泉鏡花
「龍潭譚」「薬草取」(岩波文庫)
「高野聖」(集英社文庫)
泉鏡花
「龍潭譚」「薬草取」(岩波文庫)
「高野聖」(集英社文庫)
泉鏡花は明治六年、金沢に生まれた。尾崎紅葉に心酔して十八歳のとき上京し、紅葉宅の玄関番として住み込んだりもした。二十代から多くの作品を発表し「婦系図」「歌行灯」などの作品は演劇でも人気を得、映画化もされた。
鏡花は九歳のときに母親を亡くしているが、そのことは、彼の作品に少なからず影響を与えている。作中には母性的なものへの憧れや追慕の表現が多くみられるし、それはそのまま鏡花文学の特徴ともなっているからである。
鏡花の小説で、有名なものは幾つかあるが、よく知られているのは「高野聖」であろうか。旅僧が飛騨山中で異世界に紛れ込んでいき、美女のいる奇妙な一軒家に泊まることになる、という話である。
女は旅人を誘惑し、動物に変えていく魔性のもので、僧も幻惑されるが辛うじてそこを離れ、後に女の正体を知り、やがて山での怪異が、回想の形をとって旅の宿で語られていく、という設定である。
その「高野聖」の原型ともいうべき作品が、子どもが山で遊ぶうちに魔隠しにあったような体験をする「龍潭譚」であるというので、今回この二作を読み比べてみることにした。他に子どもが山に迷い込んでさまよう「薬草取」という作品もあるので、それも併せてみていきたい。これらの作品には、深い山には魔がひそみ、この世の住人でないものが、訪れる人を待っている、という共通のパターンが使われている。
人里離れた山中、一人で山路を歩く人、怪しげな山の霊気が漂う中、そこで出会う不思議な女、誘い込まれていく夢幻的かつ恐怖の異世界、人の心の中にある原風景のような幻の世界や潜在意識を、妖しく感覚的に描くことにかけて鏡花はすぐれている。今回は取り上げないが、「眉かくしの霊」もかなりホラー的である。でも情感の凄まじさという点でいえば、私は「外科室」が一番過激で恐ろしい。
「龍潭譚」(りゅうたんだん)あらすじ
難しい字である。龍潭とは「深い淵、深い滝つぼ」という意味で、譚は「話、物語」の意である。
幼い子どもがつつじの花の咲く山道で遊んでいる。あまりの赤い色の美しさに怖くなり、家に帰ろうとする途中、何気なく斑猫という虫を石で打つ。光る虫は毒だと姉に教えられていたのにも拘わらず、虫を殺してしまった。その後、子どもは道に迷い、知らない集落で見知らぬ子ども達に誘われていっとき遊ぶが、子どもたちはふっと姿を消してしまい、自分は一人で稲荷の社の裏にいた。必死に名を呼び探し回る姉や下男の姿を見るが、頼みの姉にも気づいては貰えない。虫の毒にやられて面相が変わったせいか、顔を見た姉は、違ってたよ、坊や、と言いつつ、手を離す。
子どもは狂気のように山をさまよい歩いた末に倒れてしまうが、気がつくと、山中の家で美しい見知らぬ女に優しく介抱されていた。亡くなった母親の面影をそこに見て、子どもは心がやすらいでいく。女は「九ツ谺」とその集落の名を教えた。やがて里へ帰されることになり、老人と女に送られて、沼を渡し舟で渡り、岸に下ろされる。
子どもは親族に見つけ出されて無事家に戻るが、異様な体験をしたために様子が普通でなく、心が狂ったものとして扱われ、周囲の視線は冷たい。狐つきといわれ、暗室に閉じ込められたりもする。誰にも心を開くことができず、そんなときはあの優しく美しかった山中の女のところに、逃げて行きたいと思うのだった。
憑き物を落とすために、子どもは寺に連れて行かれる。姉に抱かれて僧の加持祈祷を受けるうちに、真に姉を信頼する気持ちが心に生じ、快癒に向かう。俄かに天気が崩れて暴風雨となり、帰宅できないので、姉ともども寺に泊まるが、その夜「九ツ谺」の谷が洪水で水没したことを知る。・・・・
遊んでいた子どもが迷子になってしまうのだが、何気なく虫を殺したことが伏線になっている。斑猫(はんみょう)は別名みちおしえ、あるいはみちしるべといって、道路に沿って人の歩く前を飛ぶ虫である。それを殺したことで、子どもは自分の帰る道を失っていくのである。母代わりの姉が、いつもはするまじないの仕草をしなかったエピソードも追加される。爺やが心配する姉にこんな風に言う。
「お前様遊びに出しますとき、帯の結び目をとんと叩いてやらっしやれば好いに・・・・。帯の結び目さえ叩いときや、何がそれで姉様なり、おふくろ様なりの魂が入るもんだで、魔(えて)めはどうすることもしえないでごす」
こんなまじないが行われていたことは、民俗学的にみて興味深い。当時はもっとさまざまな魔よけのまじないがあったのだろうと思われるが。
帰り道がわからなくなった子どもは、やがて社の裏で不安な時間を過ごす。このあたり、子どもの心細さや途方にくれる心理はとてもよく描けていて、上手いと思う。夕暮れ時の稲荷の裏という場所、そこはもう既に魔が支配する領域ということなのだろう。
子どもはやがて山中をさまよい、女に助けられる。女は子どもを落ち着かせ安心させる。母性的で美しく、子どもの望むものをよく知っており、それを無償で与えてくれるのだ。
それが鏡花の記憶にある母の原像なのであろう。作中では主人公が悲惨な状態に陥ると、慈母のような女性が現れて庇護者となり、その濃密な触れ合いや交流が、甘やかに描写されるのだが、鏡花は他の作品にもこのパターンを使い、好んで描き続けていく。意識下にある亡き母への強い思慕は、以後も美化されて再現されていくことになる。
「高野聖」 あらすじ
一人の青年が、同じ汽車に乗り合わせた旅僧と道連れになり、敦賀の宿で僧から若い頃の旅の話を聞かせて貰う。
僧は飛騨山中の茶店で富山の薬売りと言葉を交わす。先に発った薬売りが道を誤り、危険な天生峠の旧道へ入ったことを知って、僧は連れ戻そうと後を追う。
道は荒れていて、何度も気味の悪い蛇が目の前を横切っていく。ぞっとしながら大蛇をまたいで進むと、今度は蛭の森に入る。蛭は木の上から落ちてきて、体に取り付き、首に入り血を吸い、僧は散々に悩まされる。やがて土橋を渡ると一軒の家があった。そこには奇妙な様子の少年と美女と馬がいた。
女に誘われて谷川に水浴びに降りる途中、ひきがえるが現れると、女は話しかける。女は体を洗ってくれたりして世話を焼くので、僧は夢のようなひと時を過ごすが、戻り道で現れる大こうもり、猿に女は再び話しかけ、たしなめる。
訪れてきた老人は馬を引いて出て行き、奇怪な少年と女はどうも夫婦のようであり、僧は共に夕食を取るが、絶えず怪しげな雰囲気が漂い、それは夜半まで続き、女の声が響いてくるなど、家の周囲には多くの獣の気配が満ちてくる。僧は寝床で経を唱える。
翌朝僧は山家を出るが、女に魅せられている自分を感じ、僧の生活を捨てて女のもとへ戻ろうと考える。そこへ馬を売り、女のために食料を手に入れた老人が現れて、僧の心を見抜き、女は旅人を動物に変える魔性のものであると教える。
僧が見た蛇もひきがえるも猿もこうもりも、皆ここを通りかかった旅人で、あの馬も昨日の薬売りだったという。女はもとは村医者の娘で、病を治す不思議な力を持っていた。少年は患者であったが、あるとき村が洪水で水没してしまい、村人の大半は死んでしまった。生き残ったもの同士三人が山中で暮らすうちに、いつしか女は人間でないものに変化していったのだという。僧は話を聞いて目が覚めた思いがし、雨の中、山を駆けるように下ったのだった。・・・・
天生峠とはっきり地名が出ているので、岐阜県白川村にある峠とわかる。主人公の僧は、峠から松本へ降りようとしているのだが、実際そこから直接松本に抜けるというのは、どう考えても無理であろう。鏡花が意図的にそうしたのか、あるいは勘違いなのかはわからないが、私は鏡花が架空の道を創作した、と思うことにしよう。現実の天生峠は作中に最初確かに出現するが、物語の進行とともに、読者の視界から少しずつ遠のいていく。代わりに読み手がいざなわれるのは、人里離れた深い山の中、魔がひそむ異世界へと続いている、不思議の道である。
まず蛇が出没する。山道を行く僧の行く手に何度も現れて、気味の悪い道案内役をつとめる。ここに書くのも嫌になるほど、詳細な記述である。次には蛭が落ちてきて、さらに僧を苦しめる。その後、谷川にかかる土橋に出るが、この橋を渡ったことで、僧はそのまま異界に踏み込んでいくことになる。橋は境界でありこちら側と向こうの世界、二つの世界をつなぐ象徴的なものであるだろうから。
余談になるが、京都近郊にあるうちの近辺には、蛇がよく出没する。特に山の中に住んでいる訳ではないのだけれど、たとえば田んぼの畦道を歩いていて、ふと見ると目の前を蛇が横切っていく。非常に長いのである。こちらへ向かって来るのではないし、しばらく待てばいいのだが、ただもう恐ろしいので、私はすぐさま引き返して別の道を通る。忘れた頃にそこを通りかかると、またいるのである。
大体ここに引っ越してきた直後、門扉に蛇が巻き付いていて、肝を潰したことがあったし、朝雨戸を繰ると、庭で蛇が白い腹を見せて死んでいたこともあった。もう悪夢である。ごく最近でいえば、自転車で大原野の坂道を降りていると、途中何か盛り上がった異様なものがある。こんなところに何でロープが丸めて置いてある?と思ったが、見るとそれはとぐろを巻いた蛇なのだった。坂道なのでスピードが出ていて止まらない。段々近づいていく。いくら暖かいといっても、こんな道の真ん中に出てきて、巻かんといてほしい。思わず悲鳴を上げながら、必死でハンドルを握り締め、蛇のすぐ横を走り抜けたのだった。
僧が歩く山道には、森で蛭が出てくるが、これは山蛭であろう。私は以前ヒマラヤトレッキングで、ウレリからゴラパニへ抜ける湿地帯の森で、地面から靴を伝い、頭上からぽとぽと落ちてくる蛭に取り付かれ、悩まされた。それ以前にも、ボルネオ島の山中で蛭に足を噛まれたことがあり、そのときは蛭をよく知らなかったから、必死で振り落とそうとした。そんなことではとても落ちない。手で強くむしり取るしかないのだが、引っ張ると千切れ、噛まれたところは深く穴があいて、血が止まらない。傷跡も残ってしまい、嫌なものであった。
またひきがえるに関していえば、先年熊野古道を歩いていて、山道で大きなひきがえるが道に座っていて動かず、困り果てたことがあった。気味悪くて傍を通れない。悩んでいると、漸く跳躍して茂みに入ってくれたので、その隙に急いで通った。
何はともあれ、鏡花の描く、山道に現れる蛇や蛭やひきがえるの描写は、私には実感の籠る情景であった。でもそういうもの存在を一々恐れていては、当時山越えなどできなかったであろう。多くの危険を乗り越える覚悟を持って、人々は深い山に分け入り、歩いたのだと思う。
作品世界に戻ろう。僧は一軒家で出会った美女にすっかり魅了されてしまうが、女が魔界の住人であることには思い至らない。女が動物に親しく語りかけるなど、幾つかの兆候も見逃し、ますますその美に惹かれていくのである。
姿を変えられた動物たちは、女を恨むどころか、それでもなお女にまとわりついてそばを離れようとはしない。支配されて飼い慣らされ、女に仕える運命を受け入れてしまっているかのようである。何だか哀れである。山の中の怪異ではなく、そんな情景なら現実世界にもありそうではあるが。
前述の「龍潭譚」では、男女の組み合わせは、幼い男児と慈母のイメージで描かれるが、そのモチーフを更に発展させたらしいこの作品では、青年と年上の女が絡まる情景となって夢幻的に描き出される。たとえばこんな風に。
・・・・それから両方の肩から、背、横腹、臀(いしき)、さらさら水をかけてはさすってくれる。それがさ、骨に通って冷たいかというとそうではなかった。暑い時分じゃが、理屈をいうとこうではあるまい。私の血が沸いたせいか、婦人の温気か、手で洗ってくれる水が可い工合身に染みる。・・・・その心地の得もいわれなさで、疵の痛みがなくなって気が遠くなって、ひたと附ついている婦人の身体で、私は花びらの中へ包まれたような工合・・・・。
水辺で戯れたのにもかかわらず、女の魔力の犠牲にならずに済み、真相を知って目が覚め、現世に戻っていく僧は幸運だった訳だが、また別の見方をすれば、獣と化してなお異界の森に棲むような、強靭さを持たない人間だったともいえる。魔性の女と釣り合って異世界に生きるためには、邪悪なものが不可欠だったのだろう。
僧が密かにライバルとして垣間見た異形の少年は、外観が異様であるだけでなく、行動面においても怪しげであり、その心も見えず、不可解であった。でもそういう奇妙な存在をこそ女は必要とし、夫にしているわけである。生真面目な求道僧には、まず無理であり、去っていくことが僧には賢明な道であった。
「薬草取」 あらすじ
一人の青年が加賀山中の医王山を歩いている。大切な人のために薬草を取りに来たのだった。偶然出会った花売女と道連れになり、山道をともに歩きながら、青年は子どもの頃の思い出を語り始める。
九つのとき、病気の母の為に薬草を取りに山に入り、知らない土地をさまよい歩くうちに道に迷ってしまった。着ていた晴れ着も、川を渡る際に男に騙されて取られてしまい、その上貰った食べ物にも当たって寝込むが、優しい娘に介抱されて病は癒える。娘は子どもに同情し、山に連れて行ってくれた上に、美女が原で目的の薬草も摘んでくれる。ところがその帰途、悪者たちに出会って誘拐され、娘は子どもを助けるためにそこに残ることを選び、子どもだけが里に帰された。薬草のおかげか、母親は五年生き延びることができる。娘との約束を守り、山中での出来事や賊の隠れ家を、子どもは誰にも話すことはなかった。後になって悪者の一味は包囲され、娘も死んだことを知る・・・・。
青年は花売女と美女が原に着き、女を手伝って花を女の籠に摘んでいった。籠は咲き乱れる花で一杯になる。すると薬草の芍薬を残して花売の姿は立ち消え、青年は花売りがあのときの娘の霊であったことを知る。・・・・
青年の山行の回想として、幼少時に薬草を求めて山をさまよい、娘に救われた体験談が挟まれている。医王山と場所も示されているので、読み手は最初から実在の土地を頭に置いて、読んでいくことができる。白山連峰の山の中の描写や、草原に花々の咲き乱れる様子は実に丁寧に描き込まれていて、あたかも娘が白山の女神の化身であるかのように、読み手を導いていく。娘は、かつて助けた少年の訪れを山で待っていたらしく、成長した青年と再会し、霊的な交流を果たした後、消えていくのだが、気になるのは山賊が出てくる辺りで、そこはややあらっぽさが目立つ拵え方であった。
この三作の発表年をみてみると、「龍潭譚」(明治二十九年)が一番早く、鏡花二十三歳のとき、その四年後に「高野聖」(明治三十三年)さらに三年後に「薬草取」(明治三十六年)と続いていく。
「龍潭譚」を発展させて「高野聖」を書いた後で、その成功をみて、同じ趣向でもう一作、と作者が思案したときに、絞り出されたのがこの作品なのだと思われる。子どもが山でさまよって助けられる辺りは「龍潭譚」と近く、語り手の主人公が青年であるのは「高野聖」と同じである。三作とも雰囲気は似通っているところがあり、いわば地続きの作品といえるであろう。
「薬草取」は「龍潭譚」と「高野聖」を足して割り、新しい場面を補強して仕上げた作品なのではないかと感じられるのだが、どうだろうか。
共通しているのはいずれも舞台地が山中、そこで怪異が起きることであろう。異界はどこかわからない空の彼方に漠然とあるのではなくて、それは人が歩く空間のすぐ近くにある。ぴったり重なるかのように隣接していて、人はあるとき何かのきっかけでふっと境界を超えて、そこへ迷い込んでしまうのだ。川を越えたとき、あるいは深い山中に分け入ったとき、風景がいつもと違うように感じられたとき・・・・。そのようなとき、人は知らずに異世界に接する扉を開けている。
でも人が異界をさまようということは、言い換えれば自己の内面の世界の蓋を開け、意識下の世界へと深く下りていく行為なのではないだろうか。そこには隠された自己の感情、忘れていた遠い世界の記憶、密かな願望、封印された欲望や、染み込んだ強い恐怖、目を覆いたくなるような原初的な光景、そして蠱惑的な美に彩られた極彩色の歓喜の世界が、何の矛盾もなく混ざり合い、展開されているのに違いない。それが脳内にある、内なる異界である。自らが持っている豊かな感覚の内面世界。鏡花がそのような世界に着目し、そこを辿る人を登場させ、繰り返し作品に描き続けたことは興味深い。
なお鏡花の作品世界の背景について考えるとき、白山の存在を思わないわけにはいかないだろう。白山に棲むとされる古代の女神である菊理媛(くくりひめ)、日本書紀にも登場するその幻の山姫のイメージは、創作に際し、亡母の面影とも重なって、鏡花の心を深く捉えて離さなかったと思われる。そのこととの関連については「白山の水 鏡花をめぐる」(川村二郎著)に詳述されているので、最後に引用することにしよう。
・・・・白山の姫神は黄泉の精霊である。水死体のようにおぞましく変形したイザナミを大女神と仰ぐ、死の世界の眷属である。そのことを筋道立てた知識としてではなくとも、ヴィジョンとして、鏡花は把握していたに違いない。しかしそれにもかかわらず、彼は「雲が晴れれば、仰がれる白山の女神」の白い輝きに固執する。
・・・・白山は天神や八幡や祇園のような,御霊神としての明瞭な相貌を具えてはいない。しかし受難、犠牲、非業の最期といった、死の圧倒的な力を強烈に印象づけるモチーフと、深くかかわる所では、黄泉の精霊ククリヒメは御霊的性格を濃くしているといっても、大きな謬りにはならないだろう。地下を自在に行き来する水とその生物にも、この精霊はもちろん密接な関連を持っている。しかも地上に現れた時、それは姫神の白い輝きを放つ。
・・・・「白山の女神はそれと名指されることなくとも、鏡花の作の随処に隠見している」
・・・・「この神の相を最もこまやかに捉え、最も内密な思いを込めて鑽仰した文学者が、加賀の作家、泉鏡花にほかならぬ」・・・・ (「白山の水」より)
参照 引用 「鏡花短編集」(岩波文庫)
「白山の水」 川村二郎 (講談社)