一幻の磐余池一(いはれのいけ)
吉備池と池之内
一幻の磐余池一(いはれのいけ)
吉備池と池之内
吉備池
明け方の夢にふっと寂しい池が現れた。夢の中で、道を歩いていると、右手に水を湛えた池が見えてくる。岸辺に芦が生い茂り、緩く風が吹いているのか、水面にはさざ波が立っている。向こう岸にも水草の茂みがあり、枯れた草の色が見える。風の音も草のそよぎも聞こえず、池に生命の気配はなくて、しんと静まっている。薄暮のようなくすんだ光が、どこからともなく照っていて、辺りは、死後の世界のような寂寥感に満ちている。
ただそれだけの情景なのだが、妙に忘れがたかった。その池のことが何かの折に蘇ってきて、心を占めるようになった。どこかにその池が実際にあるような気がして、訪ねていきたいとも思うようになった。取り憑かれたのである。
雲をつかむような話で、そういうことは人に言えることでもないし、ただ心の中で時折浮かんでくる寂しい池のことを思いながら、年月が過ぎた。
古代史に題材をとった物語を書いていたとき、大和にある磐余池(いはれのいけ)のことを、夢に見た印象のままに、思い出しながら書いている自分に気がついた。それ以来、夢に見た池は、古代にあったという磐余池のことなのかもしれない、と勝手に思い込むようになった。根拠はなく、そう信じたかっただけなのかもしれない。
調べてみると、磐余池は古代史の中には何度か登場してくるが、現在そういう名の池はなく、幻の池となっている。ただ磐余池跡と推定される地が、奈良県桜井市吉備と、橿原市東池尻町にあって、そこには万葉歌碑もあるという。いつか大和へ出向いて、池跡を自分の目で確かめてみようと思いながら、また何年かがたった。
先日、思い立って磐余池の跡を訪ねることにした。長年の気がかりを解決したくなったのである。
その日は朝早く京都の家を出て、まずJR東海道線、環状線、関西本線、桜井線と乗り継いでいった。子どもの頃、私は関西本線の沿線に住んでいたので、久宝寺、柏原、王子などの駅名に記憶があり懐かしい。通った小学校のことなどを思い出しながら、窓の外に流れ去る光景をじっと眺めていた・・・・。
やがて桜井駅に着いた。吉備から池之内を通って池尻まで行くので、駅前のレンタサイクル店に立ち寄って、自転車を借りることにした。イラストマップを広げ、レンタサイクル店のおじいさんに、磐余池跡の一つと伝承されている吉備池について尋ねてみると、滔々と歴史を話し始められたので驚いた。さすが地元の方である。
走り始めて僅か数分で、ちょうど鳥居脇の桜が満開の、その名も若桜神社が道路左手に見えてきて、あまりきれいなので思わず自転車を止めてしまった。
しばらく見とれていたが、桜に惹かれて石段を上っていった。こぢんまりした拝殿で、伊波我加利命(いはがかりのみこと)を祀るとある。この神社は前方後円墳の円墳上にあるらしく、樹木に覆われて鬱蒼としている。古墳の中に立つ静かなお社であった。
さらに自転車で進んでいくと、磐余道(いはれみち)の道標が見えた。吉備池へ行く道を探していると、通行人のおじさんが立ち止まって、安倍文殊院の方向を親切に教えてくださる。これからお寺に行くところだと、勘違いされたらしい。安倍文殊院は、日本三文殊の一つだとか。知恵の文殊と聞くと、ぜひ立ち寄って少しでも知恵を授けて頂きたくなるが、今日は予定があるため、また別の機会にと思い、お礼を言って先へと進む。
地図を見ながら走っていると、偶然安部寺跡という所に出た。芝生を敷いた史跡公園になっている。割愛してしまった安部文殊院は元々ここにあったという。大化の改新で活躍した安倍倉梯麻呂創建の寺院で、鎌倉時代に現在の地に移したのだそうだ。
塔や伽藍、当時はどんな風に建っていたのだろう。自転車を止め、草の中に礎石を探しつつ歩いていく。しばらくの間、頭上に聳える幻の塔、金堂、講堂、僧房などを思い描いていた・・・・。
さらに進む。地図を見ていても道が分からない。田んぼの中の道を行ったり来たりしながら、農作業中の人を見かけると何度も尋ね、ようやく吉備池が見つかった。水を湛えた静かな池が、野に広がっているのを想像してきたが、近づいてみると、池は農業用に作られた用水池であった。しかも折悪しくポンプで水抜き作業中で、水はほとんど干上がり、黒い泥の中で取り残された魚がもがいているのを、探して捕まえているところだった。水のない池は殺風景で悪臭すら放っている。落胆して、底に厚く積もった泥を見つめた。気を取り直し、池の堤の上に佇むと、草の間に立つ二つの万葉歌碑が目に入った。
大津皇子の歌
百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ
大伯皇女の歌
うつそみの人なる我れや明日よりは 二上山を弟世(いろせ)と我れ見む
大津皇子は天武天皇の皇子で、二歳上の姉に大伯皇女がいた。母は天智天皇の娘大田皇女である。母が早く亡くなったので、幼い二人は天智天皇のもとで養育されたらしい。壬申の乱が起きたとき、十歳の大津皇子は、父が遣わした使者に伴われて近江を脱出し、天武軍に合流している。
686年9月9日、天武天皇が崩御すると、川島皇子の密告により謀反が発覚して、10月2日に大津皇子は捕えられて、その翌日には、訳語田舎(おさたのいへ)で死を賜った。磐余池は飛鳥から訳語田への道の途中にあり、皇子は磐余池のほとりで上述の辞世の歌と漢詩「臨終」を詠んだとされている。二十四歳であった。
大津皇子の妃、山辺皇女は、夫の死を聞くと裸足で家を走り出て、殉死したと日本書紀は伝えている。
実際に謀反があったのかどうかはわからず、天武天皇の后である鵜野讃良皇女(後の持統天皇)が、わが子草壁皇子を確実に皇位に就けるために、人望も厚く文武に優れていた大津皇子を抹殺した、とみる説が有力である。
大津皇子の姉、大伯皇女は、十三歳のときに斎宮に選ばれ、初瀬で一年半潔斎の後、伊勢に赴き、そこで十二年間神に仕えた。父天武天皇の崩御、弟の大津皇子の刑死によってその任を解かれ、大和に帰ってきたものと思われる。姉弟は仲が良く、絆も深かったようだ。大津皇子は父の死後、密かに伊勢を訪れ、姉に会いに行っており、弟を大和へ見送った際の大伯皇女の哀切な歌が、万葉集に残されている。二人の生母大田皇女は、鸕野讃良皇女とは姉妹で、ともに天智天皇の娘であった。血の繋がる叔母に、大津たち二人は疎まれたことになる。
万葉集には、「大津皇子の屍(しかばね)を、葛城の二上山に移し葬(はぶ)る時に、大泊皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌」という詞書とともに、上述の歌が挙げられている。
大津皇子が住んでいた訳語田舎は、桜井市戒重にある春日神社付近とされており、妃の山辺皇女の辞世は残っていない。
罪人である大津皇子は、殯宮など皇族としての葬送儀礼は許されず、妃とともに磐余のどこかの地に仮埋葬された後、二上山に移葬されたといわれている。直接雄岳山頂にある御陵にではなく、一旦は山麓にある烏谷口古墳に葬られたのではないか、とみる説がある。
菫やタンポポが咲き乱れる堤の上で、二つの歌碑を見ていると、遠く二上山が望まれた。二つの頂を持つ二上山はどこから見ても、その稜線が印象的である。眺望は良く、春先の草の匂いに包まれて座っていると、時折風が吹き抜けていく。この二首の歌の背景としては似つかわしい場所かもしれないが、どう見ても吉備池は灌漑用に作られた人工池で、地面から何メートルも嵩上げして周囲に堤を築いてあり、自然の池とは全く様相が異なっているのが残念である。ここを伝承の磐余池とは・・・・言いがたいものが感じられた。なおこの吉備池では、発掘調査で基壇跡らしいものが見つかっており、それは舒明天皇が造営した百済大寺の基壇ではないかと推定されており、近年はそちらの方で注目を集めている。
ここで歴史の上に現れる磐余の地名について見てみよう。
樋口清之氏の論によると、大和盆地は、元は海に通じていた大きな湖であったという。約一万年前、洪積期の最終期の頃だそうである。その後、地盤の隆起などにより、湖面が次第に干上がって、現在のような盆地の地形になったと考えられているらしい。
その考え方でみると、大和にある幾つかの山や丘陵、有名な大和三山も、遠い昔においては、湖水に浮かぶ島であったということになる。気の遠くなるような長い年月をかけて、湖面は干上がっていったのに違いない。そして最後まで残った池を、その辺りの地名であった磐余にちなみ、磐余池といったそうである。湧水のために涸れず、かつての湖の名残の水を湛えていたことで、その池は特別な存在と考えられ、神聖視されたらしい。
残念ながら、現在では磐余池と呼ばれる池は存在しない。いつ消滅してしまったのかはわからないが、ただ磐余池跡と伝承される地の一つが、この吉備である。吉備池を磐余池だと思い込んでおられる人も多いそうだ。ここは古代で磐余と呼ばれた桜井市南部地域の中心に近いからだろうか。ただ現在の吉備池は、明治になってから作られた灌漑池であるそうだが。
吉備池の横の春日神社に立ち寄ってみた。大津皇子が祀られている。境内には、大津皇子の漢詩が刻まれた碑があった。
金烏臨西舎 金烏(きんう)西舎(せいしゃ)に臨(て)らひ
鼓聲催短命 鼓聲(こせい)短命を催(うなが)す
泉路無賓主 泉路賓主(ひんしゅ)なし
此夕離家向 此の夕(ゆふべ)家を離(さか)りて向かふ
金烏(太陽)は西の家屋を照らし、夕刻を告げる鼓の音は、短い命を急き立てるように聞こえてくる。黄泉路には客も主人もなく、この夕べ自分は家を離れて独り死出の旅路へ向かうのである。
日本古典文学大系 「懐風藻」より(岩波書店)
同じ石碑には姉の大伯皇女の歌も添えられていた。
神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ君あらなくに
伊勢から戻った大伯皇女は、その後大和を離れ、三重県名張にある寺(夏見廃寺)で父天武天皇の菩提を弔ったとされる。おそらく朝夕大津皇子のことも祈り続けたと思われる。大伯皇女は四十一歳で亡くなっており、万葉集に六首の歌が残っているが、どの歌にも弟への愛が感じられ、心打たれるものがある。
大伯皇女が大和から伊勢斎宮へ、そして帰還の後、再び名張の地へ去ったのも、持統天皇による一種の排除、追放とみることができるだろう。大津皇子の死も痛ましいが、大伯皇女も悲しく寂しい流離の境涯の女性である。
磐余池に戻ろう。幻の磐余池の推定地であるが、桜井市のホームページ内資料によれば、現在二説あり、一つは桜井市大字吉備から安倍にかけて、もう一つは桜井市池之内から橿原市東池尻町周辺にかけてあったというもので、6~7世紀に限っていえば、後者の方が矛盾しないという。
またさらに書紀を遡っていくと、磐余の名が最初に登場するのは神武紀で、神武天皇が磯城(しき)の八十梟師(やそたける)と戦ってこれを滅ぼした地を磐余邑、また神武の称号は神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)と記されている。
磐余の旧名は片居または片立であったが、「大軍集ひて其の地に満(いは)めり」また「八十梟師そこに屯聚(いは)み居たり」という状況だったので、「因りて改めて号(なず)けて磐余(いはれ)とす」とある。
磐余や磐余池が聖地とみなされたことによるのかどうかはわからないが、何人かの古代の大王、天皇が磐余の地を選んで宮を建てている。
履中天皇の磐余稚桜(わかざくら)の宮、清寧天皇の磐余甕栗(みかぐり)の宮、継体天皇の磐余玉穂の宮、用明天皇の磐余池辺双槻(なみつき)宮などである。
池之内 池尻
吉備池を出て、次の磐余池伝承地、池尻に向かうことにした。今自転車で走っているのはもう池之内地区で、地名から推測すると、昔は池の底であったのだろうか。快い風の中を抜けていく。途中、池之内にある履中天皇の磐余稚桜宮跡に立ち寄ってみた。
神功皇后も磐余に稚桜宮を建てたという伝承があるのだが、その存在については否定的な意見もあり、はっきりしない。今日最初に訪れた桜井市谷にある神社も、字は一字違うが若桜神社であった。そちらを宮跡とみなす説もあるようだ。
古事記によると、垂仁天皇(第十一代)のときにこんな逸話がある。
「尾張の相津なる二俣杉を二俣小舟に作りて、持ち上り来て、倭の市師の軽の池に浮けて、その御子を率(い)て遊びき。然るにこの御子八拳髭心前(やつかひげむなさき)に至るまでに真事(まこと)とはず」
一本の杉が二股になったものを、そのまま刳り抜いて作った舟に、ものを言うことができない皇子を乗せて、軽の池で舟遊びをさせた、という記述である。刳り舟だったのだろう。変わった形を持つ杉には霊威があると考えられ、それは呪術的な意味も籠めた舟遊びであったかもしれない。古事記の注に、軽の池は磯城郡磐余の地とある。
また時代が下って、日本書紀履中天皇(第十七代)の項には「磐余に池を作る」の記述がみえる。その時代には、垂仁天皇の頃には存在した磐余池(軽の池)は小さくなっていたか、または消えてしまっていたので、履中天皇は新たに象徴となるような磐余池を作らせたとも考えられる。大きな池だったようで、履中紀にはさらに「天皇、両枝船(ふたまたぶね)を磐余市磯(いちし)池にうかべたまふ。皇妃と各(おのおの)分ち乗りて遊宴(あそ)びたまふ」という記事が続く。
垂仁天皇のときの逸話をそのままなぞったような内容である。注をみると、このときの両枝舟というのは、東南アジアから太平洋の島にかけて広がっているような二艘をつなぎ合わせた丸木舟、と説明されている。
池で舟遊びの際に、どこからともなく、季節でないのに桜が散ってきて、盃に浮かんだので、珍しく思った履中天皇は、家臣にその桜の木の在処を探すように命じ、そのことが宮の名の由来だという逸話が追加されている。
小高い丘を登っていくと、頂上に稚桜神社があった。もちろんその名にふさわしく桜の木があるが、まだちらほら咲きであった。頂上近くの樹木は伐ってあって周囲の見晴らしはよく、東側の辺りに宮があったとすると、池はこちら側に広がっていて、などと想像しつつ、池之内池尻にかけての平野を眺めた。民家や田んぼの続くのどかな情景の中に、しばし古代の宮や大池を重ね合わせてみる。
丘を降りて自転車を先に進ませる。再び池の底と思われる所を、池尻に向かって走り抜けていくうちに、桜井市と橿原市の境界を越えた。御厨子(みずし)観音、御厨子神社が並んでいる地点で自転車を止める。ここは古くは水尻神社といったそうだ。字が良くないので好字に変えたものと思われる。地図を見ると地名は橿原市東池尻町、池尻とは池の端という意味であろう。
御厨子神社の方の石段を上がってみると、拝殿横に大きな石神が祭ってあり、大岩が刀で切られたように真っ二つに割れていた。そこに注連縄が張ってある。古代の人はこういう現象を不思議に思い、神秘を感じたのに違いない。
佇んでみると、ひっそりとして寂しい雰囲気の漂う場所であった。清寧天皇(第二十二代)の磐余甕栗宮跡と伝えられている所である。
清寧天皇は雄略天皇の皇子で、生まれながらに白髪であったという。父天皇が崩御すると、星川皇子母子による反乱が起き、制圧後にここで即位した。清寧天皇には后や子はなかったので、後継として、播磨に下男として隠れ住んでいて見出された市辺押磐(いちのへのおしは)皇子の遺児二人を大和に迎え、兄の方を皇太子とした。清寧天皇の在位期間は短く、僅か四、五年で崩御された・・・・と書紀は伝えている。
神社の参道口には見事な桜があり、枝を広げていた。道に立って平野に目を向けると、大津皇子の辞世が刻まれた石碑が木陰に見える。吉備池の碑と同じ歌である。
万葉集の詞書(ことばがき)
大津皇子、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ
生と死の境界に立った人の目に映る光景は、どのようなものだったろう。この世に別れを告げていく人が、最後にたたずんで、思いを詠んだ場所が磐余だったというのである。池の上に見つめたものは、鴨であったが、それはまた死へ向かわねばならない心の切なさと重なってくる。
この歌を後世の人の作とみる説もあるのだが、ここでは触れないでおく。
歌碑の横の案内板を読むと、碑の東側に磐余池があった、と説明されていた。さっき訪れた池之内の稚桜神社の辺りからこの辺りにかけて、池があったと推定されている。ここには吉備池のような眺望はないが、碑の東側には緑の田畑がずっと続き、竹薮や低い丘なども見え隠れする、静かな田園の情景が広がっている。
池には堤が築かれていたというが、低い丘陵など自然の地形を利用し、それらを結ぶ形で作ったのに違いない。そう考えるとき、御厨子神社の丘や前方に見える丘陵は堤があった位置にふさわしく思われる。
古代にはきっとここに池があったのだろう。目を閉じると豊かに水を湛え、鴨やかいつぶりが水面を泳ぎ回り、鷺や鳧が水辺にいて餌をついばみ、岸辺には芦が生い茂って風にそよぐ磐余池の情景が、一瞬浮かんで消えた・・・・。
辺りには静けさと寂寥感が漂っていた。夢で見た池とは、この辺りに広がる池だったのだろうか。夢の淡い記憶を辿りながら、今まで見た現実の風景の中では一番感じが近いとも感じながら、一つまた一つと民家を消し、田畑を消し、道路を消し、古代の光景を心の中で幻視していた。確信はない。ただ土地から受ける印象としては、ここが最も心に残ったように思う。
今日は磐余の地を巡って、池跡と伝えられる地を歩き回った。池之内で手ぬぐいを被ったおばあさんがもんぺ姿で畑仕事、という情景をみていると、ふと子供の頃を思い出して懐かしかった。有名な観光地というわけではないので、人も車も少ない。のどかな風景の中にいると、心が安らいでいくのを感じた。
吉備、池尻にはゆかりの歌碑があり、それらを見に訪れる人もいるようだ。歌碑はまるで道しるべか墓標のように人を引き寄せる。思いを籠めて詠まれた歌の言葉には、呪力めいたものがあるので、それに惹きつけられるのかもしれない。
今日訪ねた地の中に、本当の磐余池はあったのだろうか。
垂仁天皇の幼い皇子が、二俣舟を浮かべて遊んだという磐余池、履中天皇が舟遊びした磐余池、もっと時代が下って、大津皇子や山辺皇女が歩いたのと同じ磐余池のほとりを、私も同じように歩けていたとしたらいいのに、と思う。同じ空間に佇めば、時空を越えて磐余池に心が繋がれるような気がする。
歳月によって風化されず、古えの土地が記憶するものを思いつつ、古代の道を歩いてみることが、長年の願いであった。今日は二つの池跡を巡りつつ、時折目に見えぬものに向かってそっと何かを問い続けていたような気がする。
風景の持つ記憶に触れ、地霊の存在に思いを馳せ、その時代を生きた人たちのことを考えながら、自然の中で時を過ごすことができ、満たされるものがあった。その触れ合いの中で、もし伝わってくるものがあったとしたら、それを心で受けとめてみたいとも思う。それらを手がかりにすれば、また想像の中で、新たな幻が呼び出されるかもしれない。
池尻を後にして、香久山の方に向かって進んでいくと、前方右手にきれいな灌漑池が見えてきた。地図を見ると、香久山の東側の麓にある池で、古池とある。桜が固まって山麓に咲いていて、静かな池水にその姿が映っている。岸辺には芦が揺れ、水草の間を縫って鴨が二羽泳ぎ、波紋が広がりゆらゆらと水面が揺れていく。
磐余伝承地では、ゆったりと水を張った生きた池には出会えなかった。でも香久山の麓まで来ると、まだこんな風に生きた池が、目の当たりに見られるのだった。心奪われてその池水にしばらく見入っていた。ここは磐余の地ではないし、またこれが磐余池だと、強気に引っ張って言うつもりもないのだけれど、池をゆっくりと巡りながら考えていた。
たとえば失われた古代の磐余池とは、このような美しさを持った池だったのかもしれない。磐余池は消え失せてしまったが、そのスピリット(魂)は豊かな水の生命の表出となって、こんな形でひっそりと永らえ、大和の地で今もその姿をとどめているのではないだろうかと・・・・。