一若狭を歩く一
若狭彦神社(若狭一宮)若狭姫神社(若狭一宮)
鵜の瀬 神宮寺 明通寺
一若狭を歩く一
若狭彦神社(若狭一宮)若狭姫神社(若狭一宮)
鵜の瀬 神宮寺 明通寺
鵜の瀬
奈良の東大寺二月堂の「お水取り」は春を告げる行事として名高い。「修二会(しゅにえ)」の行の中で、三月十二日の深夜、境内の井戸、若狭井から閼伽水(あかすい)という湧水を汲み上げ、ご本尊の十一面観音にお供えする儀式である。その神聖な水はお香水と呼ばれる。遠く若狭の山中、根来(ねごり)白石の鵜の瀬という川淵から三月二日の夜に送られ、十日後に奈良に届き、若狭と奈良は地下でつながっていると伝承されている。その若狭の山の中、お水送りの聖地、遠敷(おにゅう)川と若狭一宮の若狭彦・若狭姫神社を訪ねてみることにした。
若狭へ行くには敦賀から回るなど幾つかの経路があるが、京都を経てJR近江今津駅まで行き、バスで山越えし小浜まで向かうことにした。早朝の新快速に乗ったが、それでも近江今津までかなり時間がかかった。
小浜行きのバスは高島市内を抜けると、次第に山の中に入って行き、やがて熊川宿を通過する。ここはかつて鯖街道の宿場として栄えた所である。魚商人が若狭の海産物、小鯛や若狹カレイ、塩鯖などを京まで運んでいったという。ここを通って朽木から京へと向かったのだろう。熊川宿の雰囲気を伝える古い町並みも残されているらしいが、通り過ぎるバスの窓からではよく見えなかった。
小浜駅に着き、宿に荷物を預けたあと船着場へ行き、蘇洞門(そとも)巡りの観光船(所要時間は一時間ほど)に乗った。若狭湾から少し外海へ出て、奇岩や滝や珍しい海蝕洞を見せてくれる。船の行く手には荒削りの大岩が次々出現し、海はうねりがあって小型船のため、甲板にいると何かにつかまっていないと足元が不安であった。海の色は深い藍色である。天候次第では岩に上陸ができるということだったが、今日は中止であった。船を着ける予定の岩を波が大きく洗っており、無理なのがわかった。
帰路船上の右手に、海沿いに原発の建物が数基並んでいるのが見えた。関西電力大飯発電所である。若狭には原発が多いと聞いていた。見たところ海からそう高い位置には設けてはいないようだ。もしここで大地震が起きたら、津波対策は、電源は、大丈夫なのだろうか。思わず福島の原発事故が頭をよぎり、白く輝く円筒形の建物を不安なものに感じて揺れる海上から見つめた。
小浜駅に戻り、週二回運行されているという地域のコミュニティバスを利用し、山の中に入っていった。小型バスはのどかな山の中の集落を通り抜けていく。遠敷川の清流に沿ってしばらく上り、白石の集落で降りる。
遠敷川にかかる橋を渡るとすぐ白石神社があった。一帯に湿潤な空気が漂い、湿った重い空気の中にたたずんでいると、川からなのか背後の森からなのかわからないが、独特の冷気が流れていく。白石神社は日本のお社の原型のようなこぢんまりとした祠で、若狭彦神社、若狹姫神社の奥宮に当るという。古に若狭彦神、若狭姫神の二神がここに出現されたと伝えられている。
お社はかなり古びており、傷んでいるのが気になった。狛犬は苔むして黒ずんではいるが、妙に存在感が感じられ、辺りにはみごとな椿の木が群生している。ちょうど花の満開の時期だったので、見上げるとほの暗い緑の森に点々と赤い花が、まるで灯をともしたように咲き揃って聖域を彩っていた。橋の近くには、東大寺開祖の良弁僧正の生誕地と記された碑もあった。良弁にはこのほかに相模国出身説、また幼児のとき近江の野で鷲にさらわれ、僧義淵に助けられ養育されたという説もある。
遠敷川は清らかな流れである。豪雨の時には様相も変わるのだろうが、今日の川水は澄んで穏やかである。
お水送りの行われる場所を探して川原を少し歩く。川岸は水辺の公園風に整備されて資料館もあり、そこではお水送りの短いビデオも見ることができる。かつては寺院関係者のみの厳かな秘儀であったかと思われるお水送りの行事が、今では世によく知られた宗教行事として、大きな篝火にあかあかと照らし出され、多くの人々が松明を手に参加し、その注視の中で行われている様子であった。
川原には鳥居や祠、また大護摩を焚いた跡などが見られた。(今は四月であった)大岩が流れに向かって突き出て、瀬になっている所、また対岸に注連縄の張ってある辺りなどをしばらく見つめる。このあたりを鵜の瀬という。神の使いである鵜がいた聖地ということであろうかと思う。
お水送りの行われる聖所を求め、対岸に行ってみることにする。再び橋を渡り、資料館の先に進むと細い流れがあった。ひと思いに跳んで渡り、登りにくい斜面を上ると、そこには少し開けた空間がある。見ると岩の上には縄や松明の黒い燃えかすがまだ残っていた。
資料館のパンフレットの写真を出してみる。お水送りの夜、山伏姿の行者さんたちが並んでほら貝を口に当て、白装束の僧が松明をかざして川面を照らし出している。そして神宮寺住職らしい白装束の僧侶が、境内閼伽井戸から汲み上げた竹筒の聖水を岩から身を乗り出し川に注ぎ込んでいる。まさにその場所がこの岩であった。
そっと水面を覗き込むと、白く泡立つ瀬が間近に見える。川下にかけて深くなっていてゆるく渦を巻いているのが見てとれた。目を近づけるとすうっと引き込まれそうである。これが伝承の水中洞窟なのだろうか。
お水送りの由来をみてみよう。
七五二年春、東大寺で大仏開眼供養が行われた。聖武天皇の発願により、約十年をかけて造営された。東大寺の初代別当(開祖)は、若狹出身の良弁(ろうべん)僧正であった。
インドからの渡来僧、実忠和尚は若狹神宮寺に滞在したこともある人で、良弁の弟子であった。実忠は請われて東大寺に行き二月堂を建立し、大仏開眼に際して天下泰平、五穀豊穣、民の安穏を願い、十四日間にわたる「修二会」という祈りの行法を行った。
行の初日に実忠は神名帳を読み上げ、日本全国の神々を奈良に勧請したが、若狹の遠敷明神(姫彦神)のみが川漁に夢中になって遅れ、修二会があと二日で終わるという三月十二日の夜になって到着した。遠敷明神はお詫びとして、二月堂の本尊にお供えする閼伽水を、若狹から導いて献上することを約束、すると地面を割って白と黒の鵜が飛び出て、穴から清水が湧き出たという。これが東大寺の若狹井で、遠敷川の白石の川淵から、地下をくぐってもたらされたとされる。
その若狹井から閼伽水をくみ上げてお供えする儀式がお水取りで、その神約を護り伝える行事が、鵜の瀬の川淵で行われるお水送りなのである。
この話は、若狹と奈良の深い結びつきを示しているとされる。奈良の山中にも吉野にも聖水はあっただろうが、わざわざ遠く若狹遠敷の霊水が用いられたのだ。理由としてまず考えられるのは、先ほども見た碑にあったように、白石の地は良弁僧正の出身地、実忠はこの近くの神宮寺に縁のある僧であったという点であろう。二人の高僧ゆかりの地から送られる水は、聖水中の聖水と観じられたと思われる。
七二四年に始まった聖武天皇の治世は、政変、疫病、天災が相次ぎ、決して平穏なものではなかった。
七二九年には長屋王の変(藤原四兄弟の画策による)が起き、隆盛を誇った長屋王とその妃や皇子たちが滅ぼされてしまった。藤原氏の娘、光明子の立后に長屋王が異を唱えたためといわれている。反対者を排除し光明子は皇后になったが、七三七年には天然痘が大流行して、藤原四兄弟らは相次いで死亡、七四〇年には九州で藤原弘嗣の乱も起きた。
また聖武天皇の治世には、疫病以外にも干ばつ、凶作、飢饉、大地震などの災害が起き、天皇は奈良を離れて恭仁京へ、また紫香楽宮へ、難波宮へ、奈良平城京へと目まぐるしく遷都を繰り返した。
修二会の行の中で、若狹山中に坐す遠敷明神の神霊を特別に奈良へ招き入れ、その清らかな水の持つ霊力に触れることによって、都に巣食うもろもろの魔を払いのけ、奈良をことほぎたい、都に平安を取り戻したい、と高僧らは切に願ったのであろう。
特別な聖水には浄化作用があり、罪や穢れを洗い流し、病も人の心も清めていく力があると信じられていた。若狹と奈良が地下世界の通路で結ばれており、霊水が送られてくる。それは宗教的幻想であったかもしれないが、当時の人々にとっては意表を突くような、また霊威を感じさせる発想でもあっただろう。
さらに考えれば、当時の奈良の都に根付いていた文化も宗教も、そのもとは遠く海の彼方からもたらされたものであった。若狹は日本海に面し、古来渡来人が行き来する町であり、若狹に伝えられた大陸の先進文化が都へと伝播されていった歴史がある。その文化の流れが、地下を流れる水脈に仮託されたのだと考えることもまた可能であろう。
鵜の瀬は今も清らかな川であった。奈良のお水取りは不退転の行として、どんな戦乱の折にも一度も途切れることなく行われ、お水送り神事もまた同様で、鵜の瀬から毎年続けられてきたのだという。伝統の神事を守り、後の世に伝えてゆく、という強い思いがそこに籠もっているのだろう。
神宮寺
鵜の瀬を後にする。川下へ一・八キロ歩いていくと神宮寺に出る。立派な桧皮葺の屋根の寺院である。寺の背後には流麗な形の神体山があり、境内に入ると美しい枝垂れ桜がちょうど満開で風に揺れていた。桜だけでなく、樹齢五百年のご神木の椎の木も聳え立ち、その近くには大きな護摩壇が築かれ、お水送りの水を汲む閼伽井戸があり、今も静かに岩の間からこんこんと清水が湧いている。
お水送りのとき、この井戸から水を汲み堂内でお供えすると、無上の香水に変じるのだそうだ。その水が鵜の瀬から筒で流し込まれるという。ただでさえ神聖な閼伽水なのだけれど、特別にお祈りしてご本尊に供え、さらに神聖な水にするということらしい。
境内で落ち葉を掃いておられたお坊さんがほうきの手を止め、堂内で説明をしてくださった。
神宮寺は天台宗、神仏習合のお寺で、寺領は広く堂塔伽藍、僧坊もかつては数多くあったというが今は失われてない。明治の神仏分離令の時には、大切な神体(若狭彦神、若狭姫神像)を秘匿して護ったそうだ。今その神体は境内に立つお社に祀られているという。
お堂の正面には神社のように長い注連縄が張られてあった。そしてお堂の柱の上部には珍しい彫刻がほどこされ、懐中電灯で照らし出されたのを見ると、それは長い鼻の象であった。
格子を開けて内陣に入れていただく。ご本尊は薬師如来である。右に目を開けた月光菩薩、左に目を閉じた日光菩薩、周囲には十二神将が並んでいる。思わず東大寺の三月堂(法華堂)の仏様を心に思い浮かべていた。どこか似通ったものが感じられ、日光、月光菩薩から目が離せなかった。
ここでは拍手を打って拝んでください、と言われたので、二拝二拍手一礼でお参りした。仏様の前で柏手というのは初めての体験で、ここでは神仏の境界があってないような、そういうゆるやかな雰囲気が漂っていた。
右手には別の薬師如来があり、この仏様は正面から見ると目は閉じて見え、下から見ると見開いて見えるということであった。
お堂を出て裏山を少し歩いてみると、ここもみごとな椿の木が育っていた。椿だけでなく椎や楠、どれも大木であり、皆どことなく異形であった。幾多の年月に起きたさまざまな出来事の記憶が、木にも深く刻み込まれたかのようである。幹が奇妙な形によじれているのはここでは普通で、木はあるものは倒れかけ、地を這い、また枝が複雑に絡まりあいながらも斜面に斜め立ちしている。きっと冬の気候が厳しいのであろう、風雪に耐えた強い生命力が伝わってくるような独特の樹木の世界であった。
帰りは仁王門を通って外へ出る。仁王像は力強い造形で迫力に満ち、左右の尊像はどちらも見ごたえのあるものであった。
若狭彦神社 若狭姫神社
翌日は東小浜駅のレンタサイクルを利用し、若狭一宮の若狭彦、若狭姫神社と明通寺を巡ることにした。若狭彦神社が上社、若狭姫神社が下社で、二社で若狭一宮となっている。現在は下社に社務所があり、主な神事は下社で行うそうだ。
遠敷の交差点から電動自転車で上っていく。昨日の夕方は、ここを遠敷バス停留所まで歩いて戻ったのだが、今日は楽である。すれ違う集落の人が、見知らぬ旅行者にもこんにちわ、と丁寧に挨拶してくださる。昨日もそうだった。私も挨拶を返しながら、いっとき心が温かくなる。
二キロほど進むと若狭姫神社が見えてきた。本当は先に若狭彦神社へ行くのが正しいのかもしれないが、鳥居の前を素通りできなかったので、こちらを先にお参りする。
ここの祭神は若狭姫神という土地神であったらしいが、海幸彦、山幸彦の話に出てくる海神の娘、豊玉姫命ともされている。豊玉姫は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと、山幸彦)の妃である。本来は土地の女神のお社だったのだと思うが、時代が下り、何らかの事情で豊玉姫命を重ねてお祀りするようになったらしい。
ここで記紀に登場する海幸山幸の話を少しみてみよう。
・・・・山幸彦(ひこほほでみのみこと、または、ほおりのみこと)は兄から借りた釣り針を海に落としたため、竜宮へ探しにいく。そこで海神の娘である豊玉姫をめとって幸せに暮らすが、釣り針のことを思い出し、気持ちがふさぐようになる。海神が鯛ののどから釣り針を見つけ出してくれて、山幸彦は地上に戻ってゆく。海神は山幸彦に塩盈(しおみ)つ玉と塩乾(しおふ)る玉も与え、それを使って兄を懲らしめる術を教えた。山幸彦は玉を操って、兄を従わせる。
出産が近づいた豊玉姫は海から出て渚に産屋を建ててもらうが、出産の折に、元の姿(八尋鰐)になったのを夫に見られてしまう。赤子を置いて海に去っていくが、後に妹を送ってわが子の養育を託した。
異界の住人との婚姻の話は、浦島、余吾の天女、信太の狐、鶴女房、雪女などいくつかあるが、いずれの場合も破綻、あるいは関係が消滅し、はかない結末となっている。
社殿は静かな森に包まれた、実にすがすがしい雰囲気であった。聖空間とはこういうところをいうのであろう。摂社はいくつかあって、社殿の右手には山幸彦が海神からもらったという宝珠を祀る玉守神社があった。玉の霊威を守っている社ということであろうか。
社殿の左手にある巨樹に圧倒される。それは見る人の心を思わず引き寄せる木であった。近寄っていくと、その強い生命力に心打たれ、時を忘れて見上げてしまう。千年杉というそうだ。長寿の杉の大木であれば、そこに神が宿ると考えられたのだろう。木を拝むための小さな祠が建ててあった。
立ち去りがたくて、木を眺めるために何度も振り返った。この杉に会えてよかった、と思いながら神社を後にする。
一キロほど進むと、若狭彦神社である。深い森に包まれたお社であった。若狭姫神社もそうだったが、随神門があり、それぞれ左右四体の随神が薄暗がりに並んでいた。古い雛飾りの中からふっと武人が現れ出てきたかのような感じがする。これらは若狭彦と姫神が初めて白石に降り立ったとき、付き添った随身たちをかたどったものらしい。
社の前に、かつての拝殿の跡と思われる礎石が聖所として今も残っているのが印象的であった。
社殿には土地神の若狭彦神を祀るが、こちらも彦火火出見命を祭神としている。若狭彦神のほうが古い神なのだろうが、時代の変遷、時の権力者の意向により、彦火火出見命が重ねて祭祀されるようになったのであろう。若狭姫神社と同様である。海幸彦山幸彦の話は、遠い九州の神話であるが、何らかのいきさつで海に関連があることとして、若狭でお祀りされるようになったかと思われる。
それはともかく、山幸彦は異界で手に入れた霊力のある玉を自在に操り、兄に打ち勝つことができた。それは潮の満ち干を司る不思議の玉であった。古の人は潮の満ち干に畏怖や神秘を感じたのであろう。
津波は波が引いた後に押し寄せるというから、二つの玉による呪術とは、あるいは津波を意味しているのかもしれないと思い、もうこれ以上地震や津波で日本の国が壊れませんようにと、お社で手を合わせた。
明通寺
自転車を回し、道を引き返して明通寺に向かった。近道があるのだが、トンネルをくぐるため危ないので迂回、遠回りの道を行く。
川沿いの道を走っていて、風景に見とれた。行く手には山が重なり合いさらさらと清流が流れゆき、アオサギが一羽水中に立っている。まるで絵のような構図である。見ると川には遡上する魚のための魚道が設けてあって、アオサギはそこを通過する魚を狙っているのだった。近づく人の気配に驚いてサギは川から飛び立ち、あとはせせらぎの音が周囲に響くのみであった。目を上げると山の緑が鮮やかで、遅咲きの桜だろうか、ところどころに筆で刷いたように薄い桃色に染まっていた。
だんだん上り坂になる。電動車のほうを借りてよかったと思う。
両側に山があり、山の緑の中の集落を抜けるように走っていく。畑が広がり黄色い蝶が自転車をかすめ、ひらひらと舞っていく。心が洗われるような里山の情景であった。
明通寺に着いた。自転車を置いて、赤い橋を渡り、長い石段を上っていく。国宝の本堂は屋根の改修中のため青いシートが掛けられていたが、内部に入ることはでき、お坊さんの説明を聞いた。
明通寺は桓武天皇の時代、八〇六年に征夷大将軍坂上田村麻呂によって創建された。田村麻呂が懸命に助命嘆願したが処刑されてしまった蝦夷の長、アテルイとモレ、また戦で殺戮された多数の蝦夷の人々の鎮魂のために建てられたという。現在は真言宗御室派の寺院となっている。
ご本尊は薬瓶を持つ薬師如来で、脇持は向かって右に降三世明王、左に深沙大将、いずれも木造仏で、これらは長く秘仏であったが、今は間近で拝観できる。近寄って手を合わせ、見ると深沙大将は頭に髑髏を飾り、手には蛇を持ち、腹には少女の首を巻いた恐ろしい姿、降三世明王は仏の教えに従わなかった大自在天(シヴァ)とその妃、ウマを踏みつける怒りの形相で立っていた。
薄暗い堂内にしばらくいたが、そこに漂う雰囲気は厳粛なものがあった。厨子の扉には皇室ゆかりの菊のご紋が見える。勅願寺ではないのだが、京都御室に縁があり、菊の紋の使用には別のいわれがあるとのことだったが、それも寺格の高さを示すものであろう。寺院は何度か火災に遭い、現在の仏様は鎌倉時代の作ということであった。拝観を終えお堂を出ようとすると、端に脱いでおいた靴がきちんと正面に揃え直してあり、恐縮した。
国宝の三重塔を眺める。これも鎌倉時代のものという。アテルイのための供養の大きな卒塔婆が下に立ててあった。阿弖流為(アテルイ)というのは難しい字だなと思いつつ黒々と書かれた卒塔婆を見つめる。三重塔は周囲の緑に包まれてひっそりと、けれども力強く立っていた。京都の清水寺も、坂上田村麻呂の創建であり(田村堂がある)境内の一隅には、近年になって建てられたと思われる阿弖流為と母禮の慰霊碑もある。
清水寺は年中修学旅行生やバスツアーの参詣客や外国人観光客で賑わっている寺院であるが、ここの静謐さと比べると、あの喧騒が何かとほうもない幻であるような気がしてくるのだった。
三重塔をもっとよく眺めるために斜面を上っていくと、寺院の歴代住職の墓所があった。小高い位置から、塔を静かに見下ろせるようになっている。美しい佇まいを持つ塔にしばらく見とれていた。小浜は「海のある奈良」といわれるほど寺院が多く、名刹があると聞いていた。今回明通寺に来てみて、なるほどと感心した。周囲はしんとしずまって何の物音もしない。新緑に染まった木々の間に、気品のある三重塔が揺るぎなく立ち、そこには静寂の世界が広がっているのだった。