一船岡山散策一
今宮神社 船岡山磐座 建勲神社
一船岡山散策一
今宮神社 船岡山磐座 建勲神社
平安京の造営の際、その基点となったのは、北区紫野にある船岡山であるといわれている。船岡山は標高約120メートル、山というよりは小高い丘である。頂上には磐座(いわくら)があり、古代には聖地であったという。地図で見ると、近くには今宮神社、大徳寺がある。少し風のある寒い日であったが、今宮神社から船岡山にかけて歩いてみることにした。
阪急大宮駅から久しぶりにバスに乗る。一度も乗ったことのない路線バスだったのでもの珍しく、きょろきょろと車窓から通り過ぎる風景を眺める。仏教大はこんなところにあったのだ、などと納得しているうちに、早くも船岡山らしい平たい形の山が視界に入ってきた。バスは道を回り込んでゆき、今宮神社前に着いた。
今宮神社が有名なのは、春のやすらい祭りであろう。私は未見であるが、疫病退散のお祭りという。椿、桜、柳などをてっぺんに飾った、風流傘という赤い飾り布のついた傘の中に入れてもらうと、その年の疫病よけになるのだそうだ。
今宮神社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、摂社には月読社などいくつかあった。境内は大きな銀杏の木があって、静かな雰囲気である。
また境内には、阿呆賢(あほかし)さんという石があった。座布団の上に鎮座している。見ると20センチぐらいの黒ずんだ石で、なでて患部をさするとよいのだそうだ。これは占いの石で、一度持ち上げ、願い事をしてから再度持ち上げてみると、成就の場合には、軽くなっているのだという。いわゆる重軽(おもかる)さん信仰の石らしい。
早速今年の運勢について、占ってみることにする。両手で持ち上げると、小さな石なのに驚くほど重い。そっと置き、説明板に書いてある通り、軽く石を叩き、願い事を心の中で述べてから、恐る恐る持ち上げると、気のせいかさっきよりは少し軽く感じられた。望みは叶うということなのだろうか。いいほうに解釈することにする。
今宮神社を出て、大徳寺へと続く道を歩いていく。樹木の緑に包まれた京都らしいしっとりした石畳の道を、お寺の堀に沿って進んでいく。
今日は拝観しないのだけれど、塔頭や山門を見上げつつ、説明板があるところでは立ち止まって読んでいった。
大徳寺は臨済宗の寺院で、一休禅師が住んだところ、また織田信長の葬儀が営まれたところとして知られている。豊臣秀吉が多額の寄進をし、信長の菩提のために総見院を建てたので、他の武将たちも次々とそれに倣ったという。細川忠興が建てた高桐院など多くの有名な庭園がある。
広い境内には、立派な松が植えられていて、竹林が見え隠れし、道はどこも掃き清められている。勅使門は古びているが、堂々とした構えであった。その後ろの三門は、赤く塗られていて人目を引く。金毛閣と大書してあって、その字は遠くからでも読める。
千利休がこの二階部分の資金を寄進して増築し、寺側の謝意によって利休像がそこに置かれたのだが、参詣時に像の下をくぐることになると、秀吉が咎め、ほかに理由もあったようだが、遂に利休を切腹させたという、その三門である。
利休を死に追い詰めるまで、そこに至るまで、二人の間に何があったのか、確執や憎悪の深さを思う。秀吉と利休の対立については、野上彌生子「秀吉と利休」今東光「お吟さま」など、しばしば文学作品のテーマに取り上げられている。前者は権力者と芸術家の対立と葛藤、後者は利休の娘が秀吉の側室にと望まれる話で、それぞれ違う角度から描かれた作品である。
利休は秀吉に対して、媚びることなく、率直に向かい合った人だったのだと思う。秀吉におもねる態度をとる人が多かったに違いない中で、権威に屈することなく、正面から向かい合う強い意思を示した、おそらくたった一人の勇気ある人だったろうに、秀吉はそういう人物を憎んで殺してしまうのだ。
利休は堺に蟄居の後、切腹させられたが、秀吉の怒りはおさまらず、問題の利休像も引きおろされて、市中で磔刑になってさらされた・・・・。そういう一連の出来事の発端となった金毛閣をしばらくの間、眺めていた。
大徳寺を出て、船岡山を目指して歩いていく。いくらも行かないうちに、山が近づいてくる。緩やかな遊歩道を上がっていくと、中腹は公園になっており、家族連れがボールで遊んでいた。横は見晴台で、行ってみると比叡山がくっきりと見える。
犬の散歩の人、ハイキングの人、マウンテンバイクで上がって来る人たちがいる。ここは市民の散策の場になっているのだ。
さらに進んでいくと、山頂に出た。平安京の基点となったという磐座が気になるので探すが、見つからない。よく見回すと、バイクでやってきた男子高校生らしいグループが、大岩の上に腰掛け、あるいは寝転んだりして眼下の景色をみている。どうも空き缶やスナック菓子の袋が散乱している、その岩が、古代の磐座らしいのである。
山頂は細長く平らであった。少し離れてもう一箇所磐座と思われる岩があるのを見つけた。近づくと、そこはさらにひどく汚れていて、岩陰にはごみが捨ててあった。
磐座といっても、それはここでみるかぎり、大切な遺跡とはみなされていないのだろう。たぶん古代祭祀が行われたと思われる場所であるが、ここが遺跡だという説明板もきちんとした表示もなく、大岩はここでは、ただのベンチ代わりのものでしかないような扱いであった。
山頂から景色を眺めてみることにする。樹木に遮られていない市街地の中に、双ヶ丘がはっきりと見える。仁和寺の塔も。もう二十年以上前のことになるが、私は竜安寺道に住んでいたので、あの辺りは日々の買い物や、お気に入りの散歩コースであった。懐かしい思いでじっと目を凝らした。
平安京造営の際、朱雀大路や大極殿の位置を、この山頂から見て決めたといわれているので、実際にその方向に立ってみて、確かめようとしたのだが、南側は樹木が高く、市街地は見えない。
さっきの磐座に戻ってみると、高校生のグループはもういなかった。少し風が冷たくなってきたが、岩の前にたたずんで景色を見ていたら、目の前の下草を分けて親子連れのハイカーが上がってきた。草に覆われた道のない所から、不意に人が現れたので驚く。この人たちが歩いてきたのが旧道、本来の登山道だったのだろうか。小学生らしい子供はするすると岩によじ登り、てっぺんに立って、やったあ、と嬉しそうに手を振っていた。それはそれで、見ていてほほえましい光景ではあった。
古代にはここは聖域であり、うっそうと樹木が茂り、簡単に人が入れない山であったことだろう。そして山頂の磐座は、都の人々の畏敬の対象であったのに違いない。
でも磐座と思われる大岩は、かつての聖性が失われ、今はこの山頂にあることの意味すら、よくわからなくなってしまっているように思われる。
岩陰が汚物にまみれているのを見ると、何ともいえない気持ちになった。もしかして、少しは古代を感じさせる雰囲気が、残っているかもしれないと思い、聖地の微かな痕跡を求める気持ちから上ってきてみたが、現代の船岡山は、伝えるべきものについての配慮がなされていないように見受けられた。これからも山の緑は切り崩されていくのだろう。何かを見失ってしまっているようにも思われて、少々残念であった。
山を降りることにする。中腹にある神社に立ち寄ってみる。信長、信忠親子の霊を祀る建勲神社であった。明治のころにできた神社であるという。信長は船岡山の一角で、今は神となって祀られているのだ。静かで広々とした空間である。どこかの会社の人たちが、神妙に神前に並び、神主さんからお祓いを受けていた。
本能寺の変が起きたとき、信長は、数えで四十九歳であったという。境内を歩くと石碑があって、そこには信長が好んでよく舞ったという、あたかも未来の自分に起きる出来事を予感しているかとも思えるようにもとれる、能の有名な詞が刻まれてあった。
・・・・人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享(う)け 滅せぬもののあるべきか・・・・ 。 能「敦盛」より