一友ケ島 加太を歩く一 淡島神社
一友ケ島 加太を歩く一 淡島神社
所用で和歌山に出かけていった。午前中で用事が済んだので、紀淡海峡にある友ケ島まで足を伸ばしてみることを思い立った。今までその名は知っていたが、一度も行ったことがない。地図で見ると、友ケ島は加太湾の西にあり、島の周囲は6.5キロ、淡路島の大きさに比べると、本当に可愛らしい島である。淡路島に渡るのは時間もかかるが、つい目と鼻の先の友ケ島なら、短時間で簡単に行けそうな気がした。
友ケ島
南海加太線で終点の加太駅へ向かう。車窓からは時折青い海が見え隠れし、風に乗って潮の香が流れてくる。加太へは子供のころに一度、潮干狩りで来たことがあるのだが、でも考えてみると、それはあまりにも昔のことであった。こうして海を見ていると、嬉々としてアサリを取ったこと、濡れた砂の感触などもよみがえってくるのだが、その海岸がどの辺りであったのか思い出せず、考え込んでいるうちに加太駅に着いた。
船着場へは一キロほど歩かねばならないという。人に聞きながら迷路のような細い道を抜けていくと、何となく漁師町の雰囲気が感じられる。路地の道が切れると、目の前には海が広がっていた。
船上の人となる。滑るように船は進んでいく。友ケ島は、地ノ島、虎島、神島、沖ノ島と四島あるのだそうだ。昔は潮流の関係で離れていたのかもしれないが、現在虎島は沖ノ島とくっついており、一番大きい沖ノ島のことを、普通友ケ島と呼んでいる。最初に見えるのが地の島で、順に眺めている間に、約二十分で船は友ケ島の桟橋に着いた。
茶店が一軒だけ開いているが、人家などは見当たらず、ひと気もなくて、辺りは閑散としていた。右手の道を取って山道を上がって行くと、旧陸軍の砲台跡に出た。つる草が絡まった廃墟である。崩れずに堅固な建物は形が残っているものの、伸びた草に覆われ、黒ずんだ壁が年月の経過を物語っていた。
崖の上に出て、淡路島や沼島(ぬしま)を眺める。沼島は国生み神話に出てくる島である。古事記によると、伊耶那岐(いざなぎ)・伊耶那美(いざなみ)の二神が、天の沼矛で海中を「塩こをろこをろに画きなして」引き上げた折に、矛から滴り落ちた塩が積もってできたという「おのごろ島」であるとされている。その沼島は遠くかすんで見えていた。
足元の崖下を覗くと岩だらけで、波が打ち寄せていた。友ケ島には砂浜が少ないようである。再び山路を上がっていく。見上げると、目の前の木の枝にふんわりした尻尾のリスが三匹いた。人の気配に驚いたのか、大きく枝を揺らしながら幹を駆け下ってきて茂みの奥に逃げて行った。ゆっくり見る間もなかったが、この季節、食べる木の実がたくさんあるのだろう。もう一度出て来てくれないかなと、走り去った方を未練がましく見ていたが、森の奥はしんと静まっていた。
海岸に降りて岩に座って海を眺め、しばらく休憩し、その後は池を巡る。
ふと気がつくと、至近距離に鹿が一頭いた。立派な角を持っている。じっとこちらを見て動かない。近づいても逃げようとはせず、おびえた様子もない。逆に向こうがこちらを観察しているのである。島の王者の風格である。敬意を表し、挨拶する。少し歩き始めると、茂みに鹿の母子がいた。妻子であろうか。小鹿は全部で三頭いたが、皆足音を聞くなり飛び跳ねて林に逃げて行った。
道は至る所鹿の糞だらけである。道端の草は鹿が食べるせいか全体に短くて、伸びる間もなさそうである。今度は神島の見える辺りまで歩いていく。
伝承によると、昔神功皇后の乗った船がこの辺りで嵐にあって漂流し、神島の少彦名(すくなひこな)命と大己貴(おおなむち)命の二神の導きで友ケ島に着くことができた。後に仁徳天皇が友ケ島に狩に来た折にこの話を聞き、神島に祀っていた二神を、加太の淡島神社に移したのだそうだ。
伝説の神島は海に浮かぶ小さな島で、眺めていると、沖を大きなタンカーが通り過ぎていった。反対方向からもやって来る。更に漁船も通過していく。紀淡海峡は船の往来が多いところらしい。
山路を引き返していると、斜面をばらばらと鹿の群れが逃げていった。ここは鹿の島なのだ。今日は出会わなかったが、もしかしたらサルやウサギもいるのかもしれない。
帰りの船は、乗客が数人。そのうちの一人は郵便配達のおじさんで、船が島に着くなり、桟橋から茶店のほうへ急ぎ足で行き、程なく引き返してきた。日々加太港と友ケ島をこのように往復して、配達業務にいそしんでおられるのだろうか。
淡島神社
加太に戻り、再び磯の香の漂う道を歩いていくと、淡島神社に出た。お社は海に近い。立ち寄ってみると、若い女性の参拝客が熱心に手を合わせていた。ここは女性の病の神様として信仰を集めている神社で、雛人形供養の神社としても知られている。
公式祭神は少彦名命、大己貴命、神功皇后の三柱。(ほかに淡島神は、住吉明神の后という説もある)
前述の神島から移したという少彦名命と大己貴命、女性の病、雛人形、これらは一体どういう風に結びつくのだろう。繋がりがわからず疑問であったが、折口信夫の「古代研究」の雛に関する記述を参考に読んでみると、だいたいこういうことであるらしい。
・・・・古くは民間に淡島信仰というのがあって、それはいざなぎのみこと・いざなみのみことの最初にお生みになったのが淡島神で・・・・住吉明神の后であったが、婦人病にかかったために、住吉の海から板船にのせて流され、加太の淡島に流れ着いた。それを里人が祀ったのが淡島明神であるという・・・・。祭日が三月三日というのは、春に女が海へ出て禊徐(みそぎはらえ)を行った風習が中国から伝わったものであろう・・・・。またすくなひこなの命は常世の国からおほくにぬしの命のところへ渡ってきた神であり、ともに医薬の神になっていて、粟殻に弾かれて海を渡ってきたという伝承もあり、粟という関連もあって淡島神とごっちゃにされる原因でもある・・・・。
・・・・穢れを移す人形とは、撫でもの、形代(かたしろ)、天児(あまがつ)の名で呼ばれる。日本にはかなり古くから、天児(あまがつ)お伽這子(おとぎぼうこ)の類を身近く据えて、穢禍を吸い取らせるという考えがあった・・・・要するに三月・五月の人形は、流して神送りする神の形式(かたしろ)をしばらく祀ったのが、人形の考えと入替わってきたとみるのがよい・・・・。 折口信夫「古代研究Ⅱ」より
淡島神社の境内には雛人形、市松人形、五月人形、かえるの置物、七福神、えとの置物、招き猫、福助、ぬいぐるみなどが所狭しと並んでいた。皆用済みになった古いものらしい。この神社は、三月三日に古い雛人形を白木の舟に乗せ、海に流す流し雛の神事で有名である。その年の、人の穢れや厄や災難の数々を身に引き受けた人形が、静かに流されるのだ。
余談になるが、古代の人の考えでは心身の罪穢れは放っておくと積もる一方なので、年に二度、六月と十二月の末日に大祓の儀式を行って清めていた。形代(かたしろ)といって白い紙を人の形に切り抜いて、その形代で身体を撫でたり、息を吹きかけたりして罪や穢れを移し、それを川や海に流すのである。では流された罪穢れは、その後どうなると考えられたのだろうか。
流れの早い川にいる、瀬織津比売という女神が心身の穢れを大海原に持ち運び、そこで速開都比売に渡すと、それを呑み込んだ比売は、気吹戸主という男神に渡す。男神がそれを吹き出すと、速佐須良比売という女神が、海から根の国へとさすらって持っていって、なくしてくれるというのである。
「・・・・落ちたぎつ速川の瀬にいます瀬織津比売(せおりつひめ)といふ神、大海原に持ち出でなむ。かく持ち出でいなば、荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会にいます速開都比売(はやあきつひめ)といふ神、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みてば、気吹戸(いぶきど)にいます気吹戸主(いぶきどぬし)といふ神、根の国、底の国に気吹き放ちてむ。かく気吹き放ちては、根の国、底の国にいます速佐須良比売(はやさすらひめ)といふ神、持ちさすらひ失ひてむ・・・・」 (延喜式 大祓の祝詞より)
罪や穢れは水によって浄化されていく。水を司る神々によって海の底に持ち運ばれていった罪は、最終的にそこで消滅すると考えられていたのだろう。
淡島神社はさまざまな人の思いの籠もる人形たちで溢れ返っていた。古びた雛人形は拝殿脇に置かれ、おかっぱ頭の市松さんたちも、その横に隙間なく直立不動で整列している。
陶器製のえとの置物は雨がかかってもいいような場所にまとめてある。大小のキューピー人形、こけし、マスコット人形、北海道の木彫りの熊、鷹の置物、鶴や亀、信楽焼の狸、もう見ているだけで、その数と種類に圧倒されてしまう。
物言わぬ人形は、その見開いた瞳で、見る人ごとに何かを語りかけてくる。たじろぐものを感じて、眼を逸らせるが、人形の無言の凝視はどこまでもついてくる。こんなに多くの人形に見つめられながら歩いたことはかつてない。
怖れる気持ちさえ生じてくる。あくまで人形なのだが、その背後にある人の情念、ここへ持ち込んだ人の強い思いが感じられ、畏怖してしまうのだ。一つ一つの人形には、それで遊んだ人との実にさまざまなドラマがあるのに違いないし、どんな置物にも、ここにあるものにはきっと色んないきさつや、いわく謂れがあるのだろう。そう思うと、何ともいえない気持ちになって、手足のもげた古い人形を見ていた。
テレビ番組で以前、ここの雛流し神事を放送していたのを見たことがあるが、お雛様を満載した白木の舟が、青い波の間にゆらゆら漂っているのは、みやびやかであると同時に、どこかもの哀しい情景であった。
一旦海に流された雛たちは回収され、再び集められて、境内の炉で燃やされることになっているらしいが、それにしても、舟に積まれていた人形たちのきもの姿は、古代にうつぼ舟に乗せて母子を流したという「うつぼ舟伝説」を思い起こさせた。
遠い昔、父なし子を産んだとか、何らかの許されない事情が生じたため、属する共同体から追放されることになった女性、母と子は、舟でこんな風に海を漂っていったのだろう。やがて風のまにまに異郷の岬に流れ着き、その地で村人によって手厚く葬られ、時には神として社に祀られることがあったかもしれない。この淡島に祀られているとされる神様自身も、そのような漂着神としての古い面影を有しているのだろう。
境内に飾られた人形を見つめているうちに、実家にあった古い雛人形のことが懐かしく思い出された。それはごく小ぶりのものであったが、奮発して親が一式買い揃えてくれたのだった。
子供のころは、毎年三月三日には、箱から出して桃の花とともに飾り、雪洞を灯して飽きずに眺めていた。一緒に写真を写し、散らし寿司やひなあられをお供えするなどしていたが、いつしか雛人形の箱は押し入れの一番奥にしまわれたままになって、長い年月が過ぎた。
その後阪神大震災が起きて、実家が全壊するという不運に見舞われた。父は幸い無事であったが、その後二階部分が崩落して、押入れの中にあった雛人形類も瓦礫の下になって散乱、塵芥にまみれてしまい、やがて家の解体時に、ショベルカーで他の物といっしょくたに処分してしまった。
ここで拝殿に大切に並べられて、供養の日を待っている人形を見ていると、あの当時災害の混乱の中でどうしようもなかったとはいうものの、そんなただのごみとしての扱いをしてしまったことをすまなく思い、今は記憶の中にしかない人形たちに対して、改めて心の中でお礼を言った。
古い人形たちが醸し出す濃密で不思議な空間から離れ、境内を出て、再び海岸通に出た。潮風が吹き抜ける道を川に沿って駅へと戻っていく。空気が一段と冷たくなって、加太の海は静かに暮れようとしていた。