白洲正子
「かくれ里」(講談社文芸文庫)
白洲正子
「かくれ里」(講談社文芸文庫)
先日、神戸大丸で開催されていた「白洲次郎と白洲正子展」を見にいった。白洲夫妻が愛用した身の回り品や、書画骨董などの蒐集品、武相荘の応接間のセットなどが展示されていた。神戸はゆかりの地ということで、人々の関心の高さを示すかのように、大勢の人が訪れて展示品を眺めていた。混んでいたのは、最終日の三日前というせいだったのかもしれないが。
白洲次郎は富豪の息子で芦屋市出身、神戸一中に通い伊丹市にも住んでいたそうだ。政治家、事業家であるが「マッカーサーを叱りつけた男」として有名であり、「従順ならざる唯一の日本人」といわれたそうである。先日、放映されたNHKテレビのドラマ「白洲次郎」の中で、
「我々は戦争に負けただけであって、奴隷になったわけではない」
とマッカーサー相手にイギリス仕込みの英語で叫んでいたのが印象的であった。
妻の白洲正子は伯爵令嬢、能や、陶器、古典に造詣が深く、近江をはじめ近畿各地の寺社、旧跡、山村などを訪ねて、すぐれた紀行文をなしたことで知られる人である。
二人とも幼少時から恵まれた環境に育ち、海外での留学経験を持つ。金融恐慌でいったんは実家が経済的危機に陥るということはあったものの、夫のほうは政治や事業に力を発揮し、妻のほうも能や文芸の世界に場を見出すなど、縦横に活躍した魅力的な人たちなのである。
カントリー・ジェントルマンを目指した次郎の意向により、夫妻は東京郊外に疎開して農家を改築し、武相荘と名づけた家に住んで田畑も持っていた。武蔵の国と相模の国の出会う地に因む命名で、五千坪の敷地があったそうだ。
会場に並べられた品々を順に見て歩くと、武相荘で使われた食器というコーナーがあった。江戸時代や桃山時代のお椀、お茶碗、お皿、小鉢などが並んでいた。割れやすい食器にこの贅沢さ・・・・。隣で覗き込んでいた人は、あまりの生活レベルの違いに、ため息をついていた。
集められた美術品、骨董品の数々にも驚いた。私はそういう方面にはまったく疎いのだが、金継ぎの施された焼き物の前で足が止まり、何と美しいものなのだろうかと、見つめてしまった。
割れたお茶碗などを修理する技法と、単純に思い込んでいたけれど、継ぎ目に細い金の筋が入ることによって、思いがけず視覚的な新しさが生まれるのだと感心した。単に割れたものや欠けたものを丁寧に継ぎ合わせるだけなら「もったいない精神」の表れであるが、金や銀を用いての入念な修理は、それ自体が見事な装飾になっている。壊れたものを蘇らせる作業に、どういう霊的な力が加わって、このような美が生じるのだろうと、私は会場の一隅で考え込むのであった。
白洲次郎の愛用したルイ・ヴィトンの旅行用スーツケース、本場ツィードのジャケット、オリベッティの黒いタイプライター、自ら作ったスタンドなどの竹工芸品、使い込まれた古い品物を見ていると、年月を経てもなお、そこにかつての持ち主の思いが籠もり、その手の温もりがまだそこに残っているかのようであった。
一方白洲正子がその内面の思いを結実させ、この世に遺したものとしては、「かくれ里」「西行」など著作の数々が挙げられるだろう。行動力のある人で、必ず現地を訪ねて文章を書いたそうだ。人や風土と触れ合い、歴史をひもときながら独特の直感も交えつつ考察を重ねようとする。精魂こめて書かれた文章は、今も色あせることなく、心から心へ届き、読み継がれている。
小説などの創作ではなく、随筆、紀行文の世界なのだが、丁寧に構成されていて、どの作品も奥行きと味わいがある。女性にありがちな感情的に流れていく文体ではなく、抑制の利いた理知的で端正な文章、信頼できる資料を引いての考察、時代背景への目配り、対象への真摯な目線などが、独特の持ち味となっていて確かなものを感じさせる。
代表作の一つである「かくれ里」の世界をみていくことにしよう。
滋賀、京都、吉野、葛城、など二十数か所の山里、村里を訪ねた紀行文である。雑誌に掲載されたということもあるのだろうが、添えられた写真を眺めるのも興味深い。たしか単行本では、もっと多くの写真が使われていたように記憶している。
たとえば「油日(あぶらひ)の古面」という章がある。四歳から能を習ったという白洲さんは、能面に関心が深く、ここでは油日を訪ねた折の素朴で力強い美術品との出会いを綴っているのだが、古面と伎楽面との類似を指摘するなど、面白い視点があって、その解説も行き届いている。普通の人がいきなり神社を訪ねていっても、こういう宝物を見せてもらいにくいし、鑑賞の仕方もよくわからないが、白州さんの目を通してある印象と知識を得、この章を読むと、私たちも遠い歴史を潜り抜けてきた古面に思いがけず巡り合い、それを間近で見つめているかのような気分に浸れるのである。
南朝最後の皇子、自天皇の伝承を、誇りとある厳しさを持って語り伝えている吉野の村人たちの姿が描かれている章がある。高名な大学の先生の紹介だったので、村人たちが集まってくれて、それぞれに言い伝えを語り出す。聞き役に徹しながら、白洲さんは遠い歴史を有する吉野の持つ風土を思い、さらに古代の水銀朱の産地としての吉野を想起し、神武東征の時代まで遡っていく。そして 自分の中にもある吉野という霊的な地への憧憬にふと気づく。
・・・・今はじまったこことではない、天武・持統の古(いにしえ)から、吉野は人を招き続けた・・・・。(「吉野の川上」)
また惟喬親王にまつわる伝説を持つ山里を訪ねる章でも、伝説を否定するのではないが、全面的に肯定もせず、ほどよく私見を述べながら、木への思いがさまざまに語り出されていく。
・・・・日本の仮面は、おそらく神像の代用品として造られ、神事から次第に芸能の世界へ移って行ったのだ。こけしも同じような目的で、旅に持ち歩く神像として手軽な形体を供えて行ったに違いない。そういう意味では、能面もこけしもまさしく「木の子供」たちであった。(「木地師の村」)
有名ではないが、古い由緒や謂れを持つ神社仏閣が選ばれて紹介されている。関連のあるいろいろな和歌も文中に自然な形で入っていて、説明や解説も決して過剰でなく、それらを味わっているうちに、いつのまにか読者は時を超えて、往時の世界に分け入っていくのである。読み手は自然に導かれるようにして、歴史の一こまを白洲正子の繰り出す文章によって垣間見、またひなびた山里に出向いて、父祖の伝えてきた文化の一端に自分も触れているような感じを持つ。何げない山村散策のうちにも、風景や人、歴史の重なりが盛り込まれているので、読者は、こんな良いところがまだ残っていたのだ。機会があったら一度行ってみたい、 というような思いにとらわれる。いつかそこを訪ねる自分を想像していると、心豊かな気持ちになれるのである。
「西岩倉の金蔵寺」という章がある。実は私は二十年以上、京都の西山山麓で暮らしていたにもかかわらず、この山中にあるお寺を訪ねたことがなかった。白洲さんの文章で初めて由来も知ったのである。それまでは分岐でちらっとその寺の名を見る程度であった。地元にいてすらこうなのである。
思い立って晩秋に自転車で坂の途中まで行き、後は金蔵寺まで何キロかの道を歩いていった。脇道に入ると、銀杏や楓の葉が地面に厚く積もっていて木漏れ日の中、上からはらはらと紅葉が舞い落ちて肩に留まる。黄金のような時間を過ごした。川に沿っていくと小さな滝があり、静かなお寺で、紅葉も鮮やかで息を呑むようであった。
白洲さんは良いお寺をご存じなのだと、改めて思った。良いものを見逃さず、見出す眼を持っていた、というほうが当っているだろうか。もっとも向こうは往復とも車だから、途中のこういう景色はたぶん見ておられない、そんなことをぼんやり考えながら帰り道も落ち葉の積もった道を歩いた。
「湖北 菅浦」の章を読んだときには、また別の感慨があった。若い頃に一度菅浦を訪ねたことがあり、そのときは村の歴史を知らず、ただ景色のきれいな所と感じただけであった。一箇所、通りすがりに見た集落の古い神社に心惹かれ、何かしら気になって仕方がなかったのを覚えている。
その後、二十年近くたってから菅浦を再訪したが、そのときにはすでに白洲さんの本を読んでいたので、件の神社の由緒も知っていた。神社は保良の宮跡とされ(あるいは離宮とも)、恵美押勝の乱で破れ、乱に関係したとして非業の死を遂げた淳仁天皇陵と伝えて村人が崇敬しており、石段下で履物を脱ぎ、裸足で御陵に参詣するしきたりが今も守られているという。
菅浦の章で白洲さんは「・・・・その山の麓、神社の石段の下で、私たちは靴をぬがされた・・・・」と幾分不満そうに叙述している。お姫様育ちの白洲さんにとっては、靴を脱ぐなど、誇りを傷つけられることでもあったのだろう。
私がその須賀神社を訪れたとき、石段は通り雨の後で濡れていた。履き替え用のスリッパが置いてあったが、雨のために汚れていたこともあり、ソックスを脱いで素足になって石段を上がっていった。初冬の冷たい石のきざはしを足裏で踏みしめるごとに、古代の感覚に近寄っていくような気がした。きっと古代の人もこうしてお参りしたのだろうと思った。
菅浦の地は万葉にも詠まれており、静かに波の打ち寄せる水辺と、背後の山の緑、漁で生活する村の雰囲気が今も保たれている集落だった。暮れかかる竹生島がうずくまるような形で黒く湖上に浮かび上がる琵琶湖の情景から離れるのが惜しく、バスのぎりぎりの時間まで岸辺に坐って沈む夕日を見つめていた。
「山国の火祭」も心に残る章である。
京都郊外の広河原や原地に伝えられる「松上げ」の行事をつぶさに描き出していて臨場感がある。神が降臨するという高い灯籠木(とろぎ)を立て、そこに取りつけられた籠に向かって、男たちが玉入れ競争のように、火種を投げ入れようとする。一番を競うのである。やがて火が点き、燃え上がった火とともに灯籠木が地面に倒れ、地上でなおも炎を上げて燃え続ける。
祭りに参加した村人が昇った月に照らされて、木やりを歌いつつ引き上げていくという、その余韻の残る情景がしみじみとしている。闇の中で行われる珍しい伝統行事に立ち会っているようで印象深い。
原地は知らないのだけれど、広河原へは一度行ったことがあった。美山町へ一泊ハイキングに行った往復に通り、バスの終点なので、時間待ちのためにしばらく広河原の周辺を歩き回って過ごした。
初夏の緑が萌えるような季節で、ここで夏の終わりに、松上げが行われるのだと、そのことを思い出していた。私自身は機会がなくて、まだ見たことはないのだが、仮に年に一度の神事のその時間に、運よくそこへ行けたとしても、白洲さんの文にあったような、闇の中での心が震え立つような揺れる松明の列との出会いに始まる、ああいう幻想的な光景を私も同様に体験できるのかどうかは、わからない。
白洲さんの文にはどこか「一期一会」の思いが息づいている。書き手にとって、旅先での人や物との邂逅は、生涯に一度の出会いにほかならない。そのことを意識しつつ、体験を心の中で再構成し、歴史を織り交ぜながら見る角度を変え、納得のいく文章になるまで練り上げていく。そういう並々でない努力の跡がうかがえるのが白洲さんの文章の特徴なのである。
単に良い風景との出会いや、珍しい旅の体験を上手に語っただけでは、こう深くはならないだろう。作者の中に長年蓄積されている知識や学習で得た成果、内面の思いに、現実の旅の体験が重なり合って融合し、紀行文という範疇を超えた、誰にも書けない上質の作品群を生み出していく。
そしてその根源となったのは、旺盛な知的好奇心、対象に向けられていく冷静な眼と思考力、本質を見ようとする意思の力とでもいえばいいのだろうか。