業平忌 十輪寺での法要
業平忌 十輪寺での法要
大原野小塩にある十輪寺に行ってきた。お寺は向日市の小高い山の麓にある。平安時代の歌人在原業平を供養する法要が、命日である五月二十八日に、毎年ここで行われている。
業平は六歌仙の一人として有名である。因みに六歌仙とは業平の他、僧正遍昭、喜撰法師、大伴黒主,文屋康秀、小野小町をいう。
業平は晩年をこの寺で過ごし、時に塩焼きをして風流を楽しんだと伝えられる。小塩山の地名もこの故事によるそうである。
お寺で貰ったパンフレットにも、次の歌が挙げられている。
大原や小塩(をしお)の山もけふこそは 神代のことも思ひ出づらめ (在原業平)
法要が始まった。式次第には「秘密三絃大法要」とある。
周囲を見回すと狭い本堂は人で一杯である。皆さんきちんと正座しておられる。集まっているのは、お寺の関係者、テレビ局、女性記者さん、今日の奉納芸能の出演者、舞や唄のそれぞれの流派のお弟子さんたち、一般的な業平ファン、庭にも偶然訪れたという感じのハイキング客が何人か、後は地元の人であろうか。ほとんどは中高年の方々である。
この日は真夏を思わせる暑さで、お堂を吹き抜けていく涼風が嬉しい。境内の楓の若葉の色が陽光に透け、裏山の藪からは時折、思い出したようにウグイスの声が聞こえてくる。
テープで流される雅楽の調べの中、住職が座られる。裾を長く引いた法衣、この衣は素絹(そけん)というものだそうで、縹(はなだ)色を使うしきたりとか。涼しそうな薄い水色である。一足ごとに引きずって歩く様子は、古式ゆかしい。
朗々とした声で声明が始まった。次に「献茶」「献香」と続く。着物姿の年配女性がしずしずと仏前にお参りされる。
住職が力強く弾く三絃の音に乗って般若心経が唱えられる。三味線とお経の意外な取り合わせにちょっと驚く。
寺伝によれば、
「三絃もまた素朴な型で経文を唱える法具に用いられ、次第に呪術的な色彩を帯びて、一種の供養法の儀式的なものになってきたのであります。かつて琵琶を以って経文を唱えていたのが、三絃に置き換えられ・・・・」
とある。
聞いてみれば、最初あった違和感は直ぐ消えて、独特の音楽空間がその場に広がっていた。速くも遅くもない程よいリズムで、節をつけられたお経は艶やかな歌のようにも響き、自然に聞き手の耳に馴染んでくる。
「業平の父は、平城天皇の皇子、阿保(あぼ)親王、母は、桓武天皇の皇女、伊都(いと)内親王・・・・」
と住職の声が響く。
業平は天皇の孫だったのだ。高貴な生まれで、歌詠みの名人、さらに容姿も優れていて・・・・とあれば女性にもてたというのも当然だろう。
多くの女性と係わりを持ったが、禁忌であった身分の高い女性にも堂々と近づいている。神に仕える伊勢斎宮と一度だけ過ちをおかしたが、斎宮は男の子を生み、人に知られることになってしまうし、藤原高子(後の清和天皇の后)とも恋愛関係にあって・・・・という具合である。
「伊勢物語」は作者不詳の歌物語で、業平とおぼしい人の一代記の形になっている。原本に多くの増補や修正が加えられたらしく、物語と業平の実生活がそのまま重なる訳でもないだろうが、主人公のモデルであるといわれている。
名にし負はばいざ事とはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
かきつばたを折句にした、
から衣きつつ慣れにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞ思ふ
などの歌は教科書にも載っていて有名である。
そのゆかりの杜若の「献花」や、参列者自作の業平を偲ぶ「献歌」の朗詠、と続いていく。
「伊勢物語」の本文を少し見てみることにしよう。男が都から追放されるという、いわゆる「東下り」の原因となった行状の一つが描かれている。
〈六段より抜粋〉
昔をとこありけり・・・・からうじて盗みいでて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上におきたりける露を「かれは何ぞ」となん男に問ひける。・・・・
雷さえいといみじう鳴り雨もいたう降りければ、あばらなる倉に女をば奥に押し入れて、男、弓やなぐいを負いて戸口にをり・・・・。
はや夜も明けなむと思ひつついたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。見れば率て来し女もなし。足摺りをして泣けどもかひなし・・・・。
これは二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてい給へりけるを・・・・御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言・・・・とどめて取り返し給うてけり。それをかく鬼とはいふなりけり。
(男は思い続けていた高子をやっと宮中から盗み出して、暗い夜の中を逃げて芥川までやってきた。川のほとりを行きながら、女は草の上の露を見て、珍しかったのか「あれはなに」と男にたずねた。
雷雨になったので女を倉に入れて隠して戸口で見張っていたが、明け方に鬼がやってきて、一口に食べてしまった。
鬼というのは高子の兄たち、堀河の大臣、太郎国経の大納言のことで、追ってきて妹を取り返したのだった。男は悲しんだがどうしようもなかった・・・・。
それは二条の后高子が、まだいとこの女御のもとに仕えていたときのことである)
この川は、摂津国、今の高槻市を流れる芥川であろうといわれている。
また「冷泉家流伊勢物語抄」によれば、芥川とは、実は宮中を流れる小川のことなのだという。
そうではなくて、物語の中の架空の川なのだという説もある。色んな解釈があるようだが、私自身はやはり淀川に流れ込む高槻の芥川説、をとりたい。
摂津では京の都と離れすぎていて不自然だともいわれている。でも陸路で行った訳ではなく、おそらく小舟で桂川へ出て、さらに下っていったのだろうと考えられる。
当時の宮廷は、今の京都御苑、御所のある所ではなく、もう少し二条城の方に寄った位置にあった。
地図で確認すると、千本丸太町の交差点近くに平安京の「大極殿跡」の表記がみえる。おそらくその辺りを中心に朝堂院などの主要な建物があり、周辺には女性たちの住居もあったのだろう。
例えば天神川のような、町の中を流れている川筋からも、舟を使えば容易に桂川へ入ることができる。そのまま山崎まで下ると、桂川は淀川に合流しており、高槻までそう遠い距離ではないだろう。
芥川を宮廷内の小川とみるよりも、どこか離れた土地にある川と想像するほうが、話は幻想性を帯びてくる。
男に連れ出され、寄り添って行くうち、思いがけず舟に乗って水面を遠くへ流れていく。都から離れるにつれだんだん夜が更けてきて、町の明りも遠ざかっていく。岸に集落の灯火が見えるほかは水の音が響くのみ・・・・。女にとってそれはいつまでも心に残る幻のようなひとときだったのではないだろうか・・・・。
猿若流家元の舞踊や、地唄、小唄、一絃琴、などの芸能、邦楽の奉納が続いていく。それぞれの道を究めた方たちの伝統芸を間近で見せて頂くのは、テレビなどで見るのに比べると、迫力がある。
話は変わるが「毘沙門堂本古今集註」には「身足(みたり)の翁」という言葉がみえる。三人(みたり)の翁、と言う字を当てることもあるそうだ。
和歌の神でもある住吉の神が、仮に人の姿になってこの世に現れることを指し、神は歌の道を広めるために、あるときは人丸(柿本人麻呂)に、あるときは業平に変じて、その力を示されたという。それで住吉、人丸、業平のことを「三翁(さんのう)」というそうだ。
この考えかただと、業平は住吉の神の顕現ということになり、神にも等しいことになる。今日捧げられている各種の芸能は、業平への個人的な供養であるとともに、住吉の神への奉納でもあるのだろうか。
舞と音曲の部が終わり、「生け花」奉納に移っていた。仏前に向かって置かれた水盤に、後ろから手探りで花を挿していく「逆生け」の技が披露されていた。杜若が手際よく生けられていく・・・・。
やがて法要が終了し、住職は退出された。参列していた人たちも、痺れの切れた足をさすりながら立ち上がり、思い思いに襖絵を見たり庭を散策するなどして動き始めた。私もお堂を出て飾ってある着物などを一通り見せてもらい、お抹茶とお菓子を頂いてから、お寺を後にした。
賑やかな女性遍歴を続けた業平も、五十六歳で没するまで、静かにここ小塩の地で過ごしたようである。、時に竈で塩を焼き、書を読み、楽しみは訪ねてくれる知友と語り合い、歌を詠む、そんな日々だったろうか。
先日長岡天満宮へ行く折があって、何気なく拝殿脇にある立て札を読んでいたら、菅原道真はこの地で在原業平と付き合いがあったと書かれてあった。ともに詩歌管絃を楽しんだそうである。
年表によると、道真は九〇一年、藤原時平の讒言で大宰府に左遷され、その二年後失意のうちに大宰府で没した。業平は八八〇年に大原野小塩で生涯を終えている。
業平のほうが道真より二十歳近く年長であった。二人の間には、和歌や漢詩などを通して親しい交流があったのだろうか。一緒に塩竈(がま)の前に立つこともあったかも知れない。
塩といえば、古事記の「島々の生成」に出てくる「二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を下ろしてかきたまひ、塩こをろ こをろにかきなして」という表現が思い浮かぶ。
伊耶那岐命(いざなぎのみこと)、伊耶那美命(いざなみのみこと)の二神が矛で海を掻き回し、引き上げると、その矛先から滴った塩が積もって、おのごろ島ができた、というくだりである。それは何となく塩作りの作業を思わせるような表現でもある。
古来、塩を作るには、アマモなどの海草に何度も潮水を注ぎかけて塩分をよく含ませて、乾燥させた後、これを焼いて灰を水に溶かし、その上澄み液を釜に入れて火にかけた。濃い潮水を煮詰めて掻き回していると、段々水が少なくなってくる。更に力をこめていると、水分が完全に蒸発して、あるとき底に真っ白な塩ができる。おそらくそれが塩作りの最高潮の瞬間だったろう。
水が塩に変わっていく不思議。目に見えない何かの力が働いたかのような、その一瞬を目の当たりにみるのは、さぞ心躍るものだったに違いない。
余談になるが、宮城県の塩竈神社では、神主さんが古式に則った手順で、釜で潮水を煮詰めて塩を作る藻刈焼神事が、今でも行われているそうだ。塩は強い浄化力を持っていて、罪や穢れを清めるものと考えられている。古来伝えられる方法によって作られるそのような塩は、神聖なものであり、神への供物でもあったろう。
業平もただ塩竈や汐汲池を拵えて風流を楽しむというより、塩を作る作業を通して、塩の持つ清らかな力に触れ、何かを感じていたのではないだろうか。
業平が竈の傍らに立ち、潮水をかき混ぜながらもの思うとき、その脳裏には、前述のような、遠い時代の伊耶那岐、伊耶那美の二神が、矛で海水を掻き回す姿も重なっていたかもしれない、と私は勝手に想像するのである。
業平が、その時そのときは真剣に愛したはずの数多くの女性たち。その後彼女たちも業平と深くかかわったことで、あるいは運命が分かれ、幸不幸さまざまに生きていったことであろう。
業平は残された晩年の日々を、人里離れた大原野のこの地で、過ぎた日々や彼女たちのことを思いつつ、山中に設けた塩竈に薪をくべ、緩く空に向かって立ち昇っていく煙を見つめていたのかも知れない。
十輪寺裏山の竹薮の中には、業平の墓や塩竈跡、また大阪湾から運ばせた潮水を溜めておいたとされる汐汲池などが今も保存されている。
業平は生涯に多くの優れた歌を残したが、代表的なものを二、三挙げておこう。
ちはやぶる神代もきかず龍田河 からくれないに水くくるとは
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
そして「伊勢物語」最終段はこの歌で終わっている。
つひにゆく道とはかねて聞きしかど きのふ今日とは思はざりしを
この世を去っていくとき、人は誰も皆同じように思うだろう。
緑の木々に包まれた小塩の坂は、今もひっそりと静まっていて、野鳥の囀る声が響いていた。
〈引用〉
日本古典文学大系 「竹取物語・伊勢物語・大和物語」 岩波書店