一義経の森を歩く一
鞍馬から貴船へ
一義経の森を歩く一
鞍馬から貴船へ
小学生のころ、本で義経の名を知った。映画も見たように思う。母に聞くと、京都には鞍馬寺も昔のままにあるし、五条の橋もちゃんとあるという。確かめたくなり、夏休みの一日、ねだって連れて行ってもらうことになった。
大阪に住んでいたので、その日は朝早く出かけたと記憶している。京阪電車や叡山電鉄を乗り継いで鞍馬寺に上がり、杉木立の山の中を歩いた。遠くなるので貴船へは抜けずに元の鞍馬へ降り、母はお土産に鞍馬名物の山椒や木の芽煮などを買い求め、今度は市内へ戻って、五条の橋を見に行った。
義経のころの五条の橋は、現在の松原通にあるのだが、そのことを母は知らなかったので、とにかく二回ほど橋を行き来して、弁慶と牛若丸の場面に思いを馳せ、ゆかりの地をこの目で見たことに大満足して帰宅したのであった。
今年はテレビで大河ドラマ「義経」が放映されている。最初のほうは京都が舞台地なので、鞍馬など京都の場面が多い。牛若丸が遮那王へと名も変わり、鞍馬山を走り回っているシーンを見ていると、昔訪れた地が懐かしく思い出され、久しぶりに鞍馬から貴船へかけて歩いてみることにした。
叡山電鉄が、新型の窓の広いぴかぴか電車に変貌していたので驚いた。以前にもハイキングで来たことがあったが、そのときはまだひどく古い車両であった。今はモダンなデザインで、緑の風景の中を抜けていく。山中の北山杉もよく見えて、観光客には感じがいいのではないだろうか。
鞍馬で降りる。木の芽煮のお店が並んでいる道を進むと、仁王門に出た。湛慶作の力強い仁王尊像が祀られている。右手からケーブルで上がり、多宝塔、弥勒堂のコースを取る人もいるが、色々見ながら歩きたいので、左手の由岐神社、九十九折の山道コースを行くことにする。
小さな流れに沿って上がっていくと、由岐神社に出た。矢を入れて背負う靫(ゆぎ)を祀るそうである。十月に行われる勇壮な「鞍馬の火祭り」で有名な神社である。社殿は古くて美しい。火祭りは昔篝火を焚いて、神をこの地に勧請したことに由来するという。そのときはこの辺りは人で溢れるらしいが、今はひっそりと静まり返っている。
神社を過ぎ、義経の守り本尊であったという川上地蔵尊、義経供養塔(東光坊跡にある)を眺める。義経は父義朝が清盛に殺されたとも知らず、清盛の庇護のもと、母の常盤御前と共に暮らすが、七歳のときに鞍馬寺に預けられた。約十年間ここに住んだと伝えられる。当時の建物は失われて遺構は何もない。古びた石塔が一つぽつんとあるばかりである。
清少納言が「枕草子」で「近うて遠きもの」の中に「くらまの九十九折といふ道」と挙げたという道を進んでいく。八丁七曲りの参道というが、今はよく整備されて歩きやすい自然遊歩道になっている。古人の参詣時の苦労をしのびながら、野鳥のさえずりと杉のすがすがしい香りに包まれて登っていった。
鞍馬寺に着いた。中心にあるのは本殿金堂、その右手にあるのは「竹伐り会」の由来ともなった、上人を襲った大蛇を祀る閼迦井護法善神社など。お寺のような、神社のような雰囲気が漂っている。
寺伝によれば、770年に鑑禎上人によって毘沙門天が祀られたのが始まりで、その後堂塔伽藍が整い、千手観世音も合わせて祀られるようになったという。
義経の足跡を求めて、先へと進む。左手にある冬柏亭(移築された与謝野晶子の書斎だという)と霊宝館の間の山道をいくとまず「義経息つぎの水」がある。東光坊からここまで上がってきた義経が、休憩して水を飲んだだろうという泉である。山の湧き水と思われるが、残念ながら今見るとあまりきれいな水ではない。
その次は、「義経背比べ石」。これは十七歳で奥州の藤原氏を頼って出発するとき、義経が鞍馬に名残を惜しんだという石である。見たところ高さは百四十センチぐらい。土に埋もれている分を足したとしてもかなり低い。この石で判断する限り、小柄な人であったのだろう。
ついでにいうと、京都市内には「弁慶石」「弁慶背比べ石」などが幾つかあって、近年は訪れる人が多いという。中京区三条通に弁慶石町という町名が残っており、この石は弁慶が腰掛けていた石で、鞍馬口から洪水で流されてきたとか、弁慶の死後、奥州から運ばれてきたとか、諸説があるようだ。左京区八瀬天満宮にある「弁慶背比べ石」のほうは、比叡山から弁慶が持ってきたと伝えられ、これもそう背の高い石ではないという。もっとも近年倒壊危険防止のため、石を土中に深く埋め直したそうであるが。
鞍馬寺で貰ったパンフレットを開くと、「約二億五千年前に、海底火山の隆起によって生まれた鞍馬山には、太古より尊天の霊気が満ち溢れており」とある。いきなり理科の教科書のような記述があったので、一瞬何のことかと思った。その火山活動の痕跡の一つに「木の根道」があるというのである。
「背比べ石」から大杉権現に至る山道一帯には、杉の根が不思議な模様を描いて地表を這っているので、木の根道と呼ばれている。これは火山活動のせいで岩盤が固く、地中に根を張れないために根が盛り上がっているのである。非常に歩きにくい。よそ見をしているとたちまちつまずいてしまう。
見上げると頭上には鬱蒼と古杉が重なり合い、日を遮っている。地には長い蛇が絡み合っているような、剥き出しの根また根の世界が広がっている。風変わりで異様な光景ではある。剥き出しの命にじかに触れているような気がする。大杉権現の辺りまで来ると、まるで異空間に入ったような気分に陥って、強靭な根の力に圧倒される。
さらに進むことにする。杉の多い山道である。ほどなく僧正ガ谷不動堂、義経堂(義経を祀る)に出た。
少し開けた空間である。能、謡曲「鞍馬天狗」では、ここで沙那王(牛若)は初めて天狗と出会う。花見の席で、仲間から取り残された孤独な少年に天狗は目を留める。天狗に気に入られた沙那王は、兵法を教わり、術を授かる。そして天狗は奥義を伝授すると、今後の加護を約束して山の梢に消えるのである。
天狗は山伏、修験者のような姿で出てくるが、この世のものでない存在というか、もはや人間ではないものであろう。そういう存在と霊的に交流して、その中から沙那王は何かを得ていくというのである。
見回すと杉の大樹がお堂の周りを取り囲むように聳え立ち、辺りは薄暗い。このような場所で、義経は深夜武術の稽古に励んだと伝えられている。
僧正ガ谷を後にして、進んでいくと、奥の院魔王殿に着いた。再びパンフレットをみる。「六百五十万年前、地球の霊王として金星より天下った、地上の創造と破壊を司る護法魔王尊が祀られており」とある。
二億五千年前とか、六百五十万年前とか、気の遠くなるような時間の流れのことが、そこに深い意味があるような文意でもって書いてある。要するに、常人では到底計りえない、この地が抱え込んでいる分厚い時空の感覚を、こういうゼロの多い数字で伝えようとしているのであろう。
魔王殿に佇んでみる。見ると柵の向こうには思いがけず大きな磐座(いわくら)が広がっていた。神の降臨の場であろうか。金星から飛来したという神サナート・クラマ(クマラ?)のことは私にはよくわからない。でも実際にここに佇んで巨岩の広がりを前にすると、まるで古代祭祀の場を見る思いがする。
もしかすれば、大和の三輪山のように、ここは古代における聖なる地であったのかもしれない。この岩陰を発掘すれば、古代の祭祀者が埋めた翡翠の勾玉や鏡、管玉の首飾りなどが出てくるのではないだろうか、と想像してしまう。それとももっと遡って弥生縄文のころの、祭祀の酒器や土器が今もひっそりと埋まっているのかもしれない。
鞍馬は仏教寺院の聖地なのか、それともそれよりさらに遡る古代祭祀の聖地であったのか。めくっていくと、いくらでも歴史の古層が現れてきそうな感じである。
子供のころ初めてこの山道を母と歩いたとき、行きかう人もなく、森は深く感じられた。迷いそうになって心細く感じたほどである。
「天狗さんが出るよ、しっかり歩いて」と母に励まされ、というかおどかされながら、道を急いだのである。それを母の冗談とはとらず、子供心に、ここは特別なところで、目には見えないけれど、高い木の枝のどこかに天狗が座り、揺れながら木下を通る人を見降ろしているのだと思った。
亡くなった母を偲びながら山道を歩く。今日はテレビ放映の影響か、ハイキングの人たちが多くて、まず道に迷う心配などない。その分森は荘厳な雰囲気が薄まってきているようにも思われた。
魔王殿の後は一気に下りになった。西門を出るともう貴船川は近い。自然観察グループの人たちが、古木の前で立ち止まり、講師の話に耳を傾け、しきりにメモを取っているのに出合った。きっと珍しい植生があちこちにあるのだろう。ちょっと話を聞いてみたい気も起きたが、そのまま横を通り過ぎ、橋を渡って、貴船神社の石段を上がっていくことにした。
貴船の社は水を司るという「高おかみの神」を祀っている。賀茂川の水源にあり、日照のときの雨乞い、長雨のときの止雨の神として知られている。絵馬発生の地だそうだ。昔は長雨のときは白馬を、雨乞いのときは黒馬を献じて祈ったのだが、時代と共に方法が変遷し、木の板に描いた馬を捧げるようになったというのである。
ここのご神木は大きな桂の木で、根が細かく分かれていて密生している。気生根(きぶね)ともいうそうである。桂の葉はハート型の可愛い形をしていたので、栞にしようと思い、一枚きれいなのを拾って手帳に挟んだ。
水占いとある珍しいおみくじを引いてみる。貰ったおみくじを拝殿の前にある池の霊水に浮かべると運勢を書いた字が現れ、紙が乾くと消えていく。末吉であった。
上流の奥宮のほうへ歩いてみる。貴船川は流れが澄んでいて清らかな川である。周囲の森は緑が濃く、古木の佇まいを見ながら参道を進んでいくと、途中に磐長姫命を祀る社があった。縁結びの神という。縁結びの神とは、また縁切りの神であるだろう。新しく結びつけるということは、古い絆を断ち切ることであるのだから・・・・。森の中に立つ静かなお社であった。
思い川という小さな川に出た。ロマンチックな命名であるが、もともとはお物忌み川であったとか。奥宮を参詣する人はここで流れに身を浸し、禊をするしきたりがあったそうだ。
平安中期の歌人である和泉式部も、夫藤原保昌の心が遠のいたのを知ったときに、貴船の神に詣でたと伝えられている。後拾遺集には参詣時の歌がみえる。
和泉式部が詠んだ歌
もの思へば沢の蛍もわが身より あくがれいずる魂かとぞみる
貴船明神の返歌
奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の 玉ちるばかりものな思いそ
夫の裏切りでうつろになっている和泉式部の心をみて、神は哀れまれたのだろう。もう何も考えるなと、慰めの言葉をかけている。
人で賑わっていた鞍馬に比べると、貴船のこの辺りは人影もほとんどなく、聞こえるのはせせらぎと野鳥の声だけである。
奥宮に着いた。高おかみの神の元々の鎮座地であるという。伝承によると、反正天皇の時代に、黄色い船に乗った姫神が難波に現れ、この船が留まるところの土地神を祀るようにと告げた。その託宣のまま、船は淀川から鴨川を遡って旅を続け、貴船川に入ってこの地に上陸、祠を建てて祀ったのがこのお宮であるという。
その姫神の乗ってきた黄船を、人目に触れないように、小石で覆い隠したという船形石が、今も拝殿左側にある。石が積み上げられて細長い形をしている。この中に昔の木船があるという言い伝えを窺わせる雰囲気である。一巡りしてみると、何となく柩を思わせる感じもした。この地で没した姫神の亡骸を、この船に入れて葬ったお墓かもしれない。
貴船といえば能、謡曲の「鉄輪」を思い出される方もおられるだろう。
呪いの丑の刻参りである。下京に住む女が、夫が新しい妻を迎えたことを恨んで貴船の奥宮に丑の刻参りをして、そこで鬼になる方法を教えてもらう。即ち赤い衣をつけ、顔に丹を塗り、鉄輪(火鉢の五徳)を逆さにして頭に載せ、その足の部分に三本の松明を結びつけて火をともし、心に深い恨みを抱くと、生きながら鬼になれるというのである。女は帰宅し、このことを試みる間にもう面相が変わり始め、憎む人を取り殺す鬼になっていく。
陰陽師の術でこの女の妄念は解けるのだが、この話の展開だと、まるで貴船の神が呪いの手助けをするかのようである。貴船の神は呪詛の神なのであろうか。今これを書きつつ、そのことがちょっと気になったので、中断して貴船神社のホームページを拝見してみた。それによると貴船の呪詛のことは誤って広まった信仰の形だそうで、神社側はこのことをきっぱりと否定しておられた。
貴船の神が貴船山に降臨されたのが、丑の年、丑の月、丑の日の丑の刻、という伝承があり、その日に因んで詣でると、心願成就するというのが、本来の信仰の形であったそうだ。
奥宮周辺の木立は深く昼でもほの暗い。苔の多い実にきれいな森なのであるが、丑の刻参りや呪いのことが先入観として頭の中にあると、その参道には怖いような雰囲気が漂っているような気がしてくるだろう。
義経記にも貴船は登場している。義経記「牛若きぶねまうでのこと」によれば、あるとき牛若は貴船明神の霊験あらたかなことを聞いて、密かに参詣を思い立った。昼間は学問をしているので、夜に一人で鞍馬を出て貴船明神にお参りし、「源氏をまもらせたまへ」とひたすら神前で祈願するのである。思いは次第に激してきて、四方の草木を平氏の人々に見立て、大木の一本を清盛とみなして太刀で切りつけたり、草木をなぎ払ったりするのである。鞍馬からここまでは遠くない。心情としてはそんな風に感じていたかもしれないし、実際に参詣したこともたぶんあっただろう。
下りは貴船川の清流に沿って下っていった。季節の良いころにはバスの便もあるのだが、あいにく今は冬季の運休期間でバスはない。川沿いに並ぶ茶店も、夏の間は流れの上に張り出した川床で、名物の鮎料理や流しそうめんを楽しむ人たちで賑わうのだが、今はひっそりと閉じている。開いていた店でお土産に「とち餅」を買い求め、貴船口駅まで約三キロの道をゆっくり歩いていった。