アンブローズ・ビアス
「月明かりの道」「アウル・クリーク鉄橋の出来事」
(岩波文庫)
アンブローズ・ビアス
「月明かりの道」「アウル・クリーク鉄橋の出来事」
(岩波文庫)
作品を読み始める前に、ちょっと巻末にある解説のページを開けてみる。
アンブローズ・ビアスをわが国に最初に紹介したのは、芥川龍之介だった・・・・。
そう書き出されてあって、その後芥川によるビアス賛美の文章が数行続いている。
・・・・短編小説を組み立てさせれば、彼ほど鋭い技巧家は少ない。評家がポオの再来と云ふのは、確かにこの点でも当たっている。その上彼が好んで描くのは、やはりポーと同じやうに、不気味な超自然の世界である・・・・。
という具合である。解説者によると、芥川の「藪の中」はビアスの「月明りの道」から着想を得たものであるらしい。他にも、芥川の「侏儒の言葉」がビアス「悪魔の辞典」の影響を受けて生まれたようだともある。
芥川が影響を受けたのだとすれば、きっと面白い作品群だったのに違いない。芥川が刺激を受け、作品の中に反映させたものとは何だったのか。「ビアス短編集」の中から二篇ほど選んで読んでみることにしよう。
「月明かりの道」
あらすじ
この作品は三人の人間のモノローグで構成されている。最初の告白者は、遠隔地にいたため、帰宅してから事件を聞いた息子の告白である。
・・・・所用で出かけた父親が深夜帰宅したところ、何者かが侵入した形跡があり、寝室に行くと、母親が絞殺されていた、と父親から事件の経緯を聞かされた。
父親は神経を病んだようになり、ある晩、月光の道で突如何かを見て怯え、姿を消してしまった。以後父親は行方不明のままである。
次は夫の告白である。
・・・・妻を深く愛していたが、あるとき猜疑心に駆られ嘘の外出をした。予定よりも早く帰宅してみると、案の定逃げていく人影をみて、妻の密通の相手と思い込んだ。
怒りのままに妻を絞殺してしまったが、庭で不審者を見たというその供述は皆に信じられて、誰も彼が妻を殺害したとは思わなかった。
あるとき思いがけず月夜の道で妻の亡霊に会って凍りつき、恐怖から逃げ出して森をさまよいそのまま放浪者となった。
最後は霊媒師に呼び出された妻の霊が語る。
・・・・事件の夜、何か悪意を持つものが侵入した気配を感じ取って、不安に襲われた。一旦それは出て行ったのだが、程なく同じものが戻ってきて、いきなり自分の首を絞めてきた。
それが何ものであったかは分からないまま、自分は息絶えてしまった。
月夜の道で夫と息子を見て懐かしさに近づいていくと、夫は自分の姿が見えたらしくひどく怯え、どこかへ逃げ去ってしまった・・・・。
一人の人間の死を巡って、その事件について、複数の人間が順に知っていることを語っていき、その内容は少しずつ食い違っているのだが、最後に霊媒の口を借りて、死者がすべてを語って真実が明かされる、という構成は「月明かりの道」も「藪の中」も同じである。
芥川の目には、最後に死者の語りで謎がすべて解き明かされる、この設定がとても斬新なものに映ったのだろう。このスタイルをぜひとも自作に取り入れてみたい、と思ったのに違いない。
確かに大枠は模倣したといわれても仕方がないようだ。形は借りているようであるから。でも同じ型から生まれてはいても、その質は異なっているように見受けられる。二つの作品を読み比べてみれば分かる通り、中身は「藪の中」のほうが遥かに深く複雑である。
まず告白する人間が「月明かりの道」では少ないが、「藪の中」では計七人と増えている。そして肝心の当事者である盗賊と女の言い分は完全に食い違い、その段階では事実はまだ見えてこず、伏せられたままなので、読み手は惑わされる。
最後に巫女の口寄せで死者が現れ、その男の告白によって、真相が語られていくのだが、事実関係が明らかになった後も、これで終わりではなく、たぶんまだ語られておらず、これからも語られることはないだろうと感じさせる何ものかがある。言葉の裏に隠されている真実が、重い滓となって読者の心に落ちてくる。
深く読み解きたい人は、この作品を幾通りにも解釈するだろう。深読みが可能な作品なのだ。人が人に語る言葉より、語られなかった言葉のほうがおそらくは重い。作品は曖昧さを保ったまま差し出されており、判断は読者の心に委ねられていく。
「月明かりの道」について語るはずであったのに、いつの間にか話が「藪の中」に滑っていってしまった。二つを並べて比較してみると、どうしても芥川作品のほうが面白く読めたのである。
結局本当のことは、言葉で他人には語り得ないのだろう。そう思わせる心の奥底の葛藤や迷いが、「藪の中」には微妙な表現による告白の形で暗示されているのだが、「月明かりの道」には、増幅される素朴な恐怖感と、単純な邪悪さの提示がみられるばかりであった。
芥川が、今昔物語の巻二十九「妻(め)を具して丹波の国に行く男、大江山にして縛られたること」をヒントに「藪の中」を生み出したことは有名である。元の話は実にシンプルなものであるが、それを発展させ、膨らませ、更に「月明かりの道」の手法でもって、彼は見事な作品を創作したのである。
芥川の「藪の中」は、映画「羅生門」の成功によって多くの人に知られることになった。でもあまりにも黒沢明の「羅生門」が有名になったために、原作のほうはかえって霞んでしまったかの感もある。
最近も映画化されて、今回のロケは屋久島の原生林で行なわれたそうである。私は新しいのは見ていなくて、ひと昔前に地味なモノクロの映像で見た、三船敏郎や京マチ子の演じたイメージのほうがすぐに浮かんでくる。印象的な森の中での映像であったと記憶する。
黒沢の「羅生門」の撮影は、奈良の奥山の原生林や、長岡京市の光明寺の裏山で行われたという。以前光明寺へ行ったときにこのことを思い出し、少し裏山を歩いてみたことがあった。 撮影時から年月を経ているので、もう往時の山林の面影は消えているかもしれないと予想した。
お寺の裏に回ると池に出る。そう大きくはない池である。その周辺を歩き更に上がっていくと、ひと気のない寂れた小道が続いていく。山へ少しずつ入っていく。時折鳥が鋭く鳴いて、枝から枝へ飛び移っていく。足元の草が動いたような気がして思わず立ち止まると、とかげが一匹目の前を横切っていった。
当時は今よりももっと樹木が多く山も深かったはずだから、映画の撮影には適していただろう。カメラを回しているとき、お寺で経を読む声や鐘をつく音が聞こえてきて困ったという話を、何かで読んだことがある。
すぐ近くにお寺の屋根が見えるし、それほど深い山という訳でもないのに、何となく気持ちが不安になるようなところである。開発の手はまだこの地域までは届いていないようで、映画の中の森の雰囲気は充分に残っていた。
「アウル・クリーク鉄橋での出来事」
あらすじ
ビアスは南北戦争のころに生きた人であり、青年期には、リンカーンが呼びかけた義勇兵に志願して、北軍兵士として戦っている。そのせいか戦場を舞台とした作品も多いようであるが、その中からこの作品をみてみよう。
・・・・南北戦争の最中、一人の南部の農園主が鉄橋で絞首刑に処せられることになった。男は眼下に渦巻く川の流れを見つめる。
処刑の瞬間、川に落ちた男は必死の力でロープを解き、水面に撃ち込まれる銃弾をかいくぐって対岸に上がった。森の中へと逃れた男は、妻と子供たちが待つ家を目指して進んで行く。苦労して辿り着いたわが家の庭先で、男は妻を抱きしめようとした。
まさにその瞬間、鉄橋の上で男は首に強い打撃を感じた。そして流れの中に落ちて死んでいった・・・・。
処刑される直前の男が、絶望的な運命から何とかして助かりたいと願うあまり、その場から奇跡的に逃れ、家に帰り着いて最愛の妻に会う、という切ない幻を見ていたのだった。・・・・
短い作品なのだが、読後の衝撃は大きい。情景は映像的で、最後のシーンであっと驚かされる。特に付け加えて何も説明する必要はないだろう。
芥川のどれかの作品に、このストーリーが反映されているのかどうかはよく分からないが、このままの形ではなく、意外性とか、意表をつく展開とか、最後でそれまでのすべてを引っくり返してみせる落ちとか、思い切った構成とか、短編を創作する上で参考になることが色々あったのではないだろうか。
「アウル・クリーク鉄橋の出来事」は「ふくろうの河」というタイトルで、フランスで映画化され、高い評価を受けたそうである。ご存じの方もおられるだろう。
以前どこかの局の深夜放送で放映されていたことがあった。このときの映画はフランスのほうではなく、確かアメリカで別に製作されたテレビ版の「ふくろうの河」のほうではなかったろうか。
話は変わるが、以前、岩場から落ちた人の体験談を聞いたことがある。
真逆さまに転落していく間、これまでの自分の生きてきた人生の印象的な場面が、まるでフィルムのコマの早送りのようにぱっぱと見えたそうである。
それは現在から始まって、逆送りで時間が遡っていき、最後は幼児の頃の自分にまで戻ったそうである。時間にしてそれはほんとに数秒にも満たないくらいだったというのだが・・・・。
死の直前、人は心の中に何を思い浮かべるのだろう。どんな映像が最後に心の中に映るのだろう。そんなことをふと考えさせられてしまう作品である。
「ビアス短編集」(岩波文庫)