏡で調べるとわかるような微生物だ。でも体内に入ると病気を引き起こす」
「この水を飲むといけないんですか。でもちょっと泳ぐ程度だったら」
「飲むのも泳ぐのも危険だ。確かにすぐには症状が出ないかもしれない。でも皮膚を通して体内に侵入し、長い潜伏期間を経て発病する。一度でも泳いだら逃れられない。必ず発病して、おそらく四十歳になるまでに、その人は衰弱して死ぬ」
「まさか」
「嘘じゃない。事実なんだ。実に悲しいことだが」
「じゃあ、遊んでいるあの子供たちも」
「皆長くは生きられないだろう」
「彼らはそのことを知っているんですか」
「私は事あるごとに繰り返し村人に教えてきた。泳いではいけない。飲んではいけない。湖で体を洗ってはいけない。でも彼らは警告を聞いてくれない。そういう私の目の前で、笑って湖に入っていく。ずっと昔からそうしてきているからだ。そして皆確実に四十になる前に死んでいく」
男は深いため息をついた。ぼくは衝撃でろくに口も利けなかった。
「でもきみは幸運な人だ。もう少し私が来るのが遅かったら、きみは泳いでいたのだろう」
男は間に合ったことを喜んでくれた。
「あなたは」
「私は牧師で、もう二十数年ここに住んでいるんだよ。隣の集落のはずれにある教会が、私の住まいだ。教会といっても名ばかりで、手製の小さな木の枝の十字架が屋根に掛かっているだけの、ただの掘っ立て小屋なんだがね。もしも近くを通ることがあったら寄って行きなさい」
牧師はぼくに何度も、ネバー、ネバーと湖を指して語気を強め忠告すると、来たときと同じように車で去っていった。立っていた位置は、ちょうど立ち木の陰になっていて、泳いでいた賢一や翔太の姿には気づかなかったようだ。
しばらくの間呆然としていた。
「おい、どうした。ぼんやりして。早く泳いで来いよ」
濡れた体から滴を垂らしながら戻ってきた翔太の声に、我に返った。
「泳ぐの止すよ」
掠れた声で一言そう言って、それきりぼくは黙り込んだ。牧師から聞いた恐ろしい話を、既に湖で泳いできた二人にはどうしても伝えられなかった。
後ろめたさを感じつつも、忠告に従って、ぼくは湖には入らなかった。
ぼくら三人はそれから下流の方にある川岸の村へと移動していった。牧師に会った日から数日経っていた。
川を見ると村人が川で水浴している。その近くでぼくたちも衣類を洗濯したり水浴びをしたりして過ごした。ぼくも川に入った。あの湖からは離れていたし、もう大丈夫だろうと思ったのだ。
濡れたシャツを固く絞って、木の枝に広げて掛けた。乾かしている間に、賢一が持っている携帯コンロを使って川の水を沸かし、インスタントラーメンを作り、三人で分け合って食べた。残ったお湯でお茶を淹れていると、水浴を終えた少年が通りかかった。もの珍しそうにぼくらのほうを見ている。知る限りの現地の言葉と片言の英語をつなぎ合わせて、彼と会話を試みた。
「ぼくらは日本から来た学生だよ」
「きみは何歳」
「この村の名前は」
「この川はなんと言う川」
たどたどしいやり取りが続くうちに、会話の糸口がほぐれてきた。
少年は笑顔で応じ、背後の流れを指差し大声で言った。
「あれは水晶川」
日本へ帰ってから詳しい地図を調べてみた。広げると畳二枚分ぐらいの大きさになる英語版の地図だった。記憶を辿って指で地名をなぞっていく。
あった。水晶湖を見つけた。そしてぼくたちが数日後に通った町や村の名も確かにそこに載っていた。じっと見ているうちに、ふとぼくの手が止まった。
湖から細い血管のように一本の川が流れ出していた。湖と川は明らかに繋がっていた。同じ名。それは同じ水ということではないだろうか。不意にネバーと繰り返した牧師のあのときの声が耳元に蘇った。それなのにぼくはうっかり水晶湖と同じ水と考えられる川で泳いでしまったのだ。思わず低く呻いた。
湖は地図で見るとぼくらが水浴した地点とはそう離れてはおらず、そしてその川には「水晶川」と記してあった。
賢一は二十代の後半になって、勤めていた会社を辞め、独身の気軽さで再び外国へ出て行った。北米からヨーロッパ、更にアジアへと流れて行き、現地でガイドや皿洗いやウエイターなどの仕事を見つけては、働きつつ気ままな旅を続けていたようだ。
時折簡単な近況を知らせる絵葉書が来ていたが、それも次第に間遠になり、最後に貰った便りは、シンガポールからだった。列車でタイに行くとあった。その後ぱったり葉書は来なくなった。実家のほうにも連絡が入らなくなったらしい。
息子の行方がわからなくなり、心配した彼の両親が現地まで出かけ探したところ、タイ北部の山岳地帯の町で賢一は熱病にかかり、そこの病院で既に死亡していたということだった。
翔太は大学を卒業すると堅実な会社に入り、数年後、社内結婚して子供を二人もうけた。夫婦で共働きをしながら子供を育て、着実な人生を歩んでいるように思われたが、久しぶりに会うと、
「社内の健康診断で、腎臓と胆のうに問題があると言われたよ」
と、こぼしていた。
「とにかくだるいんだよな、体が。無理がきかないんだよ」
力ない声が今も耳に残っている。翔太はその後透析を受けつつ頑張って通勤していたが、次第に悪化して休職し、入退院を繰り返した末に、多臓器不全で死んだ。
賢一の死を聞いたときは、衝撃を受けた。マラリアに似た、原因のよくわからない高熱だったそうで、頑健だった彼があっけなくそれにやられてしまったという。
翔太は苦しい闘病生活を数年続けた後、妻子を残して三十七歳の若さで逝ってしまった。
葬儀の席でぼくは暗澹とした思いにとらわれていた。二人とは帰国後も時折機会を見つけては会っていたが、あの湖のことはとうとう口に出せないままだった。
二人が相次いでこの世を去ってしまったことは、ぼくを打ちのめした。次はお前の番だぞと、いう声が天のどこかから聞こえてくるようだった。
あの湖で泳いだことと二人の死を結び付けて考えたくはなかった。そう決めてしまうのが怖かった。
大体あの牧師の言ったことが、本当だという証拠はどこにもないのだ。ぼくの英語の聞き取り能力だってかなり怪しいものだ。牧師は大げさに言って、呑気な若者をちょっと脅かしてみただけも知れない。ぼくは肯定と否定の感情の間で揺れ動いた。でも心のどこかでは、やはりあの、
「彼らは皆四十になる前に死んでいくんだ」
と悲しそうに言った牧師の言葉を忘れてしまうことができないのだった。
三十代半ばのとき、ぼくは一人の魅力的な女性とつきあって、真剣に結婚を考えるまでになって悩み抜いた。そのとき何となく体調がすぐれない日が続くようになっていたせいもある。結局生涯妻子を持たないことに決め、その女性とは別れることになった。
それ以後ずっと一人で暮らしてきた。賢一や翔太のように、ある日ふっとこの世から旅立ってしまうような気がどこかでしていた。その思いはずっとぼくに取り憑いて離れず、誰にも打ち明けたことはなかったが、ぼくは既に三十代にして、末期の眼でもって物事を見るようになっていたのだった。
でも仕事をしていて人より疲れやすい、ということの他は目立った症状もなく、社内の検診でも引っかかったことはなかった。もっとも一度だけ胃潰瘍になって通院したことがあり、そのときはいよいよおれの番か、と内心で覚悟もしたのだが、翔太のように入院するような深刻な事態には至らず、体調は次第に回復していった。
そしてその後は大きな病気にかかることなく、穏やかに歳月が流れていった。でも最近、時折体の芯に重苦しい感じが起きて、悩まされるようになった。それは年齢からくる年相応の不調というものかもしれないのだが・・・・。
ぼくは今六十八歳になろうとしている。
第五夜 睡蓮
故郷にいる妹から電話があって、亡くなった父母の家の整理をしたい、といってきた。父が数年前に病死した後、一人暮らしをしていた母も逝き、無人になった家をどうするか、考えなければならなくなったのである。
妹が時折訪れては雨戸を開け放って風を入れ、家の周りのごみや落ち葉を片付けてくれているらしいが、人の住まない家は荒れ果てて傷みも早く、寂しいものがあるという。
「人に貸すとか、思い切って処分するとか、考えたほうがいいかもしれない。愛着もあるから、できれば売らずにこのままずっと置いときたいような気がするんだけれど」
妹はどちらかというと人に貸したいような口ぶりだった。
「住みたい人があるなら、貸すのもいいよ」
ぼくは同意した。生活の場が都会にあり、滅多に帰郷しないぼくと違って、妹は結婚後も実家の近くに住んでいて、これまでずっと両親の面倒を見てくれていた。古い家への思い入れも、ぼくよりは強い。ここは妹の意思を尊重するのがいいと思った。ぼくの気持ちの中にも、家族で長年過ごした家を、今売ってしまうことへのためらいがある。
「じゃ細かいこと、相談したいから、兄さんの都合のいいときに一度帰ってきてね」
部屋も片付けてもらいたいし、と電話は切れた。
使っていた部屋にはがらくたを詰め込んだままである。要るものと要らないものを選り分ける必要があった。
早めに夏の休暇を取って、故郷へ帰った。
久しぶりに見る生家は懐かしい。黒ずんだ柱や壁の染み、手すりについた疵にも、子供のころの思い出が一つ一つ蘇ってくる。でも確かに妹の言うように、畳や廊下は歩くたびに沈むところがあるし、階段のきしみ方も音が大きくなっている。
「床が抜けるんじゃないかと思うときがあるの。そこ、気をつけてそっと歩いて」
妹はぼくのために、特にへこみの大きい箇所の床に「注意」と赤で書いた紙を貼り付けてくれていた。妹は細身だが、ぼくは近年体重が増えてきているので、踏み抜かないかと心配したらしい。
「ああ、いやに沈むなあ。まるで蓮の葉の上を歩いてるというか」
恐る恐る歩いていく。
「台所と、兄さんの使っていた部屋が、特によく傷んでるわねえ」
頷く。その通りだった。
このダイニングキッチンで長年、家族で数え切れないほど多くの食事をしたのだ。換気扇の調子が悪いのに、構わず焼肉や焼きそば、餃子、鍋物などをし続けたせいで、天井も壁も油が染みこんでいる。
見回すと冷蔵庫、食器戸棚、テーブル、椅子、テレビ、ビデオまではわかるが、その他に本箱二個、整理タンス、ミシン、ぶら下がり健康器具など、なぜキッチンにこういうものを置かなければならないのかわからない雑多なものがぎっしり並んでいる。そのせいで、床も重みに耐えかねたのだろう。
二階に行ってみる。一部屋はぼくと兄が共同で使っていたが、ぼくらは仲が悪くてしょっちゅう揉め、派手な取っ組み合いの喧嘩をした。兄もぼくも大切に部屋を使うという発想もなく、無頓着でただ乱暴だったのだろう。入ってみるとその汚れ方は際立っていた。
妹は板壁や家具に今も大きく残っている絵の具の染みや落書き、傷跡を見つめる。
「捨てるものは庭に運び出しておいてね。電気は止めてあるから、なるべく夕方までに片付くようにして」
妹が行ってしまうと、早速作業に取り掛かった。
小学校のときの作文ノート。夏休みの工作に作った粘土のペン立て。古い成績表。次から次へと出てくる。よくまあこんなものを捨てずにおいていたものだ。懐かしい思い出だが、今となっては色あせた過去の遺物である。ちらっと見ては手元のゴミ袋に詰めていく。一瞬だけの感傷。流れ落ちる汗を手で拭った。クーラーも扇風機も使えないので、室内は蒸し暑い。
ペットボトルのぬるいお茶を飲みながら、出てきた古い写真を眺める。ぼくと兄が並んで映っている。
小学校四年生の兄と一歳下のぼく。家族でどこかへ出かけた折のスナップ写真だった。兄はこの年の夏に、自転車で横断歩道を渡っているとき、信号無視で突っ込んできたトラックにはねられて死んだ。
一口お茶を飲む。あの頃なぜあんなに兄弟喧嘩ばかりしていたのだろう。テレビの取り合いやゲームの順番、お菓子についている景品のカードや玩具のことなど、今から思えば些細なことばかりだった。兄が親に叱られるときは嬉しくてしようがなかった。もっと怒られるといい。そんな思いで泣きじゃくる兄を見つめていた。
古い机の引き出しを開けて中を見る。奥から玩具の黄色いミニカーが一つ出てきた。
手にとって眺める。これもお菓子の景品で、兄もぼくも互いに競争してこういう小さなものを集めていた。種類の違うものや、だぶっているものを交換して数を増やしていくのだが、それぞれ好みや拘りがあって、あるときこのミニカーを巡って喧嘩になった。
最初取り替えてくれるといったのに、兄は気が変わって惜しくなったのだ。かっとなったぼくは手近にあった乾電池を投げつけ、それは兄の耳を掠めて後ろの壁に当たってへこみを作った。
母がやってきて、乾電池を投げたことを知ると、ぼくを厳しく叱りつけ、原因となったミニカーは兄の手に渡された。よく話を聞いてくれないまま母が兄の肩を持ったことが悔しくてたまらず、翌日ミニカーをここへ隠したのだ。
「おい、黄色いミニカーどこへやった」
「知らない」
「持ってるんだろ。出せよ」
詰め寄られてとっさに言った。
「落した」
「どこで」
「川」
「どこの」
「橋の上から」
兄は怒って、逃げるぼくを部屋の隅に追い詰めて小突き回り、ぼくは噛みついて反撃に出た。暴れ回る物音を聞いた妹が階下へ言いつけに行き、再び見かねた母が仲裁にやってきた。二人して怒られる。
こんなことを、ぼくらは性懲りもなく繰り返していたのだった。
事故が起きたと聞いたとき、兄がどこへ行こうとしていたかすぐわかった。
きっとお菓子を買いに行く途中だったのだろう。ぼくらは景品のほうが目当てだった。もう同じ味ばっかりで飽き飽きしていたのにもかかわらず、景品への執着のためだけにお菓子を買い続けていた。止められなかった。お小遣いをつぎ込んでも足りず、友だちが集めているものを見ると、競争心が煽られてまた欲しくなった。
近くの店でも買えたが、安売りのスーパーが隣町にあった。交通量の多い国道がそこへ行く近道で、兄はその店の一つ手前にある交差点ではねられたのだった。
そしてあれほど熱中していたのにもかかわらず、事故の後、ぼくは景品を集めることをふっつり止めてしまい、あのお菓子からも遠ざかった・・・・。
何とか部屋の片づけを終えた。宅急便で自宅に送るものを選り分け、残りは思い切って捨てることにした。その後、妹と家のことについて相談した。
次の日は一人で墓参りに行った。墓の周辺は日頃妹が掃除を怠らないらしくて、きれいになっている。
それでも来た以上は何かしないと気がすまないので、僅かに伸び始めた雑草を丁寧に抜き取り、散った枯葉を取り除いて、墓石に何度も水をかけた。
石に刻まれた祖父母、両親、兄の名前を見つめる。ポケットから昨日見つけた黄色いミニカーを取り出して、墓前に供えた。しゃがんで手を合わせる。
立ち上がった。このままミニカーを置いておくのも変なので、再びポケットにしまうと、歩き始めた。
照りつける日差しはきつい。墓地は低い山の中にあって、周囲の林からは蝉の鳴き声が重なり合って響いてくる。下っていくと、左手に小さな池が見えた。一休みしようと思いついて、近づいていった。
雑草に覆われた小道を掻き分けていくと、静かな水を湛えた池に、睡蓮が花を開いていた。水の上に浮いている丸い葉の、重なりのところどころに白い花が見える。池の水は重たげな深緑色に淀んで、水面を軽く水すましが滑っていった。
腰を下ろし、ぼんやりと池を眺めていた。片方のポケットに何か硬いものがあるのに気づいて取り出してみると、例のミニカーだった。
しばらく手に載せて見ていた。やがて立ち上がると、池の中に向かってぼくはそれを放り投げた。
緩やかな放物線を描いて、睡蓮の中にそれは落ち、一枚の葉の端にとどまっていたが、やがてゆっくりと底に沈んでいった。
そのときぼくは確かに感じたのだった。
水底で、十歳の兄が両手でそれをしっかりと受け止めるのを。
第六夜 秘泉
ぼくはアジアのどこかの国の山の中にいた。その村には有名な洞窟温泉があると聞いてきたのに、思いがけずひっそりとしていた。寂れきっている。意外に思いながら、やっと開いていた一軒の宿屋を見つけて、中へ入ってみた。古いカレンダーが壁に貼ってあるだけで、何の装飾もない。飴色になった木机の前に座っていた女主人が、物憂い表情で顔を上げた。
「今夜泊まれますか」
「ええ」
「一人ですが」
「ええ」
「幾らですか」
笑顔のない冷たい顔の女主人が、必要なことだけを言った。
他の宿を探すのも面倒なので、ここに泊まることにした。案内された部屋も殺風景であった。荷物を置いて、さっそく一風呂浴びようと思い、さっきの女主人に温泉の場所を訊いた。
「谷の方にあります。外へ出て、石段をずっと降りてください」
相変わらずにこりともしない。言われた通り外へ出て、周囲を見回した。
微かに硫黄の匂いのする風が谷の方から上がってくる。せせらぎの音も聞こえてくる。夕暮れにはまだ時間がある午後だった。
石段はすぐに見つかり、ぼくはタオル一本を肩にかけ、貴重品を身につけただけの軽装で、とんとんと石段を降りていった。石段は途中から不揃いな木の階段に変わり、ほとんど真っ直ぐに谷に続いている。
途中で上ってくる一人の男を見た。入浴を済ませた観光客とも見えた。でも近づくと男は手に何も持っておらず、湯に浸かった後特有の火照ったような顔ではない。日々の汚れが染み付いたような、質素な服装だった。すれ違うときにじろっとぼくの顔を見たものの、会釈する風でもなく、そのまま階段を上がって行った。妙に目の鋭い男だった。
村の人間なのだろう。ここの人はどうも皆愛想がよくないようだ。でもこういうのが普通なのかもしれない。明らかに外国人とわかる人間には、彼らはまず警戒心が働くのに違いない。
硫黄の匂いが急に濃くなってきた。風に鼻を刺す刺激臭が混じっている。川面から盛んに湯煙が立ちのぼっているのが見えた。しゃがんで川に手をつけてみた。確かに水と熱湯が混ざり合っている。熱さと冷たさを手のひらに同時に感じた。大きな岩がごろんと転がっていて、自然にできた洞窟が幾つもあるようだ。
まず手前にある洞窟を見た。天井は低く、洗い場は狭くて薄暗い。中に湯が溜まって湯気が籠もっている。次の洞窟を覗く。やや大きくて外からの光が入っている。その次の洞窟は、道が曲がっていて入り口から中はよく見えない。その隣のもよく似た感じである。そして最後の洞窟は上流のちょっと離れた場所にあった。
不思議なのはどこにも人の気配がないことだった。しんと静まっている。谷には小鳥の声と絶え間ない川の水音だけが響いているのだった。
三番目の洞窟を選んだ。それは入り口から左手に進み、一段下がるようになっていた。少し奥まったところにある。明るいところから急に入って、一瞬足元がよく見えなかったので、ゴムぞうりを履いたまま行けるところまで行った。
服を脱ぎ岩陰に貴重品を置くと、湯に浸かった。目の前に岩が迫っていて薄暗い。暖かい海の底にいるようだ。
ぼくは以前ボルネオ島を旅したとき、旧日本軍が作ったという温泉に入ったことがあった。
それはジャングルの緑の木々の中にあった。横には南国の赤い花が咲き乱れていて、四角い古びたコンクリート製の湯ぶねが青空の下に二つ並んでいた。村の共同洗濯場という雰囲気だった。湯は適温で、村の老人が今でも時折浸かりにきていた。
インドのラジギールという町でも、郊外に天然の温泉があると聞いて入りにいった。
そこは暗い岩風呂で、地下へ階段を下りると、中はサウナのように蒸し暑く、おまけに人で込み合っていた。動くと人の肩にぶつかりそうになる。しばらく浸かっているうちに、熱気でのぼせてぼうっとなってきた。
慌てて戸外へ出たのだが、何しろ内陸部のインドである。普通なら夕方の涼しい風で体が冷えてくるはずなのに、温度は昼間とあまり変わらなくて、むっとするような熱い風が吹いている。埃っぽい道を歩いていると、着ているものが濡れて張り付いてくるほど汗びっしょりになって、そのうち足元がふらついてきた。氷のかけらが浮いているような冷たい飲み物が欲しかったが、そういう店もない。
やっと道端の水道を見つけて蛇口をひねると、生ぬるい水が出てきた。いくら出しても冷たくならない。仕方なくぬるい水で顔と手足を洗い、ついでに頭にもかけて何とか体を冷やしたのだった。
手足を伸ばし、そんな日々のことをのんびり思い出していると、ふと近くで人の足音が聞こえた。誰か客が入りに来たようだ。
そうでもないらしい。足音は少し聞こえては止まる。しばらくしてまた聞こえる。隣の洞窟で足音は止まった後、こちらへやって来た。
何となく足音を忍ばせているようだ。まるで中の様子をそっと窺うかのように。
誰かがぼくのいる洞窟を覗き込んだ。数秒間じっと中を覗いている。何となく緊張を覚え、湯の中で身を縮めていた。洞窟の中は暗いので、外からはよく見えないらしい。でもこちらからは相手が見えた。
さっき階段ですれ違った目の鋭い男だった。その男は次の洞窟へと行ったようだ。
(どうもぼくを探しているらしい。でも何のために)
男が再び戻ってくる気配がした。洞窟から洞窟へと行ったり来たりしている。不審な動きだった。
男は明らかに内部を探っていた。さっき階段の途中で見かけたぼくが、この洞窟のどこかにいるはずだと思っているようだ。洞窟の入り口に脱いである履物をみれば、中に人がいるかどうかがわかる。あの男はひょっとすると一人客を狙って、金品を盗もうとしているのではないだろうか。俄かに心臓が波打ってきた。
思ったより熱い湯だった。じっと浸かっていると、次第に額に汗が吹き出てきた。でも動かないほうがいいような気がした。ここにいることを男に知られたくなかった。男がこのまま諦めて行ってしまうことをぼくは期待した。幸い履物は中にあって、男にはまだ見つかっていないが、もしここまで入ってきて探し始めれば、もうお終いだ。ひょっとして何か武器を持っているかも知れない。
この蛸壺みたいな所で殴り殺されて、裸のまま湯に浮かんでいる情けない姿が浮かんでくる。
男がまたやって来た。見据えるように中を覗き込んでくる。きつい目だ。ぼくは動かずにいた。音を立ててはいけない。
男はやはりぼくのほうを見ている。いや向こうからは見えないはずだ。動いてはいけない。そう思うのにふっと動いてしまいそうになる。熱くて気分が悪い。何だか吐きそうになって来た。頭がくらくらする。でも我慢しなければ。汗が一筋また一筋と額を伝って目に入る。その気持ち悪さに我慢できず、つい手で拭ったとき、ぽちゃんと湯がはねた。
しまったと思った。洞窟の中にその音は籠もって響いた。男ははっと気づいたようだ。
何か小さく呟く声が聞こえた。もう逃げる場所もない。武器になりそうなものも何一つ見当たらない。ぼくは洞窟内の一番奥の大きな岩の間に裸で張り付いたまま、絶望的な気分で入り口を見た。
次の瞬間、棒切れを手にこちらへ寄ってくる男の、見開いた大きな目とかちりと視線がぶつかった。
第七夜 水影
学生時代、ヒマラヤ山麓に旅をした。小さな村に滞在していたとき、ぼくがいつも通っていた食堂があった。宿は村外れにあり、質素な小部屋が数室あるだけで、三度の食事は村の中心部まで出かけなければならない。
食堂まで毎日決まった道を通っていくのだが、その途中に湖があった。水は青く澄んでいて、その水面は白い冠雪の山並を映している。
湖の岸には大抵一人の老人が座っていた。背中しか見たことがないのだが、老人は特に何をするというわけでもなく、一人で水面を見ていた。
一度だけ釣り糸を垂れているのを見て納得したが、次の日見かけると、釣りの道具はなく、老人は同じ姿勢のまま、飽きもせず遠い山を眺めているのだった。
行きつけの村の食堂は、家族で経営していた。夫の名はラムで、妻はドルガ、二人には小さな男の子ラルーがおり、雇われた子守が庭先でその子の面倒を見ていた。
夫は客の注文を聞くと、キッチンにいる妻に伝える。妻はパンケーキを上手に焼いた。たっぷり炒めた玉ねぎの入っているオニオンスープと分厚い水牛のステーキが、この店で外人に人気のある料理だった。レジにはいつもラムの姉に当たる恰幅のよい女性が座っていた。
ぼくは最初レジの女性がラムの妻なのだと思っていたが、そうではなかった。そして終日湖の岸に座っているあの老人が、ラムの父親なのだった。
そういうことを全部、ぼくは食堂の給仕の少年から聞いた。食堂が暇になる午後の時間帯に休み時間があり、少年はそのときに、食堂の裏の広場で、古いボールを蹴ってサッカーのまねごとをし、ぼくと遊ぶのを楽しみにしていた。
「いくら頼んでも、給料なかなか上げてくれないんだよ。ぼくらの給料はラムじゃなくて、ラムの姉さんが決めるんだ」
見習い期間が既に終わり、一日も休まず働いているのに、約束だった給料が上がらないことを少年は折に触れぼやくのだった。
少年はまた一家のいろんな事情も教えてくれた。
「おじいさんは、以前は湖で魚を取ってきて、毎日町へ売りに行っていた。今は食堂で儲かって金持ちになったけれど、あの家はもともと貧しかったんだよ」
ラムには商売の才覚があったらしい。渋る父親を説き伏せて観光客相手の小さな茶店を始めたがった。それにはまず資金が要る。話を聞いた姉が、弟に協力を申し出た。観光に訪れた金持ちのインド人に自分を売り込んだ姉は、そのインド人と首尾よく結婚してカルカッタに住み、僅か二ヶ月で離婚して、村に財産と共に帰ってきたのである。
「初めから計画的だったんだって。すごいやり手なんだよ」
少年は口を尖らせた。
姉が出した資金を元にラムは店を開いた。古い椅子数脚を置いたチャイを飲ませるだけの茶店から、いろいろ新しい外人向けメニュを工夫し、増築して食堂へと店を広げていったのである。
ぼくがあるとき日本人の好物に、「カツどん」という食べ物があると言うと、ラムは興味を示した。
詳しく知りたがるので、どういうものかを説明すると、彼は早速妻と相談して、豚の代わりに安価に手に入る水牛を使ってカツを揚げた。そしてしょうゆの代わりにスープで薄切りの玉ねぎを炊き、卵でとじてカツにかけたものを作ってみせた。丼がないので皿にご飯を盛ってあったが、試食してみると、まあ食べられないことはなかった。
日本語で書いてくれといわれて手近な紙に「カツどん」と書くと、彼は早速メニュに切って貼り付け、日本人客がテーブルに座ると、それを見せて勧めるようになった。そういう工夫を考えるので、この店ははやるのだった。
ラムは料理人や皿洗いの子供、給仕の少年を次々雇い入れ、一家は十分生計が立つようになった。今では村で有数の成功者になったのである。
「でもおじいさんは子供たちのそんなやり方が嫌なんだよ。英語全然できないし、外人が来るの苦手だし、変化についていけないんだ。昔みたいに湖で魚取ってきて暮らしていた頃のほうが、おじいさんにはよかったみたいだよ」
外人客向きに店で流しているロック音楽が、耳に耐え難いと苦情を言い、妙な料理の匂いも気持ちが悪いと嘆き、そのため老人は毎日音楽の届かない湖へ行って、そこで過ごしているのだという。
ぼくはしばらくこの村に滞在していたが、やがてここを離れる日がやってきた。
「いつまたこの村に戻ってくるんだい」
ラムの問いにぼくは答える。
「たぶん五年以内に、もう一度来るよ」
「きっとまた、ここで会おうな」
「ああ、もちろんだよ」
ぼくは日本に帰り、小さな会計事務所に就職して、瞬く間に数年が経った。そしてそこで一緒に働いていた圭子と親しくなって結婚し、男の子が生まれたのだった。
涼がちょうど三歳になったとき、ぼくは再びあのヒマラヤの村を訪ねたくなった。ラムにはあの時つい、五年以内になどと口走ってしまったが、多忙な日々を過ごしているうち、いつの間にかその期間は過ぎ去ってしまっていた。
電車を乗り継いで、通勤に片道一時間半かかる。毎日決まった手順で仕事を片付けて行く。決算期には連日の残業。そういう生活を送っていると、貧乏だが自由気ままに生きていたあの頃が、妙に懐かしくなってくる。考えてみると、村を去ってからほぼ十年の年月が経っていた。
夏の休暇を利用して、圭子と息子の涼を連れ、ぼくはヒマラヤの村を再訪した。初めて目にする雄大なヒマラヤが珍しいのか、圭子は雪嶺を背景に、角度を変えて何枚も家族写真を撮っていた。
村はこの十年の間に少しずつ感じが変わっていた。気の利いた新しい店が増えている。潰れてしまったらしい店もある。自然はそのままなのに、見知った顔が少なくなっていた。
真っ先にラムの食堂へ行ってみると、何と店は跡形もなく消えていた。
店や住居のあったところは雑草の茂る空き地になっており、その変化にぼくは立ち尽くした。何があったのだろう。
近くの雑貨屋に入って事情を聞いてみることにした。ラムの名を出すと、店の主人は頷き、沈んだ面持ちでいきさつを話してくれた。
「もう数年前のことになるだろうか。昼間ラムの食堂の台所で火が出たんだ。最初はぼやだった。小さな火だったから、まずラムが台所へ飛んで行って、大声で使用人を呼び集めたんだ。叫び声がここまで聞こえてきた。皆で必死に火を叩き消そうとしていたらしい。そこで運悪く何かに引火したんだろうな。突然大きな爆発が起きて、何もかも吹っ飛んだんだ」
「それで」
「死んだよ。ラムもドルガも息子のラルーも」
「・・・・」
「ラムの姉さんは入り口のレジにいたんで、怪我ですんだ。じいさんはその日もいつもと同じように湖にいたから無事だったが」
「・・・・」
「店はなくなったが、あの一家は、銀行に蓄えを持っていたようだからね。娘は、親戚にじいさんのことを頼むと、怪我の治療のために、町の病院に入ったんだ。でももっといい治療を受けたいというので、そこから首都の病院に移ったそうだよ。怪我のほうはすっかり治ったんだが、首都の暮らしが気に入ってそのまま居ついてしまったらしい。そこで知り合った誰かと組んで商売を始めたと聞いているが・・・・。じいさんは今でも村で暮らしているよ」
雑貨屋の主人はぼくの横にいる圭子と涼に目をやった。
「ラルーはあの時、ちょうどこの子ぐらいだったな」
よく話をした、あの人懐こいサッカー好きの給仕の少年も、犠牲になったのだという。週日の午後の時間帯で店は空いており、それでも数人の客が巻き込まれて怪我を負ったという。
何と儚いのだろう。彼らと会うのが楽しみだったのに。記憶にある一人一人の顔を思い浮かべ、彼らを突然襲った事故の凄まじさを思って心が沈み込んだ。
翌日、気を取り直して圭子たちを誘い、散歩に出かけた。まだどことなく重たい気分だったが、雪山を眺めつつ彼らのことを思いながら、湖の周りをゆっくり歩いてみようと考えたのだ。
爽やかな空気に触れながら、前方に聳える雪の峰を仰ぐ。湖沿いの小道を歩き始めると、ふと一人の老人の姿が目に入った。
岸に座ってじっと水面を見ている。十年前に時間が巻き戻されたような気がした。思わず近づいていった。老人は外国人が苦手で、英語も話せなかったことを思い出したが、もうすぐ近くまで来てしまっていた。ぼくのネパール語はほんの片言程度だから、老人に何といって悔やみの言葉をかけたらいいのかわからない。
足音に気づいて、老人は振り返った。以前よりも痩せて小柄になっていた。
「ナマステ(こんにちわ)」
老人は確かめるようにぼくを見て、次に圭子と涼に視線を向けた。どこか虚ろな瞳だった。
「お前、ラムか。そっちはドルガで、この子はラルーだな」
老人は亡くした息子と嫁と孫の名を弱々しく口にした。初めて老人のしわがれた声を聞いた。
気の毒に思いながらも、ぼくは穏やかに否定して首を振った。
「あの、違うんですよ」
ぼくの言葉が耳に入らなかったのか、老人は立ち上がり、目を細めて、ラルーか、と呟きながら懐かしそうに涼を見つめた。涼は全く人見知りしない子なので、話しかけられてにっこりしている。
(やあ、やっぱり戻ってきてくれたんだ)
突然どこかから、ラムの声が聞こえてきたような気がして、ぎょっとなった。確かにラムと親しく一緒にいたときの感じが蘇り、ぼくはうろたえてしまった。ラムがすぐ近くにいるような気がする。
「あなた、どうかしたの」
圭子が心配そうに見る。
「いや、何でもない」
「そう。このおじいさんは、私たちを自分の家族と間違えているみたいね」
「うん、どうもそうらしいな」
「きのうあなたが話してくれた、事故が起きて燃えたっていうお店の、生き残った人なんでしょう」
ぼくは頷く。圭子は老人の様子を見守っていたが、そっと言葉をかけた。
「おじいさん、お気の毒に。でもお元気でいてね」
日本語で言ったから意味はわからないはずだが、老人は何となく頷いていた。顔に刻まれた皺は深く、力なく見開かれた目は湖の上をさまよっていく。切なくなった。
大人の話がわからない涼は、水遊びがしたいと思ったらしく、湖を指差して圭子を見上げた。
「ぼく、お水のとこへ行ってもいい?あそこで遊びたい」
「ええ、ちょっとだけならね。でも一人では駄目よ。危ないし服が濡れたら困るでしょう」
ぼくたちは涼に付き添って水際まで下りて行った。水面に対岸の潅木が細長く伸びて映っている。遠くには雪を被った山々が連なり、青い手鏡に似た湖水は、空と雲の色をその面に映し出していた。涼はしゃがんで水に顔を近づけた。
「お魚さんたちいるよ」
「ほんと」
三人で覗き込んだ。風が渡ってきてゆらゆらと水が揺れている。水は透き通って水底の小石まではっきりと見えている。目を凝らした。小魚が泳いでいたが、人の気配に驚いたのかさっと散って逃げていった。
水面に三人の顔がぼんやりとずれて映っていた。少しずつ鮮明に像を結び始める。
思わず息を呑んだ。そのとき水面に映っていたのは、ぼくたち親子ではなかった。肩を寄せ合って微笑むラムとドルガとラルーの姿に他ならなかった。
第八夜 砂上
透明度の高い青い海だった。背後には椰子の林があり、砂浜が白く長く伸びている。ここはアジアのリゾート地として知られている、〇〇島のメインビーチだった。欧米からの客が多く、ビーチには各国の言葉が飛び交っている。
椰子がこんなにも背の高い木だとは、来て実際に見るまで知らなかった。無論小さな椰子も多いのだが、大きいのは二十メートルくらいもある。そばに立って見上げていると土地の人が、
「そこは危ないからね。気をつけて」
親切に注意してくれる。
風に揺れて、一見涼しげにさわさわとそよいで重なり合っている葉影から、不意にラグビーボールのような実が落ちてくるのだそうである。実は硬く、石が落下すると思えばよい。枯れた葉も何の前触れもなく滑り落ちてくることもあって、それは巨大な茶色のこうもり傘が空から降ってくるのに似ているという。
私は驚いて椰子から離れる。
「大丈夫だよ。ここは観光地だし、そんなことにならないように普段からよく手入れしてあるんだよ」
彼は楽天的なので、私が地面に干からびて落ちている、大きな鳥の翼のような椰子の枯葉を見つけて指差しても笑っている。
椰子の実を道端で売っていて、一つ買うと、その場で鎌で叩いて口を開け、ストローを差して渡してくれる。中には透明な液体が詰まっていて、吸うと薄甘く青い植物の味がする。
海岸には、椰子の葉で屋根を葺いただけの、竹のバンガローハウスが幾つも立ち並んでいた。私たちはその一つに泊まっていた。ごく簡単に作られていて、ほとんど砂の上に置かれた大きな犬小屋のようなものである。簡単な鍵はついているものの、窓もドアもほとんど鍵がないのと同じで、野趣に富んでいるが、少々不安でもあった。
レストランは浜辺にあった。簡素な小屋で、潮騒の音を聞きながら食べる。でも食材は豊富だった。魚のバター焼きやえびを茹でたもの、焼きそばにも貝が使われており、大盛の上に安い。私はパイナップルやパパイヤ、バナナ、マンゴなどを切って盛り合わせたフルーツサラダの一皿が気に入って、ほとんど毎日それを食べていた。
その日、昼食に立ち寄ったいつものレストランで、彼は魚介入りの焼き飯と卵スープを、私はサンドイッチとフルーツサラダを頼んでいた。潮風が強く、いくら手で掻き上げても髪の毛が下がってくる。ゴムでまとめていると、ふと誰かの視線を感じた。日本人らしい若い男がちょうど店に入ってきたところだった。
男はどこに座ろうかと見回していた。誰かと相席したかったのだろう。やがて私たちが日本人であると見当をつけたらしく、近づいてきた。
「ここ、座ってもいい」
「ええ、どうぞ」
そんなやり取りの後、男はビーフン炒めを注文し、私たちは三人でテーブルを囲んだ。
注文の皿が来て、当たり障りのない話をしながら食事をする。男はあれこれ質問してくる。
「新婚旅行?」
「あ、いえ、まあね」
私たちは一緒に暮らしているが、入籍はしていない。二人とも仕事を持っていて、年に一度休暇を合わせて、海外のリゾート地に出かけることにしている。でもそんなことを初対面のこの人に説明するのも煩わしい。
「いいなあ。こんな風に旅行できて」
「安いツアーで来たんだよ」
「いつもこの島に」
「いや、去年は × × 島だった」
「へえ。羨ましいなあ」
でも自分のこととなると男はほとんど何も話してくれず、結局一人で気楽に長く旅行をしているらしい人、としかわからないのだった。
食後、男は外国タバコを取り出し、一本取ると火をつけ、私たちにも勧めた。
「これ、**産だよ」
聞いたこともない地名だった。
「はあ、でもぼくら今はいいよ」
「後でぜひ試してみて。ちょうど二本あるからね」
男はタバコの箱を渡しつつ言う。男の吐き出す煙が私のほうに流れてきた。妙な香りのする煙だった。男はゆっくり一本吸い終わると、
「ちょっと失礼・・・・」
そういいながらそっと席を立っていった。トイレに行くような感じである。でもそれきりいつまでたっても戻ってこない。
「遅いね、あの人」
「大丈夫かな」
「もう、どこかへ行っちゃったんじゃない」
しばらく待っていたが、私たちも店を出ることにした。支払いをするときに、当然のように、三人分を要求されたので、あれっと思った。男は自分の分を払っていかなかったのだ。
「珍しいタバコあげたんだから、代わりに食事代払っといてよ、って意味だったんだ」
「まあ」
「ビーフン一皿分だからね。まあ安いもんだけど」
「おごって欲しかったのかしら」
「ぼくらと親しくなりたいような、なりたくないような、何考えてるのかよくわからない人だったな」
次の日の夕方、海岸を歩いていると、また同じ男に出会った。
「やあ」
昨日のことは忘れたようにけろっとして砂浜に座り、沖を見ながらタバコを吸っていた。あまり平然としているので、こちらも何も言い出せなくなった。男はふっと訊いてくる。
「きのうの、あれ、どうだった」
「え」
「二本渡しただろう、あれ」
「悪いけど、実はまだ部屋に置いたままなんだよ」
「そう。あのさあ、ところで一つ、頼みがあるんだけど」
「何」
「預かってくれないかなあ。ちょっとの間だけ。持っててもらいたいんだよ」
「どういうこと」
「だからさ、預かって欲しいんだよ。おれ、そっちへ持っていってもいい?一番端のバンガローっていってたよね。後で、ね、いいだろ」
「そんなこと、急に言われても困るよ」
「頼むよ。ただ預かってくれるだけでいいんだ」
彼が困惑しているのを見て、私が訊いた。
「それって品物なの」
「うん」
「ひょっとして大事なものなんじゃないの。大きなもの」
「いや、小さい、嵩張らないよ」
「じゃ、あなたが持っているのが一番いいんじゃない。それ大切なんでしょう」
男は沈黙した。視線が不安げに動いている。この人はいったい私たちに何を預けようというのだろう。
立て続けに波が来て、波打ち際に立っている私の足元の砂を少し削り取っていった。崩れる砂を踏みしめると、思ったよりも深く沈んでいく。
「悪いけどね、その品物、ぼくらは預かれないよ」
「うん、わかった。ごめんよ。急にいろいろ言って」
男は熱心に頼み込んでいたわりにはあっさり引くと、再び海を眺めながらタバコをくゆらせ始めた。ちょうど夕陽が海に沈んでいくところだった。空も海面も茜色に染まっている。
「ああ、見て。きれいだ。きれいだなあ」
私たちも夕焼けを眺めた。男の声が打ち寄せる波の音に掻き消されていった。
その日、レストランで夕食をとっていると、店の主人がやってきて、まるで内緒話でもするかのように声を潜めた。
「お客さん、これは念のために言うんですが、明日、この島へ本土からポリスがたくさんやって来ることになっています。もしお客さんが何か都合の悪いものでも持っておられたらいけない、と思いまして」
私たちは顔を見合わせた。
「ありがとう。でもぼくらは、法律に触れるようなものは何も持っていないし」
「ああ、はい、きっとそうだろうとは思いましたが。少し気になりましたもので」
店の主人は笑みを残して立ち去った。
店を出るとき、裏口で店の従業員二人が、砂浜に蹲る男の背中を、ひどい言葉で罵りながら、足蹴にしている光景に出くわした。男は無抵抗で体を丸めて堪えている。それは喧嘩とも違う雰囲気だった。
「無銭飲食だよ」
通りがかりの人が私たちに教えてくれた。暗いのでよくわからなかったが、ああ痛え、とか、くそっとか短い日本語が聞こえたので、あの男ではないかと思った。
目を凝らすとやはりそうだった。やりきれない思いがした。男のほうでも私たちの姿を認めたらしく、無言のままこちらを窺うように見た。
店の男たちの制裁は終わったらしく、屈んでいた男はよろけながら立ち上がった。そしてふっと私たちから顔を背けると、痛めたらしい片足を引きずりながら、闇の中へ溶けるように消えていった。
その夜はひどく蒸し暑かった。眠りが浅くて夜中に何度も目が覚めた。そんなときはいつもなら快く響く潮騒が、妙に耳について離れない。横にいる彼は寝息を立てて熟睡しているのに、砕け散る波の音に眠りを妨げられ、私はぼんやりとした闇の中で、夢とも現実ともつかない時間の中を漂っていた。
夜更けに、影のような誰かの微かな足音が近づいてくるのを感じた。その人は足音を忍ばせて、私たちのバンガローを目指してやってくる。窓辺に来て立ち止まり、中の気配を窺っている。しばらくそこにじっと佇んでいる。その人は小さな包みを取り出すと、暑いので開け放ってあった窓から手を差し入れ、音も立てずにそっと室内に軽い包みを落した。そしてまた影のように立ち去っていった。
うっすらと夜が明け始めた。遠くのほうで集落の放し飼いの鶏が鳴いている。まださっきの夢の続きのようだった。
十数人の人たちが列を組んで浜の砂を踏んでこちらにやってくる。私たちのバンガローに向かってやってくる。足音が止まり、ドアを叩く音がする。
彼は依然として明け方の深い眠りの中にいた。私はノックの音と人の気配を、まだ夢うつつに聞いていた。外では誰か見知らぬ人たちの低い話し声がする。
そのとき私の頭の中で、もつれていた糸が解けるように、よくわからなかったことが明らかになってきた。
(レストランで知り合ったあの男は、ドラッグ類を、たくさん隠し持っていたのではないだろうか。そういうものをここで観光客に売りつけては、生活費を稼ぐような暮らし方をしていたのかもしれない。
さっき誰かがここへ来て、何かを投げ込んでいったような気がしたけれど・・・・。あれは夢の中のことだったのだろうか)
彼が不機嫌そうに身じろぎした。
「誰だろう。こんな朝早く」
彼に私の推測を伝えようとしたが、掠れて声が出なかった。まるで金縛りにあったように恐怖で体が動かない。何か恐ろしいことが始まろうとしている。でもどうしたらいいのか、わからなかった。
そのとき不意にドアが外側から開けられて、数人の見慣れない男たちが室内に押し入ってきた。
荒っぽいその物音に、身の危険を感じ、はっとなって私たちは跳ね起きた。眠気が一気に吹っ飛んでいく。見ると男たちは派手な色のポロシャツや柄シャツ姿で、黒いサングラスをかけている。一瞬強盗団が侵入してきたのだと思った。
「警察の者だ」
信じられなかった。身分証を見せられても、彼らが携帯しているピストルを見ても、すぐには事態が呑み込めなかった。ポリスの一人は早速机の上にあったタバコの箱を取ると中を調べ、鼻に近づけて臭いをかいだ。男がくれたあのタバコだった。確かめるようにもう一人が来て、同様に鼻に近づける。
「お前たちを逮捕する」
「まさか・・・・」
私は舌がもつれた。
「何故だ。いったい何の容疑だ」
ポリスが叫んだ。
「麻薬所持」
私は思わず彼の手を強く握りしめた。次第に体が小刻みに震え始めた。
ほかのポリスは勢いづいて室内を隈なく探し始めた。ハンガーに吊ってある衣類のポケット、バッグ、机の引き出し、くずかごの中、ベッドの下、カーテンの陰、部屋は投げ出されたもので散らかっていく。
そして私は、ポリスの一人が窓の下に歩み寄って、そこに落ちていた、昨晩寝るときには見なかった小さな包みを拾い上げ、中を開けてみて、現地語で何かを叫んでいる悪夢のような光景を、呆然と見ていた。
第九夜 白猫
その雌猫は夫の腕に抱かれてやってきた。
「どうしてもついてきて離れないんだよ」
許しを乞うような目で夫が私を見る。
「飼うの。まあそれはいいけど、いったいどこで拾ってきたの」
「公園」
「捨て猫かしら」
市内の中心部にある公園には、ときどき子猫が捨てられている。以前「こねこもらってください」と書いたダンボール箱が木陰に置いてあって、その中で眠っている数匹の猫を見たこともある。
夫の腕につかまっている猫を覗き込むと、猫のほうでもじっと私を見た。
ちょうど子猫から大人の猫になりかけている大きさである。全身白い毛で、薄いベージュ色の目をしたきれいな猫だった。床に降ろされると、もうここに住むことに決めた、という感じの、落ち着いた態度で、部屋の中を見回している。私が猫の頭を撫でようと何気なく手を伸ばすと、ふっとかわすようにすり抜けて夫の方へ行った。
「ああ、いい子だ」
夫は目を細めて抱き上げる。私は一瞬複雑な思いを味わった。
猫を飼うのは、私は初めてだった。結婚して三年目、子供はまだいない。住まいは会社が借りてくれている二階建ての小さなマンションで、小動物に限り飼うことが許されていた。
有り合わせのお菓子の空き箱に古タオルを敷き詰めて、猫のベッドを拵えた。牛乳を与え、ご飯にサケフレークをほぐして混ぜたものをやってみると、喜んで食べた。
キャットフード、各種の猫缶、水入れ、餌入れ、猫用のトイレの砂、ねずみの形の猫用玩具。夫はスーパーの中のペットショップに足を運び、少しずつ色んな猫グッズを買い揃え始めた。夫には新しく猫という趣味ができたのだ。
夫の視線の中に、いつも猫がいるような日々が始まっていった。
夫の関心は私にではなく、猫に向かった。これほどまで猫が好きだとは知らなかった。休日はずっと猫の相手をしている。
猫は尻尾をつかもうと飛び跳ねて回転して遊ぶ。小さなボールを床の上で転がしてどこまでも追っかけていく。滑って転ぶ。ハタキでからかうと本気になって飛びついてくる。ひもを動かすとじゃれついてくる。
一緒になって遊びながら、猫の素早い動きを観察していると、面白くて飽きないという。
猫は食卓の上をしきりに覗きたがった。夫の膝に飛び乗って甘えたしぐさでねだる。夫はハムやチーズの切れ端を与え、グラスのビールの泡を不思議そうに見つめる猫に訊いている。
「お前も飲むか」
「猫が飲むわけないよね」
私は猫の顔を覗き込む。猫の目が一瞬きらりと光る。
「でもなんか飲んでみたそうだな」
「まさか」
夫は試しにビールを少量指で濡らすと、猫の鼻の頭に塗ってやった。猫は嬉しそうに舐めて少しも嫌がらない。もう一度塗ってもらうとそれもきれいに舐めた。
「変な猫ね」
猫はビールの泡を鼻に乗せて貰ってとろんとなっている。
「今度刺身買ってきてよ。うんと上等のやつ」
食事の度に、夫が自分の皿から色んなものを分け与えるので、猫は食べ物の味を覚え、段々贅沢になっていった。
日本酒を鼻の頭に塗ってもらった後、鯛のお刺身を一切れ、夫の手から食べさせてもらっている。猫は夫の膝でうっとりとした表情で夫を見つめる。私は面白くない。
夫は帰宅すると、まず猫を見る。たいていは夫の足音を聞きつけて、私より猫のほうが先に玄関に出迎えていた。ドアを開けた途端、そこに座っている猫の姿を見ると、いかにもずっとそこで帰りを待ち続けていたかのように映る。
「ただいまあ。今日はどんな一日だった」
靴を脱ぎながら話しかける。これは私にではなく、猫に向かって訊いているのである。
「今日は疲れた。忙しかったからな。明日も残業だよ」
これも猫に言っているのである。
半年後、夫の転勤に伴って引越しをすることになった。隣県だが、その県では比較的大きな町である。夫は新しい住居で猫を飼えるかどうかが気になるらしかった。マンションなどの集合住宅では、動物を飼うことを禁じているところも多い。
私たちは多少古いが、借家に住めることになった。犬でも猫でも飼っていいという。
引越し当日になった。
夫はトラックに業者の人たちと共に乗って先に出発し、私は都合で猫と一緒に電車を乗り継いで行くことになった。
最後にもう一度部屋を点検した。管理人にお礼を言って鍵を返し、親しかった隣の主婦に見送られて、猫を入れたバスケットを手に駅へと向かったのである。
猫はバスケットの中でおとなしくしていた。突然の環境の変化に戸惑っているらしい。電車の中でも、息を潜めているような気配が伝わってくる。
(どうしているのかしら)
少し気になって、そっと細めにバスケットを開いて、中を覗いてみた。
かちりと目が合った。二つの眼球の中に、私の顔が揺れて映っている。猫の目の虹彩がすっと細くなる。丸くなる。
電車はそのとき、ちょうどトンネルに入っていくところだった。一瞬両手で目を塞がれたような感じで、辺りが真っ暗になった。電車の振動と特有の轟音がしばらく続く。思ったよりも長いトンネルだった。
ふっと音が静まり、周囲が明るくなった。抜けたのだ。
でも一瞬どこにいるのかわからなくなった。とにかく狭い。なぜか身動きが取れない狭い空間にいるのだった。
(閉じ込められた)
そう感じた。この窮屈さ。じっと体を丸めて蹲っているしかない。自由に動けない。
愕然となった。気がつくと、私は猫と化してバスケットに入っていたのだった。いったいどうして。驚いて外へ這い出ようとすると、私の鼻先でぴしゃりとバスケットの蓋は閉じられた。
「だめよ、まだ。おとなしくしていてね」
紛れもない私の声だった。
(ああ、あの猫が私になっている)
「出して」
必死で叫んだつもりだが、掠れた猫の鳴き声が一声、喉から漏れただけだった。
引越し先に着いたが、私はバスケットに入れられたままだった。家中積み重ねられた箱や物が一杯で、足の踏み場もないらしい。
「今出すと、びっくりしてどこかへ行って、迷子になってしまうからね」
「そうだね」
「もうちょっと我慢していてもらうわ」
そんなことを二人で話し合っている声が聞こえる。
バスケットの蓋が開けられたのは、かなり時間がたってからだった。私は憔悴してよろよろと外へ出た。水とキャットフードの皿が目の前にある。
(そんなことよりも)
と夫の姿を必死で探したが、山のような荷物をほどいたり片付けたりと忙しいらしく、私のほうを見ようともしない。寄って行って、私と猫が入れ替わっていることを、何とかして夫に伝えたい。荷物の間にいる夫のほうに行きかけると、突如尻尾をスリッパで踏まれて飛び上った。
「あ、ごめんね。ここにいたの。よく見えなかったわ」
キャットフードの前に戻された。
情けないことに間近で食べ物を見ると、俄かに空腹感に襲われて、かりかりと食べ始めてしまった。喉の渇きを覚え、水もたくさん飲んだ。
すると今度は疲労で眠くなってきた。もう夜更けらしく、部屋はさっきよりは片付いてきている。二人のいる寝室に入ろうとすると、
「あんたはだめ」
目の前で扉が音を立てて閉ざされた。
気は急くが、夫には何も伝えられなかった。何度か訴えようと努力してみるのだが、意思は全く通じない。気持ちが落ち込んでくる。せめて可愛がってくれたらいいのだが、以前はあんなに猫に夢中になっていたのに、夫はここへ移ってきてからは、ごく普通の態度で接してくる。それどころか以前の様子に比べると、むしろ冷淡ともいえる。信じられない思いだった。
その理由は、二人の話を聞いているうちに段々わかってきた。どうも赤ん坊が生まれるらしいのだ。
「猫って、赤ちゃんにはよくないんじゃないかしら」
「アレルギーとか、寄生虫の心配もあるな」
「このまま飼っていていいのか、よく考えなくちゃね」
「ああ、そうだな」
そんなことを私の前で話し合っている。私はそのうち捨てられるのだろうか。ため息が出た。
やがて夫の母親が、出産前後の手伝いに泊り込みでやってきた。
興味深そうに私を見る。
「これが、その、お酒舐めて喜ぶっていう猫かい」
姑は、手土産に持ってきたスモークサーモンの包みを冷蔵庫から出すと、私に小さいのを一かけら差し出した。
「ああ、ちょっとお待ち」
クッキングワインを棚から取ってくると、いきなり鼻先に垂らした。私は思わずむせる。
「おや、ちっとも喜んでないみたいだよ」
「最近、どうも好みが変わったようなんですよ」
「猫でもそんなことがあるのかねえ」
姑は笑った。
やがて赤ん坊が生まれたらしい。そんなことを親戚の誰かに電話で伝えている姑の声が聞こえてきた。
数日後、二人は退院してくると、疲れたらしくて、すぐに二階に上って行って、静かになった。母も子も眠っている様子である。
「何て軽いお産なんだろうね。本当にあっという間だったよ。もっと時間をかけて産むものと思ってたけど、こんなに簡単に終わるなんてねえ。しかも初産で」
夫の母親が階下でぶつぶつ独り言を言っている。
(そりゃそうですよ、お義母さん。あれは猫なんですもの)
通じないと思いながらも、私は椅子の上で言ってみた。
姑はふっと怪訝な目で見る。
「今何か言ったの。どうもね、何かこの家は妙なんでね。雰囲気が」
(ああ、わかるんですね。お義母さんには)
「何だかあんたといると、ほっとするんだよ」
(ええ、私も)
「紅茶、コーヒーどっちにしよう」
缶を眺めて迷っている。
(コーヒーがいいですね)
姑はまるで私の気持ちを読み取ったように、コーヒーを淹れる準備を始めた。私はじっとその手元を見つめる。室内に私の好きなブルーマウンテンの香りがゆっくりと立ち上がり、広がっていく。素敵なフレーバー。思わず大きく吸い込んだ。
「あんた、猫じゃないみたいね。まるで人間みたい・・・・」
姑はそっと指先でコーヒーの滴を私の鼻に塗ってくれた。
「どう」
(いい香りですわ)
「チョコのケーキ食べてみるかい。さっき買ってきたのが冷蔵庫にあるけど」
嬉しくなった。好物だったのである。以前姑にそう言ったことがあった。覚えていてくれたんだろうか。小さく切ってもらったチョコレートケーキの一切れを、私は心から味わって食べた。姑はそんな私の様子を、食い入るような眼で観察していた。
そのとき、二階から赤ん坊の泣き声がした。どうも目を覚ましたらしい。
姑は一旦コーヒーカップを置いて立ち上がりかけたが、また腰を下ろした。じっと泣き声に耳を澄ませている。普通に聞いている分には、元気な赤ん坊の泣き声である。でも姑は何か違和感を覚えるらしく、首をかしげて真剣な表情で聞いている。やがて顔を上げると、私に顔を寄せて低く呟いた。
「やっぱり変だ。赤ん坊じゃない。猫の声だよあれは・・・・。ああ、もしかしたら猫が猫を生んだんじゃないか」
私は頷き、そしてぶるっと身震いした。
そっと階段を下りてくる気配がしたのである。それは一足ずつゆっくり降りてくる。まるで人間じゃないみたいに、ほとんど物音を立てずに。
心臓がどきどきしてきた。姑もふっと気づいたらしい。やがて階段のほうに向かうと、意を決したように強い声で言い放った。
「お前、猫だったんだね」
第十夜 聖なる岩
ぼくたちの目の前に、ほとんど垂直かと思われるような尖った岩山があった。窓のない塔を思わせる。生物のない、硬い岩塊がねじれた積み木のように押し固められて、天に突き出ている。その風変わりな形と、高さでもって知られる山だった。
近づいてみると、らせん状に細い小道が刻まれ、絶壁の頂上に続いているのが見えた。人を寄せ付けない厳しさが感じられる。かなりの急傾斜なのを見て、祥子が小さく呟いた。
「何となく不安になるわ」
「大丈夫だよ。二人で登ろうって前から計画立てて、やっとここまで来たんじゃないか。頂上まで行ってみようよ」
祥子は周囲に目を泳がせている。もっと他に登山客がいると思っていたらしい。白昼の山の中は静まり返っていて、前後に人影はない。岩陰に低い潅木の茂みがあるが、丈の高い樹木がないので、日陰になるようなものが見当たらない。空は晴れ渡って抜けるように青く澄み、雲は全くなくて、照りつける日差しが背中に暑い。
じっと立ち止まっているのが嫌になってきたぼくは、先に立って岩山の方へ歩き始めた。少し遅れて軽く砂を踏む祥子の足音がついてくる。最初は比較的なだらかな道だった。しばらく無言で岩山を回り込んで登っていく。
不意に何の脈絡もなく、「沈黙の塔」という言葉が浮かんできた。なぜか頭の中でその言葉が回り始める。それで思わず勝手に唇が動いて、声に出してしまった。昔世界史の授業で習ったことがあるような気もするが、それが何を意味する言葉だったのかよく思い出せない。
「塔・・・・。今何て言ったの」
「沈黙の塔」
「それって、ゾロアスター教の」
「ああ、そうだ。でもそれって何だったっけ」
「鳥葬の墓地のことじゃなかったかしら・・・・。拝火教徒は、人が死ぬと火葬も土葬もしないで、小高い丘に死骸を運んで行って、てっぺんに置き去りにして、そこで鳥についばませるって聞いたことがあるわ。その丘のことを沈黙の塔っていうの」
高校の同級生だった祥子は世界史がよくできた。資料集も丹念に読んでいたのを覚えている。どんな小さな写真も細かい内容も、ぼくより遥かによく記憶しているらしい。きっと沈黙の塔の写真だってどこかに載っていたのだろう。
(でもそんな塔のことを、どうしてぼくは急に思い出したんだろう)
自分で言い出しておきながら、説明のしようがなくてぼくは困惑した。祥子はさりげなく話題を変える。
「この山って、まるでどこまでも続くらせん階段ね。でも建物の階段だったら、普通踊り場があるでしょう。それがここって全然ないのね」
言われて気がついた。確かにないのだった。息の続く限り登れっていう感じなのだ。道理でさっきから息が切れるはずだ。ぼくは踊り場のない回り階段を、つい自分のペースで歩き続けていたようだ。祥子にはきつかったろう。
立ち止まってぼくたちは休み、あたりに広がる雄大な風景を眺めた。
「さっきまでいた場所が、あんなに小さくなってるよ」
「一周回る毎にね、景色が少しずつ変わって見えるのよ。次はどんな風になってるのかな、って見比べながら歩いてた」
風が緩く吹いてくる。暑いが爽やかな山の空気だった。休憩をとった後、再び登り始める。今度はゆっくりとよじ登っていった。道はかなり急勾配になった。次第に高度が上がっていくのがわかる。祥子が大きく息を弾ませていた。
「後もう少しだよ」
最後のところはちょっと苦しかったが、漸く頂上に着いた。二人とも思わず歓声を上げた。
頂上は思ったよりも狭くて、積み上がった岩のへりからふと下を見ると、墜落しそうだ。ぶるぶるっと足が震えてくる。本当の崖の上だ。でも念願かなって、ここまで二人で一緒に上れたことが嬉しくてたまらない。すぐに降りてしまうのが惜しくて、ぼくたちは少々恐いのを我慢しながら、頂上の大岩に並んで座っていた。
「あれ、何かしら」
祥子が遠くの空を指差した。その方角に視線を向けると、黒い点のようなものが一つ、青空にぽつんと見えた。それがいつ現れたのかはわからない。ぼくはじっと目を凝らした。点は動かず、ほんの少しずつ大きくなってくる。
「何だろう」
更に黒点を見続けていると、ある時からゆらゆらと動き始めた。それでわかった。鳥だった。
「こっちへやって来るわ」
「ほんとだ」
動きから目が離せなくなった。その場にいつか釘付けになっていた。注視していると、次第に羽ばたきの様子が見えるようになった。黒い翼がリズミカルに上下している。美しい動きだった。そしてその間にも青空を飛翔する鳥の形がはっきりしてきた。近づいてくるようだ。思ったよりも大きい。ぼくは不思議なものを見る思いで、呆然と鳥を見つめていた。祥子も無言で見ている。
(でももしかしてこの鳥が、びっくりするような大ワシで、しかもぼくたちを狙って飛んでいるのだとしたら)
鳥に襲われるという、不安な思いが頭のどこかを掠めた瞬間、
「こっちへ来る。私こわいわ」
祥子の怯えた声ではっとなった。金縛りが解けて、ぼくは急いで庇うように祥子を引き寄せた。ここから早く降りなければならない。
「岩陰かどこかに隠れよう」
焦って周囲を見回すが、何しろここは崖の上だった。切り立ったごつごつした岩があるばかりで、二人して身を伏せて潜り込めるような窪みがない。
見ると鳥は大きく翼を開いて速力を上げ、今や真っ直ぐにこちらを目指していた。
「とにかく降りよう」
「足が」
祥子が泣き出しそうな声を上げた。足首が岩と岩の隙間に嵌まっている。動転して足元をよく見ず、うっかり突っ込んでしまったらしい。ぼくは屈んで思い切り靴ごと引っ張った。悲鳴が上がった。どうしても抜けなかった。
見ると鳥はもう間近に迫っていた。猛禽類特有の恐ろしい姿形、それはいったい何という種類のワシだろうか、開いた翼はゆうに二メートルを超えている。ばたばたと激しく打ち振るような羽音、鋭く尖った鉤のような爪を思って心臓が凍りつく。
ぼくは咄嗟に祥子の体の上に覆い被さって、平伏せになり、両手で岩をしっかりと掴んだ。どんなことがあっても手を離すまいと心に決め、全身の力を込めた。
耳元でさあっと風が鳴った。不吉な旗を振るような音が響く。ぼくは岩に強く体を押し付けた。そのとき岩がふっと暖かく体を開いて、ぼくたちの体を受け入れてくれたような気がした。
一瞬背中に鞭で打たれたような衝撃が走った。ぼくはぎゅっと唇を噛んだ。嵐のような羽音が瞬時に頭上を過ぎ、やがて遠のいていった。
「助かったんだ」
ほっとした。大ワシの爪は、ぼくの背中を確かにほんの一瞬掠めはしたが、そのまま空の彼方に飛び去っていったのだ。
背中が痺れていた。痛いというよりも、鈍くて重い感じがする。何かおかしい。どうなったのか。体がどうしても動かないのだった。動かそうとするのだが、手も足もぴったりと岩に張り付いたままだ。祥子の体もいつしか変な具合に硬くなっている。いったいこれはどうしたんだ。
祥子、祥子と何度も呼びかけるが、反応はない。
ぼくは信じられない事態に動揺した。恐ろしさで一杯になった。どうしたらいいのかわからない。でもぼくの腕は体ごとさっきにも増して岩をしっかりと抱きしめ、そして岩の方でもぼくたちを下から強く掻き抱いているのだ。
頭の芯がぼんやりとなって、今ぼくたちがどこにいるのか、考えられなくなってきた。目を開けているのに、暗幕がかかったようで何も見えない。次第に音も聞こえなくなった。体温が段々下がっていく。体が冷えて固まっていく。意識が遠のき、記憶が薄れていく・・・・。
いつかぼくたちは岩になっていた。
(初出「VIKING」に加筆