一近江の古社を巡る一
建部大社(近江一宮) 瀬田の唐橋
一近江の古社を巡る一
建部大社(近江一宮) 瀬田の唐橋
建部大社
京阪唐橋駅で降りて、建部(たけべ)大社に向かう。遠くに広がる湖水の風景を見ながら有名な瀬田の唐橋を渡ると、目指す近江一宮の武部大社はすぐ近くにあった。町の中にある神社であるため神域はそう広くはない。
祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。景行天皇の皇子で、天皇に命じられて西征に赴き、熊襲を討伐した。次いで東征に向かい、東国を平定するが、帰途伊吹山で遭難、三重の能褒野(のぼの)で命を落とした。悲劇の英雄である。
神社由緒によれば、建部大社は皇子の妃、布多遅比売命(ふたじひめのみこと、父は淡海国造の祖)とその遺児が、居住地の近江神崎郡で日本武尊の神霊を祀ったのが起源で、その子孫が祭祀を続けていたが、天武天皇の御代に当地に遷されたという。
この神社は瀬田川の橋の間近にあることから、鎮護の意味もあったのかもしれない。ここ瀬田の地はたびたび戦場となっており、古来要衝の地であった。天武天皇は、近江という彼方と此方の世界をつなぐ境界であるその重要な橋のたもとに、古代最強の英雄であった日本武尊の霊を祀る社を置いて鎮め、この地の護りにしようとしたのかもしれない・・・・。古では橋、四つ辻、村の出入口、都の四方などの要所には、魔や悪霊、厄災の侵入を防ぐために神が祀られたという。(余談になるが、後の時代、桓武天皇は征夷大将軍・坂上田村麻呂を模した土の像を作って甲冑で武装させ、東山の華頂山に埋めて平安京の護りとしている。将軍塚と呼ばれている)。
石鳥居をくぐり参道を進む。境内に入ると、建部大社の社殿は古社ではなく、まだ新しいものにみえた。日吉大社を見てきた後ではよけいそう感じられる。神木の大きな三本杉や、日本武尊の父母にあたる景行天皇と皇后、御妃と子、皇子の遠征に従った家臣の人々を祀る祠の間を歩きつつ、ゆっくりと境内を巡った。最後に立ち止まったのは、日本武尊が戦後の一時期、初の千円紙幣の意匠に使われたという掲示板の写真記事の前であった。
たしかに日本武尊と建部大社がお札に印刷されていた。こういうものをはじめて見たが、わずか七ヶ月しか流通しなかったので、幻の紙幣と呼ばれているそうだ。紙幣の中の古代の皇子は、変わった形の兜をつけ涼しいまなざしに描かれていた。
瀬田の唐橋
建部大社を出て瀬田の唐橋へと戻り、橋のたもとにたたずんで瀬田川を眺める。現在の橋は二百六十メートル。琵琶湖から流れ出る川は瀬田川だけであり、古来ここにかかる橋は重要であった。架橋の歴史は古く、景行天皇の御代に、舟を横に並べて藤や葛のつるでつなぎ、板を渡して橋として使用していたとされる。景行天皇は、晩年の三年間、近江に高穴穂宮を営んだといわれ(所在地は大津市穴太とも)、そのまま同地で崩御、高穴穂宮は次の成務天皇の宮都であり、仲哀天皇の生誕地でもあったという。
仲哀天皇の皇子、忍熊(おしくま)王は、父が遠征の旅先の筑紫で俄かに崩御、神功皇后が外征の後、九州で皇子を出産したと知り、兄の香坂(かごさか)王とともに兵を挙げる。播磨で兵を整え、戦の成否を占う狩の最中に、香坂王は猪に襲われ落命、占いは凶と出た。忍熊王は宇治に後退するが、神功皇后の家臣であった武内宿禰の軍に討たれ、瀬田の渡りに沈んで亡くなった。
・・・・忍熊王、逃げて入(かく)るる所なし。・・・・瀬田の渡に沈(おち)りて死(まか)りぬ。(日本書紀 神功紀)
また壬申の乱の際、ここは近江軍と大海人皇子軍の最後の決戦場となった。書紀から引用してみよう。
・・・・男依(をより)等瀬田に到る。時に大友皇子及び群臣(まえつきみ)等、共に橋の西に営(いほ)りて、大きに陣を成せり。其の後(しり)見えず。旗幟(はた)野を隠し、塵埃(ちり)天に連なる。鉦鼓(かねつづみ)の声(おと)数十里(あまたさと)に聞こゆ。矢の下ること雨の如し。将智尊(いくさのきみ、ちそん)精兵を率(い)て先鋒としてふせぐ。よりて橋の中を切り断つこと、三丈ばかりにして、一つの長板を置く。たとひ板を踏みてわたる者あらば、すなはち板を引きて墮(おと)さむとす。ここを以て進み襲ふこと得ず。ここに勇敢(たけ)き士あり。大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)といふ。長矛(ほこ)を棄てて、甲(よろひ)を重ねきて、刀を抜きて急ぎて板を踏みてわたる。すなはち板に着けたる綱を断(き)りて、被矢(いえ)つつ陣に入る。衆(いくさ)ことごとく乱れて散(あら)け走(に)ぐ。とどむべからす。時に将軍(いくさのきみ)智尊、刀を抜きて退(に)ぐる者を斬る。しかれども止むること能(あた)わず。よりて智尊を橋の辺(ほとり)に斬る。大友皇子、左右大臣等、僅か身免(のが)れて逃げぬ。・・・・ここに大友皇子走(に)げて入らむ所無し。すなはち還りて山前(やまさき)に隠れて自ら縊(くび)れぬ。(日本書紀 天武紀)
・・・・男依等は瀬田に着いた。大友皇子の軍は、瀬田橋の西に大きな陣営を構えていた。その後方がどこまであるか見えないほどだった。旗は野を隠し土ほこりは天に連なっていた。打ち鳴らす鉦鼓の音は数十里に響きわたり、矢が雨のように放たれた。近江方の将、智尊は精兵を率いて防戦、橋の中央を杖三本ほどの巾に切落とし、長板を渡した。板を踏んでくる者があれば、板を引いて下に落とそうというのである。だれも進んで襲うことができなかったが、一人の勇士、大分君稚臣が矛を捨て、鎧を重ね着し、刀を抜いて一気に踏んで渡った。板に着けられた綱を切り、矢を射られながらも敵陣に突入した。近江方は混乱し、逃げ散っていくのを止められなかった。智尊は逃げる兵を斬ったが、自分も橋のほとりで斬られた。大友皇子と左右大臣らはかろうじて逃れたものの、逃げ入る所もなくなり、引き返して山前に身を隠し、首をくくって死んだ。(口語訳は宇治谷孟著 日本書紀を参照)
壬申の乱は六七二年に起きた。瀬田川を挟んで壮絶な戦いが繰り広げられたのだ。古代の戦を思いながらゆるく風が渡ってくる水面を眺めていた。さざなみの打ち寄せる岸辺に古の時を重ねてみる。ふと当時の戦闘の情景が浮かんでくるようであった。
壬申の乱から後の時代のことになるが、七六四年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の折、都から東山道へと向かう仲麻呂の行く手を阻むため、孝謙上皇の軍が先回りして「勢多橋」を焼いた。仲麻呂は橋の焼失を知って東山道を諦め、湖西を北進、息子が国司を務める越前を目指した。官軍は先行して越前国司を斬り、愛発関も閉ざし固めた。仲麻呂は行き場を失い、最終的に近江高島で討たれ、一族とともに滅んだ。
さらに後の時代になると、瀬田の唐橋は「俵藤太の大むかで退治」の伝説(この話については、三上山登山の項で書いている)でも知られることとなる。以後、交通の要所にあるため「唐橋を制するものは天下を制す」といわれ、橋は戦乱のたび、歴史の転換点で焼かれ、落とされていく。承久の乱、建武の戦い、本能寺の変・・・・。何度も失われてはそのつど架橋されてきた。現在の瀬田川には、新幹線も含め計六本の橋が架けられている。
瀬田の唐橋は近江八景の一つで、瀬田の夕照として知られ、日本三大名橋の一つに数えられているという。ちなみにあと二つは宇治橋と山崎橋(洪水で流され今はない)。
現在の瀬田の唐橋は緩やかに反っており、一見近代的にみえる橋であるが、欄干には古い擬宝珠がつけられていた。江戸時代の擬宝珠も受け継がれて使われているのだという。もっとも古代の瀬田橋は、ここから数十メートル離れた位置にあったといわれ、現在地に移ったのは織田信長のときであるとか。
橋のたもとから降りて水辺に寄ってみた。涼しげに光る川面を見ていると、目の前を静かにすべるようにボートが川を下っていく。どこかの大学のボート部のようである。遠ざかるオールの動きを目で追っていく。もう夕暮れが近く、辺りは次第に日がかげっていくが、雲は厚く夕陽は見られなかった。