一暗峠越え一
信貴山朝護孫子寺 枚岡神社(河内一宮)
暗峠 宝山寺般若窟
一暗峠越え一
信貴山朝護孫子寺 枚岡神社(河内一宮)
暗峠 宝山寺般若窟
暗(くらがり)峠は大阪と奈良の間を結ぶ古道である。生駒山地には幾つかの峠越えの道があるが、奈良と難波の間は、暗越えが最短の道であったという。上代から使われていたそうだが、時代が下ると伊勢参りの道として賑わった。芭蕉も最後の旅の途中にここを通っている。芭蕉は奈良から難波へと抜けたのだが、暗峠では「菊の香にくらがり登る節句かな」の句を詠んでいる。
暗峠と聞くとなんとも暗い感じを受けるが、命名の由来は諸説あって、樹木が生い茂り暗い道だったからという説のほかに、鞍借り説、鞍換え説などもあり、大阪側は急坂のため難所だったようである。
今回は大阪側から奈良側へ抜けることにした。せっかくなので沿線にある近隣の寺社も合わせて巡ることにする。
まず難波から近鉄電車に乗り換え、信貴山の朝護孫子寺へと向かう。乗換えが何度もある。河内山本駅で乗り換え、信貴山口で降り、構内からケーブルに乗って高安山まで上がり、今度はバスで山門下まで行き、そこからお寺まで歩いていく。
朝の冷気が身に染みるようであった。朝もやの中、橋を渡っていると、山中から鳥のさえずりが聞こえてくる。ここへ来るのは何十年ぶりのことだろう。懐かしい思いで辺りを見回していた。
小学生だった夏の日、スケッチ大会があってここに来たことがあった。あまりにも広いのでどこをどう描いてよいか分からず、暑い日だったのでとりあえず木陰に入ることにした。画用紙一面にそこから見えた緑の山を先に描いてしまったので、肝心のお寺はごく小さいものになった。
おそらく朝護孫子寺を遠く見上げる位置に坐ったのだろう。友達の絵を見ると、石灯籠だけを大きく描いた子、お寺から見下ろした山を描いた子、赤い橋を中心に描いた子など、それぞれ印象に残ったものが違っていた。境内が広く、題材が豊富だったということだろう。
遠い日を思い出しながら、歩いていく。信貴山を象徴する大きな張子の虎があった。立ち止まってつくづくと眺めると、口を開けて吼えている巨大な虎である。
寺の創建に関してはいろいろな説があるらしい。一説には五八七年、聖徳太子が物部守屋の軍と戦った折、四天王に戦勝祈願をしたのが起源という。寅年、寅の日、寅の刻に毘沙門天が現れて霊験があったので、山に毘沙門天を祀り、信貴山と名づけられたのもその頃といい、現在境内のあちこちに虎関連のものがあるのは、この伝承に因んでのことらしい。
醍醐帝のとき、命蓮上人が帝の病気平癒を祈願したという伝承もあるので、もうその頃には寺院が存在していたとみられている。
びっしりと並んだ石灯籠を見ながら進んでいくと、たくさんのお堂が点在している。全部には寄れないので、道筋にあるお堂に手を合わせながら登っていくうちに、本堂へと出た。本堂前は見晴らしの良い舞台になっていて、そこからは遠くの山々と、その向こうに大和平野が霞んで見える。
毘沙門天が祀られているお堂である。内部にも入れるのでお参りし、その後本堂地下の戒壇巡りに行くことにする。
靴のままでいいということなので、指示に従って降りていくと、そこは本当に真の闇であった。無の世界である。手探りでそっと壁伝いに進む。闇の中を少し厳粛な気持ちになってそろそろと歩いていった。たとえば古墳の石室の中はこんな雰囲気なのではないだろうか。そして以前、富士山の青木ケ原の風穴や、こうもり穴の洞窟に入ったときのことを思い浮かべていた。
暗いところに入ってみると、やはり心に去来するのは死後の世界、母の胎内、記憶の底からそういう連想が自然と湧いてくるのだった。転倒に気をつけながら進み、最初の角を曲がると、中ほどに少し明るんだ場所が見えてきた。引き寄せられるように近づいていくと、そこには小さな仏様がたくさん祀ってあり、ほのかな光に照らし出されている。しばらく佇んでいた。そこを後にして次の角を曲がると、今度は錠前らしいものがあって、内部は見せてもらえないが、そこに宝珠がおさめてあるとのことであった。
短い時間であったが、暗闇を抜け元の明るい地上に出てほっと息をつく。一度死んで再び生へ戻ったという感覚である。胎内くぐり、蘇生体験、そんなことも思った。
本堂脇の霊宝館に入って、「信貴山縁起絵巻」を拝観する。醍醐帝の時、命蓮上人が祈祷により帝の病気を治した話、飛び蔵の逸話などで有名な絵巻である。原本は国宝なので奈良博にあり、ここにあるのは複製とのことであった。受付のおじいさんが出てきて「飛蔵の巻」の説明もして下さった。
命蓮上人は信貴山から法力で空鉢を飛ばし、信者からお布施を受けていた。京都山崎に住む貧者が、毘沙門天を信仰して寄進を続けやがて長者となったが、慢心して鉢に米を入れて返さず、鉢を蔵に置いていたところ、鉢は蔵を動かし、蔵ごと浮き上がらせ信貴山まで飛んでいってしまった。驚いた長者は蔵を追い信貴山までやってきて、話し合いの結果、蔵はそのままにして中の米俵のほうは返してもらうことになった。上人が鉢に米俵を一つ載せると、鉢は長者の家に向かって空を飛びはじめ、他の米俵も順に後をついていった。その顛末が飛蔵の巻に描かれているのだった。
絵巻の世界を覗き込むと、実に生き生きとした筆遣いでそれぞれの情景が描かれていた。鉢が蔵を持ち上げて宙に浮かせる場面、見ている人々の驚きの表情、蔵や米俵が空を飛んでいくという意表を突く話の展開、その面白さが伝わってくるようであった。絵巻はかなり長いものらしく、その一部が展示されてあった。
山を下ることにする。再びバス、ケーブルと乗りついで、近鉄線の布施駅まで戻り、今度は奈良方面に向かう。
河内一宮 枚岡神社
電車がゆっくりと坂を上がっていくのがわかる。今は東大阪市であるが、昔はこの辺りはまだ海であったといわれている。神武東征の折、神武軍は船でここを進み、日下で上陸、待ち受けていた土地の首長の長髄彦(ながすねひこ)軍と戦ったとされる。激戦であったろう。このときは神武の兄五瀬命が矢傷を負って神武軍は撤退し、船で南下していく。戦場になった日下は現在の石切の山麓という。石切には庶民信仰の石切剣箭(いしきりつるぎや)神社(饒速日とその子の可美真手を祀る)もあって興味深いのだが、今日はそちらではなく、手前の枚岡駅で降りて、今は国道三〇八号線(狭いことで知られる)となっている暗峠を登ることにする。
枚岡駅で降りると、目の前がもう参道であった。ゆるい坂を登り、続いて石段を上りきると、河内一宮の枚岡神社であった。由緒を見ると、創建は神武天皇即位前三年というから古い。勅命で天種子命(あめのたねこのみこと、中臣氏の祖先)が背後の神津嶽に磐境(いわさか)を設け、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神を祀って国土平定の祈願をしたのが起源であるという。もしそうなら神武軍はその時点では、すでにこの辺りまできていたことになる。上陸した土地でまず山に登って祭祀を行う、というのは古代の呪術的行為であろう。
孝徳天皇の御代に、神津嶽にあった社は山麓の現在地に移され、枚岡神社となったということであった。後になって祭神は両神とも奈良の春日大社に勧請されており、ここは元春日ともいうそうだ。境内は広々としており、近くには梅林があって梅の季節には賑わうのだろうが、今は冬の最中なので人もまばらであった。中臣氏の祖先が祭祀を行ったことによるのだろう、狛犬の代わりに、鹿が置かれているのが印象的である。京都郊外の大原野神社など、藤原氏関連の社ではよく見かける。
お参りの後、暗峠へと続く道を探す。社殿の背後に神津嶽に向かう山道があるが、今日はそこへは上らないので、線路に沿って石切の方向に歩いていく。
ほどなく狭い幅の道路に出た。上に向かって急坂が延びており、国道三〇八号線の標識がある。それが目指す暗峠の道であった。アスファルト舗装ではなく、コンクリートに滑り止めの横線の刻みや、丸くくぼんだ連続模様をつけた道路である。
上から車が降りてきたので、慌てて端に寄ってやり過ごす。噂には聞いていたが国道とはいうものの道路は極端に狭く、両側に民家が迫っている上に急傾斜、対向車が来ればどうやってすれ違うのだろうと心配になる。
暗峠越え
民家の続く道をゆっくりと上り始める。それにしても暗峠とは、不吉な命名である。この名が持つまがまがしさは何によるのだろう。単に樹木がうっそうと生い茂っていて暗かったから、というだけでなく何かもっと別の暗い闇も想起される。
古代の地形が今と異なっていることは前述したが、古代ではこの辺りは海で、入り江になっていたという。次第に上町台地の砂洲が延びることによって、河内湾は海水が一方から流れ込む潟湖となり、土砂によって閉じられていき、やがて河内湖となっていく。さらに時代が進むと、大和川やその支流の土砂の堆積によって湿地から陸地へと変わっていくのである。
・・・・浪速(なみはや)の渡を経て、青雲の白肩の津に泊(は)てたまひき。このときに登美(とみ)の那賀須泥(ながすね)彦、軍を興して待ち向へて戦ふ。・・・・日下の蓼津といふ。ここに登美彦と戦ひたまひし時に、五瀬(いつせ)の命、御手に登美彦が病矢串(いたやぐし)を負はしき。(古事記)
注には、白肩の津は枚岡の日下付近とある。「青雲の白肩の津」という言葉からは、青く澄み渡った空や湧き出る白雲が連想される。おそらくよい季節だったのだろう。
生駒山が聳えているので、河内から大和へ入るには、神武軍はどこかで山を越えなければならない。最初、南下して亀瀬越を試みて、引き返したようである。亀瀬は大和川の急流で王寺にあり、難所である。おそらく神武軍は上陸して亀瀬を越えようとしたが、あまりに急峻であったため諦めたのであろう。書紀にはこう記されている。
・・・・皇師(みいくさ)、兵(つはもの)をととのえて、歩(かち)より竜田に趣(おもぶ)く。而(しこう)して其の路狭(さ)く険しくして、人並み行くこと得ず。すなわち還りて更に東胆駒(いこま)山を越えて中洲(うちつくに)に入らむと欲(おもほ)す。時に長髄彦(ながすねびこ)聞きていはく、「それ天神(あまつかみ)の子等の来ます所以は、必ず我が国を奪はむとならむ」といひて、則(すなは)ち尽(ふつく)にしたがへる兵を興してさえぎりて、孔舎衛(くさえ)坂にして、ともに会ひ戦ふ。
(日本書紀)
神武軍は日下へ回り、生駒山麓から再び侵入を試みようとした。
突如入り江に現れた武装船団、上陸して竜田に進み、引き返す神武軍を見た土地の人々は、どんなに驚愕し怖れたことだろう。知らせを受けた長髄彦は、行軍を阻止しようと兵を集め、日下の地で待ち受けて戦闘になる。
長髄彦の本拠地は大和で、その名に因む富雄、登美などの地名は今も奈良市に残っている。また長髄彦の名は、足長の人という意味ではなく、長曽禰という地名に由来するという。
長髄彦は神武よりも以前に、河内哮峰(いかるがのみね)に天降っていた天神の子、饒速日(にぎはやひ)に仕え、自分の妹である三炊屋姫(みかしきやひめ、登美夜毘売とも)を饒速日に嫁がせ、可美真手(うましまで、記では宇摩志麻遅、うましまぢ、と表記)という男児もあった。饒速日は早い時期に死去した、という説もあり、もしそうなら可美真手が成長するまでの間、長髄彦が実質的な保護者であり、支配者でもあったのだろう。長髄彦は自分の領地を守ろうと必死だったのに違いない。
日下での戦いは地元の長髄彦側に利があって、神武軍は負傷した五瀬命とともに撤退した。そのときの記述をみてみよう。
・・・・皇師(みいくさ)、進み戦ふこと能はず。天皇憂へたまひて「、今我は是日神の子孫にして、日に向かひて虜(あた)を征(う)つは、此天道に逆れり。しかじ退き還りて・・・・背に日神の威を負ひたてまつりて・・・・かくの如くせば、虜必ず自づからに敗れなむ」とのたまふ。(日本書紀)
自分たちは日の神の子孫なので、太陽に向かって戦うことは不吉であり、日の神の威光にしたがって敵に襲いかかるほうがよいといって、引き返したのである。五瀬命は船上で傷が悪化して亡くなり、紀の国に埋葬される。
・・・・「賤奴(やっこ)が手を負ひてや、命すぎなむ」と男建(をたけび)して崩(かむあが)りましき。・・・・陵(みはか)は紀の国の竈山にあり。(古事記)
五瀬命は長兄、神武は末弟で(出発時にすでに四十五歳という)、ほかに稲飯(いなひ)命、三毛入野命という二人の兄があったとされるが、二人は船団南下の際、熊野の海で嵐に遭って亡くなっている。四人兄弟であったらしい。
神武軍は日向を出発し、宇佐、安芸、吉備など各地を経たのち何年もかかって浪速まで侵攻してきたのだが、最初から末弟がずっと指揮を執っていたのだろうかと、そのことを疑問にも感じてしまう。
記紀にはずっと末弟神武が中心になっていたように書いてあるし、また特にそれを否定する根拠もないのだが、何となく感じとしては、日下の戦いで負傷するまでは、長兄が指揮官であったような気もする。記紀をみると、矢傷で亡くなるときの悔しさの表現が、かなり強い言葉なので、そのことにも少々引っかかった。もし兄弟全員で大和に入っていたとすれば、皇位についたのは五瀬命だったかもしれない。
以前和歌山に行ったとき、竈山神社を訪れたことがある。冬の夕暮れ時だったため、道路に面しているのにもかかわらず、陵の前に立つと、辺りの樹木が暗く茂っていて恐ろしいほどであった。神社は立派な社殿であったと記憶している。
時代が下って、雄略天皇の記事に、こんな一節がある。
・・・・初め大后、日下にいましける時、日下の直越(ただこえ)の道より、河内に幸行(い)でましき。・・・・
ここに若日下部の王、天皇に奏さしめたまはく、「日に背きて幸行でますこと、いと恐(かしこ)し。かれおのれ直にまゐ上りて仕えまつらむ。」とまをさしめたまひき。(古事記)
雄略天皇が、日下の王の妹である若日下部の王に妻問いのため、大和から河内に行った折の記事である。注には、日下直越の道とは、生駒山の暗峠の道で、大和から直線的に越えるので直越えという、とある。注目するのは、「日を背中にしておいでになることは恐れ多いので、よって私が参上してお仕えしましょう」と答えていることである。
注を見ると、東の大和から西の河内への天皇の道行きは太陽を背にすることになり、求婚に不適なのでの意。神武東征のときは、この反対の道をとることが日に向かって戦うことになるので、不祥とした、とある。
日に向かうこと、あるいは日を背負うこと、人の行為が太陽とどうかかわるのかを、古代の人は事あるごとに意識し、また気にもかけていたのだろう。自然への畏怖は、今と比較にならないほど強く、太陽に関する禁忌、呪的行為もさまざまあったことだろうと思われる。
神武軍は、熊野から宇陀を経て大和に入り、「まつろはぬ人ども」を次々に制圧していく。書紀によると、長髄彦は大和に入った神武軍に使いを出し、「自分は哮峰に天降った天神の子の饒速日に仕えているが、なぜ天神の子が二人もいるのか」と尋ね、求めに応じて饒速日の表(しるし)の天羽羽矢(あめのははや)と歩鞆(かちゆき)を見せ、神武本人もまた同様に所有している天羽羽矢と歩鞆を示し、天神の子である証を見せている。
しかしこのような遣り取りの後、神武側と長髄彦との間は、和議や帰順には至らなかった。書紀では饒速日が、性格がねじけている長髄彦を殺して神武軍に帰順、また古事記では、饒速日が神宝を奉って神武に帰順したとある。
もし饒速日がすでに亡くなっているのだとしたら、この文中にでてくる饒速日とは、神宝を継承した息子の可美真手のことを指すと読まねばならないだろう。あるいは饒速日は、その名を継承した親族、一族の誰かだった可能性もありうる。
帰順した饒速日が神武側に奉った神宝とは、饒速日が天神から授けられて持ってきた十種類の宝物を指す。沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるがえしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちがえしのたま)、蛇比礼(へみのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物比礼(くさぐさのもののひれ)。それらは神秘な力を発揮する呪具であったのだろう。
・・・・皇師(みいくさ)遂に長髄彦を撃つ。・・・・金色の霊しき鵄(とび)有りて皇弓(みゆみ)のはずに止まれり。其の鵄光りてりかかやきて・・・・長髄彦が軍卒、皆惑ひ眩(まぎ)えて、復力(またきわ)め戦はず。・・・・昔孔舎衛(くさえ)の戦いに五瀬命、矢に中(あた)りて薨(かむさ)りませり。天皇ふふみもちたまひて常に憤(いくみうらむること)を懐(いだ)きたまふ。此の役(えだち)に至りて意(みこころ)にころさむと欲(おもほ)す。
・・・・饒速日命、・・・・かの長髄彦のひととなりいすかしまにもとりて、教ふるに天人(きみひと)の際(あひだ)を以てすべからざることを見て、すなわち殺しつ。其の衆(もろびと)を師(ひき)いて帰順(まつ)ろふ。・・・・天皇すなわち褒めて寵(めぐ)みたまふ。此物部氏の遠祖なり。(日本書紀)
神武は兄が矢傷を受けて亡くなったことで、長髄彦のことをずっと恨みに思っていたという。長髄彦との間に、和議などありえなかった。帰順してもしなくても、長髄彦はどのみち殺されただろう。そういう意思を知った饒速日は、自分が長髄彦を殺して帰順し、その功績を認められ重臣となったというのである。
日下の戦いでは太陽を背に勝利したのは長髄彦であったが、今回は違った。金色の光輝く鵄(とび)とは神威のたとえであり、太陽を背にして襲いかかってくる神武軍の象徴的な表現なのだろう。かつて日下の項で神武は言っている。
「背(そびら)に日神の威(みいきほひ)を負ひたてまつりて、影のまにまにおそひふみなむには。かくのごとくせば、刃に血(ちぬ)らずして、虜(あた)必ずおのずからに敗れなむ」(日本書紀)
その言葉通り、事は成就したのである。
八咫烏、鴨氏など、鳥の名を持つ氏族は記紀にいくつか登場する。鳥を守護霊に持つ集団が存在したということだろう。集落の入り口、あるいは戦いの折、よく目立つように長い竿や矛の先に、目印としてたとえば水鳥を象ったものなどを付けたと思われる。それは敵味方を区別する印にもなっただろう。そういうことを念頭に置くと、金色の鵄の逸話は次のように読める、という説がある。
鵄は本来なら登美彦、登美の王と呼ばれた長髄彦側の守護霊であり、長髄彦を護るはずのものであった。けれどもその霊威はすでに長髄彦から離れ去り、新たに霊威を身に帯びて現れたのは若い可美真手であったろう。
長髄彦が、神武軍と対峙したとき、そこには棒の先に目印として鵄を高く掲げた可美真手の姿もあって、それを見た長髄彦は、まさかの思いで凍りついたに違いない。いつのまにか血のつながる甥が自分を見限って、敵に回っていた。動揺した長髄彦は戦意を喪失、けれども太陽を背に立つ甥に向かって、どうしても矢を射掛けることができなかったのではないだろうか。長髄彦はたぶんその瞬間に崩れたのだと思われる。
長髄彦の本拠地から生駒山は見えている。逃げ込むとしたら、大和から脱出するとしたら、それは河内に抜ける道しかない。大和から敗走する兵、それを追撃する神武軍、熾烈な戦いが、たぶん生駒山の大和側の山麓で起きたと思うのである。暗峠にも傷ついた兵は逃げ、追われただろう。長髄彦は追い詰められ日下に辿り着いたものの、戦況を判断し、もはや逃れられない運命を悟り、自ら死を選んだのではないか、と個人的には思っている。
つけ加えると、ずっと後の時代のことになるが、長髄彦の末裔と思われる人物の名が書紀に登場する。迹見赤檮(とみのいちい)という。
崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部守屋が、宮中祭祀を巡って対立した際、蘇我氏、聖徳太子ら諸皇子らの連合軍によって、物部守屋は本拠の渋川の地で戦って滅ぼされる。この戦闘における聖徳太子の勝利祈願が、朝護孫子寺の創建の由来となったことは前述した。迹見赤檮が出てくる物部守屋の最期の場面を見てみよう。
・・・・大連(おおむらじ)、みづから子弟(やから)と奴軍(やっこいくさ)を率(い)て稲城を筑きて戦ふ。ここに大連、衣摺りの朴(えのき)の枝間(また)に昇りて、臨み射ること雨の如し。・・・・
ここに迹見首赤檮(とみのおびといちひ)ありて、大連を枝の下に射堕(いお)として、大連あわせて其の子等をころす。大連の軍たちまちにおのずからに敗れぬ。(日本書紀)
長髄彦の末裔である迹見赤檮が、饒速日の子孫である物部守屋を矢で射て、物部氏を倒すのである。形としては、末裔が先祖のあだ討ちをしたという逸話になっている。
古くから河内と大和を結ぶ道に、日下直越えの道がある。神武軍が日下から越えようとした道、また雄略天皇が日下に通ったという道が、それではないかといわれている。現在のどの道を指すのかはわからない。ただいくつかの山道が候補とされていて、暗峠もその候補の一つであり、ほかに日下から神武戦跡地を通って上る道が伝承の直越道とされている。
当時暗越の道は難所であったろうが、大和へ入る最短の道ではあった。日下から登る道は緩やかであるが、余分に時間を費やすことになる。神武軍は枚岡の地にきて神津嶽で祭祀までしているのに、近い方の暗越でなく、日下の道を選んでいる。亀瀬越で難渋したので急坂の暗越の道を避けようとしたのか、それともほかに理由があったのか。
神武軍は日下で敗北の後、船で南下して熊野に上陸するが、その際も、巨大なゴトビキ岩が神体の神倉山(新宮市)に上っている。
・・・・軍(みいくさ)、熊野の神邑(みわのむら)に到り、すなわち天磐立(あめのいわたて)に登る。(日本書紀)
神武軍は熊野に上陸するとまず、その地の聖地の山である神倉山に登り、そこで何らかの儀式を行ったのであろう。古代において部族同士の戦闘は、また各々の部族が奉じる神と神の戦いでもあった。
その土地を領する神霊は多く聖地とされる山に鎮座して、土地の人々に崇められている。信仰の対象となっている場、そこを見定めて、聖地に兵を進め、自分たちの手で祭祀を行うことは、民を制圧する上で重要なことであった。まず地霊や神を征圧し、祭祀権を手にすることが、その土地の支配に繋がる必要な行為であるとみなされていたのだろう。
神武軍が宇陀を経て大和へ入った折も、密かに部下を天香久山に登らせ、土を取ってこさせて、祭祀のための土器八十枚を作り、神祭りの儀式を行っている。
・・・・今まさに天香山の埴(はにつち)を取りて、あめのひらかを造りて、天社国社(あまつやしろくにつやしろ)の神を祭(いはひまつ)れ。然(しこう)して後に、虜(あた)を撃ちたまはば、除(はら)ひ易けむ。(日本書紀)
神武軍は日下から生駒山を越えて大和へ入ろうとした際、生駒山のどこかの聖地を通っていこうとしていたのではないだろうか。そこで儀式も行って士気を高め、その後大和へ向かえるような道。たとえば大きな磐座のある峰、神降臨の伝承地、そういったものが想起されるが、日下から上る道をちょうど上りきった辺りが地元では古くから草香山、あるいは饒速日山と伝承されているという。
饒速日の名が絡む山ならそこは当然古の聖地であろう。神武軍はまずそこを目指したのかもしれないし、あるいは日下から上り、生駒宝山寺の背後にある般若窟に回ることを考えていたのかもしれない。般若窟は溶岩が露出して固まった岩山で特徴のある形をしており、かなり目立つ山ではある。今は宝山寺の内にあるが、神降臨の哮峰の候補地という伝承も伝えられている。
暗の山道を登っていく。芭蕉の句碑があったので足を止めた。
「菊の香にくらがり登る節句かな」とあった。芭蕉は元禄七年九月八日に伊賀上野を発って川を舟で下って奈良に着き、そこで一泊し「菊の香や奈良には古き仏たち」の句を詠み、翌日には暗峠を越えて難波に入っている。難波の生魂神社の境内には「菊に出て奈良も難波も宵月夜」の句碑があり、以前上町台地を歩いたときにその句碑を見た記憶がある。
芭蕉は難波に入って一ヵ月後に亡くなっているので、暗越えは芭蕉にとって最後の旅路となった。峠越えの景色はどのように芭蕉の目に映っただろうか。ただし芭蕉は奈良から来たのだから、ここは下り道だったはずで、句碑の建っている位置と句の内容は合っていないようである。
芭蕉の句碑を過ぎると、道は次第に傾斜がきつくなり、何度も折れ曲がっていく。両側に並んでいた民家も次第に数が減り、それにつれ周囲の風景も変わっていった。振り返れば眼下には市街地が広がり、坂を上ってきたことが納得できる。右手には小川が流れ、せせらぎの音を聞きながら緑に包まれた道を上っていく。かつては樹木がうっそうと茂って暗い道だったのだろうが、今では普通に雑木の続く道である。緑が感じられる川沿いの道が終わると、後は冬枯れの落ち葉の急傾斜のコンクリート道路なので、歩いていて特に楽しい道ではない。
脇道に古い石鳥居を見たのでちょっと寄ってみると、奥まったところに観音、八大竜王が祭られ、細く流れ落ちる滝水の手水鉢には薄く氷が張っていた。古くからある修験道の行場のようで、人影は無く、独特の宗教的雰囲気が漂う薄暗い空間であった。木魚石という注連縄を巻いた大きな石が流れのそばに鎮座し、今も使われているのかどうかわからないが、この谷から生駒に上がるらしい古道の道しるべがあった。
元の道へ戻り、峠へと続く道をゆっくりと上っていく。九十九折れの急な道である。途中には供養塔や石地蔵や、清水が湧き出る「弘法の水」などがあった。険しい道に難渋したであろう峠越えの旅人が、ここで休憩して水を飲んだり、馬に水を与えたりしたのだろうと、当時の情景が浮かんでくる。
山道が終わると、やや平らな地形に出て、そのまま進んでいくと峠の頂上に着いた。枚岡駅から約三キロ歩いたことになる。昔ながらの石畳が敷かれた道が残る集落があって、峠の茶屋ではハイキングの格好をした中高年の人たちが語らっている。伊勢本街道ウォークといって、昨今この道を歩く人は多いそうだ。信貴生駒スカイラインの下をくぐると茶店があったので入り、おうどんを頼んでしばらく休憩する。
ここからは下り坂になる。棚田が広がり生駒の市街地が見渡せる眺めのよい道を降りていく。途中宝山寺へと向かう分岐を見るが、今日はここから宝山寺まで歩く体力はないので、このまま南生駒駅を目指す。大阪側より奈良側のほうが道は緩やかであった。ずっと田園風景の中を歩き、やがて町に下りて住宅街を抜け近鉄の駅に向かう。峠の頂上からは約四キロであった。
宝山寺
生駒駅で降りて、ケーブルカーに乗り換え、宝山寺を目指す。子供のころ何度か来たのだが、長い年月がたっていたので、駅を間違って手前の宝山寺駅で降りてしまった。梅屋敷で降りると楽なのだったが、そのことをすっかり忘れていて、かなりの数の石段を上がることになった。
もう夕暮れ近くなっていたので、石灯籠の続く参道は人も少なくなっていた。生駒の聖天さんと親しまれるお寺であるが、入り口は立派な石鳥居である。境内にはかなりの数のお堂があって、線香の煙が緩く流れていく。
般若窟の険しい岩山を久しぶりに見上げた。どうみても巨大磐座としか見えない。仏教が隆盛する以前には、ここは屹立する岩山と緑の広がる聖地だったのだろうか。しばらくたたずんで独特の怪異な山容を眺めていた。溶岩がそのまま固まったかのような感じがする険しい山である。
境内をそぞろ歩いてあちこちのお堂にお参りしていると、もうお寺を閉める時刻が近づいているらしく、人が来て賽銭箱の中身を集め、日課の片づけを始めた。冬季は拝観時間が早くなっているのだろう。もう一度夕暮れの空に聳え立つ般若窟を見上げ、宝山寺を後にした。