余 呉 湖
余 呉 湖
以前、長岡天満宮の境内で演じられた能「羽衣」を見た。
三保の松原で、漁師が浜辺の松の枝にかけられた羽衣を取ると、天女が現れて、それがないと戻れないから、返してほしいと頼む。
漁師は初め断るが、やがて天女の涙に同情し、舞を見せてくれるなら、という約束で衣を返す。天女は舞いながら天へ昇るーという話である。
近江の余呉湖にもこれとよく似た羽衣にまつわる伝説があると本で読み、冬のさなかに訪ねてみたことがあった。
JR湖西線に乗り、雪を被った比良のなだらかな山並みを眺めつつ進んでいく。窓の外の雪は次第に深くなった。北陸本線の余呉湖駅で下りると、ホームにも厚く雪が積もり、辺りには輝くような銀世界が広がっていた。
余呉湖は周囲6.4キロの穏やかな湖で、鏡湖ともいうそうだ。南に賎ケ岳があり、その周囲には冠雪の峰が連なっている。
伝承によると、この湖に天の八女(やおとめ)が白鳥となって下り、浴(ゆあみ)した。その様子を山から眺めた土地の伊香刀美(いかとみ)という男が、白犬を使って一組の衣を奪った。天女たちのうち、七人の姉は飛び去ったが、下の妹は飛べず、伊香刀美の妻となって里で暮らし、四人の子供を生んだ。後に衣を捜し取った天女は、それを着て天に戻ってしまい、残された伊香刀美は嘆きの日々を過ごしたという。
(近江国風土記逸文より)
ある日、異郷から飛来した女は、しばらくの間地上で人として暮らした後、ふっと何かに誘われるように、それまで築いてきた家族の絆を捨て、自分が属する元の世界へ帰ってしまうのだ。ちょうど満月の夜に、月へ昇ったあのかぐや姫のように・・・・。
異界の女は、結局は里の生活に馴染めなかったのだろう。募ってくる望郷の思い、自分が去った後、村に取り残されてしまうことになる子供たちに心惹かれ、迷いながら、遠い山の峰を仰ぎ、青い湖水を見つめて、密かに悩み続けたのに違いない。
湖のほとりを歩いてみる。岸には天女が衣をかけたと伝えられる、大きな柳の木があって、枝が風に揺れていた。観光客の姿は少なく、湖水は冬の弱い陽ざしを受けてきらめいている。背後を時折電車がのどかに通過していくだけで、物音ひとつしない静かな午後のひと時であった。
四方には、雪に閉ざされた素朴な山あいの里と湖の情景が緩やかに広がっているばかりだった。
(2006.1.25)