中島敦
「李陵・山月記」(新潮文庫)
中島敦
「李陵・山月記」(新潮文庫)
中島敦は明治四十二年東京生まれ。祖父は高名な漢学者で、一族は漢学者を多く輩出している。敦の父は旧制中学で漢文教師を務め、母も小学校教員であったという。両親は敦の誕生後に離婚し、敦は祖父母宅に預けられて幼少期を過ごした。祖父はすぐに没したので、敦が直接薫陶を受けることはなかったようである。
父の再婚により、敦は六歳のとき、父の任地先である奈良県郡山市に移るが、気の強い継母とは合わず辛い日々を過ごしたという。敦はこの継母に十四歳まで育てられた。継母が女児を出産した後、急死すると、父は三番目の妻を迎えた。敦はこの新しい継母とも馴染めず、父にも強く反発していたようである。父は赴任先に妻子を伴ったので、敦も奈良から静岡、京城と各地を移り住むこととなり、京城で中学を終えると、敦のみ帰国して一高に入学した。十八歳のとき肋膜炎で一年間休学、喘息の発作はこの頃から起き始めたようである。二十一歳のとき帝大国文科に進んだ。
敦の性格は暗さと明るさの両面を持ち、文学に傾倒する一方で、ダンスホールや雀荘に通い詰めたそうである。まだ学生であった二十四歳のとき、麻雀荘の店員の女性との間に子どもも生まれたが、結婚に関しては双方の親族が反対するなどの事情が生じたため、妻子との同居や入籍は遅れたようである。敦は大学卒業後、新聞社の試験に身体検査で落ち、横浜で職を得て私立女学校の国語と英語の教師を務めていた。
ようやく家庭を持ち、二人の男児の子煩悩な父親となった敦であったが、持病の喘息のため薬が欠かせなかったという。病弱であったのにもかかわらず登山や旅行が好きで出かけてしまうし、小説家を志して家では原稿を書くことに精力を傾ける日々であったが、妻のたかは夫の思いを理解し、全力で支えたそうである。
昭和十六年、教職を退いて、日本の委任統治下にあった南洋諸島パラオに官吏として単身赴任し、教科書編纂の仕事に当たることになった。親友の釘本久春がこの職を斡旋したという。敦の体調を気づかい、南洋なら喘息によいのではと思い、教職の経験も生かせる仕事で、収入面でも安定すると考えたようである。敦は当時女学校の教え子との間で、恋愛めいた問題を起こしていたらしい。日本を離れるとき、兄事していた深田久弥に「古潭」(「山月記」「文字禍」など四篇)「光と風と夢」の原稿を託していった。
現地では滞在していた彫刻家で民俗学者の土方久功と知り合い、交友を深めていったようである。土方に見せてもらったノートや記録が、南島を舞台とする敦の一連の作品群のもととなったといわれている。
ずっと喘息に苦しんでいた敦は、快方に向かう期待を持っていたようだが、実際には病状にはよくなかったらしく、結果として命を縮めることとなった。外地からは妻子に便りを何本も書き送っており、その内容からは子煩悩ぶりがうかがえる。翌年戦争の激化により帰国した。文芸誌ともつながりができ、「李陵」「弟子」などを執筆して小説に専念しようとするものの体力が続かず、病が悪化して三十三歳の若さで世を去った。
昭和十七年、深田久弥の尽力で「山月記」「文字禍」の二篇が「古潭」としてようやく文芸誌に載った。同年、スティーブンソンの晩年を描いた「光と風と夢」が第十五回芥川賞の候補になっている(ちなみにこの回は受賞作はなし)。遺作は「李陵」で、これは発表時に深田が題名をつけたとされる。ほかには教師の日常を題材とした「かめれおん日記」、自伝的な「狼疾記」など。中国古典をもとにした「名人伝」「弟子」は没後発表された。
「山月記」あらすじ
李徴は唐の時代の人。秀才で官吏となったが詩の才能には自信を持っていた。職を辞して人と交際を絶ち、名声を夢見て詩作に耽るが、思いに反して文名は上がらず焦りは募るばかりであった。数年後、妻子の衣食のためと自らの詩才にも絶望したことから志を曲げて地方官吏となるが、心は鬱々としていた。公用で旅に出たとき、夜半に突如発狂して宿を飛び出し、そのまま行方知れずになった。
翌年、監察御史の袁参がその地を通ろうとすると、人食い虎が出ると宿の人に制止された。早朝だったので袁参一行が構わず進むと、虎が現れた。虎は飛びかかろうとしたが、草に隠れ「あぶないところだった」と人語を呟いた。袁参はその声を聞いて、旧友の李徴だと知った。二人は名乗り合い、袁参が事情を尋ねると、虎は草の中から語り始めた。
夜中に誰かから呼ばれているように感じ、宿を出て闇を駆けてゆくうちに、気がつくと身は虎に変じていて、兎を食らっていた。一日のうち数時間は人間の心が戻って悲しくなり、あれこれと思い悩むが、やがて忘れてしまい、本能に従って狩に出かけ獣としての行動をとってしまう。
願いがある。自分が詩作したものの中で、まだ暗誦できるものがあるので、どうかそれを世に出して伝えてほしい。袁参は部下に命じ、草むらから聞こえてくる漢詩の数々を書き取らせた。すぐれたものであったが、何か欠けているようにも感じられた。さらに声は続き、即興で今の悲哀の気持ちをみごとな詩で披露したので、人々は感嘆した。
さらに李徴は妻子の行く末のことを友に頼んだ後、妻子よりも詩のことを優先して頼むような愚かしい人間だから、獣に堕ちたのだと自嘲した。羞恥心に近い臆病な自尊心のために人とうまくつきあえず、師を持ち詩友と交わることも避けていた。才能には自信があったが傷つくのがこわく、人の評価をおそれてもいた。かといって官吏を続けて俗物にもなれず、内心の尊大さを増大させた挙句、自分はついに虎となってしまったのだと。
危害を加える恐れがあるので、今後は決してここを通らぬように、と友に告げ、一度だけ浅ましい姿をさらすことを約束した。道を進んだ一行が丘の上から草地を振り返ると、一匹の虎が躍り出て月を仰いで咆哮し、やがて姿を消した。・・・・
高校の教科書に短編「山月記」が載っており、凝縮した硬質で格調高い文章が印象的であった。出だしはこんな風である。
「隴西(ろうせい)の李徴(りちょう)は博学才頴(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自ら恃(たの)むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかった」
漢字が多く、ルビがたくさん振ってあり、注も多かったと記憶している。読み終えると、ある衝撃と怖さがあった。読み手も正常と狂気の間を揺れ動くような気分を味わわされる。
作中の李徴の漢詩「ふと心を病んで狂気に至り、獣の身となってしまった。災難が重なり、不幸な運命から逃れることができない。私の鋭い爪や牙に、誰が敵対できるだろう。あの頃の君と私は、ともに世評が高かったが、私は今では獣になって草むらにひそみ、君は車に乗るような身分になった。今夜、山や谷を照らす名月を仰いで、私は詩を吟じようとするが、漏れるのは哀しくほえる声ばかりである」も、中島敦本人が作ったのだと思って、こういうものがすらすら出るなんてすごい、と才能に感心していた。
ずっと後になってから、「山月記」には実は種本があり、「人虎伝(じんこでん)」という中国の唐の時代の説話集からとったもので、完全な創作ではなく、漢詩も「人虎伝」から引用してそのまま写されていることを知った。芥川龍之介が古典を渉猟し「今昔物語」を読み込んで、独自の解釈や心理描写を加え「芋粥」などを執筆し、あるいは中国の古典「杜子春伝」から「杜子春」を書いたように、中島敦も漢籍を通して同様のことを試みていたようである。
「人虎伝」は唐代の伝奇小説で李景亮撰とされ、異本もあり、「支那文学大観」「国訳漢文大成」で日本に紹介されていたという。島内景二氏の研究(中島敦「山月記伝説」の真実 文芸春秋)によると、複数の作家が「人虎伝」に関心を示し、この作品の自由な翻訳を試みていたそうである。たとえば佐藤春夫の場合は、「親友が虎になっていた話」で子ども向けに友情についての読み物として発表、虎は盗賊のことと解釈しているそうである。また今東光の翻訳した「人虎伝」は、かなり意訳されているとのことである。発表時期は今東光の作は「山月記」より十五年早く、佐藤春夫の作は「山月記」と同時期に執筆されたらしいが、発表は「山月記」よりも九ケ月早かったそうである。中島敦のみが「人虎伝」を用いたわけではなかったということらしい。
「人虎伝」「山月記」を読み比べてみると、登場人物は同じで、似通った筋、場面展開もほぼ同じである。ちなみに「人虎伝」冒頭部分を抜き書きしてみると、こんな感じである。
「隴西の李徴は皇族の子なり。・・・・李徴、少(わか)くして博学、善く文を属す。天宝十五載の春、進士の第に登る。後数年、江南の尉に調補せらる。徴、性疎逸にして才を恃(たの)みて倨傲(きょごう)なり」
ずっとこんな調子で続いてゆくのだが、「山月記」と「人虎伝」の展開を比べると、二点だけが異なっている。一つはなぜ虎になったのかと友に尋ねられたとき、李徴が答える理由である。「人虎伝」の李徴は、ある未亡人と深い関係になってしまい、それを妨害しようとした未亡人の家族を恨み、放火によって一家を殺害してしまい、その罪によって虎になってしまったのだと友に告げる。悪事を働いたから獣に堕ちたわけで、その設定で考えるなら、この話はただの怪異譚であり底の浅いものにみえてしまう。因果応報の説話になっているからである。
もう一つの相違点は、友に願いを述べる場面で、「人虎伝」の李徴はまず妻子の生活を案じてそのことを友に頼み、次いで自分の詩作の発表について頼む。ともに依頼の二つの内容は同じであるが、頼む順番が「山月記」と違っているのである。
「山月記」の李徴は、家族のことはあまり顧みなかったようだが、犯罪人ではない。ただ自らの心が生み出した詩で名声を得たいという欲望に憑かれ、孤独に葛藤するうちにいつしか狂気に至り、人としての心を失い、人間でないもの、虎に変身してゆくのである。それは文学を志してペンを握り、狂気じみた執心で机に向かって原稿を書き続けていた中島敦自身の懊悩の姿と重ね合わせることができるだろう。これは敦に限らず、人が誰しも心の中に持っている、自分の願望に取り憑かれてゆくと、人としての何かを見失いそうになる、という過程を象徴的に表現しているとも受けとれる。人はまっとうな精神や心を真に失ったとき、人ではなくなるときがある。そんなとき魔が現れる。その極限の様相を虎への変身譚に託して描いてみたのであろう。
敦は生みの母親を知らず(生母は後に再婚したが、大正十年に亡くなっている)継母とはうまくゆかず、辛い仕打ちを受け、自分を庇ってくれない父親との関係も良好ではなかったらしい。けれども憎悪しているはずの父親の領有する漢詩、漢文世界が、幼少時から敦の精神にも染み込んでいて強く影響をおよぼし、敦が描く作品世界、その創作の拠り所となっていることは否めないであろう。祖父から継承された儒家の血もさることながら、父と子は最も身近な所にあって漢文の世界を否応なく共有しており、敦の筆の力が縦横に発揮され強い輝きを放っているのは、中国古典を素材とし古代の雰囲気を濃密に伝える「山月記」「李陵」「弟子」などの作品なのである。
少し話は変わるが、白川静「文字講話」Ⅱに次のような文章が載っている。
・・・・インドシナの奥地にピー・トング・ルアングという民族がいるのであります。これは非常に少数の民族でありまして、・・・・それを調査した人があり、「黄色い葉の精霊」という東洋文庫から出ている本であります。彼らは、自分たちは死んだならば皆虎になるのである、という考え方を持っている。・・・・中島敦に「山月記」という小説がございますが、人間が虎になった話であります。どうもそういうふうな話が、これは中国の説話からとっているのでありますが、やはりどこかに根源するところがあるかもしれない。・・・・「文字講話」Ⅱ(平凡社)より
興味を感じたので、「黄色い葉の精霊」(ベルナツィーク著 東洋文庫)を読んでみた。一九三〇年代にオーストリア人夫妻がインドシナ半島を旅した記録である。白川氏引用の箇所は後半の「宗教」のこの部分かと思われるので記してみる。
・・・・・・・ピー・トング・トアング族の宗教観念を支配しているのは、霊魂に対する信仰である。それによれば、人間の運命に善悪の影響を与えるのは、死者の霊魂の仕業とされる。
霊魂は死後三、四日後に身体から離れる。悪人の霊魂は虎に変わり、ジャングルの中で鹿や猪を追うことになる。霊魂は不死で、乗り移った虎が死ぬと、別の虎に入るという。死者の霊魂が猛獣に変形するという信仰は、ピー・トング・ルアング族の隣人たち、とくにラオ人、ティン族、カムーク族の間にも存在する。従ってこの原始林の漂泊民ピー・トング・ルアング族に土着のものではないのであろう。・・・・ 「黄色い葉の精霊(東洋文庫)より
東アジアの民族の間の信仰では、人間が死後虎になるということは珍しいわけではなく、案外広く分布していた考え方なのかもしれないようなのである。
中島敦のほかの作品も少しみてみよう。
「光と風と夢」はスティーブンソンの晩年の伝記である。主人公がスティーブンソンという点に目新しさがあり、手に入れた英文資料を駆使した風変わりな作品として、当時注目されたかもしれないが、舞台地がサモア島という外国であり、どこか地につかない借り物めいた感じもつきまとい、芥川賞の選考委員の共感を得にくく、そこに限界もあったかもしれない。敦はおそらく漢籍を離れた新しい作風のものも試してみたかったのであろうけれど。スティーブンソンは結核を病んでおり、敦がこの主人公に託して描こうとしたものは、病の苦しみと闘いつつ書き続ける自分自身であったかと思われる。
「かめれおん日記」は教師が生徒からカメレオンを託されて・・・・という出来事で始まる日常を題材にした随筆風の作品であるが、カメレオン観察日記というわけではなく、主人公の鬱々とした内面や不安が語られてゆく。外国から船員の土産物として生徒の家に来たカメレオンは、持て余されて学校に運ばれ、職員室に置かれ、教師も家で数日間飼育を試みるが手に負えず、別の教師に預けられて上野の動物園に行くのである。カメレオンは綿を敷き空気穴をあけた小箱に入れられ、転々と住む場所を変えてゆく。どこも仮の住処であった。自分の意志とはかかわりなく、何度も環境が変わってゆく、そんな境遇で育った中島敦の姿がそこに重ねられるであろう。筋らしい筋はないが、作者について関心のある人には興味深いものかもしれない。私小説風の「狼疾記」もその点では同様である。
「ナポレオン」など一連の南の島を舞台とする作品群は、南島の風土や風俗習慣を丁寧に描写していて珍しさもあり好もしい。土方久功は自分の手帳、ノート類を敦が見ることを許したそうである。けれども一連の南島ものが、もし土方久功から借りた手帳の内容をそのまま書き写して作品化したものであるとしたら・・・・土方がそれについて本当に納得していたかどうかという点は気になる。
活字になった作品はあまり多くはなく、三十代での逝去は惜しまれるが、やはり中島敦がその本領を遺憾なく発揮しているのは「李陵」など緊張をはらんだ漢文調の作品であろう。子どもの頃から馴染んできた古代中国の世界は、敦にとってすでに血肉となっており、古典への愛着は言うまでもなく、豊富な知識にも事欠かず、一番描きやすいものであったかもしれない。
「李陵」は「漢書」の「匈奴伝」「司馬遷伝」などをもとにした重厚な作品である。李陵、司馬遷、蘇武のそれぞれの生き方や葛藤が描かれている。辺境の地で俘虜となり、苦しみつつ生きようとする李陵と蘇武。司馬遷は都で李陵を擁護したために武帝の怒りを買い、宮刑(男性機能を失わせる刑)を受けるが、その屈辱と絶望の中で再び筆を執り、精魂を傾けて「史記」を書き続ける。
・・・・何か悪霊にでも取り憑かれているようなすさまじさを、人々は緘黙(かんもく)せる彼の風貌の中に見て取った。・・・・生きることの歓びを失いつくした後も尚表現することの歓びだけは生き残り得るものだということを、彼は発見した。・・・・「李陵」より
辛い禍に遭っても、書くことによって自分を取り戻そうとした司馬遷の生き方は、病から逃れられず常に死を意識しつつ、時間と闘い命を削って創作を続けていった中島敦の姿と重なってくる。
文芸誌に掲載された「山月記」「文字禍」「光と風と夢」の三篇のみが、中島敦の生存中に発表されたものという。「李陵」も推敲中の未完の作だったらしい。作品がやっと世に出て注目されるようになったものの、その年のうちに世を去ってしまったので、ほとんど活躍の機会もなかったらしい。ただ高校の教科書に「山月記」が載ったことにより、多くの読者を獲得することになったのがせめてもの救いであろう。
教科書への採用に当たっては、文部官僚であった釘本久春が尽力したそうである。釘本は一高時代から文芸活動を通じての敦の親友であった。敦の没後に筑摩書房から「中島敦全集」が刊行されるが、釘本が中心となって方針を定め、編集作業にも遺族、学生時代の友人らが協力したという。
作家になりたかったが私立女学校に勤めるしかなかった中島敦と、官僚として出世してゆく釘本久春の間柄は、よく李徴と袁参の関係になぞらえられる。敦のために良かれと思って南島に中島敦を推薦した釘本は、その後の敦の体調悪化に心を痛め、死期を早めることになったと感じ辛かったに違いない。無念の思いで亡くなった敦の意を汲み、後世に作品を伝えるため、努力を惜しまなかったという。釘本は筑摩書房から「中島敦全集」を刊行して未発表の作品群をも含めて世に出し、高校教科書に短編「山月記」を採用することにも努力した。そうすることによって早逝した友人へのせめてもの手向けとしたのであろう。釘本は後に敦の長男の就職の世話もしたそうである。
「山月記」を初めて読んだとき、かちっとした硬質の文章がよどみなく続き、最後の一行に至るまで崩れることがなく終わったのを感じた。異界を語る物語だが、行間には何か圧倒されるような悲哀の気迫が満ちていた。ゆるぎない集中力でもって作品世界が構築され支えられている。端正な文体とか、そういう言葉でおさまりきらないものがあって、心が揺さぶられた。原典があるということは後で知ったが、気にならなかった。単に古典の語り直しではないものが感じられるし、光っているものがあると思う。中島敦は李徴を生きたし、釘本久春は袁参を生きたのだろう。中島敦の作品世界が今なお多くの人を惹きつけるのも頷けるのである。