山 鳴 り
山 鳴 り
何だか今日は落石が多いな、と右手の斜面を見上げた。道に幾つも石ころが転がっている。
上高地から歩き始めて二時間、徳沢が見えてくるころだった。
梓川に降り注ぐ夏の日差しが眩しく感じられる。左手に穂高と明神岳の岸壁を見ながら進むと、徳沢に着いた。そこはキャンプの人たちで賑わっている。井上靖の小説「氷壁」に出てくる徳沢園という宿が有名だが、モダンに改装されて当時の雰囲気はないという。
横尾まで歩く。低い笹の間を縫って上っていく。白い打ち上げ花火が開いたような形で咲いているのは、シシウドの花である。他の植物に比べ背が高く、固まって咲いている。道端には、イワギキョウやミヤマトリカブトの濃い紫色の花がひときわ鮮やかである。その日は横尾山荘に泊まった。
翌朝は曇り空だった。橋を渡って涸沢への道に入る。大きな屏風岩が目の前に迫って見える。
樹林帯を進んでいくうちに、次第に雲が厚くなる。見晴らしのよい所で昼食にする。山荘で作って貰ったお弁当は定番の海苔おにぎり、佃煮、たくあんではなく、パンにツナとチーズ、デザートにはオレンジがついていた。
急坂を上がると、涸沢が見えてきた。スプーンですくったように、半球形の窪地が広がっていて、周りを険しい岩峰が取り囲んでいる。そこにカラフルなテント村が出現していた。
天気は下り坂でかなり寒い。目の前を絶えず白い霧が流れていく。僅かな晴れ間に、雪渓の残る穂高連峰を眺め、ヒュッテに入る。
明け方、屋根を激しく雨が叩く音で目が覚めた。残念ながら今日は一日中雨、との予報。悪天候の中、下山の準備をし始める。
雨の中へ出る。濡れた石は滑りやすい。山道はひどくぬかるんでいて、靴もズボンも泥だらけになりつつ降りていった。
雨がやや小降りになったころ、突然ざあっと草木が靡いて揺れ、樹木が一斉に大きく波打ち、どーんと大太鼓を打ったような音が山全体に響き渡った。一瞬早く地面に強い衝撃が来た。よろけて思わず地面に膝をつきそうになった。
大きな地震だった。
その後、雨足は再び強くなった。横尾の近くまで下ったとき、ヘリコプターが尾根を何度も低く旋回するのが見えた。その下に救助を待つ人がいるのだろうか。
明神まで下ると、再び小規模な揺れを感じた。濡れねずみになって、ようやく上高地の宿に辿り着く。古新聞を貰ってきて、丸めて靴の中に入れ、濡れた衣類を吊るしながら、テレビのスイッチを入れた。
ニュースはその日、上高地に震度五の地震が起きたことを、報じていた。それは自宅で震度五の揺れにあって飛び起きた、あの阪神大震災から三年後の夏のことであった。
(2004.6.23)