光 秀 本 陣 跡
光 秀 本 陣 跡
1582年(天正10年)6月、明智光秀軍と羽柴秀吉軍は、円明寺川(小泉川)を挟んで布陣した。
山崎の戦いである。勝龍寺城を占拠していた光秀は、城を出て御坊塚に本陣を置き、指揮をとったとされる。戦いはわずか一日、それも短時間のうちに勝敗が決まったといわれている。光秀ゆかりの地をたずねてみた。
サントリービール工場の裏手、下植野団地集会所脇で「境野古墳群と光秀本陣跡」という大山崎町の表示板を見つけた。
御坊塚は境野古墳群を指すと思われたので、竹やぶの中に入ってみた。古墳は複数個あり、小高い位置に立ってみると、時折さやさやと周囲の竹が風に揺れるほかは、ひっそりとしていた。今は竹林や建物にさえぎられているが、当時は天王山や山崎の地を、遠くまで見わたすことができたのだろう。
光秀はここで、刻々不利になっていく自軍の戦況を、じっと見つめていたのに違いない。
やがて敗北を知った光秀は勝龍寺城に引き上げ、ほどなく城を出ていく。光秀は近江坂本へと敗走する途中、小栗栖で農民の手に掛かり、あっけなく亡くなり、坂本城にいた明智一族の人たちは滅ぼされた。
細川忠興に嫁いでいた光秀の娘玉(後のガラシャ)は、逆臣の娘という汚名を、生涯背負って生きなければならなくなった。
やがて天下を取った秀吉が病死し、その後は石田光成と徳川家康の戦いが始まっていくのだが、夫忠興の言葉に忠実に従おうと決意した玉は、夫の出陣中、屋敷を取り囲んだ石田光成方の人質になることを拒んで死を選ぶ。そして自害を禁じるキリスト教の教えを守って家臣に胸を突かせ、屋敷は燃え落ちていった。
散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
玉の辞世は、このような歌であった。それは父の光秀が、本能寺の変の数日前に、愛宕山の連歌の席で詠んだ、謀反の決意を思いきって表明する、有名な次の句を思い起こさせる。
ときは今 天が下知る 皐月かな
娘である玉は、父が詠んだ「とき」や「知る」など同じ語句を用いながら、父とはまったく異なる生き方をこの歌で示してみせた。
でも父の句と娘の辞世とは、どこかでつながっているような気がする。玉は、父のあの恐ろしい発句を、このように歌うことによって、見事に巻きおさめたのではないだろうか。
光秀本陣跡を出て、忠興と玉が若いころしばらくの間暮らした勝龍寺城のほうへ向かって歩きはじめながら、そんなことを思うのだった。
(2007・3・28)