一物部氏の古社一 石上神宮
一物部氏の古社一 石上神宮
物部氏ゆかりのお社は各地に多いが、最古の社の一つといわれる天理の石上(いそのかみ)神宮を訪ねることにした。剣の神霊が祀られている。この日は山の辺の道も歩くつもりなので、思いきり早く家を出た。
朝のすがすがしい空気の中、近鉄天理駅から東方向に歩いていった。天理教の大きな建物の前を通り、交差点を右折してさらに進むと、山麓に石上神宮の森と参道が見えてくる。駅からは約二キロ、三十分くらいであった。
神域は静かで、お掃除のほうきの音だけが参道に響いている。楼門も風格のあるたたずまい、進んでいくと鶏の鳴き声も混じるようになり、鶏がたくさん歩き回っている光景が見られた。近寄ってもあまり逃げず、白、黒、茶色とさまざまな色の鶏がいるのが楽しい。レグホン、烏骨鶏、東天紅など数種類の鶏が放し飼いされているようだ。以前伊勢神宮の境内で、尾長鶏や長鳴鶏など放し飼いの鶏を見かけたけれども、近年は数が減っているということだった。(伊勢志摩 原風景への旅 の項)
神社と鶏は雰囲気がよく合っている。石上神宮では、神事に鶏を使われるのかどうかはわからないけれども、木に上るのが苦手な種類の鶏のために、夜間用の鶏小屋を設けてイタチの害を防ぎ(普通の鶏は高い木の枝に飛び上がって寝るという)、また近隣の方々が鶏の好む餌を持って来られるなど、皆であたたかく見守っておられるようだ。奉納された鶏が大切にされているのは心和む情景である。
祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、剣に宿る神霊である。次に布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、これは十種神宝の神霊である。次に布都斯御魂大神(ふつしみたまのおおかみ)、これは天羽羽切剣(あめのはばきりのつるぎ)の神霊である。配祀として宇摩志麻治命(うましまぢのみこと)、五十瓊敷命(いにしきのみこと)など。
布都御魂(ふつのみたま)とは国譲りのさい、建御雷神(たけみかずちのかみ)が葦原中つ国を平定するのに使った剣という。神武東征の折に熊野山中で、高倉下の倉に天から降されて霊威を発揮し、神武軍の危機を救ったとされる。記紀の世界を少しみてみよう。
・・・・神倭伊波礼日比古(かむやまといわれひこ)の命、其の地より廻り幸(い)でまして、熊野の村に到りましし時に、大きなる熊、髪(くさ)より出で入りてすなわち失せぬ。ここに神倭伊波礼比古の命、にはかにをえまし、また御軍も皆をえて伏しき。このときに熊野の高倉下、一横刀をもちて、天つ神の伏せる地に到りて献る時に、天つ神の御子、すなわち覚め立ちて「長寝しつるかも」と詔りたまひき・・・・。(古事記)
神倭伊波礼比古命(書紀では磐余彦尊、神武天皇)の軍がその地から廻られて、熊野の村に至ったとき、大きな熊が草木の間から出てきて消え失せた。毒気のせいでみことは急に気が遠くなられ、兵士たちもその場に倒れ伏してしまった。このとき熊野の高倉下(たかくらじ)という者がやってきて横刀(大刀)を献じると、みことはたちまち覚醒され「なんと長く眠っていたことだ」といわれた。大刀の霊威により熊野の荒ぶる神は自然と切り倒されて、兵士たちもことごとく目覚めた。みことが高倉下に刀を手に入れたわけを聞かれると、
「夢に、天照らす大神と高木の神が、建御雷(たけみかずち)の神を召して、葦原の中心の国はひどく騒ぎ、私の御子たちは困っている。葦原中つ国はお前が平定した国である。建御雷の神よ、降って行け、と仰せられた。それで建御雷の神が申し上げるには、私が降らなくとも国を平定した大刀があるのでそれを降しましょう。大刀を降ろす方法は、高倉下の倉の屋根に穴を開けてそこから入れましょう、と。そこで私に、お前は朝眼が覚めたら、大刀を取って天つ神の御子に奉れ、といわれました。それで夢の教えのままに倉を見ると大刀があったのでこうして奉るのです」と申し上げた。
この大刀の名は佐士布都(さじふつ)の神、またの名を甕布都(みかふつ)の神、またの名は布都御魂(ふつのみたま)という。今石上神宮にある。(古事記より)
実はこの場面は古事記の序文にも出ている。
・・・・化け熊、川より出でて、天の剣を高倉に獲(え)、生き尾、径を遮りて、大き烏、吉野に導きき。(古事記序文より)
(ばけものの熊が川から飛び出し、天からは高倉下によって剣をお授けになり、尾のある人が道をさえぎり、大きな烏が吉野へご案内いたしました)
化け熊とはまた変わった表現である。熊が出てきて毒気にあたるという本文の場面も何か変なので、(勝手な想像ではあるが)ここを自由に解釈してみることにする。
・・・・伊波礼比古軍の行く手をはばもうとした熊野のある人たちは、熊の毛皮をまとって山中にひそみ、機会をうかがっていた。軍が野営しているとき、機会を見て熊を装って飛び出し、軍がひるむ隙に、かねて用意しておいた毒性を持つ乾燥植物の束に火をつけて煙を発生させ、また焚火に投げ入れるなどし、茂みに姿をくらました。
この煙を吸うと、みことと兵士たちは気を失ってしまった。しばらくすると空模様が怪しくなり夕立がやって来て、雷鳴がとどろいて豪雨となり、火は消えてしまった。雷雨によって蘇生した軍は、付近にひそんでいた敵をせん滅した。集落に向かうと、倉の持ち主の高倉下(別名は天香山命とも、饒速日命の息子。宇摩志麻治命の異母兄に当たる)は神武軍に帰服、倉を開いて剣など武器を出してみことに献上した。
空想の世界であれこれいうことだから、お許しいただきたい。建御雷の神は雷の字が入っているので雷神とみて、神話、逸話の裏にあったかもしれないこのような展開を考えてみた。もし雨がなければ皇軍は危うかっただろうし、倉に穴が開いていたとあるのは、そこに落雷があったことを意味するのではないかと想像してみた。雷雨や落雷は自然現象であるが、このとき軍の側からみれば、単なる自然現象ではなく、何かの力が働いて起きた霊威とも神秘とも映ったのであろう。剣のかたちやそのきらめきは、稲光の閃光の表象かとも思う。
危機を脱したみことの軍は八咫烏の協力も得て大和に入り、敵対する勢力を退けて橿原宮で神武天皇として即位した。そして物部氏の祖、饒速日命(にぎはやひのみこと)の息子の宇摩志麻治命に命じ、この剣を宮中で祀らせたという。
ふたつめの祭神、十種神宝についてみてみよう。十種神宝とは、物部氏の祖神の饒速日命が天神から授けられ、大和にもたらした霊的な呪物とされている。その内容は、沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちかへしのたま)、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物比礼(くさぐさのもののひれ)。
鏡二面、剣一振り、玉四顆、比礼(布)三枚、なにやら神秘的な品々のようで、唱えごとをしつつゆらゆらと揺り動かせば、死人も蘇生するほどの強い呪力を発揮するのだそうである。鏡、剣、玉とあるので、王権を象徴するものとみて、三種の神器になぞらえて考える説もある。
神武天皇即位の後、宇摩志麻治は父から伝えられた十種神宝を天皇に献上、またそれらの品を用いて、天皇と后に対してみたまふりの呪術を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であるという。ただこの十種神宝は、古から伝わる物としては現存しないそうで、石上神宮に祀られている布留御魂(ふるのみたま)大神とは、この十種神宝に宿る神霊のことであるという。
饒速日命は神武天皇よりも前に、天神から十種神宝を授かり、天磐船(あまのいわふね)に乗って一族とともに河内の哮峰(いかるがのみね、交野市か)に天降ったとされている。饒速日は、土地の首長である登美の長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶って、男児宇摩志麻治をもうけ、生駒山山麓辺りを本拠とした。
「先代旧事本紀」(物部氏の文献)には饒速日とともに天降った武人たち、船長、舵取り、船子などの名前が列挙されており、大和に入ってきた磐余彦軍と長髄彦との戦や、宇摩志麻治の帰順なども記述されている。このとき氏族存亡の岐路にあった宇摩志麻治の一族は、苦渋の決断で身内の長髄彦を討ち(あるいは長髄彦は自殺の可能性も考えられるが)神武に服属することによって、生き延びる道を選んだのだと思われる。なお先代旧事本紀では、宇摩志麻治が生まれる前に饒速日は亡くなったとしている。饒速日は男と女の両方の名前を考え、前もって妻に言い置いていたとも。
三番目の祭神、布都斯御魂(ふつしみたま)についてみてみよう。ふつとは、刀で斬るとき発する音のこと、鋭く空気を切る音に強い霊威が感じられたのであろう。布都斯御魂とは、須佐之男命が八岐大蛇を斬ったときの剣であるという。剣は岡山県の神社に祀られていたが、崇神天皇の時代になって勅命により石上に遷されたとされている。
石上神宮の創祀は古く、崇神天皇の御代という。前述した布都御魂の剣はそれまで宮中に祀られていたが、このとき物部の臣によって石上の地に遷されたという。同じ天皇のときに十種神宝もここにおさめられ、またおろちを斬った布都斯御魂の剣も吉備の社から遷されたと伝承されている。
石上神宮には、服属の証として各地の首長から献じられた多くの武器、神宝が集められていったようである。布留山山麓は神庫、武器庫、保管庫として機能したらしく、その管理は物部氏に一任されたという。物部の「もの」とは精霊や霊魂を意味し、物部氏は本来「もの」との霊的な交流に通じ、呪術や祈祷に長けた一族で、占い、まじない、祭祀、神事、託宣などに携わっていたという。物部氏は金属精錬、武器製造ともつながりを持ち、軍事、刑罰などにその職掌は広がったようである。
石上神宮は古より拝殿はあっても本殿を設けず、拝殿奧の禁足地の「布留高庭」を特に神聖な領域とし、そこにはご神体の刀が埋められていると伝承されてきた。明治七年になって、当時の大宮司が国の許可を得て禁足地を発掘、玉類、矛、銅鏡、素環頭大刀一振りを見出した。それは身の長さ約六十八センチ、少し内側に反った鉄剣であったという。これがご神体の「ふつのみたまの剣」であると考えられたようである。さらにその四年後にも再度禁足地で発掘が行われたようで、別の鉄剣三振り(そのうちのひとつは布都斯魂の剣、の可能性もあるという)も見つかったそうである。ご神体の刀をおさめるため、大正の初めには禁足地内にはじめて本殿が造営された。
これらの剣とは別に、社宝として七支刀も所蔵されているという。枝分れしたような刀身のかたちから名づけられたようである。百済から神功皇后に献上されたと伝承されていて、実戦ではなく祭祀に用いられるものといい、見たこともないような特異な刀には、強い呪力があるとされたのであろう。
石上神宮はそう広い境内ではないが、布留山を背景に緑に包まれた趣のある古社としての静かなたたずまい、ほかにはない神剣や神宝の伝承に、遠い古からの歴史が感じられて印象深かった。神社参拝の後は、山の辺の道を三輪の方向にたどり、のどかな田園風景の中をぬけて万葉歌碑に立ち止まり、環濠集落を訪ねたりして崇神天皇陵のあたりまでゆっくり歩き、夕暮れも近くなり散策を終えた。