安 土 城 跡
安 土 城 跡
織田信長の城があったという安土山に登ってみた。JR安土駅で降り、緑が目に染みるのどかな田園風景の中を歩き、山麓から大手道と呼ばれるまっすぐな石段を上っていく。
豊臣秀吉など家臣の屋敷跡の表示が見える。石段には墓石も使われたといい、足元をよく見ると、踏まれてすり減ってはいるが、刻まれた梵字、家紋や字らしいものがかすかに残っている。
石段がつきると、道は何度も折れ曲がっていく。敵の襲来時に、侵入を遅らせるために、わざと曲がりくねった道にしてあるという。
山頂に着き礎石の列を眺めた。風に揺れる木々の枝を見上げつつ、どんな城がそびえていたのだろうと思いをめぐらせる。 以前テレビでCG画像を使い、安土城を再現した番組を見たことがあった。それは複雑な構造で、凝った造りの七階建て木造高層建築だった。
安土城が完成したのは1579年。標高約180メートルの安土山には広い空間はない。信長は奇抜な着想でもって、五層七階という信じられない形の楼閣風の城を、三年かけて完成させた。狩野永徳の豪華な障壁画、夢殿のような八角形の朱色の部屋。最上階は中国の古代の皇帝や龍が描かれた金色の部屋。内部装飾には金箔を多く使ったらしく、その華麗さに人々は目を見張ったことだろう。
当時安土に滞在した、イエズス会宣教師ルイス・フロイスは「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、ヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得る」と安土城の印象を書き残している。
1582年6月2日、本能寺の変が起きた。明智光秀の謀叛と信長親子の死の知らせはすぐに安土に届き、城下は大混乱に陥った。
その後、敗走中の光秀の死が安土に伝えられると、城下は秩序を失い、その混乱の中で、安土城は炎上してしまうのである。
当時安土城を守備していたという光秀の娘婿、秀満が退却の際に放火したという説、失火説もあるが、フロイスはこうみている。
「信長の子、信雄は普通より知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく、邸と城を焼き払い、城の上部がすべて炎に包まれると、彼は市(まち)にも放火したので、その大部分は焼失してしまった」 (フロイス日本史より)
真相はわからないという。ただ信長の誇った、室内の装飾や瓦にまで惜しげもなく金箔を張ったと語り伝えられる華麗な安土城は、まるで館の主の死に殉じるかのように、この世から消え失せてしまったのだった。
(2006.11.22)