谷崎潤一郎
「蘆刈」(岩波文庫)
谷崎潤一郎
「蘆刈」(岩波文庫)
「蘆刈」は昭和七年の作である。山崎から水無瀬へかけての淀川の中州を舞台に、夢幻能のような世界を描き出しているといわれている。巻末の解説文によれば、能「蘆刈」「江口」また「大和物語」の一四八段などの影響を受けている作品とある。あとでゆかりの地もみていくことにするが、まずは作品紹介から。
「蘆刈」あらすじ
岡本に住んでいる男が、秋の山崎の水無瀬宮を訪れる。後鳥羽院の離宮のあった辺りを歩くうちに夕暮れになり、興の向くまま淀川に出て渡船で中州に着いた。芦の茂る洲に座り、男山を見ながら酒を手に、江口の遊女のまぼろしを追い、風流に月を見ていると、見知らぬ男が芦の間から現れ、身の上を語り始める。
男は少年の日、十五夜の晩になると、父親に連れられ巨椋(おぐら)池のとある邸宅を覗き見にいった。そこでは父が憧れているお遊さんが月見の宴で琴を弾いていた。
父慎之助は若いころ芝居小屋でお遊を見初めるが、相手はすでに子持ちの未亡人であった。父はお遊との結婚を望むがうまくいかず、結局お遊の妹おしずを妻に貰うことになる。
夫が姉に寄せる密かな憧憬を知るおしずは、夫婦の交わりをせず、二人してお遊に仕えることを喜びに感じるような奇妙な生活をする。
そんな中思いがけずお遊の子供が死んでしまい、婚家先にいる意味がなくなったお遊は実家に戻された。
お遊は勧められて再婚し、巨椋池のほとりの別荘に住む。裕福で遊び人の夫は飽きて寄り付かなくなるが、埋め合わせのようにお遊に贅沢だけはさせる。
父の生家とお遊の実家は次第に没落していき、そのころになって、ようやく実質的な夫婦になった父とおしずから生まれたのが、自分であると男はいう。
今夜も巨椋池の月見の宴を見に行くところだというので、お遊さんはもう年老いているのではと不審に思い尋ねると、男の姿は月の光に溶けるように消えていた。・・・・
幻想的な作品である。書き出しは「吉野葛」と同じく、のどかな紀行文のような調子で始まっていく。「増鏡」の記述からの引用が続き、歴史を感じさせる水無瀬の地に心惹かれていた男が、ふっと十五夜の夜に合わせるように、旧跡を訪ねていくという導入である。そこはいったいどんな地であろうか。
以前のことになるが、この水無瀬神宮の辺りへサイクリングに行ったことがあった。山崎駅前の近くにある離宮八幡宮を見て、水無瀬川を渡り(小さな川である)住宅街を西に走っているときに木立が見えたので、何気なく自転車を回すと、そこが水無瀬神宮であった。
境内の一隅に名水が湧き出ている所があり、そこに近所の人たちがポリタンクを持ってきて、水を貰い受けている光景が印象的であった。人の列は途切れることなく続く。きっと良い水なのだろう。地上の水無瀬川はその名の通り、か細い流れのまま淀川に流れ込むようだが、地下で水脈は生き続け、このように豊かに湧き出ているのだった。
水無瀬は後鳥羽院の離宮のあったところである。すぐ近くまで住宅街が迫り、往時の遺構が残っているわけでもなく、自然も失われてきているので、昔はおそらくきれいな池や林があって、風情のある景色が広がっていたのだろうと心のうちで想像してみる。池沼や入り江に小舟を浮かべ、管絃の遊びをしたり、月見をしたり、歌を詠んだり、まあそういう四季の宴が度々ここで催されたのだろう。
後鳥羽院は承久の乱で鎌倉幕府に破れ、隠岐の島に流されて、十八年後にそこで亡くなった。水無瀬で風雅に暮らしていたと伝えられる人が、遠い隠岐に流され、そこで流罪人として命を終えるという思いもかけない運命を辿ったのである。
二皇子のうち土御門は土佐から阿波へ、順徳は佐渡へと流され、いずれもその地で没した。
後鳥羽院は水無瀬の所領地をずっと気にかけていたらしく、その思いを記し、朱で手形を押した遺書も残している。院を祀る御影堂に立つと、そこはかとなく籠もる怨念を感じずにはいられない。
水無瀬の地はまた「伊勢物語」にも登場する。平安のころから風光明媚な土地だったらしく、惟喬(これたか)親王と在原業平がここで遊んだこと、交野へ足を伸ばしたことなども伊勢物語に描かれている。
ついでに言えば、惟喬親王も本来なら天皇になれたかもしれないのに、時の権力者である藤原良房の娘が生んだ、弟の惟仁親王のほうに皇位がいってしまい(清和天皇)、自らは出家を余儀なくされ、小野の里に隠棲したという不運の人である。
水無瀬はまだ行動が自由であった若いころ、親王が業平とともに過ごした思い出の地でもあったろう。
そういう旧跡を背景にして「蘆刈」の物語は始まっていくのである。幾層にも重なる歴史や伝承を持つ地。呼び出せば地霊が現れて、何を語りだしても不思議ではない、そういう雰囲気を設定しておいて、読者を物語世界へといざなう趣向である。
再び物語に戻ることにする。
男は水無瀬の宮の辺りを散策した後、渡船で淀川の中州へと渡っていく。対岸にある橋本遊郭の灯を眺め、月光に照らされる黒いこんもりとした男山の森を仰ぎ、茂る芦の向こうを流れる河音を聞いて、能「江口」の遊女たちに思いをはせる。
能「江口」は旅の僧が、出会った江口の君という亡霊を弔ってあげると、美しい衣装の遊女たちが現れ、船は白い象と変わり、遊女は普賢菩薩になって、空に消えたという説話に基づく能である。男がその幻に浸っていると、芦を分けて見知らぬ男が現れ、身の上話を始めるのである。
芦を分けて登場する男の所作は、どこか能を思わせるものがある。もうこの登場の仕方からして、この世のものとも思えない雰囲気が漂う。物語上の亡霊かもしれないと思いつつ読み進んでいく。
謎の男の身の上話の中味は、男の父母と伯母にまつわるものであった。魅力的なお遊さんを頂点とする、妹夫婦の二等辺三角形の奇妙な関係が描写されていくが、その尽くし方や暮らし方は、常識的に考えれば変である。
でもこの語りを、「死者の語り」と思って読んでみると、風変わりな人間関係であっても、それがあたかも不思議な美であるかのようにみなされていくことに、そう違和感はなかった。
死者がそういうのなら、理性では説明がつかないことが繰り広げられても、まあ肯定できるような気がしたのである。裏返った世界から聞こえてくる声と思えば、大して反発も起きないものである。
そういう設定を作者が巧みに演出しているので、読み手は知らないうちに作者の仕掛けた罠に嵌まり、そこで妙な物語を聞かされているうちに、毒が回ってきて、納得させられてしまうのである。
谷崎が、この三人の微妙な感情のバランス、その三人三様のややこしい心理的快楽の世界を、強い愛着を持って描き出していることがよく伝わってくる。これをこそ書いてみたかったのだろう。この物語に似合う場所や背景にも思い入れがあったろうし、あれこれ考え合わせて展開する過程に、独特の楽しみもあったに違いない。
君なくてあしかりけりと思ふにも いとど難波のうらはすみにき
これは大和物語一四八段を基にしたといわれる能、謡曲「蘆刈」で、芦を刈って生計を立てている落ちぶれた男が、かつて愛した女が、身分のある他の男の妻になって、目の前に現れたのをみたときに、女もまだ自分のことを思ってくれているのを感じたときの歌である。女は自分が着ていた衣を脱いで男に与え、男は零落した身を恥じて人の家に隠れるが、心に生じたさまざまな思いを、このような表現でいうのである。
大和物語では、女は男に衣と歌を渡した後、去っていく。別離の物語なのである。でも能のほうでは、それではあまりに悲しい話だと思ったのか、男女は復縁するという風に変えてある。でも結末こそ違うものの、どちらも話の中心は男女が再会する場面である。相手を見たことで心が揺れ動くのである。
それは慎之助が巨椋池の邸宅の奥にいるお遊を、今は手の届かない存在になったゆえにさらに価値を増したと感じ、深い思いでもってこっそりと見つめる、その情景とも重なっているだろう。
慎之助は、お遊が身に着けた着物を貰い受けていて、それを大切にし、時に頬を摺り寄せてお遊をしのぶというくだりがある。いかにも谷崎らしい耽美的な表現で書かれている箇所だが、それはこの「蘆刈」の男が、女から衣を貰う場面と対応している。
古典では露骨には書かれていないけれども、蘆刈男はこの後、貰った妻の衣を、おそらく人目のないところで密かに何度も抱きしめてみたに違いないだろうから・・・・。
謎の男は、父の物語を語り終えた後、静かにその場から消えて行く。その退場の仕方も、どこか亡霊めいている。男は自分のことを、父とおしずの子だ、と最後に説明するが、その辺りはいかにもとってつけたようで、話の辻褄合わせという感じがしないでもない。
考えてみればこの謎の男は、かなり現実離れした怪しい存在である。父と子は完全に一体化しており、子は父親に憑依されて父の恋物語を語っているようだが、この人物の正体は、月の照る夜の芦原に、ふっと感応するものがあって呼び出されてきた、さまよえる父の霊であり、これはむしろ息子の面(おもて)をつけた父慎之助とみるほうが自然かと思われる。
新作能を創るように小説を書き、小説と能が融合するところ、そのあわいにそこはかとない美を見出そうと細部に工夫を凝らし、模索した谷崎の手の跡が窺えるように思うのだが・・・・。
別の日のことになるが、桂川の堤防をサイクリングしたことがあった。木津川、宇治川、桂川の三つの川が合流して、山崎から水無瀬の辺りで淀川になり、大阪湾に流れ込んでいくのだが、三川合流を見るのは地形的に無理としても、できるならそれぞれの川の表情などを眺めてみたいと思ったのである。
その日はまず、近くにある史跡ということで、京阪淀駅の近くにある淀城跡をみることから始めた。秀吉が建てたという、淀君が住んだ城ではなく(それはここから五百メートル北にあったというが、もう残っていない)これは江戸期の城である。
建物はなく、石垣と松林が残っていた。お堀には水車が一つあって、かつては桂川の水を城内に引き込んで力強く回り続けたのであろうが、今は象徴的なものとして置いてあって、どことなく寂しい情景であった。
桂川のサイクリングロードに戻り、風に吹かれながら山崎に向かって走る。気持ちのいい道である。右手の天王山の山並みを眺めながら、桂川の流れに沿ってひたすらペダルを漕いでいく。
中洲には背の高いヨシが茂り、時折水鳥が舞い降りる。コサギ、アオサギが水中の餌をついばむ姿が見え隠れし、左手前方に男山八幡の森が近づいてくると、その先はもう「蘆刈」の世界であろう。
地図を見ると、三本の川は同時に合流するのではなく、それぞれ併走しながら少しずつ距離を縮めていく。宇治川と木津川がまず合流し、その後で桂川と合わさって一本になる。
桂川を進んでいくと、堤上に桜並木を植えた遊歩道があった。桜の季節にはここは花のトンネルになるのだろう。そのまま堤を進んでいくと道が尽き、その先は藪で「マムシ注意」の立て札があってもう進めない。
この辺りは「かわきた自然公園」というそうで、桂川と宇治川はこの先で合流していくのである。ここからはその川水の混じりあう情景は目にすることはできないのだが、見晴台からしばらくの間流れを見つめた。
右手は山崎から水無瀬の地、左手は男山、橋本と続いていく。「蘆刈」に出てくる、男が乗ったという渡船は廃止され、橋本にあった遊郭も戦後になって姿を消した。ちなみにいうと橋本遊郭の歴史は古く、元禄のころには既にあったと伝えられる。
堤を引き返してゆき、自転車で宇治川と木津川に掛かる二つの御幸(ごこう)橋を渡った。何と同じ名の橋が続くのである。
橋の上に佇んでみると、先に渡った宇治川は速くて勢いがあり、それに比べると木津川の流れは緩やかで優しい表情をしていた。
ここからは男山八幡の森がすぐ近くに見える。時間にもまだ余裕があったので、一気に男山目指して進むことにした。男山には谷崎の文学碑があると聞いていたので、どこにあるかははっきり知らないのだが、できれば見てみたいものだとも思った。
男山にはケーブルがあるのだが、見たところ、そう険しそうな山には見えない。回り込んで登山道の社殿脇に自転車を止め、歩いて上ることにした。
表、裏と道は二本あるが、表参道をとることにする。緩やかな道を進むと、分岐点があり、右へ折れると、松花堂跡に出た。
江戸時代寛永のころ、松花堂昭乗という、僧であり文人茶人でもあった人がここに庵を結んでいて、風流を楽しんでいたのである。昭乗は農家で使う田の字型に区切った種子入れを、タバコ盆や絵の具入れとして愛用していたといわれる。
後世その遺品の容器をみてヒントを得た人が、茶会の点心に料理を盛り付けて使ったところ、評判になり、一般にも広まって、今も松花堂弁当として親しまれるようになった。その元の庵がここなのである。
建物はここにはなく(市内に移築されている)ただ草が生い茂っている。跡地を歩いてみた。庭石などがわずかに残っており、当時はもっと見晴らしがよかったのかもしれないが、今は木立に遮られて何も見えない。とても静かな場所であった。
さらに登っていく。今度は由緒ありげな岩と井戸を祀る社があり、由来を読むと、そこが石清水八幡宮の謂れとなった泉であった。岩陰に水は今も湛えられているが、こんこんと湧き出ているわけではなく、暗い水面は辺りの木々と空を映して静かであった。
座って休憩する。こうした山中の磐座(いわくら)やそこに湧き出る清らかな泉をみて、古代の人たちは神性を感じ、祈りを捧げて額づいたのだろう。古の情景を心に思い浮かべつつ、聖なる水を見つめた。
さらに進む。ほどなく本殿に出るらしい。このまま行くとすぐ本殿に行き着いてしまいそうなので、少し戻って谷崎の碑を探してみることにした。
歩いていくと、山上ケーブル駅を過ぎたところに、目指す文学碑が見つかった。市街地と遥かに三川の流れを見降ろす景色のよい場所に、碑が建っている。
しばらく町並みを眺めながら、そこで時間を過ごすことにした。碑の横には「蘆刈」の作品解説があり、碑には流麗な字で、小説の前半部分から抜粋した次のような文章が刻まれてあった。それは男が渡船で中州に渡っていく場面であった。
・・・・わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあだかもその絵にあるようにまんまるな月を背中にして鬱蒼とした木々の繁みがびろうどのようなつやを含み、まだ何処やらに夕ばえの色が残っている中空に暗く濃く黒ずみわたっていた・・・・。
谷崎潤一郎「蘆刈」より
「吉野葛・蘆刈」(岩波文庫)