平城宮跡を歩く 大極殿 朱雀門
平城宮跡を歩く 大極殿 朱雀門
以前、復元された平城宮跡の朱雀門を訪れたことがあった。門に立って宮の跡を眺めると、目の前を近鉄の線路が横切っているのが残念だが、それ以外は青草の茂る野が続く、広大な草原であった。鳥がさえずる中、小川に沿って草を踏みつつ宮跡を歩き回った。そこは風が吹き抜けていく開放的な空間で、遠くでは大極殿の復元工事が続けられていた。現場に近寄ってみると、全体にシートが掛かった巨大な覆屋で、その大きさに圧倒された。
今日は復元が終わり完成した平城宮跡を訪れ、大極殿や庭園跡、遣唐使船などを見た後、夕方から東大寺二月堂に回り、修二会の「お松明」を見学することにした。
平城宮のどこから入ろうかと迷ったが、歴史資料館のある入り口から入り、第一次大極殿を目指した。第一次というのは、平城宮造営当初から恭仁京に遷都するまでの大極殿を指す。平城遷都一三〇〇年にちなみ復元されたのは第一次のものである。大極殿は一番の見どころなので、完成直後は混んだらしいが、今は人もまばらであった。東の方向を見ると若草山、春日山がなだらかに連なり、その手前には東大寺大仏殿の屋根もはっきりと見えている。
七一〇年、元明天皇の御代に、都は藤原京から平城京へと遷された。大極殿は、天皇の即位式や朝賀、外国使節との儀式などに使われた重要な建物、前庭には築地回廊も復元されている。
近づくにつれて大極殿の威容が迫ってきた。正面四十四メートル、側面二十メートル、高さ二十七メートル、横長で重層の建物が、眼前に聳え立っている。正面に上げられた「大極殿」の額の字は、長屋王の発願した写経の中から集字したという。楷書で書かれた力強い字であった。
大極殿の屋根は瓦葺で、金色に輝く鴟尾(しび)が青空に映え、壁は白壁、柱は丹塗り、二階の窓辺は青色に塗り分けられ、復元に九年を費やしたという豪華でかつ堅牢な建物である。
青丹よし奈良の都は咲く花の にほふがごとくいま盛りなり 小野老
青丹よし奈良の都にたなびける 天の白雲見れど飽かぬかも 作者不詳
(万葉集より)
万葉集には、青丹よしと歌い出される歌が二十数首もあるそうだ。当時、都の建造物は赤や青に美しく塗られ、人々の目にはこの上なく華やかなものと映ったに違いない。
早速大極殿の中に入ってみる。中央には高御座(たかみくら)があった。これは玉座で、黒塗りで八角形、上部には優雅な金の鳳凰の装飾が施され、垂らされた布も繊細で美しい。大極殿の内壁画は、上村淳之氏製作のもの。落ち着いた色調の青龍、朱雀、白虎、玄武の四神、十二支の絵が掛けられ、高い天井も気品のある蓮の花の絵でびっしりと埋まっていた。
高欄に出てみると、正面南八〇〇メートルに遠く朱雀門が見えている。欄干の柱の上には、青や赤など五行色にちなんだ五色の宝珠が飾りつけてあった。手すりにもたれ、ゆるく風が吹き抜けていく前庭を見降ろす。儀式の折には、月日旗、四神旗など七本の幡が荘厳に立てられて風に翻り、前庭には正装の貴族が整列したことだろう。ここで行われたという古代の儀式の様子をしばらく想像していた。
第一次大極殿を出て第二次大極殿跡へと向かう。第二次というのは、七四〇年から恭仁京、紫香楽宮、難波宮、と遷都を繰り返した聖武天皇が、平城京に都を戻した七四五年、新たに造営された大極殿のことを指す。奈良時代の後半は、第二次の方が使われたそうだ。
現在は基壇のみで建物はないが、壇に上ってみると、規模は第一次大極殿と同様のものであった。南側には幡を立てた柱もあり、その幡もかなり大型だったようだ。北側には内裏跡があり、そこにも建物はないものの、建物跡に芝が張られ、発掘された柱穴跡に目印として柘植の木が植えられていた。円柱状に剪定された柘植の木は、規則的に直立して並び、独特の緑の景観をなしている。その前に坐って若い男性が一人、タブラのような楽器を叩いて太鼓の練習をしていた。乾いた音が大空に吸い込まれていく。
そのまま東に進んでいくと、当時の役所の復元模型があった。入ってみると、建物内の仕切られた小部屋には古びた机と椅子が、いかにもそれらしい感じに置いてあった。当時の役人は土間で仕事をしていたらしく、硯はがっちりした円形のもので、字を書くのには木簡が使われていたようだ。
傍らの遺構展示館に入って見学する。すぐにボランティアのかたが来て、丁寧に説明をしてくださる。建物模型の解説、杉の木がくりぬかれた井戸や柱穴、土器や瓦などの展示物を順に見ていって、戸外の井戸の跡まで案内してくださった。
その後は東院庭園へと回った。ヒバリの囀りが絶えず空のどこかから聞こえてくる、気持ちの良い野である。芭蕉の句に、
うれしげに囀(さえず)る雲雀ちりちりと
というのがあった。春はまだ浅いが、のどかなれんげ畑の春の情景を思い浮かべつつ、平城宮を歩いていく。目の前をゆっくりと小川が南に流れていた。平城宮は勾配のある地形の上にあって、北側が高く南にいくほど下っているそうだ。ゆるやかな傾斜地なのである。宮廷の生活排水のことを考えれば、なるほどと納得させられる。藤原京は平地に造営したため、排水、汚水処理がうまくいかず困ったといわれているから、(ここは近くに佐保川も南下しており)、宮を営むには理想的な地であったのだろう。
前方の草の中からヒバリが飛び立ち、そのままl囀りながらまっすぐに空に上っていった。そこに巣でもあったのだろうか。遠く小さくなっていくその姿をずっと目で追っていた。
東院庭園は古代庭園を復元したもので、孝謙天皇の別邸があった所という。平城宮の東端にあり、外国からの使節をもてなし、宴会や儀式にも使われたようだ。池の中には正殿と呼ばれる建物があり、池は浅く造ってあって全体に小石が敷き詰められている。池泉回遊式の庭園で、日本庭園の源流ともいわれているという。州浜(すはま)、須弥山岩組、曲水、赤い反橋、など随所に工夫がなされ、水際には柳をはじめ色んな木が植えられていた。ただ箱庭のように優美で小規模であるため、すぐに見終わってしまうのであった。
東院庭園のすぐ近くに神社の森が見えていたので、立ち寄ってみた。宇奈多理坐高御魂(うなたりにいますたかみむすび)神社という長い名のお社であった。本殿は小高い位置にあって、背後は森に包まれており、何種類もの野鳥の鳴き声が聞こえてくる。扉は閉めてあって内部はよく見えない。主祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、太玉命、思兼命、摂社にも高天原関連の神々の名が連なっていた。
創建については、この場所は東院庭園の一部で、光仁天皇の楊梅宮、その池の中の小島に祀られていた社という説がある。別の説では、元は東側に位置する法華寺の鎮守社であったのが、ここに遷座したといい、はっきりしない。現在の本殿は桧皮葺、流造、室町時代初期のもので国の重要文化財である。
法華寺のあった地には、藤原不比等の邸宅があったという。不比等の没後、娘の光明皇后が宮としていたが、そこに国分尼寺が建てられたとも。もし法華寺からの遷座なのであれば、藤原氏関連の神を祀っていたとも考えられ、藤原の氏神であれば、まず天児屋根命を思い浮かべてしまうが・・・・。ともかくこのような場所にあることから、由緒ある社なのだと思われるが、辺りには人影もなく、ひっそりしていた。
西へ向かい朱雀門に着いた。これでちょうど半周である。朱雀門は高さ二十二メートル、間口二十五メートル、奧行十メートル、正面に立つと遠く大極殿が見える。
当時朱雀門からは、朱雀大路がまっすぐ南に伸びていて、その道巾は七十四メートルもあったという。両側には柳の木が植えられていたといい、大路は四キロ先にあったという羅城門、現在の大和郡山市の辺りまで続いていたという。
朱雀門を出て南を眺めると、象徴的に柳の木が道路際に植えてあった。ただ道路幅は狭く、それも目の前の国道までである。朱雀門にいたボランティアの人の話では、近く近隣の用地を買収し、公園として整備する計画があるということだった。
平城京歴史館を見学する。施設の中でここだけが有料である。人気の見どころは、赤と白に塗り分けられた遣唐使船の復元模型であった。当時赤く塗ったのは(辰砂を用いた)、防腐などの意味もあるという。船は原寸大だそうで、全長三十メートル、帆柱の高さ十五メートル、帆は網代(あじろ)帆、これは竹や葦を薄く削って布のように編み上げたものである。布の帆だと膨らんでしまうので使いにくく、重くて編み目から空気が抜けるという欠点はあるものの、網代の方を使ったらしい。網代に触れてみると固くて丈夫そうで、最初折りたたんであるのを見たときは、敷物かと思った。
船の両側には棚が細長く張り出していて、そこに人が乗って櫓をこぐこともできるようになっていた。長い櫓もその下にまとめて収納してあった。このような遣唐使船には大使、副使のほか医師、訳語生、陰陽師、留学生、学問僧、楫(かじ)取、水手も含め百人以上の人が乗ったそうである。よく乗れたものだと思う。船倉に詰め込まれていたのであろうが、積荷も多かっただろうし、荷物に挟まれて過ごす船旅はどんなにか辛いものであっただろう。
甲板をくまなく歩き回った。船室や台所を外側からのぞくことができるようになっていたが、部屋は三畳くらいに見え、思ったよりも狭いものであった。
館内へと戻る。奈良時代の衣装を着られる体験コーナーもあり、面白そうだったが、シアターの方に入り、十二分間の「外国使節団の見た平城京」を見た。古代を思いながら見入っていた。最新の技術を駆使したと思われる迫力ある映像であった。
これで平城京跡全部の施設の展示を見終えた。途中で引き返したりしたので、もう八キロ以上歩いたような気分である。実は大極殿でもらった用紙に、スタンプラリーとあり、各所でスタンプを押していき、全部回るとプレゼントがもらえるとあった。それでつい欲を出し、しんどいのにがんばって歩き回ったのである。
歴史資料館に行って提出すると、えっ全部回られたんですか、と驚かれたので、この景品をもらいにくる人は案外少ないのだとわかった。ご褒美は大極殿がプリントされたクリアファイルであった。