高野山への旅 一天空の聖地を歩く一
奥の院(御廟 灯籠堂 地下法場)壇上伽藍 大門
高野山への旅 一天空の聖地を歩く一
奥の院(御廟 灯籠堂 地下法場)壇上伽藍 大門
夏の終わり近い日、久しぶりに高野山を訪れた。高野山は今年開創千二百年を迎えたそうである。橋本駅で乗り換えて極楽橋駅に降り立つと、通路天井からたくさんの風鈴が吊るしてあり、風に揺れるたび優しく凉しい音色が降ってくる。ケーブルカーに乗り込むと高野山駅まではわずか数分。降りればそこはもう標高八六七メートルで、吹く風も心地よく感じられ、駅前からたくさん出ているバスで、奥の院方面へと向かった。
高野山は、亡父の納骨に〇〇院を訪れて以来、十数年ぶりになる。今回は日帰りである。一の橋口でバスを降り、案内所で散策地図をもらって奥の院まで二キロの参道を歩きはじめると、子どもの頃親に連れられて来た記憶もよみがえり、しんとした気持ちになって、林立する杉木立や苔むした墓石群、石塔の列を眺めた。
参道には司馬遼太郎の文学碑も建っていた。碑文を読んでみると、「この宗教都市がじつは現実のものではなく、空(くう)に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。まことに、日本国のさまざまな都鄙(とひ)のなかで、唯一の異域ではないか」(「高野山管見」から)などとあった。司馬氏は「空海の風景」などの作品で当地とは縁が深いかた、碑はまだ新しいものであった。
五輪塔や墓石の列は途絶えることなく、林の奥にまで続いている。薄暗い石畳の参道を進んでゆくと、建立された石塔、五輪塔の数々が、重い存在感でもって眼前に迫ってくるようであった。ごく小さいものから等身大のもの、見上げるような巨大なものまでさまざまである。中には崩壊したまま放置されたものもあってお気の毒である。とくに五輪塔はそのかたちから人の身体とも見え、向かい合うと、視覚的には人に近いものという感覚が生じ、まるでそこに人がいるかのように感じられるのであった。宇宙観を表したとされる五輪塔は、空海によって考え出されたものという。
大きさや風格で目立つのは、やはり戦国武将や諸大名の石塔であろう。武田信玄、勝頼父子、伊達政宗、石田三成、柴田勝家、徳川家、毛利家、島津家・・・・著名人や、大企業、戦没者慰霊塔、個人のさまざまな墓碑、供養塔が木立の中に重なって見え隠れし、深い苔の色が美しく印象的なものもあり、奥へ奧へと人をいざなうように続いてゆく。その多くは供養塔であるが、普通の墓所、墓石もあり、総数は二十万基ともそれ以上とも。各時代のおびただしい死者の霊が、この静寂に包まれた山中で永遠の時を瞑り続けているのだった。
中の橋を渡る。ここを流れる川は金の川と呼ばれ、三途の川をあらわしているとされる。一の橋を渡ったときから生の世界は遠のき、すでに死の世界に入っているのだが、ここから先はさらに死の領域が濃くなるのであろう。
この川は奥の院に詣でようとする人が、流れに身を浸して清めるみそぎの場だったそうで、左手にはお地蔵様を祀るお堂があった。世の人々の苦しみを引き受け身代わりになってくださるという「汗かき地蔵」である。傍らには「姿見の井戸」があり、ここに姿が映らなければ、その人は三年以内に死ぬと言い伝えられている。そっと覗き込み、自分の顔が映っているのを確かめてゆく人が多い。近づいて下を見てみると、映ることは映るが、水面はまるで黒い鏡のようであった。
参道のたたずまいは厳かで、空気はひんやりとしている。前後を歩いている人たちの姿がとぎれ、話し声も聞こえなくなると、たちまち異界めいた静寂の世界である。陽光は重なる枝に遮られて届かず、老いた杉は天に向かって屹立し、木陰には輪郭も消えかけた石仏が、ひっそりと沈んだ苔の緑に埋もれて横たわっている。手縫いの赤い掛け布も色あせ、斜めに傾いた古いお地蔵様は、虚空を見つめるような遠いまなざしを梢の彼方に向けている。苔に覆われた湿潤な森の中、年月を経るうちに多くのものが、こうして朽ちてゆくこともまた避けられないのであろう。
豊臣家、前田家、浅野家、法然上人、と石塔は次々道筋に立ち現れ、五輪塔も切れ目なく続いてゆく。参道には目立つように案内板も立っているし、墓石には名も刻まれているのにもかかわらず、たくさんのものを見落としてここまで歩いて来たような気がした。周りを見回すと、実に遠くまで墓石の列が連なり延びている。ここには数えきれないほど多くの霊がひしめいているということであろう。
奥の院
さらに参道を歩いてゆく。外国人の観光客も多く、彼らは熱心に石仏を撮っている。なんとなく辺りに人が増えてきたように感じ、見回すと、奥の院の橋や建物に近づいていたのを知った。不動明王、観音菩薩、地蔵菩薩などが玉川の橋のほとりに並び立ち、人の流れを見つめておられる。水回向の「水向け地蔵」である。戒名を墨書した経木の塔婆が水槽に浸けてある。柄杓で水を手向けるのである。人に倣い右の仏様から三度ずつ順に水をかけていくことにした。力がないので背の高い仏様の足元にかけるのがやっとである。手が滑ってうっかり自分に飛沫を浴びせてしまいそうになる。子どものときにもここで同じことをして服を濡らしたのを思い出した。
御廟橋を渡る。奥の院の聖所への結界となる橋である。左手のほうには、澄んだ流れの中に卒塔婆が立てられてあった。水で亡くなった人の霊を供養するもので、流れ灌頂というそうである。川水に洗われているたくさんの卒塔婆の列をしばらく眺めていた。
灯籠堂に着いた。暗いお堂には多くの灯籠が吊るされて幽玄な雰囲気が漂い、香が立ち込めてゆるく煙が流れてゆく。読経と祈りの空間である。ここで手を合わせた後、左手から裏へと回って御廟へと近づいた。
以前来たとき、ここはひっそりとしていたが、今は季節も違うのであろう、人々の熱い思いが激しく渦巻くような場所となっていた。御廟前の左右にはたくさんの花籠が並び、色とりどりのお花が溢れるように盛ってある。その前で白装束に身を包み、早口で心経を唱え続ける団体の方たちがおられ、その熱気に圧倒されてしばらく立ちすくんでしまった。ここは弘法大師入定の地、この奥にお大師様は今も坐っておられ、日々決まった時間に、生きているときと同様に、洗面用のお水や整えられた食物が運ばれ、供せられるそうである。
香を手向け、両親や亡くなった親族のことを思いつつ、しばらくここでときを過ごした。遠く隔たってしまったが、懐かしい面影を心の中でたどっているとどこか温かい気持ちになり、御廟を辞して右に回り込むと「地下法場」とあって、灯籠堂の地下へと降りる階段へと導かれる。
階段を下りてゆくと、薄暗い内部にはお大師様所縁の大数珠と巨大な金剛杵があり、その奥は御廟へとつながっている、聖なる場所であった。大数珠の前には列ができていて、皆さんご自分の数珠をこすりつけ、力を分けて頂こうとしておられるのであった。数珠の用意のなかった私は、そっと手を置いて大数珠を撫でるのみであった。前の人があまり熱心に摺り続けていたためか大数珠には摩擦熱が発生しており、指先で触れると温かいのであった。
一の橋まで歩いて戻り、明るい色に塗られた苅萱堂に寄って、石童丸の物語が壁一面に絵解きされた堂内を見学した。俗世を捨て出家した苅萱道心は、訪ねてきた十四歳の石童丸を実子と知りつつ、名乗り合うことなくともに仏道に励んで生涯を過ごしたという。父子の修行の場がここであったらしい。
妻妾の嫉妬のありさまに人間の業を見て、世を捨てる決意をする場面、石童丸と母親が山麓の学文路(かむろ)まで来たのに、母親が病で亡くなるいきさつ、奥の院の橋で父子が出会う場面などたくさんの絵が揚げられ、そこには説教節独特の世界が展開されていた。出口には親子地蔵が祀ってあったので、手を合わせ鈴の緒を引くと、涼やかで美しい音色がお堂に響き渡ったのが印象的であった。
壇上伽藍
壇上伽藍を訪ねることにした。金剛峰寺から蛇腹道を進むと、右手に東塔、西行桜、三昧堂、大会堂、愛染堂と由緒あるお堂が続く。左手には蓮池、不動堂などの堂宇も。開創以来年月がたつので、落雷や山火事、災害などで建物は何度も失われたようであるが、主要なものはそのつど再建されてゆき、また他所から移設されたものもあって、現在に至っているという。西端には鎮守の御社として、高野山の地主神である丹生都比売明神、高野明神も祀られていた。
行く手にひときわ華やかに聳えているのは、根本大塔である。以前内部を拝観したことがあるが、極彩色の曼荼羅世界が開示されていた。古い寺社の、それも色彩が少ない空間世界を見慣れている当方には、あまりにも眩しくきらびやかなものと映り、その色彩の明るさ鮮やかさに目を奪われるようであった。
中門、金堂、蓮池、山王院、西塔、御影堂、霊宝館・・・・。ここには見どころはたくさんあるが、限られた時間なのですべてを訪れることはできず、素通りになったところもあって残念であったが、壇上伽藍を出て大門へと向かった。道すがら左手に高野山で初めて見かけるコンビニがあったので冷たいものを購入、ひと息ついた。
大門
深みのある丹塗りの大門は高野山の西の入口に建っていた。西の玄関口に当たり、九度山から続く町石道(ちょういしみち)を上ってくる参詣の人々を迎え入れたのであろう。開創当初はここから数百メートル下に鳥居があって、門の前身とされたようだが、十二世紀には現在の位置に楼門として整えられたらしい。何度か災害に遭って修理と再建を繰り返し、今目にしているのは江戸時代のもので、近年にも大がかりな修復が行われ、昔の色に近づけて塗り直されたという。
楼門は二層二階、その高さは二十五メートル、左右に立つ金剛力士像(仁王像、元禄の頃の作)も実に勇壮なもので、ゆうに五メートルを超えるお身の丈である。迫力があり、近づいて見上げると力強い造形に圧倒されてしまった。東大寺にある仁王像に次ぎ国内二番目の大きさという。
振り返ると眼下には眺望が開けていて、樹木の間に山並みが折り重なってゆるやかに連なり、遠くまで見渡せた。ここからの夕日は美しいそうで、晴れた日には紀淡海峡まで望まれるそうであるが。日没にはまだ早かったし、少しかすんでいて海までは見えなかったが、雲の広がりと夕暮れの近づく静かな山里の情景を心に刻んだ。
大門下の道路を降りて町石道を眺めた。以前九度山の慈尊院や丹生官省符神社、丹生都比売神社を訪れたことがあるが(紀伊一宮 丹生都比売神社の項)、その折慈尊院から丹生官省符神社へと上る石段の途中に、町石道の一八〇町石がひっそりと立っているのを見た記憶がある。
九度山から高野山へと続く二十二キロの参詣道に、道しるべとして一町ごとに立てられた町石は、壇上伽藍を基点として、西へ一八〇基、奥の院へ三十六基建てられたそうである。当初は木の卒塔婆であったが、時代を経てより堅固な五輪卒塔婆形の石塔へと変えられていったという。現在もその多くは残っており、高さは三メートルもあって梵字なども刻まれており、高野山でも道端や境内など随所で見ることができる。存在感のある石柱である。
町石道の雰囲気に触れてみたくなったので、大門の下から細い山道を降りていった。参詣道はずっと続いてゆく。九度山慈尊院からはじまる二十二キロの山道を、人々はどのくらいの時間をかけて上ったのであろう。信仰の力を支えに、町石を一つずつたどり、声を掛け合いながらここ大門を目指した様子がしのばれる。大門に着いて壮大な門を見上げたとき、人々はどんなにか嬉しかったことであろう。
あまり下っても、と思い、町石道をもとの道へと引き返し、大門前から路線バスで、帰途につくことにした。バスの窓から眺めていると、不動坂の女人堂の前へと差しかかった。高野山は長く女人禁制の霊地であったが、明治になってようやく解禁され、現在のように女性も参拝ができるようになったのである。高野山には七箇所の入口があって高野七口といい、それぞれに女人堂というお籠り堂が設けられていたそうだが、現存している女人堂はこの不動坂口にあるもののみという。ちなみに高野七口とは、
不動坂口(京、大阪からの道)
大門口(九度山慈尊院からの道)
龍神口(龍神温泉からの道)
相の浦口(有田、龍神からの道、崩壊している)
大滝口(熊野街道からの道)
大峰口(大峰山山上ケ岳と結ぶ道)
黒河口(くろこぐち、奈良からの道)
の七箇所である。九度山から大門に至る町石道が表参道と呼ばれる道で、空海が霊地を探しつつ最初に上った道は大峰口のほうとされている。
厳しい女人禁制の掟のため、女性たちはせっかく山道を上ってきても山内の聖域に立ち入ることは許されず、その結界は各所に設けられた女人堂までであった。霊地を拝したいという篤い信仰心にかられ、あるいは山内で修行する身内の姿を求めて、女性たちは全部で七つある山中の女人堂から女人堂へと巡りつつ参拝したという。その道は高野七口女人道といわれ、摩尼山、揚柳山、転軸山、弁天岳など険しい峰や尾根道を通ってゆく。
女人道は一周するのに十数キロという。壇上伽藍と奥の院の聖域に沿うかたちで、その外縁をたどってゆく道であった。根本大塔や金堂を遠望しつつ、女性たちは互いに励まし合いながら、灯りのともる次の女人堂を目指し、歩き続けたのであろう。白装束に身を包み、菅笠、手甲、脚絆、杖や鈴、数珠を手に、心経を唱えながら山道を進む女性たちの姿が目に浮かぶようである。誰でも山内を自由に歩いて参拝ができる今の時代に生きていることを思いつつ、夕暮れの風景の中に遠ざかってゆく女人堂を見ていた。