一神話への旅一
伊吹山 ケカチの湧
一神話への旅一
伊吹山 ケカチの湧
JR「関が原」駅に降り立ったのは朝の十時前であった。一緒に降りた観光客の雰囲気をそれとなく見ると、だいたい二種類に分かれている。関が原古戦場を訪れるらしい人と、伊吹山へ向かう感じの人と。
ここは関が原古戦場に近いので、歴史ファンが多く訪れる。一方伊吹山へ向かう山岳道路も通じているので、山歩きの格好をした客もかなりいる。駅前から、ガイドブック片手に、タクシーなどですぐ古戦場に向かう人たちと、案内所で山のパンフレットを貰って、伊吹山ドライブウエイのバス停に並ぶグループとに、自然に分かれるのである。
古戦場も興味はあるが、訪れるのはまた別の機会にして、今日は伊吹山へ上ることにする。歩いて登るのなら、近江長岡駅で降り、三宮神社横の登山口へ行かないといけないのだが、今日はここからバスで上がり、お花畑を通って山頂に行き、昼食後、ゆっくり一合目まで歩いて下山というコースを取ることにした。この暑さの中を、登るのはさぞ辛いだろうなと考えたからである。
バスの発車まで時間があったので、昼食用にコンビニでお弁当をと思ったのだが、駅前は閑散としていて、見回してもそういう店はなく、ようやく見つけたのは小さな食料品店であった。店内でおにぎり類を探すが棚に見つからず、諦めて菓子パンにしようかとうろうろしていると、事情を察した店の人が、
「おにぎり、今すぐ作りますから」
と親切に声をかけてくれる。一個百円。二個頼み、おかずコーナーから出来たての「ナスの味噌炒め」を一パック買い求め、バス停に戻ると、日差しの中、乗客の列は長く伸びていた。
乗り込んだバスの座席で、膝に置いたおにぎりパックから湯気が上がっている。見るとコンビニおにぎりの二倍はありそうな量で、それも熱々のご飯、ほかほかと気分も暖かくなった。
ドライブウエイの左右に広がる景色を眺めているうちに、ぐんぐん高度が上がっていく。沿道にはウツギだろうか、薄いピンクや白の花が見え隠れする。ガクアジサイもあるようだ。彩りを楽しんでいるうちに、やがて標高1377メートルの山頂近くまで一気に運ばれていった。
降りるとひんやりした風が頬に吹き付けてくる。ウインドブレーカーを着込む。
ここから山頂まではお花畑が続く遊歩道になっていて、左右真ん中どの道をとっても山頂に行けるようになっている。道の両側には黄色いキンバイソウや、薄紫のルリトラノオ、白いニリンソウといった可愛い高山植物が風に揺れていて、屈んでカメラを向ける人、座り込んでスケッチをしている人など、それぞれ趣味を楽しんでいる様子が微笑ましい。
よく整備された道を上がりきったところが山頂だった。伊吹山は岐阜県と滋賀県の県境に位置している。滋賀県側に立つと、遠く琵琶湖が望まれた。快晴の日ならもっとはっきり見えたに違いないが、あいにくの曇り空、うっすらと竹生島の島影らしいものが遠望できる。
麓は快晴だったのに頂上は非常に風が強く、絶え間なく白い霧が上ってきて、視界はその都度遮られる。強風で帽子が飛びそうになるのを押さえながら歩いてみると、お堂、食堂、土産物店などがある。山頂は平らで、そこには思いの外、広い空間が開けており、伊吹山に関連のある神話の英雄、倭建命(やまとたけるのみこと)の像も建てられていた。
古代の服装をした悲運の皇子をかたどった像は、直立したまま、目を見開いて空の彼方を見つめている。伝説の通り、剣は帯びていないようだ。
ここで古事記をひもといてみることにしよう。
・・・・小碓命(おうすのみこと、やまとたける)は景行天皇の皇子。朝夕の食事に出てこない双生児の兄の大碓命(おおうすのみこと)を、教え諭すようにと父に言われると、厠で兄を待ちうけ「つかみひしぎて」手足を折り「薦につつみて投げ捨てつ」というような荒々しい性格の男子であった。父の景行天皇は、勇猛過ぎるその力を畏れたのだろうか、小碓命を追放しようという心もあってか、九州の熊曾(くまそ)征伐を命じる。
熊曾建(くまそたける)の家の宴に、叔母の倭比売(やまとひめ)から貰った衣装を着け、女装して入り込んだ小碓命は、宴席で熊曾の兄弟を刺し殺し、弟から倭建(やまとたける)の名を貰う。
次に出雲の国に行って、出雲建(いずもたける)を水浴に誘い出し、木刀と本物の太刀を取り替える策略によって、出雲建を打ち殺し、その地方を平定した。
大和へ帰ると、父天皇は兵もあまり与えずに、続いて東方の征伐を命じ、倭建命は出発していく。途中伊勢に立ち寄り、
「天皇吾(あれ)死ねと思ほすゆえか」
(天皇は私を死ねと思っておられるのでしょうか)
と叔母の倭比売に心を打ち明けて嘆くと、神に仕える倭比売は、草那芸(くさなぎ)剣を与え、
「もし急(とみ)のことあらば、この口解きたまへ」
(もし急のことがあったなら、この袋の口をおあけなさい)
と袋も与える。
倭建命は尾張の国の美夜受比売(みやずひめ)のところへ行き、婚約した後、東方に向かう。相武(さがむ)の国では騙されて野に連れ出され、火をつけられるが、叔母の言葉を思い出し、袋を開けてみると、火打石があったので、火が来ないように足元の草を刈り払い、逆にこちらから火をつけて難を免れる。そのことから、その地を焼津というようになった。
走水(はしりみず)では、妃の弟橘比売(おとたちばなひめ)が、荒れる海の神を鎮めるために「菅畳八重、皮畳八重、きぬ畳八重を波の上に敷きて」入水し、無事に海を渡ることができた。妃の櫛は七日後に海岸に流れ着いた。
東国の蝦夷(えみし)を討伐した後、足柄の坂本まで戻ってきて食事を取っているときに、その坂の神が白い鹿になって現れた。倭建命が咄嗟に食べ残しの蒜(ひる)の片端で打つと、鹿の目に命中して打ち殺すことができた。その坂の上に立って「あづまはや」(わが妻よ)と弟橘比売を偲んだので、この地を「あづま」と呼ぶようになった。
その後、甲斐、信濃なども平定して、尾張まで戻り、約束していた美夜受比売と婚姻して、草薙の剣をそこに置き、伊服岐(いぶき)の神を撃ちにいく。
この辺りからは、少し原文を読んでみよう。
かれここに御合ひしたまひて、その御刀(みはかし)の草薙の剣(たち)を、その美夜受比売(みやずひめ)のもとに置きて、伊服岐(いぶき)の山の神を取りに幸(い)行でましき。
ここに詔りたまひしく「この山の神は徒手(むなで)に直(ただ)に取りてむ」とのりたまひて、その山に騰(のぼ)りたまふ時に、山の辺に白猪(しろゐ)逢へり。その大きさ牛の如くなり。ここに言挙(ことあ)げして詔りたまひしく
「この白猪に化(な)れるは、その神の使者(つかひ)にあらむ。今殺(と)らずとも還らむ時に殺(と)りなむ」とのりたまひて、騰りましき。
ここに大氷雨(おおひさめ)を零(ふ)らして、倭建の命を打ち或(まど)はしまつりき。この白猪に化(な)れるは、その神の使者(つかひ)にはあらずて、その神の正身(むざね)なりしを、言挙げしたまへるによりて、或(まど)はさえつるなり。
かれ還り下りまして、玉倉部(たまくらべ)の清泉(しみず)に到りまして、息います時に、御心やや寤(さ)めたまひき。かれその清泉(しみず)に号(な)づけて居醒(ゐさめ)の清泉(しみず)といふ・・・・。
倭建命は美夜受比売と婚姻した折に、叔母の倭姫から貰った大切な剣を、そこに置いてきてしまうのである。そして素手で伊吹山の神を討伐しようと思い、上って行くと、白い大きな猪に出会った。それを神の化身とは思わず、侮って帰りに討ち取ろう、と言ったために神の怒りを買い、大氷雨に悩まされて、ぐったりして下山せざるを得なくなる。麓の泉のほとりで正気を取り戻したというのである。
この後、体調を崩した倭建命は、三重県の辺りまで戻ったが、そこでとうとう疲れ果てて歩けなくなってしまう。そして、
「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠(ごも)れる 倭し美(うるわ)し」
(大和は秀でた国だ 重なり合っている青い垣 山に囲まれている大和はうつくしい)
という望郷の歌などをいくつか詠んだ後、
「嬢子(おとめ)の 床の辺に 吾が置きし つるぎの太刀 その太刀はや」
(おとめの床の辺りに、私が置いてきた太刀、あの太刀よ)
と剣への愛着、強い思いを込めた歌を詠んで命を終えるのである。
この後倭建命の魂は、白い鳥になって空を飛び、大和へと帰っていった。白鳥は河内の志畿というところにとどまったので、そこに御陵を建てたという。
荻原浅男著「古事記への旅」によると、
「このヤマトヒメとヤマトタケルは一対の名であることに注意したい。古代では女性が巫女として神の妻になり、宗教上の大きな職能を持ち、男性はこの巫女の協力を得て、政治上のないしは軍事上の支配権を振るうことができたのである。ヤマトタケルは先の熊曾征伐の時にもヤマトヒメから衣装を授かっている」
とある。
実をいうと、以前から倭建命と倭姫が同じ名を持っていることが、何となく気になってならなかった。古代では同じ名を持っている男女は、一対とみなされることが多い。二人の年齢差はよくわからないが、叔母と甥ということであれば、男女の関係を視野に入れてもいいような気がしてくる。
荻原氏の着眼点や、その考え方を推し進めると、景行の同母妹である倭姫と、景行の皇子である倭建命は、本来ならペアを組んで国の政治をとってもいいような、一対の、優れた資質を持つ相愛の男女であったのかもしれないが、何らかの事情が生じて、時の為政者から疎まれ、二人は引き離され、大和の地から追放される形になったとも考えられる。
東征の折、叔母の倭姫が与えた剣と袋は、野で焼き殺されようとしたときに、倭建命の危急を救ってくれた。剣で草を刈り、火打石で向かい火をつけることによって命が助かったのである。その二つのものを臨機応変にうまく使えたからこそ、難を逃れられたし、敵を倒すことができたのだった。
どちらかが欠けていたとしたら、事は思うようには運ばなかっただろう。剣と袋は二つでワンセットになっている、一種の呪物のようなものだったのではないだろうか。古来剣というのは、洋の東西を問わずその形から男性自身を象徴するものであり、同様に袋は、女性の子宮を表すものであろう。剣と袋は、いわば男女を表徴するものともいえるのではないだろうか。
つまり贈った人と贈られた人の、男女の心が、どんなに遠く離れていても、深く通い合い、結びつき、寄り添い合っている間は、霊力が働いて、不思議な力が発揮できるという、そのような呪物ではなかったろうか、と思うのである。
そういう貴重な、心の籠もった、いわば護符にも当たる剣を手放したということは、そのとき倭建命の心を捉えていたのは、新しく得た若い美夜受比売であったということであろうか。絶えず身に着けているべき霊剣を身辺から離し、他の女性に与えてしまったときに、それはもう護符としての力を失ったのに違いない。倭姫の守護をなくした倭建命の運命は、以後後退していくのである。
また、美夜受比売との結婚に際して、古事記はこんなあからさまなエピソードを記している。
・・・・ここに大(おお)御食(みけ)献るときに、その美夜受(みやず)比売、大御酒盞(さかづき)を捧げて献りき。ここに美夜受比売、その襲(おすひ)の襴(すそ)に月経(さはりのもの)著(つ)きたり。かれその月経を見そなわして、御歌よみしたまひしく・・・・
枕(ま)かむとは 吾(あれ)はすれど さ寝むとは 吾は思えど
汝(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の襴(すそ)に月立ちにけり
あら玉の 月は来経(きへ)往(ゆ)く
うべなうべな 君待ちがたに
吾(あ)が著(け)せる 襲(おすひ)の襴(すそ)に 月立たなむよ
歌のやり取りの内容から判断すると、美夜受比売はそのとき生理中であったというのである。きものの裾についた血に気がついたみことは、そのことを即興の歌に詠んで指摘し、比売も当意即妙に、新しい月も来て過ぎていき、あなたを待ちかねてか、きものの裾に月がたつのは当然でしょう、という意味の歌を返し、結婚は延期されないでその夜に行われている。
なぜわざわざ結婚の夜に、女性の生理のことなどを持ち出して、意味ありげに記す必要があったのだろうと、誰でもこの点にちょっと違和感を覚えるのではないだろうか。これには、古代は大変おおらかであったので、こんなことも特に恥ずかしいことではないので載せているとか、諸説あるらしいが、興味深い一説を紹介しておこう。
島内景二著「日本人の旅」によれば、この部分はある話型で読み解くことができるという。
・・・・例えば、夫が戦などで死出の旅におもむくことになったとき、生まれてくる子どものために、形見として、大切な品を与えて旅立つ。やがて生まれた子どもは父のいないことを不思議に思い、父を求めて旅に出る。形見の品が証拠となって、夢の中などで、父と子の再会が果たされるというのである。
この話型の中の品は、剣とか笛とか父の愛用の品であることが多いらしい。
ところがこの後、倭建命と美夜受比売の間に、子どもが存在したとは、古事記にも日本書紀にも書かれていない。それどころか、比売は生理期間中であったというのだ。
女性が生理中は一般に妊娠はしないということがいわれている。つまりこの夜結婚は行われたが、妊娠可能期間ではなかったということを、このエピソードは暗示していると考えられるという。
また氏は、美夜受比売は伊吹山の神に仕える巫女であったのかもしれないといい、神の妻を奪ったことで、倭建命は神罰を受けたという風にも読めると指摘しておられる。
この説を読んだとき、興味深く感じた。
都の貴人が遠方の地へ行き、土地の女性と契った折に、愛用の品を置いて帰るのは、もし子どもが生まれたら、これを携えて私を訪ねてきなさいという、意味も籠っているのだろう。
でも女性が生理中なら、子どもが生まれる可能性はかなり低いはずだから、倭建命は特に美夜受比売に物をあげなくてもよかったのだ。それなのに大切な剣を置いて行ったのは、儀礼でというよりは、強い愛情関係がこのとき生じていたとみたほうがいいのだろうか。
倭姫のことは、倭建命の心から少しずつ遠のいてゆきつつあったのかもしれない。そしてもうそのときには、剣に籠もる倭姫の加護も失われてしまっていたのだろうか。
風の吹きすさぶ伊吹山の頂上で昼食をとった。霧が立ち込めたかと思うと風で流れていく。僅かの間に景色がパノラマのように広がり、また新しい霧で閉ざされ目の前が白くなる。でも霧の晴れ間には遠くまで下界が見渡せて、眼下の雄大な景色に見とれた。
昼食を終え、山頂の風の中に立っていると、古代の若い英雄の気負いや自信や迷いや油断、そしてそれ故に凋落していく姿が、朧ながらもある輪郭線を持って浮かび上がってくるようだった。
倭建命はどの道を通って山に登り、どの辺りで神の化身だという白猪に出会ったのだろう。山の頂上には辿り着いたのだろうか。それともみぞれ交じりの風に煽られ、途中で引き返したのだろうか。
古事記には記されていない一行の遭難シーンを心の中で想像しつつ、山頂を後にして山道を下り始めた。思ったよりも急坂である。樹木が少ないために木陰がなく、登ってくる登山者は蒸し暑さにあえぎつつ、最後の険しい坂を見上げている。
眼下に広がる景色を眺めながら、ジグザグに降りていく。大きな岩が道を塞ぐようになっているところもあった。立ち止まって足元の高山植物の可憐な群落を眺め、休憩してお茶を飲んだりしているうち、たちまち三合目まで下ってきた。もとは雑木林だったと思われるが、きれいに整地して緩やかな斜面になっている。冬場はスキー場なのだ。
ここから一合目まで一気に下るゴンドラリフトがあるのだが、乗り場はひっそりと静まって人の気配はない。今は六月、どうも休んでいるらしい。あまり流行っている様子ではなく、近々この施設は閉鎖の予定ときいた。夏は登山やキャンプ、冬はスキー場として客を集めた時期もあったようだが、近年は寂れる一方であるようだ。
小道を通り抜けていく。何ともいえないわびしい雰囲気が漂っている。だいたい今歩いている山道にしても登山者が少ない。道がすいているのはいいものの、人の賑わいのないのは寂しい。
ケカチの湧
草の揺れる斜面の道を、手で掻き分けつつ降りていく。日ごろの運動不足がたたってもう膝ががくがくである。草原で赤いパラグライダーで遊んでいる人が一人だけいた。
さらに降りていく。ようやく山麓の三宮神社の社殿の屋根が近づいてほっとする。ふとみると、道端の杉の木立に囲まれた古びた岩の一つに、注連縄(しめなわ)がかかっていた。覗くときれいな湧き水で、飲めるようになっている。倭建命ゆかりの「ケカチの湧(ゆ)」という立て札につい足が引き寄せられた。ケカチとは耳慣れない言葉だが、飢餓、飢饉を指すらしい。
説明文によると、倭建命は伊吹山の神の怒りに触れて引き返し、この湧き水を飲んで正気を取り戻したのだという。記の内容の通りのことが書かれてあった。
山麓には他にも幾つか湧き水があって、それぞれが伝説の泉であるというそうだ。もとより根拠はなく、ここと特定もできず、記にもその泉の位置までは詳しくは書かれていないため、よくわからないとも。
でも今見つめているこの小さな湧き水が、私にとっては、倭建命の生きた神話の世界の証となる唯一のものであった。今日の行程の最後近くになって、思いがけず出会えてよかったと思いつつ、湧き水を両手ですくって飲んでみた。居醒(ゐさめ)の清泉(しみず)の名の通り、山の冷気を感じさせる冷たく澄み切った水であった。
引用・参照
「新訂 古事記」 角川文庫
「古事記への旅」荻原浅男 日本放送出版協会
「日本人の旅」 古典文学に見る原型
島内景二 日本放送出版協会