一西宮の古社を訪ねる一
廣田神社と西宮神社
一西宮の古社を訪ねる一
廣田神社と西宮神社
廣田神社と西宮神社(西宮えびす宮)を訪ねることにした。両社とも何度か訪れているが、改めて鎮座伝承について考えてみたい。廣田神社では二箇所の湧水(御神水、おすぎ水)、西宮神社では摂社の沖恵美酒(おきえびす)神社、南宮神社を訪れる。
廣田神社
冬にしては暖かい日ざしの一日、自転車でまず廣田神社へと向かう。地図を忘れたので、鳥居前まで時間がかかってしまった。参道は北へと進み西に折れる。改修して白く新しくきれいになっているが、個人的には古いほうが好ましい。自転車を止め、進んでいくと一の標柱(しめばしら)が見えてきた。標柱は鳥居の原型のような石柱である。注連縄から綯い合わされた長い三本の縄が下がっていて、笠木はなく、古い様式の神門という印象、さらに緩い石段を上ると二の標柱が立ち、こちらは注連縄から短い御幣が下がっている。参道は再び北へと延びており正面奧に重厚な社殿がのぞまれた。
主祭神は天照大神の荒御魂(あらみたま)で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。長くてとても一度ではいえない。意味は、天を離れ水辺に向かって降りられ、神聖な木に依りついたあらたかな御魂、というようなことらしい。社殿は伊勢神宮にも似た威厳のあるたたずまいで、格式の高さはいうまでもない。脇殿には住吉三神、八幡大神、諏訪健御名方神、高皇産霊神。
創建は古く神功皇后の御世にさかのぼるという。書紀によれば、西征の旅の途上で仲哀天皇が急逝、身重の皇后は神々に助けられて新羅を討ち、九州で御子(応神天皇)を出産した。大和への帰途、仲哀天皇の皇子、香坂王と忍熊王の反乱計画を知り、紀淡海峡へと迂回するが、難波の港の近くまで来て嵐に遭い、船がぐるぐる廻って進まなくなった。武庫の港(務古水門)へ入って神意をうかがうと、天照大神は、わが荒御魂を皇后(皇居との説も)の近くではなく、廣田の国に祀るように、といわれたので、山背根子(やましろねこ)の女(むすめ)の葉山媛が山麓にお祀りした。これが廣田神社である。このとき同様の託宣により、葉山媛の妹長媛が長田の地に事代主神を祀り(長田神社)、海上五十狭茅(うながみのいさち)が生田の地に稚日女(わかひるめ)尊をお祀りした(生田神社)。また住吉三神もお祀りした(大阪の住吉大社、神戸市東灘区の本住吉神社と二説ある。本居宣長は後者とみている)。古代では、嵐も遭難も荒らぶる神のなせるわざとされていたらしい。するとこれらの祭祀により船は無事に進んで難波に着き、忍熊王の乱も武内宿禰の軍により制圧されたという。
天照祭祀に関しては、日本書紀に記述がある。崇神天皇はそれまで天照大神と倭大国魂神の二神を宮殿内に祀っていたが、「その神の勢ひを畏(おそ)りて、共に住みたまふに安からず」という状態になったので、天照大神は豊鋤入姫に託(つ)け、倭大国魂神は渟名城入姫につけて、宮廷の外の地で祀らせることにした。
そして垂仁天皇の御代になると、天照祭祀を引き継いだ皇女倭姫は、大和を旅立ち、天照大神の神霊を伊勢へと導いて鎮座させるのである(伊勢神宮の起源)。崇神天皇がその勢いをおそれて宮殿から外へ出し、倭姫が結局伊勢に持ち運んで鎮めることになったほど霊威の強い神を、しかもその荒御魂を、神功皇后が凱旋というかたちで、再び王城の地へ迎え入れるのは・・・・はばかられたのではないだろうか。危惧もあったかもしれない。皇后は戦に貢献した天照大神はじめ他の神々に対し、それぞれふさわしい宮地に社を建ててお祀りする、というかたちで謝意を示そうとしたように見受けられる。
神話的に考えれば、上述のようなことかと思われるが、これを別の面から捉えてみると、皇后が率いて海を渡ったとされる軍団は、宗像族、住吉族、安曇族、また若狹、但馬、丹波、伊勢など各地の海人族の軍船で構成されており、各氏族にはそれぞれ信奉する神(守護神)があった。古では戦はそれぞれの神を奉じて戦うのである。戦で功績があったのは、天照神、事代主神、稚日女神、住吉神、などを奉じる軍団であったと思われる。皇后は九州に帰り着くと社を建て、また戦勝祈願をした社に神田を定めるなどの褒賞を行っている。
大和への帰途、「神がのぞまれた地」の穴門(下関市)においても祭祀を行い、住吉三神を祀る社を建てた。また各地で神を祀りつつ、帰還の船旅を続けた。社を定めるとは、祭祀者とその氏族集団がそこに住んで祭祀権を得、神田を領有、社領とした地から山川の産物も獲得、海辺なら海上交通の支配権も持つということであった。
当初、葉山媛が天照大神の荒御魂を祀った地は、甲(かぶと)山山麓の高隈原(たかくまはら)であったという(上ケ原地区という。古には秀麗な甲山を神体山とみたのであろう。甲山はお椀を伏せたような丸いかたちが独特で、阪急電車に乗って西宮に差しかかると、いつも吸い寄せられるように見てしまう。この甲山山頂には登ることができ、中腹には神呪(かんのう)寺がある。(このことは、六甲を歩く、の項でも書いている)
その後廣田神社は山麓から降り、御手洗川のほとりに遷るものの、そこで洪水に遭い、今度は水の心配のない現在地に遷座(江戸時代)したようである。ところが昭和二十年、空襲により社殿が焼失してしまい、現在の社殿は、伊勢神宮遷宮の折に旧荒祭宮社殿を譲り受け、昭和三十一年に竣工、造営されたものという。長い年月の間にはいろいろな災害が起きるということであろう。阪神大震災で社殿が倒壊してしまった生田神社が、再建されたことはまだ記憶に新しい。災害で社殿を失ったとしても、神を失ったわけではないので、人々はがんばって気持ちを奮い立たせ、お社を復活させていくのだと思う。
古来廣田神社の神は、国家鎮護、武運長久、勝運の神として朝廷、公家、都の人々の崇敬を受けてきた。京都の西にあるので(西宮えびす神社など、他の神社群とともに)西宮と呼ばれたという。廣田神社には源頼朝も領地を寄進、豊臣秀頼も社殿を改修、徳川吉宗も篤く信仰したそうである。現在も阪神タイガースが勝利祈願に訪れる神社として、地元では知られている。
境内摂社のひとつに斎殿(ときどの)神社がある。甲山山麓ではじめて天照祭祀を行った葉山媛を祀っている。葉山媛はおそらくはまだ少女だったかと思われ、祭祀に携わる巫女の一人として神功皇后の船に乗っていたのであろう。以前鞆の浦を旅したとき、三韓征伐の帰途、鞆の浦で神功皇后の妹の淀媛がとどまり、海辺で海神の大綿津見神を祀った(沼名前神社)という伝承を知り、訪ねてみたことがあった。神功皇后は各地に神を祀りつつ帰還したようである。
葉山媛は甲山山麓で天照大神を祀って、その荒みたまを鎮め、妹は長田で事代主神を祀った。この二柱の神に対し女性が選ばれているのは、仕える神が男性神だったからではないだろうか。天照大神の荒らぶる御魂は、武内宿禰が審神者(さにわ)をつとめた神降ろしの場で、思いがけず外征を告げることにはじまり、神託を疑った仲哀天皇を死に至らしめ、皇后に懸かって三韓征伐の戦へといざない、海を渡って戦を勝利へと導いた。その行動には男性神の持つ好戦的な相貌がある。
天照大神は記紀では女神と表現されており、それを否定するものではないが、顕現のその原初の姿は男神であった、という説を聞いたことがある・・・・。ここで神の性別を詮索するのも申し訳ないことだし、そして古の神はまた性などを超越するような存在なのかもしれないと思うけれども・・・・三神(あるいは四神)祭祀のこのとき、生田の地では、海上五十狭茅という男性祭祀者が、稚日女尊という女神を祀っていることと考え合わせてみれば、女神には男性が、男神には女性がついて奉仕するかたちがあったと考えられ、葉山媛姉妹はそれぞれの男神に仕えたように思えてくるのである。
境内は広大で自然林の公園になっており、高台にあるため市内がよく見渡せ、初夏には神苑にコバノミツバツツジが咲き乱れて美しい。ただ神社は二つの駅の間の山手にあって、ここへ来る交通手段が駅からバスか徒歩しかなく、どうしても参拝者は少ないようであった。境内の一角には古代と現代の西宮の地図が二枚並べてあって、比較できるようになっており、それを眺めてみると川の流れや海岸線がずいぶん異なっているのがわかる。自然による土砂の堆積、人工的な埋め立てなどで海はかなり陸地に変っているのである。
御神水と呼ばれる井戸(湧水)が境内にあった。柄杓で手に受け頂いてみる。冷たいが味はよくわからなかった。六甲山の花崗岩の岩盤を通り抜ける水は、鉄分が少なくミネラルに富み、酒造りに適する水なのだそうである。伏流水も質がよく、海水も少し混じっているという西宮の水は特に宮水と呼ばれて、おいしいお酒が造られるようになったそうだ。この地域は灘五郷と呼ばれて有名である。西宮では白鷹、白鹿、日本盛、御影では菊正宗、白鶴、剣菱・・・・などの酒造会社がよく知られているだろうか。
御神水のほかにもう一箇所、湧水があると聞いていたので、社務所の人に場所を教わって訪ねてみた。境内を出て社殿の裏へまわると児童公園と丘があるが、丘には上らずにその丘を左手に見ながら住宅地の細い道をたどっていくと、「おすぎ水」という湧水があった。位置からみると、かつては参拝者が身を清めるみそぎの水として使われていたものだろうか。今はパイプが引かれて水汲み場も設置され、付近が水浸しにならないように、小さく溝も刻まれていた。飲み水には適さないそうだが、震災時には生活用水として住民が利用したという。水は目立たない丘の樹木の茂みの一角で、今も静かに湧き続けていた。
西宮神社(えびす宮)
自転車で真っ直ぐに住宅街の道を降りていく。国道二号線までくると、人通りが多くなりにぎやかになった。重要文化財の大練塀に沿って下り、西宮神社の鳥居をくぐって赤門横に自転車を止める。門は豊臣秀頼の寄進によるもので、表大門というのだが、朱塗りなのでふつう赤門と呼ばれている。福男選びのとき、太鼓の音を合図に閉ざされていた門が開けられると(開門神事)、いっせいに参道を駆け出す人たちの様子が毎年テレビで報じられるが、その場所がここである。
一月九日の夜に神様が道を通られるので、付近の人々は「居籠り」をして外出せず物音を立てず静かにする慣わしがあった。それが解かれる十日の早朝、一番乗りのお参りを目指して、人々が家から競って駆け出したのが福男選びのはじまりという。参道は廣田神社と同様二度曲がっており、走りにくそうである。社殿の前で待ち構えている神職に抱きとめてもらえた三人目までが福男と認定され、ご褒美(えびす像、お米、お酒など)が出るそうである。
境内にはかつての海岸の名残なのか多くの松があり、参道脇には陶器市の露店が軒を並べていた。参道を進んでいくと、社殿の屋根が見えてくる。屋根が三つ並んだ三連春日造りという珍しい本殿で、もとのお社は廣田神社同様空襲で焼失してしまい、昭和三十年代に再建されたものという。青空に銅葺きの屋根が映えてきれいである。
祭神は第一殿(右)に蛭児大神(えびす様)を祀り、第二殿(中央)に天照大神と大国主大神(明治初年から)、第三殿に須佐之男大神を祀っている。
ここは全国にあるえびす様を祀る神社の総本社である。創建は古く平安時代にはすでにお社があったとされる。廣田神社の摂社として、浜南宮がここに建てられたのが起源であるという。
古事記には、伊耶那岐、伊耶奈美二神の国生みの際、最初に生まれた子が蛭のようによくない子だったので海に流した、とある。地元に伝わる鎮座伝承によれば、その子どもは後に西宮の海から神として顕現、お社に祀られるようになったという。少し記紀をみてみよう。
・・・・くみどに興して、子(みこ)蛭子を生みたまひき。この子は、蘆舟に入れて流し去(や)りつ。次に淡島を生みたまひき。こも例(かず)に入らず。(古事記)
書紀では最初の子ではなく、天照、月読の次の第三子として生まれている。
・・・・次に蛭児を生む。すでに三歳(みとせ)になるまで、足猶(なほ)し立たず。故、天磐橡樟船(あまのいはくすぶね)に載せて、風の順(まにま)に放ち棄つ。 (日本書紀)
最初の子が流し棄てられるというのは、各国の神話に見受けられるらしい。救われて養育され立派になって戻ってくるという話になっていることが多いとも・・・・それはともかくとして、記紀の場合、障害を持って生まれた蛭子が、親の手で棄てられるというのはなんとも哀しい話である。流すほうも切なかったのではないか。丈夫な子に生まれ変わってきてほしいと願い、また厄災を身に引き受けて遠い世界に持ち運んでくれるようにと祈りつつ、子を舟に載せ海原に押し出したのであろうか。流されていく不具の幼な子には、形代(かたしろ)や流し雛の姿が重なっていく。
伝承では、淡島神のほうは住吉明神の妃となるが、婦人病にかかって流され、紀の国の海辺に漂着、里人に祀られて女性の病を治す神となった(淡島神社)。一方蛭子神は西宮の海に流れ寄り、海から引き上げられ祀られ、福をもたらすえびす神としてよみがえった。両神とも海に流され、罪や穢れを負って神送りにされる点では共通している。蛭子神は三歳になっても足が立たなかったと書紀にはあるが、耳が遠かったという伝承もあり、今宮戎神社には社の裏に銅鑼があって、これを叩き大声で願いを言うと聞いてもらえるといわれている。
以前、加太(和歌山県)の海辺の淡島神社を訪れたとき、境内は古い人形や玩具、ぬいぐるみ、置物、雛人形、市松人形、などで埋め尽くされ、異様な雰囲気が漂っていて圧倒され立ちすくんだ。(このことは、友ケ島、加太を歩く、の項に書いている)各地から淡島神社に送られてきた古い雛人形は、三月三日の節句の日に舟に載せられ、紀州の青い海を流れ漂うのであるが、その神事の遠い起源を思うとき、人の厄や災い、罪禍も身に引き受け風のままに漂っていく蛭子の蘆舟が思い起こされるのである。
今も各地の神社では、撫で物として、半年間に積もった罪や穢れを吸い取って祓ってもらえる白い紙の形代が置いてあるのを見かける。撫でて身の穢れを移し祈願することにしているが、切り抜かれた白くて薄い人形(ひとがた)を手にするとき、ふと古代の呪術が今も受け継がれていることを感じることがある。
もう少し西宮神社の鎮座伝承をみてみよう。それによると、昔鳴尾浜の漁師が漁に出て、沖で神像のようなものを引き上げたが、魚ではないので海に帰した。和田岬のほうへ行って漁を続けると再び同じものが網にかかったので、畏怖した漁師はその像を持ち帰り、家でお祀りを続けていた。その後神託があり、像は蛭子の神と名乗り、西の方角にふさわしい宮地を求められたので、神像を浜南宮の境内に遷したという。当時の海岸線は今と違っていて、ここは海辺に建つお社であったらしい。平安時代のことであるそうだ。海に流された蛭子は海神(龍神)に拾われて養育され、やがて西宮の海に顕現したのだという伝承もあるという。
蛭子とはなんとも不吉な漢字であるが、時代を経るうちに、えびす様には(戎、恵比寿、恵比須、恵美酒など)良字、好字が使われるようになり、蛭の字が持つ忌まわしさは払拭されていったようである。海に棄てられ海からよみがえった神は、当初は漁業の神として信仰されていたが、時代が下っていくにつれ、商業の神、福の神として広く信仰を集めるようになっていった。室町時代には、えびすかきと呼ばれる傀儡(くぐつ)師の集団があって、えびす神の由来や神徳を説いて各地をまわり、その信仰を全国に広めていったという。持ち運びできる小型の木の箱を使いえびすの人形を操って人々に見せ、面白く物語っていたらしい。江戸時代になると傀儡の人たちはやがて淡路島や徳島に移り住み、西宮を去ってしまうが、後にその芸能は人形浄瑠璃、文楽として隆盛、発展していくことになる。
社殿の奧、周辺には深い森が見えている。鬱蒼と茂るえびすの森(天然記念物)であるが、残念ながら入ることは許されないので、張り巡らされたフェンス越しに、楠の大木を眺めて往時の森の様子をしのぶことにする。
西宮神社はなんといっても、一月十日の十日戎が有名であろう。宵えびす、十日えびす、残り福の三日間で百万人もの人出があるという。三百キロの冷凍大まぐろの奉納でも知られており、まぐろに硬貨を貼り付けると縁起が良いというので、このことに興味を持ち、何年か前のある年に、西宮神社に出かけたことがあった。列に並んで順番を待つほどの盛況で、本殿に入る通路では、巫女さんが頭上から御幣で勢いよく祓ってくださった。ふだんは入れてもらえない本殿に近づいてお参りをすませ、招福まぐろの所へ行くと、すでにまぐろは体中にびっしりと硬貨をまとっていた。ほかの人のお金を落とさないように気をつけながら、十円玉を苦労してまぐろのえらの隙間に挟み込み、周囲を見ると、どの人も皆楽しそうに冷たいまぐろにさわり、お金を貼り付けている。
社殿横では縁起物の福笹が売られていた。昔は本物の笹だったと思うが、今はビニール製である。境内には露店、食べ物の屋台がたくさん軒を連ね、人でにぎわっている。こうやって大人も子どももいっとき明るい気分に浸り、浮き立った気持ちで境内を歩けることが、お祭りのありがたさなのであろう。遠い日々に、傀儡の人形遣いの人たちが巧みに人形を操って見せ、人々が楽しそうに笑い興じる様子が、この情景に重なって想起されるのであった。
社殿の西には傀儡の祖を祀った百太夫社があり、大国主西神社が鎮座する。明治の初め、西宮神社はそれまでの廣田神社の摂社という位置づけから離れ、大国主西神社と社号を変えて県社と認められるが、その後社号が取り消され、もとの西宮神社に戻り、大国主西神社は境内社として、ともに県社となった。祭神と社号を巡ってなにか混乱があったようである。いきさつからみると、このお社はいったん得た社格が失われてしまったということになるのだろうか。大国主西神社は深い森を背に、新年のざわめきを一隅から静かに見つめていた。
庭園に入って橋や飛び石を眺めつつ池を巡り、参道をゆっくりと戻って、南門近くで立ち止まった。参道脇には廣田神社の摂社、南宮神社が鎮座している。この辺りが西宮神社の発祥の地なのであろう。赤門から見ると最初の曲がり角に位置し、お社は廣田神社のほうを向いている。
南宮という社号には、廣田神社の南という以外にも意味があるといい、製鉄と関連があるという説も聞いたことがあるが、この地に鍛治集団が住んでいたという伝承はこれまで聞いたことはない。南宮といえば、まず思い浮かぶのは、梁塵秘抄の歌であるが、(このことは、美濃の南宮大社、諏訪大社、敢国神社の項で、すでに書いている)六甲おろしが吹く地域ではあるので、強い風を利用して遠い時代にはあるいは精錬が行われていたのかもしれない。
南宮神社のお社の南には沖恵美酒(おきえびす)神社がある。何度も西宮神社に来ているのだが、たくさんの摂社があるので、このお社のことは長く気づかなかった。あるとき社務所の会館の展示室に何気なく入ってえびす資料とビデオを見た際、この沖恵美酒神社のことが紹介されていてはじめて知ったのである。
沖恵美酒神社には、えびす様の荒御魂が祀られているという。もとはもう少し南の荒戎町に祀られていたが、明治のはじめにここに遷座した。あらえびすさんと呼ばれており、鳴尾の漁師が海から引きあげて祀った原初の姿(荒御魂)を祀るという。丁寧に祭祀を続けるうちに神様は和んでゆかれるのだろうか。本殿には和御魂の方が祀られているという。
海辺には、とくに嵐の後などには不思議な形の流木、美しい石、他国の珍しい器物、くじら、いるか、水死人など、さまざまなものが漂着してくるが、人々は霊威を感じるものに出会ったときには、これらを引き上げて祀るのであった。えびす様もそのようなかたちの信仰なのであろう。
七福神の中の一柱の神としてえびす様はあるが、宝船に乗っている他の神様たちも、皆それぞれに違うかたちの不幸を背負っているだと聞いたことがある。あの船に乗っているのは実は幸せな神様たちでなく、それぞれに苦しみを負い、人の厄災も罪禍も穢れも引き受け、それを船で遠い異界に持ち運んでゆくのだと。
お参りの最後は、南宮神社と沖恵美酒神社に寄って手を合わせることにしているが、この辺りはいつもひっそりしている。でもここは本来熱いお社だったのではないかと思いつつ門を出て、帰途についた。