與止日女神社(肥前一宮) 下田山磐座
千栗八幡宮 (肥前一宮)
與止日女神社(肥前一宮) 下田山磐座
千栗八幡宮 (肥前一宮)
與止日女神社
肥前一宮は二社あり、一つは佐賀市北方の嘉瀬川(川上川、佐嘉川とも)の上流にある與止日女神社(よどひめじんじゃ)、もう一社は福岡県に近い千栗(ちりく)神社である。まず與止日女神社のほうを訪れることにした。
路線バスは、JR佐賀駅より徒歩数分の所にあるバス停から。市街地を抜けて川をさかのぼり、山並みや流れを眺めているうちに、三十分ほどで川上峡と呼ばれる景勝地に建つお社と森が見えてくる。水辺にある落ち着いた佇まいの古社である。與止日女神社は別名を河上神社、川上神社とも。地元では淀姫さんと呼ばれているそうだ。
祭神は與止日女命(よどひめのみこと)。祭神には複数の説があるので順に紹介してゆこう。まず「一宮記」によると、祭神は河上大明神と号し、八幡の伯母で神功皇后の妹とされている。
神功皇后の妹といえば、以前訪れた広島県鞆の浦の淀媛(淀姫)神社のことが思い出される。鞆の浦の伝承では、神功皇后は新羅遠征後、筑紫で王子を出産し(後の応神天皇)、帰途鞆の浦に寄港したが、同行の妹淀姫を神祀りのため鞆の浦に残し、幼な子を擁して大和に帰還していったと伝えられている。
皇后の妹は複数いたのであろうか。皇后は神の声を聞くような霊能の人だったとされるから、同行の妹たちも神事を補佐する人たちであったかもしれない。皇后は軍につき従う巫女集団も率いていたと思われるし、推測を重ねてゆけば、淀姫という名も必ずしも固有名詞ともかぎらない。古では、いわ、しま、とよ、いち、などは霊的な人に付される名であったらしいので、淀姫も、とよ、の訛化と考えることは可能であろう。いずれにしても淀姫はすぐれた巫女の名として人々に記憶されてきたのではないだろうか。
ほかには豊玉姫(海神の娘、竜宮の乙姫)祭神説がある。豊玉姫は神武天皇の父方の祖母に当たる人。
神功皇后の外征の折、当社祭神の河上大明神、またの名、與止日女大明神が潮満珠、潮干珠を得てそれらを自在に操り、敵を海底に没したと伝わるそうである。高良大社の縁起とよく似ている。高良の神と與止日女大明神の名を入れ替えればほとんど同じである。宝珠が海戦で起こしたという霊験、そのつながりから海神の娘豊玉姫の名があがったものであろうか。
また世田姫(よたひめ、風土記による)説、豊姫(ゆたひめ)説もあるそうだ。肥前国風土記には「またこの川上に石神あり。名を世田姫(よたひめ)といふ」とあって、上流の下田山の巨石群が当社姫神のご神体とされ、古の聖地とされているという。
豊(ゆた)姫というのは世田姫の別名であり、世田姫の訛化ともされるが、沖縄のユタ(民間の霊媒師)と語源が通じるとの説もあるらしい。沖縄のユタは、よた、と記されたこともあったそうだ。
それとは別に、記紀に出てくる熊襲の川上梟師(たける)やその妹説もあるという。日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲討伐は、南九州の話かと思っていたが、当地にも伝承があったらしい。この逸話の関係地はここからそう遠くない真手(まて)山、大願寺跡、健福寺の辺りということである。川上梟師が真手山に居を構えて酒宴を開いていたとき、女装した日本武尊が宴に紛れ込んで襲い、尊の軍によって熊襲一族は大願地の辺りで討たれたとされているそうである。
川のすぐ近くにお社が建てられている点を重視すると、水神信仰の社とも考えられるそうである。当地には、もともと河の神を祀り鎮める古い信仰のかたちがあったとする説のようである。
また肥前国風土記に記されている「その道を往き来する人の半数を生かし、半数を殺したという佐嘉川の川上の荒ぶる神」を祀り鎮めたお社との説も。この荒ぶる神は、下田山の土で人形、馬形を作って祀るという呪術によって和らいだそうである。
何はともあれ異なる時代の多くの祭神名があげられているので、祭神の與止日女に関してはそれだけ謎が深いということであろう。時代によって祭祀が変遷する中で、祭神もまた移ろっていったということであろうか。
見上げると女の神様を祀っているはずなのに、社殿の千木は外削ぎで男性神を示している。これもまた解きにくい謎のひとつであろう。
古くからのしきたりとして、当地では「なまず」を淀姫のご眷属として食べないそうである。肥前国風土記によると「海の神(わに、ふか、さめ、なまず説も)が毎年流れにさからって、川上のこの神の所にやって来るが、そのときに海の底の小魚たちもたくさん従ってくる。人がその魚をおそれ慎んでいれば災いがないが、捕まえて食べたりすると死ぬことがある。魚たちは二、三日とどまり、やがて海へ帰ってゆく」ということである。
志摩一宮伊雑宮の伝承にも似たような言い伝えがあるので紹介しておこう。志摩一宮では「毎年お田植祭の日に、七匹の鮫が的矢湾から川をさかのぼってお宮の近くの橋まで参詣のためにやって来る。竜宮からのお使いとされている。あるとき帰ってゆく鮫を漁師が銛で仕留めたところ、鮫は怒ってこの漁師を殺した。以後祭の間は漁を休み、海女たちも海に入るのを忌むとされている」ということである。
ある季節になると、海の小魚や時には大型の魚も川をさかのぼって来る現象を見て、人々がそれを宗教的に解釈したものであろう。高潮、津波などの折もあったかもしれない。同様の伝承が海豚参詣、鯨参詣などとして各地の寺社に残っているそうである。
與止日女神社の創建は欽明天皇の御代とのこと。それ以前にも古くから祭祀されていたようである。境内は静かで人影もなく、岸辺からきらきら光る川水を眺めていると飽きない。
姫神を祀る宮であれば、もっと赤い彩りがあったり装飾が施されていたりするものだが、社殿はどちらかといえば地味な印象である。
境内には大楠がそびえており、大きく枝を広げたみごとなご神木。石鳥居も何だか力強い造形、また境内には金精石という陰陽石もみられ、信仰の対象となっているようであった。なお神功皇后の妹淀姫は、この金精石の霊験で子を授かったと伝えられているそうである。
神社ホームページによると「肥前国風土記にも記されている大和町下田山山中にある巨石群が、與止日女神社のご神体と考えられている」とのことで、そこは「肥前巨石パーク」と呼ばれているそうである。それにしても神体山とされているのに巨石パークとは妙な命名である。
調べてみると、巨石群は昭和十年、地元新聞記者によって発見されて話題となり、多くの観光客が訪れて賑わっていたそうだが、第二次大戦、その混乱によって忘れ去られていった。平成七年になって、巨石文化のテーマパークとして整備され、復活したということである。けれども「昭和十年に発見された」というのも違和感のある言い方。遠い古の時代には磐座群は石神として敬われていたのかもしれないが、長い年月を経る間に、石神への人々の崇敬も衰退してゆき、磐座の信仰もその存在も人々の記憶から遠のいて久しくなってしまっていたということではないだろうか。
下田山は與止日女神社のすぐ裏山ではないので、神社では下田山の磐座を奥宮とはみなさず、祭祀を続けてこられなかったのかもしれない。祭祀の途絶はよくあること、事情はよくわからないけれども、現在は下田山を神体山としておられるようだし、標高二〇〇~三〇〇メートル付近にあるという巨石群に興味を感じたので、訪ねてみることにした。
下田山磐座 巨石パーク
バスの便がなかったので、神社を出て橋を渡り、川沿いに歩いてゆく。陽射しは真夏のようで、午前中なのに三十度を超えているように感じられる。道端にはノイバラの白い花が咲き、ヘビイチゴの実なども見られた。二キロ近く上流に進むと、巨石パークの入り口があり、さらに坂道を上がるとようやく管理棟に着く。座っていたおばあさんに尋ねると、登山口はここではなくまだ八〇〇メートル先とのこと。車だと登山口まで行けるそうだ。貰った探訪コース地図には裏面にびっしりと磐座の説明があり、この地図を頼りに登山口から山中へと分け入ることにした。
十七の磐座全部を回るには相当の体力が要るようである。ここまで来るのに時間がかかり、歩き疲れてすでに消耗しているので、まず二つの滝を訪ね、磐座は行ける所までとする。山道に入ってわかったことは、巨石パークという名称から、楽な遊歩道かと思いがちだが、実は登山なのであった。案内板はあるが道はよく整備されているとはいえず、折れた枝や落ち葉が厚く積もって滑りやすい。顔の周りを飛び回る虫「めまとい」に悩まされつつ上ってゆく。
ほどなく「石神の滝」に着いた。落差は数メートル、周囲には白いヒメウツギの花が散っており、岩陰にある清らかな滝である。滝の周りは涼しく、爽やかな水音に耳を傾けながら清流に手を浸していると、暑さも引いて心地よい。ひと息入れてからさらに進んで「烏帽子の雫」へと向かう。こちらは小さな滝で少し広がったかたちが可愛い。どちらの滝にも柄杓が置かれるなど心遣いがされていた。
最初の磐座が「道祖神石(さやのかみいし)」と「神頭石(じとういし)」である。近寄ると苔むした巨石の持つ重量感に圧倒される。道祖神は道行く人の安全を見守って下さるそうだ。神頭石は巨人の頭のように見え、ともに数メートルはあるだろうか。
進んでゆくと、神様が乗って降りられたという「御舟石(みふねいし)」と天に登るかたちの「龍の石」が折り重なるように現れる。長い船形の岩とそれに乗る龍。息を呑んで見つめる。これほど大きい磐座に出会ったことがなく、驚嘆しつつ眺め入り、畏れを感じて立ち尽くした。
三角型の形状から名づけられた「兜石」と「イナリ石」が続く。付近には無名の大岩も多く、どれを見ても名がついていないのが不思議なくらいで、堂々とした立派なものである。
「造化(ぞうか)大明神」に着いた。これは世田姫のご神体とされ、天地万物を造られた神様とのこと。山中の磐座群の中でも、中心となる特別な磐座とされている。重い存在感が漂い、霊的な岩としてしめ縄も張られている。磐座は屋根のように横に広がり、洞窟になっていて、中を通り抜けられる。厳かな気分になって身を屈め、そっと向こう側へ潜り抜けていった。
「誕生石」は巨大な陰陽石で、ここからすべての生物が生まれたとされる。平らになっており、岩の先までゆくと眼下に広がる景色を楽しむことができる。一気に心が開放されてゆくような感じ、風が通り抜け、深呼吸すると心身に伸びやかさが広がる。しばらく里山の穏やかな風景を眺めて過ごした。
「屏風石」は石の衝立のようで、近づくとぐっと岩が迫ってくるような独特の感じを受ける。今にも岩が動きそうな感じ、緊張感で身が引き締まるようであった。
「烏帽子石(えぼしいし)」は天に向かって突き出ており、巨大な魚の背びれを思わせるかたち、仰ぐと青空を背景に聳え立つ姿が美しい。尖った部分に特徴があり勇壮で印象に残る岩である。
「御座石(ございし)」は長方形の巨大な畳状の岩で、古に神様が座られたという。削いだように平らになっている。どことなく神秘感も漂い、乗ってみると聖所に上ったような感覚が起きてくるのも不思議である。片隅に竹箒が置いてあり、これは神座を掃き清めて奉仕する、という考え方にもとづくらしい。
「天神石」は小さな峰の見晴台にある。説明には、学問の神菅原道真公としているが、そぐわない気がする。名づけの謂れは別にあるのかもしれない。自然神を祀った、あるいは落雷などがあって神がこの頂に降臨した、という伝承のほうがずっとふさわしいように思われるのだが。こちらはあまり人が歩かないのか、天神石への山道の途中、分岐の下手の磐座に進む道が荒れているように見受けられた。
地図を見るとあと五つの磐座が未見であった。進むかどうか迷うが、長く山中にいて疲れてきたこともあり、先へは行かず磐座探訪はここまでとし、同じ道を引き返すことにした。
下りはさらに滑りやすい道であった。踏むとつるつるのつやのある落ち葉、これは何の葉っぱであろうか。椿かもしれない。注意深くそっと降りてゆく。夫が同行してくれたからよかったものの、山道で捻挫でもしていたら困ったであろう。羊歯の茂る道の行く手に、ヒメウツギの白い花が咲き揃い、せせらぎにもたくさん落ちて水に浸っているのがすがすがしい。かすかに鳥の囀りが降って来る山中はひっそりしており、古いお社、祠の跡など建物の痕跡はみられず、誰かと出会うこともなかった。
それにしても驚きに満ちた太古の磐座群であった。こんな場所に磐座がたくさんあることは今まで知らなかった。
実際に山中を歩いてみると、そこは古代の原初的なエネルギーが感じられる空間で、醸し出される独特の力強さに魅了され、巨石の持つ迫力にただ圧倒された。俗化されておらず、古の聖空間の雰囲気がそのまま残っていることにも心打たれた。磐座の織りなす世界に足を踏み入れてみれば、まさにそこは時空を超えた異空間、その中で古の信仰のかたちに思いを馳せ、古代を感じながら散策することができて印象深かった。これまでにも各地の磐座を訪れたことがあったが、これほどの規模のものに接したのは初めてであった。
與止日女神社から歩いたので時間はかかったが、考えてみれば昔の人たちは皆歩いて磐座の神々に詣でたのであろう。疲れていたが心は満たされていた。朝はホテルのサービス朝食のミニクロワッサンとコーヒーのみ、昼食は駅で買いそびれ、おなかが空いているはずなのに空腹感が起きない。いつまでも磐座の残像がちらつき、その印象が去っていかないのである。たぶん磐座に酔ったのだと思う。
神社の上流にあるバス停で帰りのバスを待っていると、流れに沿ってカワセミが飛んでゆくのが見えた。清流を掠め飛ぶきれいな鳥。この自然がいつまでも損なわれないようにと願いつつ川面を見つめていた。
肥前一宮 千栗八幡宮
久留米市の水天宮を訪れた。安徳天皇とその母の建礼門院が祀られている。筑後川の川辺に建つ広々としたお社である。兵禍に遭ったため、お宮は何度か遷されたそうである。由緒によると、壇ノ浦の戦の後、女官の伊勢という人が当地に逃れてきた。大和石上神宮の神官の娘で、民に請われて加持祈祷を行うと霊験があった。その人が後に安徳天皇の霊を祀ったのが当社の起源とされ、全国にある水天宮の総本宮とのこと。水難よけや子どもの守り神として信仰されているそうである。
水天宮から河川敷に降りてみた。滔々と流れゆく筑後川の川面と、遠くかすむ山並みを見つめる。ボートの練習、犬の散歩の人、ここは市民の憩いの場であるらしい。散策の後、梅林寺からバスに乗った。バスは筑後川にかかる橋を渡り佐賀県へと入り、市街地を進んでゆくうちにほどなく千栗(ちりく)八幡宮へと着いた。
緑に包まれたお社は小高い丘の上に営まれている。どっしりとした感じの石鳥居をくぐり、急な石段を上ってゆくと、境内には樟のご神木が濃い影を作りだしていた。社名にもあるので、栗林が近くにあるのかと思って探してみるが見つからなかった。栗の木にはあまりこだわっておられないのであろう。
創建は聖武天皇の御代。郡司壬生氏がお告げによって祀ったということである。宇佐八幡宮の五所別宮の一つ。何度も戦火に遭っており、現社殿は明治期のものという。
祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三柱。配神も応神天皇の皇子たちや武内宿禰など、土地神、地霊ではない神名が挙がっている。摂社も武雄神社など武内宿禰関連であった。境内にはみごとな樟の大木が聳えているのが印象的である。人影はなくひっそりとした佇まい、境内には粥占神事に使うという円筒状の石が置かれてあった。毎年三月にお粥を炊いて奉納し、黴のつき具合でその年の五穀の出来を占うのだとか。
あずまや風の見晴台に座ると、市街地を流れる川や高良山の山並みが望まれた。しばらくの間ぼんやりと景色を眺めていた。涼しい風が吹き抜けてゆく気持ちの良い空間である。筑後川を挟んでこの丘の上に肥前一宮のお社が営まれたのは、高良山や高良大社の存在を意識してのことであろうか。
当社は、近世には河上神社(與止日女神社)と一宮の名称を巡って争ったのだそうだ。双方に主張があり、約六十年間も揉め続けたそうだが、決着はつかず、徳川幕府はどちらとも定めなかったそうである。