一伊勢 原風景への旅一
朝熊山と滝原宮
一伊勢 原風景への旅一
朝熊山と滝原宮
朝熊山(あさまやま)はかつて伊勢参りの後、多くの人々が参詣したという霊山である。頂上には古の磐座(いわくら)があり、天気の良い日には遠く富士山を望むことができるという。「お伊勢参らば朝熊をかけよ 朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭にもうたわれたそうで、内宮と朝熊山は参詣道でつながっており、山頂近くには空海ゆかりの古刹金剛證寺がある。
伊勢地方では、古来死者の霊は朝熊山に上ると言い伝えられてきたそうだ。岳参りといって卒塔婆を山に立てて死者を供養する風習があり、金剛證寺奥の院には約一万本の卒塔婆が林立しているという。朝熊山とはどんな所なのか、山上の遺跡を訪ねてみた。
今回の旅は朝熊山であるが、伊勢に行くとなるとやはり外宮内宮は外せない。いつものように外宮から始めることにする。
参道を進み正宮で手を合わせた後、見ると池の前の小さな石に人だかりがしていた。三ツ石といってその名の通り三個の石が祀られており、川原の祓所であるという。昔ここを宮川が流れていたそうで、今流れはなく池を残すのみであるが、神事の行われた位置を囲って示してある。
以前ここはひっそりしていたように思うのだが、強力なパワースポットとして本などで紹介されたらしい。神秘を期待する若い人たちが次々に手をかざし、お賽銭を置き、石に触れ撫で回し、その様子を互いに写真に撮り合い、という過熱状態になっていた。先日京都清水寺の地主神社に行ったときも、ここと同様のことが起きていて、パワーを求める若い人たちが押し寄せており、その熱気に圧倒されたのを思い出す。
御厩のほうに回ると、神馬がいたので寄って近くで眺めた。御下賜の馬で名前は「路新」号、栗毛のつやつやした穏やかな目の馬である。滅多に間近で馬を見た事がないので出会えて嬉しかったが、このような窮屈な所でのお務めは少々気の毒であった。
内宮へ回って参拝する。正宮、荒祭宮、風の宮の後、御厩へも行ってみたが、こちらの方は空であった。お掃除していた人の話によると、神馬は以前二頭いたが、一頭は老齢で亡くなり、もう一頭も途中の道が補修中のためここへ来ることができず、離れた厩舎で休んだままという。秋になるとね天皇家からもう一頭馬を頂くことになっているそうだ。
鶏が何羽も放し飼いされていて、足元を横切っていく。神事に使う鶏なのだろうか、どれも立派な鶏である。宇治橋の近く、少し奥まった場所にある子安神社と大山祇神社を訪れた。
何気なく目の前の浅瀬を見ていると、小鹿が二頭右手斜面に姿を現した。流れのすぐそばまで下りてきて草を食む様子が愛らしく、そっと様子を見つめていた。通りかかって気づいた人たちも大喜びで写真を撮っている。鹿の姿はしばらく木の間で見え隠れしていたが、そのうちに斜面を上って見えなくなった。
朝熊山
内宮前からバスで朝熊山に向かう。往復とも山道を歩くのはきついので、行きは山上広苑までバスを利用し、帰りは山頂を経て昔の参詣道を辿って徒歩で下山、内宮に戻ることにした。山上への路線バスは廃止になっていて、このバスも季節臨時便なのだが、乗客はまばらであった。
バスは市内を抜けてスカイラインに入り、山道を蛇行しながら上っていく。途中眼下に広がる景色を楽しんでいたが、ふと山側に目をやると、剥き出しの岩の一部がきらきらと輝いている。青緑色の岩であった。含まれる成分の関係なのだろう。気をつけてみていると、ところどころに同じように青く輝く岩の露頭が見られた。
山上広苑に着き、売店で伊勢うどんの昼食をとった。地面はどこもコンクリートで固められている。展望台に行ってみると、そこからは青く広がる伊勢湾が見渡せた。正面に立つと神島がはっきりと見え、実に気持ちの良い情景であった。よく晴れていればさらにその向こうに富士山が見えるそうだ。
神島と富士山が一直線に並び、夏至の日には富士山の真上から日の出が見られるという。神島はゲーター祭という冬の太陽祭りで知られているし、二見の夫婦岩も、大小二つの岩の間に富士山が見え、夏至の朝、ちょうどその真上から朝日が昇ってくることで有名である。古代の人はそういう自然現象を見逃さず、神秘な出来事として畏怖し、太陽を拝する祭りを行ったのだろう。
伊勢湾を眺める山頂に立っていると、太陽がこの真正面から上るという夏至の夜明けを想像するだけで、気持ちが雄大になってくる。ここが遠い時代に太陽祭祀の聖地であったことが自然に納得できる場であった。
気になっていた磐座を探すと、確かに展望台の横にそれらしいものがあった。残念なことにほとんどがコンクリートで固められてしまっており、わずかにその上部だけを見ることができる。人にたとえていうなら首から下が完全に埋められた状態である。磐座はかなり広範囲であったと思われ、今も駐車場の隅などところどころにその片鱗があるものの、この山上に展望台施設を設けたときに、大半は破壊されるかこのように固められてしまったらしい。磐座を埋めたその上にみやげ物店と売店が建てられたのだ。
残された磐座の上部を見つめる。先ほどバスの窓から見えた岩と同じ輝きを持っている。赤っぽい中に暗緑や黄色や青の混ざり合った岩塊が積み重なった巨大な磐座であった。朝熊山は蛇紋岩地帯だそうで、植生もここにしかないジングウツツジ、アサマリンドウなど珍しいものがあるそうだ。
説明板によれば、アサマとはアイヌ語できらきらと光り輝く神、を意味するのだそうだ。たぶん岩の表面の輝きのことをいうのだろう。ぐるりと磐座を巡ってみると、青みがかった光を発しているところが何箇所かあった。その面は比較的平らであった。このことだけでも古代人には神秘であったろう。
鏡岩(鏡石)という言葉がある。多くは巨岩の神体で、表面が滑らかであるという。この岩もそうなのだろうか。青い海に向かって遮るものもないほど開けた眺望の中、昇ってきた朝日を受けてきらきらと美しく輝きはじめる聖なる岩・・・・。
いろいろ古代のことを想像して感慨に浸りたいところだが、残念なことに磐座のすぐ横に新しく観光足湯が設営されていた。磐座の横に湯を沸かす装置と足湯が並んでいるので、少々違和感が生じる光景となっている。
各地の古代の磐座を訪ねていると、現代ではその意味も薄れ存在価値もないと思うのか、磐座があまり大切にされていないと感じることがよくあるが、ここも破壊が進みその意義が忘れ去られた祭祀場という印象であった。でもたとえこんなコンクリート固めの状態であっても、わずかに残った磐座を間近に見ることができたので、来てよかったと思う。磐座と海に浮かぶ神島、波静かな伊勢湾を交互に眺めてしばらく時を過ごす。空は霞み富士山まではとても見えなかった。
朝熊山は幾つかの峰を持っている。登山道も内宮からの参詣道のほかに何本もあるそうだ。最高峰は標高五五五メートル。徒歩で金剛證寺のある経ケ峰のほうへ向かうと、ほどなく山腹にお寺の屋根が見えてきた。
極楽門をくぐって奥の院へ進むと、両側に卒塔婆が立ち並ぶ道であった。どれも通常見る卒塔婆より丈が高く次第に壁のようになって迫ってくる。一万本という数に圧倒され、思わず寒気を覚えるほどであった。
奥のお堂は折悪しく修理工事中で、騒音が鳴り響いて落ち着かないので、手を合わせた後卒塔婆道を引き返すことにする。
再び鬼気迫る道であるが、見ていくと、故人の愛用品がいくつか卒塔婆に掛かっている。遺品を掛けないで下さい、と寺側の立て札があるにもかかわらず、かばん、スカーフ、チョツキ、めがね、人形、帽子、杖・・・・と主を失ったさまざまな品物が縁者の手によって留められている。色あせた花柄の布が風に揺れ、古いぬいぐるみの熊のうつろな目が道行く人を見つめ、ひもで吊り下げられたカップがかすかな音を立てる。歩きながら遺品を見ているうちに次第に悲しい気持ちになってきた。ここは死者と遺族の情念が絡み合う追悼と未練の空間だったのだ。部外者にとっても重くて辛い道である。ようやく卒塔婆が途切れ極楽門を抜けるとほっとして、そこにあった沙羅双樹の木と句碑を見つめた。
神垣やおもひもかけずねはん像 芭蕉
ここではなく外宮の舘町で詠まれたものという。芭蕉は神宮の町で釈迦の涅槃像の画が売られている情景を見て、その驚きを句にしたらしい。
金剛證寺にお参りする。創建は欽明天皇の時代とも伝えられるが、空海が開祖とされていて密教の道場であったという。時代を経て衰退するが、その後臨済宗の寺院となり現在に至っている。神仏習合の名残なのだろうか、鳥居もあり、池には赤い反橋がかかっている。ご本尊は虚空蔵菩薩で、開祖堂、明星井、雨宝童子(天照大神の幼像)なども祀られている。またここは内宮の鬼門を護る寺院とされており、伊勢参りの人々が参宮の後、多く参拝に訪れた地でもあった。境内に並ぶお堂を見ていると、それぞれの時代の信仰の形が反映されているようで興味深い。
本堂の左右には、虚空蔵菩薩に所縁が深いといわれる鬼門封じの丑寅、福丑と智慧寅像が一対置いてあった。丑のほうは天神社でよく見るような穏やかな感じなので、福をいただけるよう何度も頭を撫でる事ができたが、寅のほうは顔の造形がリアルで恐ろしく、ちょっと触れるのでさえこわごわであった。
境内の裏山の道を上っていくと、ふっと斜面が開け、経ケ峰経塚群に出た。多くの経筒や経典、銅鏡などが発見された墓地である。末法思想の影響を受け、平安時代に埋められた経筒が明治の頃に風雨の後偶然発見され、さらに伊勢湾台風の際にも倒木などによって地表に出たという。経筒とは写経を収めた容器で、陶器や金属製で銘文が刻まれているので時代が分かるという。伊勢の神官が埋納したものがあって話題にもなった。その出土品は国宝に指定されたという。神主と写経、意外な組み合わせだが、神道と仏教が接近した時代でもあったのだろう。
周囲を見回すと荒れ果てた墓地で、あるものは墓石が傾き、草は生い茂り、樹木は倒れたままである。いつの時代のものとも知れない墓石の欠片も転がっている。荒涼としたものを感じた。
斜面をさらに上っていくと朝熊ケ岳山頂に着いた。標高は五五五メートル。ここが最高峰になる。八大竜王社があったので詣でた後、草地に座って眼下の景色を眺めた。眺望はよく伊勢湾の海の色がきれいである。先ほど行った山上公苑の辺りを見ていると、突如ふわりと赤いパラグライダーが現れて風に乗り斜め下を流れていく。目で追っていると、近くに発着場があるらしく、また別のパラグライダーが飛来し、明るい花が咲いたようにいっとき大空に浮かび、やがて視界から遠ざかっていった。
下山することにした。朝熊岳道と宇治岳道の合流点まで一気に坂を降りていく。近鉄朝熊駅から急登の朝熊岳道を上がってきたハイキングの人たちが合流点で一休みしていた。近年登山者は朝熊駅からのコースをとることが多いそうだ。宇治岳道、つまりこれから向かう内宮参詣道のほうは、緩やかだが距離が長いため歩く人は少ないらしい。
とうふ(東風)屋という旅館跡があり、説明を読んでいると、こんな山の中に大きな旅館があったという。創業は江戸期で、大正時代には多くの客で繁栄、昭和三十年代まで茶店として続いたが火災で焼失したそうだ。朝熊山にはかつては登山バス、ケーブルまであって賑わっていたという。この付近にケーブル山頂駅があって、金剛證寺へ向かう登山バスもこの道を走っていたらしい。昭和十九年にケーブルは廃止となり衰退、客も激減したという。今は廃墟となってしまった敷地内には、錆びついた給水塔、壊れたかまど、石積みなどが残っていて、草に埋もれた食器片がわびしく散在していた。
宇治岳道は歩きやすいなだらかな下り道である。まだ六キロ以上あるが、町石が一町ごとに置いてあって目安になる。お地蔵さんが刻まれたもの、石柱だけのもの、中には上部が割れたものもあるが、昔の人はこの道しるべを頼りに山道を歩いたのだろうと思いつつ、ときどきお地蔵さんに挨拶しながら下っていく。
楠部の茶屋跡には石垣が残っていた。御木本幸吉の別荘跡ともいい、こんな不便な所にと意外に思うが、当時は今とまた事情が違っていたのだろう。苔むしていたが立派な石垣であった。さらに進んでいくと、今度はスカイラインに出た。道路を横断するのではなく、歩道橋の上を越えていくようになっている。スカイラインと出合ったのは参詣道でこの一箇所だけであった。道は崩れてだんだん歩きにくくなってきているのが分かる。全体で八キロあるコースなので整備もなかなか追いつかないのだろう。
道端に昔の小型トラックが捨てられて朽ちていた。いつの時代のものか、随分古い型で、風雨にさらされてぼろぼろになっている。崩壊が進んでもう見る影もないが、この狭い道をよく走ったものだと思いつつ脇を通り過ぎる。
登山者はほとんど見かけず、野鳥の声のほかはひっそりとしている。山道を駆け上ってきたランニングの人に一人会っただけであった。歴史が感じられる雰囲気のある参詣道であったが、全体にさびれて道が荒れつつあることがよくわかった。
この辺りから疲労と暑さのせいか、歩く速度が少しずつ落ちてくる。もう神宮の森に入っているはずなので、もうひと息と思い、頑張って歩く。
神社司庁らしい建物が見えてきた。やっと内宮に着いたのだ。近道を通って宇治橋方面に抜けたかったが、裏門は閉まっていたためにあきらめて、遠回りでおかげ横丁のほうへと向かう。五十鈴川にかかる橋を渡ると、さっきまでの静けさとは打って変わってそこはもう観光客の渦巻く活気溢れる町角であった。人に混じっておかげ横丁を冷たいものを求めてうろうろし、茶店で赤福もち入りのおいしそうなかき氷を見つけて、床机に坐り休憩をとった。
滝原宮
滝原宮は伊勢神宮の別宮で、度会郡の山中にある。滝原から現在地の宇治に内宮が遷座したという伝承を持っており、元伊勢である。伊勢市からは四十キロ以上離れているが荒祭宮、多賀宮、月讀宮、伊雑宮とともに格が高く、その起源は古い。
「倭姫命世記」によれば、垂仁天皇皇女倭姫が御杖代となって天照大神を奉戴し、大和を出発して伊賀、近江、美濃と各地を巡った末、ようやく伊勢に入った。大神の宮を定めるべく良地を求めて宮川を遡り、土地神に助けられてその案内で滝原の地に宮を建てたとされる。やがて滝原宮から現在の五十鈴川のほとりに内宮は遷座するのだが、その時期については諸説あってはっきりしない。
神宮側は、神意により倭姫が滝原から宮を宇治に遷し、滝原に宮があったのはわずか数年という説をとっているようだ。その場合だと弥生時代、だいたい三世紀末とみればいいのだろうか。遅いほうの説では、遷座は続日本紀の記述から六九八年(文武二年)とみる学者もあり、時期については大きな開きがある。
滝原宮は、宮川の支流大内山川が近くを流れ、今も原生林の残る自然豊かな山中にあり、六キロ離れた宮川沿いの集落には、摂社多岐原神社があるという。どんなところなのか滝原を訪ねてみることにした。
松阪からローカル線に乗り換える。最初はのどかな田園風景が続いているが、山に入っていくと思いがけず深い渓谷が現れ、実に美しい景観である。やがて滝原駅に着いて(無人駅であった)見回すが路線バスなどは見当たらず、滝原宮の近くの宿まで徒歩でゆくことにする。滝原宮は駅から一キロ半という。
まず大内山川にかかる橋を渡っていく。水は澄んでおり切り立った対岸の緑は深く、橋からの眺めは心が洗われるようであった。
道を聞きながら旧熊野街道沿いに歩いていく。ところどころに昔の町並みが残っており、立派な白壁の土蔵や広い庭を持つ民家、古びた石垣などに情緒が感じられる。どのお宅もよく手入れされた植木鉢を並べているのが印象的であった。やがて滝原宮の森林が行く手に見えてくる。かなり長い参道のようで、並行する坂道を上がって今晩の宿、サイクリングターミナルに入った。食事のつかない宿なので、自転車を借りて駅の近くまで食事に出る。とっぷり暮れた道を走っていると、田んぼからさまざまな蛙の鳴き声が聞こえてきた。
翌朝、宿で借りた自転車で坂を一気に下り、滝原宮の鳥居前へ。清々しい空気に包まれる杉と檜の参道を進み、滝原宮に参拝する。右手の川には御手洗場が設けてあり、冷たい流れに手を浸せるようになっていて、内宮と同じ雰囲気が感じられた。
滝原宮は背後に山がある。参道脇に立ち並ぶ樹木はどれも見上げるような大木で、森は深く神域独特の静けさに満ちていた。杉や檜の梢から鳥の囀りが降ってくるほかは、神社の人が時折竹箒で道を掃く音だけが響いている。
滝原宮、滝原並宮、土地の二社に参拝、古殿地を眺めて引き返す。朝早いので人は少ない。思わず森に引き込まれていきそうになるくらい、魅力的な緑濃い森の佇まいであった。
自転車で地図を見ながら、今度は六キロ離れた摂社の多岐原神社に向かう。旧熊野街道沿いにしばらく走っていくと、国道に出て緩やかな坂になり、信号で右折してさらに山道を進んでいくと三瀬谷集落脇に案内板があった。
多岐原神社は集落の小高い位置に建てられていた。神木は大きな檜でひっそりとしたお社であった。祭神は真奈胡神という土地神で、倭姫一行が宮川を遡ってここまで来た際、急流で難渋していたのを助けて倭姫を案内したという。「倭姫命世記」からみてみよう。
・・・・大川の瀬を渡り給はんとしたましに、鹿のししむら流れ相ひき。「是れ悪し」とのたまひて、度(わた)りましまさざりき。この瀬を相鹿瀬といひき。其の処より河上を指して幸行(みゆき)すれば、砂流るる速瀬有りき。時に真奈胡神参り相ひて、度(わた)し奉りき。その瀬を真奈胡御瀬といひて、御瀬社を定め給ひき。
倭姫一行の船はもう少し下流で渡ろうとしたが、流れてきた鹿の死体があったのでそこを避け、河上に向かった。渡ろうとしたが急流でおそらく転覆の危険もあったのだろう。流れをよく知る土地の人の助力で無事に舟は岸につけることができたというのだ。記述はさらに続いていく。
・・・・其の処より幸行するに、美地(よきところ)に到り給ひぬ。真奈胡神に「国の名は何ぞ」と問ひ給ひき。「大河の滝原の国」と白(もう)しき。その処を・・・・荒草を苅り掃はしめて宮造りして坐さしめき・・・・。 (倭姫命世記)
倭姫命世記による滝原の宮の由緒である。倭姫は老齢のおばの豊鋤入姫から祭祀を受け継ぎ、「ここより倭姫命、天照大神を戴き奉りて行幸(みゆき)す」ということになって各地を巡った。
同書では、宇陀から伊賀、甲賀、近江、美濃など各地に軍を率いて何年も(二年~四年)滞在し、それぞれの地で天照大神の「社を定め斎き奉る」とある。それらの地は伊勢神宮よりも前に天照大神が祀られたので元伊勢と呼ばれることになるのだが、それぞれの地には古くからの土地神が祭られていたはずであるから、土地の神霊を押しのけて天照大神を祀らせたということになる。
倭姫一行は行く先々で、まず首長に国の名を尋ね、「〇〇の国」と答えさせ、それから地口、御田、神戸、釆女、船などを受け取っている。「鮎取る淵」「簗(やな)さす瀬」というのもある。さまざまな富を領有しつつ軍は伊勢に向かって進むのである。
現れた大和の軍勢を見て、道筋に当る地の人々は動揺しかつ怖れたことだろう。大和に帰順するか戦うか、それらを行く先々の地で首長に選択させたとも考えられる。時に戦闘も起きたかもしれない。
正式に国名を聞かれ、それを告げることは、相手に国魂を捧げることにほかならず、これは大和に帰順する儀礼行為の表現ともいわれている。
記述を読んでいると、あたかも倭姫が一人で軍を束ねていたかのように読める。倭姫とはそれほど勇敢な女丈夫だったのだろうか。以前神宮徴古館に行ったとき、弥生時代の装束を身につけたたくましい旅姿の倭姫像が玄関に置いてあって、その巨大な造形にびっくりした。
しかし倭姫は軍と行動をともにしただろうが、実際に相手方と交渉に当たり作戦を練り、戦闘を指揮するのは付き添った五大夫(阿倍、和珥、中臣、物部、大伴)といわれる重臣たちの仕事であったろう。倭姫はその霊能の力を発揮してじかに神の声を聞き、それを伝え、あるいは土地の神霊をしずめるなど、もっぱら祭祀を中心にした役割を担っていたと考えるのが自然であろう。
倭姫はあくまでも伝承の世界の人であるが、ごく初期の斎王(斎宮)と呼ばれる人でもある。伊勢にはその後も政権が変わるたびに、天皇家から未婚の皇女が派遣されてきて神に仕え、記録では南北朝の頃にとだえるまで、斎宮として七十人を越える皇女の名が残っているそうだ。
以前「斎宮志」という本で、伊勢の神に奉仕した年若い皇女たちの系譜を、ずっと年代を追って見ていったことがある。伊勢には行かず大和の地で神を祀った人もいるようだし、斎宮に選ばれるに至った経緯も背景もさまざまであるが、不幸な逸話を持つ人が多く、斎宮とは神に捧げられた生贄なのかとも思えてくるほどであった。斎宮に選ばれるとは、都からの追放、隔離という側面もあったのだろう。斎宮の名の下にその人を切り離し、遠ざけてしまおうとする権力者の意図も見え隠れする。おそらく政権内での政治的事情も反映されているかと思われる。
豊鋤入姫もまた天照大神の祭祀という重責を担って丹波、紀伊、吉備と各地に赴いた流離の人であった。豊鋤入姫も倭姫もその意味ではともに、さすらいの皇女といえるだろう。
倭姫は悲劇の英雄ヤマトタケルのおばに当る。記紀にも登場し、それらによれば、父に疎まれたタケルが東国平定に向かう折、伊勢に立ち寄り、倭姫はそのときにタケルに剣と嚢(ふくろ)を与えて励ましている。それらの品はタケルがだまされて野で焼き打ちにあった際、タケルの命を救った。剣で草を払い、嚢にあった火打石を使って向かい火をつけて難を逃れたのである。タケルと倭姫の間には心が通い合うものがあったかと思われるが、いつかまた別の機会にこの二人については考えてみたいと思っている。
以前のことになるが、JR遠回り切符の旅(一筆書きの旅)を試みたことがあった。尼崎の加島駅から一駅分切符を買い、遠回りで乗り継ぎを楽しんで元へ戻ったのだ。御幣島、京橋、放出、河内磐船、祝園、木津、伊賀上野、佐奈具、柘植、ここで草津線に乗り換えて甲賀、草津、さらに琵琶湖線で安土、彦根、米原、北陸線で坂田、余吾、さらに湖西線へと続くのだが、その日車窓から歴史に因む興味深い駅名群をみていて、ふと柘植のあたりで、この進路が倭姫の巡行の旅路と重なっていることに気がついた。列車は伊賀(敢国神社)、甲賀(日雲宮)、近江(坂田宮)、と順に進んでいくのである。俄かに関心がわいて窓からの風景にじっと目を凝らした。
東側に鈴鹿の山がずっと見えていた。こんもりとした山並みが絶えず右手に広がっている。これは鈴鹿山脈を迂回する路だったことが実感された。古代では鈴鹿越えはさぞ難儀であったろう。賊も出たし峠越えの山道も険しかったはずである。でも山中どこかの峠を越えないと伊勢には行けない。山間部を避けて平地を行くとしたら自然とこの遠い迂回路になるのであった。
坂田駅を通過したとき、駅近くに坂田神明宮が窓から見えていた。倭姫が二年滞在したとされる宮である。さすがに美濃(伊久良河宮)まで行くのは無理なので、倭姫を車窓からしのぶ旅はそこまでであったが・・・・。
摂社の多岐原神社に詣でた後、熊野古道ゆかりの「三瀬の渡し跡」を見に行った。神社の近くを宮川が流れており、大氾濫したときには、この鳥居まで水に浸かるそうだ。暴れ川らしいが、草むらの道を降りていくと視界が開け、ゆったりときれいな川が流れていた。水の色は青く澄んで、水辺には夏草が生い茂り、対岸は切り立った崖になっている。川原に流木が転がり、照りつける日差しに川面がきらきら輝いて眩しいほどであった。
神社に戻ると近くの草の間から蛇が現れた。思わずキャッと叫んで飛びのく。向こうも驚いて道端に隠れたので、もう後も見ないで走って逃げ、道路に出てようやく息をついた。自転車で再びもとの道を引き返す。
滝原宮に戻ってきた。行きは気づかなかったが、足神様という石が道端の角に祀られていたので、自転車を止めてお参りした。見るとそこから山に向かって細い道が延びている。片側はずっと金網が張ってあり、神域なので入れないが、平行して奥へ進む道が続いており、森の雰囲気を味わいたいと思ったのでその道に入ってみることにした。
左側には植林された杉や檜の林がしばらく続く。右側の金網の向こうは神域の深い森の気配である。驚くような大木が並んでいる。こんな深い森は珍しい。一口に原生林というが、それぞれに趣の違うしかも力強い木の様相、その佇まいに心を奪われ、圧倒されて言葉もなく歩いていった。なんだか一つ空気の壁を通り抜けるたびに、辺りの気温が下がっていくような気がする。空気が冷たくなっていくのだ。森林の懐に入ったらしい。鋭い鳥の声と葉ずれの音と、吹きぬける風の音。いつしか境の金網が消えていくような感じがして、ただもう冷気に包まれた森の中を黙々と足を運ぶ。道のある限りどこまでも歩いていけそうな感じである。時間も忘れ夢中になって進んでいたが、気がつくといつの間にか森に深く入り込んでいたらしく、ここから先は禁止という立て札に遮られて我に帰った。目の前は山になっている。滝原宮の裏まで来たようだ。
同じ道を引き返しつつ、またしても森の樹木に心が引き寄せられていく。なんという杉の大木。なんという立派な檜。ただ大きいだけでなく、古いだけでなく、どれも何か力が感じられる樹木なのだ。ここには古代の時が今も流れている。普通に道を歩いているだけなのに、森の中を木から木へとさまよっているような妙な感覚にとらわれる。不思議な森だと思った。ところどころに空気のカーテンがあって、そこを抜けるたびにすっと空気が変わっていくのがわかる。
もとの植林地帯に戻ってきた。さっき置いた自転車が、遠くのほうにぽつんと見えている。振り返れば、森はひっそりと静まり返っている。次第に空気が蒸し暑くなってきて、汗をぬぐいつつ、森の異界への短い旅が終わったのを知った。さっきひんやりと漂っていた森の霊気はもう周囲にはない。あそこに流れていたのは、ただ単に冷たいだけではなかったようにも思う。目には見えないが、ここは異空間への入り口だったのだと思った。
まだ時間があったので、最後に大滝峡まで自転車を走らせて、大内山川の景観を見に行った。自転車を止めて遊歩道を歩き、樹木越しに渓谷を眺めた。大内山川の水の色は深くて美しい。切り立った崖、大きな岩、滝原には手つかずの自然が多く残っていると感じた。
自転車を宿に返しに行き、帰途につく。滝原駅で帰りの列車を待っていた。極端に本数が少ないので、一時間近く待たねばならない。退屈してホームから何気なく線路を見ていたら、するすると蛇が現れたので肝をつぶした。そのうち見えなくなったのでほっとしたが、今日は二匹目である。緑豊かな自然に恵まれた滝原の地は、また長いものも多いところであった。