一諏訪への旅一
諏訪大社(信濃一宮) 上社前宮
一諏訪への旅一
諏訪大社(信濃一宮) 上社前宮
信濃一宮 諏訪大社
以前から諏訪の風土には何かしら心惹かれるものがあった。諏訪大社の勇壮な御柱(おんばしら)曳き、凍結した諏訪湖の御(おみ)渡り、鹿の首を供えるという前宮での御頭祭(おんとうさい)など、他に例を見ないような驚くべき古の神事が今も継承されている。むろんテレビのニュースや写真でしか見たことはないのだけれど、そういういわば縄文色が色濃く残る地への憧憬とでもいえばよいのだろうか。
思い立って諏訪を訪れることにしたが、求めるような古代の雰囲気に触れられるのかどうかはわからない。でも旅は一期一会、出会いを信じて出かけることにする。
例によって朝早く家を出て、青春十八切符で東に向かい、JR新快速、普通と乗り変え乗り継ぎ、ようやく上諏訪の駅に着いたのは、遅い午後であった。
今回の旅は諏訪大社(全部で四社)を中心に巡る。上社と下社があり、男神の建御名方神(たけみなかたのかみ)、その配偶八坂刀売神(やさかとめかみ)、また事代主神(ことしろぬしかみ)を祀っている。上社には本宮と前宮の二社、下社は春宮と秋宮の二社あり、諏訪大社は四社の総称である。
どの社も諏訪湖からは離れた内陸部に位置しているのが気になって、ネット検索で調べてみると、現在の地形と違って古代では諏訪湖はもっと大きかったという。おそらく往時は湖面に沿うような形で社が建てられていたのであろう。
上社 本宮
上諏訪駅前からバスで上社本宮を訪れる。御手洗(みたらし)川という小川を渡り、東側から入る形になった。
御柱(おんばしら)と呼ばれる皮をはいだまっすぐな樅の木の柱が、天を突くように立てられているのがまず目に入る。見上げると背の高い立派な柱である。
御手洗川は元旦に行われる蛙神事で知られている。そこには不思議なことに必ず蛙がいるのだそうで、氷を割って蛙を取り、それを神前で矢で射て串に刺し神饌として供えるという。この情景を想像するだけでも、諏訪の神の持つ性格の一端が偲ばれるであろう。ここでは多くの神事があるそうだが、公式の祭神である建御名方神よりも以前の、先住のミシャグチ神(御左口神、石神など多くの表記がある)への信仰が、反映されているのだという。
ほの暗く長い屋根つきの布橋の回廊を進んでいくと、道は折れ曲がる。神体山である守屋山が南の方角にあるというが、ここからは遠くて見えない。普通なら神体山の正面に社殿を造営するものと思うが、社は東側に向に向きを変えて建てられている。何か謂れがあるのであろう。古代の社は、夏至や冬至の日の出の方位と関連を持つことが多いという。真の理由はわからないが、社の位置だけ見ても、謎めいていると感じられた。
上社の祭神は建御名方神。大国主神の子である。
「古事記」によれば、父大国主神は、出雲の地において、天孫側の武神、建御雷神(たけみかずちのかみ)に国譲りの諾否を迫られると、返答を二人の子に託す。海上にいた兄の事代主神は承諾し、舟を傾けて美保の海に沈んでいったが、弟の建御名方神は承服せず、力較べで争うことを選んで建御雷神に敗れ、諏訪まで追われて逃げていく。
なぜ出雲から諏訪に逃げたのかは疑問であるが、「先代旧事本紀」によると、建御名方の母は高志沼河比売(こしぬなかわひめ)といって、越の国の人であったことから、母方の勢力に助けを求めようとしたのかもしれない。沼河比売の出身地は現在の糸魚川市であるという。結局建御名方神は追いつかれて天孫側に屈し、永久に諏訪の地を出ないという条件のもとで、諏訪に住むことを許されたという。「古事記」からその部分を引用してみよう。
・・・・追ひ往きて科野(しなの)の国の州羽(すわ)の海に迫め到りて、殺さむとしたまふ時に、建御名方の神白(もう)さく、
「恐(かしこ)し、我をな殺したまひそ。この地(ところ)を除(お)きては、他(あだ)し処に行かじ」 (古事記)
諏訪はおそらくこのときから天孫側の支配下に入ったのであろう。建御名方神が諏訪に入ろうとした折に、地元先住民との間で戦いがあったという記述は「古事記」にはみられない。
一方「日本書紀」には出雲の国譲りに関する記事はあるものの、建御名方の諏訪敗走の逸話は載っておらず、このことから建御名方神の存在を否定する説もある。
一方諏訪のほうの伝承によれば(守矢神長家資料)、話はまた記紀とは少し異なった様相を帯びてくる。
出雲であった大国主神の国譲りとは別に、諏訪の地でも国譲りに当たる出来事があったのだという。建御名方神が諏訪に侵入しようとしたとき、諏訪各地にはそれぞれすでに縄文以来の先住民集団がいたという。その中で守屋山を神体山とし、洩矢(もれや)神を長とし、岩や樹などに降りてくるミシャグチ神(多くの当て字や呼び方がある)を崇める精霊信仰を持つ人々が建御名方軍の侵入を阻もうとした。
天龍川付近で双方の戦いとなったが、建御名方軍は守矢一族を下して諏訪の地を掌握し、以後出雲系の人々が支配者となって、諏訪の地における稲作も諏訪大社の歴史もこのときから始まったのだという。
その後、建御名方軍は諏訪で建御雷神の軍に屈したわけであるから、諏訪はこのときから天孫側つまり後に初期大和政権となる勢力下に入ったことになる。諏訪の真の支配者は大和側であったろう。
現在は四社ある社も初め前宮のみであったらしい。その後先住の人々はおもに上社、前宮にあたる地域に、また建御名方率いる出雲系の人々は下社春宮、秋宮の地域にと分かれ住んだのではないかともいわれている。上社には縄文色が濃い精霊崇拝、蛇信仰、狩猟神にかかわる祭りが多く残り、下社には稲作、農耕、五穀豊穣にまつわる神事が多いことからの類推という。
天龍川における戦いという伝承は、侵入した弥生人と先住民の衝突が、この地でも起きたという意味にもとれる。
以後諏訪における祭祀権は出雲人が握ったとみられ、後には大祝(おおほうり)と呼ばれる生神の位は建御名方の子孫が継ぎ、また神長(じんちょう)と呼ばれる筆頭神官の位は代々守矢家当主が務めることとなった。守矢家では一子相伝で口伝によって数々の神事の作法、秘法、神降ろしの呪術などを継承し、それは明治初期に、政府の命によって大祝、神長官制度が廃絶されるまで続いたという。
諏訪大社においては出雲系の神々が公式祭神となっているが、実際には先住の神の霊威が非常に恐れられたらしく、神長官の権威は強大であったという。長い年月の間には大祝と神長官の対立や確執もあったらしい。
現在も続いている諏訪の特殊神事といわれるものの大半は、先住の神に関するものであるそうだ。特殊神事の由来をさかのぼっていくと、縄文にたどり着くほど遠い時代に起源があるという。
木立に包まれた上社の社殿に近づき、掃き清められた斎庭を眺める。風格があり、背後の杜は緑に包まれていて樹木は深く静かである。ボランティアガイドのおじさんが、団体客に丁寧に説明しているのを、横で聞くともなく聞いていた。
守屋山の正面に当たる位置に硯石という磐座があり、そこを遥拝する場が回廊途中に設けられているという。それを聞いて、見逃したことを知り、さっきの回廊を引き返してみると、たしかに苔むした磐座を拝むにふさわしい場所がしつらえてあった。四脚門という。そこからだと柵に囲まれている緑色の磐坐が真正面に望まれる。さっきは無意識にそこを通り過ぎてしまったようだ。
四脚門から遥拝する磐座、つまり神体山の神と、社殿に祀られる神とは、やはり別の系譜なのかもしれない。神域でこのように向きを変え分かち祀られていることが、その証とも考えられるわけであるし・・・・。少々腑に落ちないものも感じられる社殿の向きであった。
境内を歩いていると、手水場の一角に思いがけずこんこんと湧き出ている湯を見つけた。温泉が湧いている珍しい手水舎である。近寄って暖かい湯をひしゃくに受けながらさっき見たのとは別の御柱を見上げた。その周囲には樹木が深く重なり合いすがすがしい緑の空間を形づくっていた。
上社 前宮
次の日、朝早く宿を出て上社前宮を目指した。一駅先の茅野駅で降りる。歩けばかなり時間がかかりそうな距離である。地図を見ても地理がよくわからない。タクシーで鳥居前まで乗りつけるのも、とためらう気持ちがあり、迷ったが結局タクシーでいくしかなく、初乗り料金分だけ乗って後は徒歩で向かう。
歩くうちにほどなく鳥居が見えてきた。参詣人が多かった昨日の立派な上社本宮と違い、そこは実にひっそりとしていた。人を圧する社殿の持つ物々しさも威厳もなく、古びた小ぶりの社が樹木の間に点在しており、ちらちらと木漏れ日に揺れる祠が見え隠れするだけのその簡素なたたずまいには、古代においてもおそらくこうだったろうと思わせる静けさがあった。鳥居をくぐって神域に入り、ほんの少し歩くうちにも、ここは聖域なのだと心に感じられる、何ものかが伝わってくるようだった。
十間廊と呼ばれる、色あせた細長い建物を見つめる。開放された長い板の間を静かに風が通り抜けていく。御頭祭という春の祭りの日には、ここに鹿の首を七十五頭並べて神への贄としたのだという。鹿以外に兎や野の動物も串に刺して供えたという。さすがに今はそういうことはしなくて剥製をお供えするそうであるが。
そのような贄を好まれる諏訪の前宮の神とはいったい何だったのだろう。神は人の目には見えず、その正体もわからない。ただここに来てみて思うことは、昨日の上社に祀られた出雲系の神々の雰囲気とはやはり異質のものが感じられるということだった。
建御名方神が追われて諏訪に逃れたとき、守矢一族もまた建御名方神によって追い払われたということは前述した。
歴史は厚い層になっていて、一つの層をどけるとより古い層が顔を出す。強いものは実力で先住の弱いものを追い払うだろうが、追放されたものは、その敗走先でさらに自分より弱いものを力によって退けていく。出雲で起きた国譲りは、たぶん規模と形を変えて諏訪の地でも行われたのであろう。そしてさらに古層をめくっていけば、古の時代には、その守矢一族もまた、諏訪への侵入者に他ならなかったかもしれないのだ。
時を遡れば遡るほどそれはどこまでも限りなく繰り返される悪夢となって、侵入と追放、征服と被征服のはざまで蹂躙される民や土着の神の受難の姿が想起されてくる。地霊や土地神はその地と深く結びついているから、そこを離れ得ない。土地神を奉ずる民もまた同じであったろう。
後ろの山を見上げる。緑なす神体山は、守屋山と呼ばれる聖地で標高は約千六百五十メートル、山腹には多くの磐座を有し、この前宮の背後にある。
古のミシャグチ神については、柳田國男「石神問答」、中沢新一「精霊の王」などで知られているが、私は専門家ではないから多くを語れない。ただいえることは、古から川、海、風、山、森の木や岩、どんな自然万物の中にも目に見えない精霊が宿り、人はそれらの存在を心に留め常に畏敬しその恵みに感謝しながらともに生きてきたのだろうということだけである。
静かに風が吹き抜けていく。鮮血で染められる十間廊をふと想像してみる。ここで数えきれないほどの動物の血が流され、絶たれた命が古の狩猟神に捧げられたのに違いない。血腥い不気味な恐怖の空間であるはずなのに、今見ている十間廊はがらんとして何もなく、古くて美しい。
奥へ進んでいくと、風景は次第に山に近づいて、斜面を登ったところにささやかな社殿があった。のどかな田園が広がる中、小川がさらさらと音を立てて流れ、それは水眼(すいが)と呼ばれていて、手を浸すと山からの水は爽やかに冷たく澄みきっている。この川を瞳を持つ川とみて、流れを長い蛇体とみなしての命名であろう。
陽光溢れる社殿の周りには四本の御柱が直立している。四隅に立つ柱を、何を表しているとみるのか、人によって感じ方はさまざまであろう。結界とみるか巨大リンガとみるか、大地に突き刺さる直立の蛇とみるか、稲妻や太陽光の表象とみるか、いずれにしても古代の呪術的な一光景なのであろう。四本とも近寄ってよく見ることができる。
玉垣に囲まれた社殿の後ろには大きな樹が何本も一塊りになって薄暗い影を作っていた。地面には磐座らしいものもいくつかあったので、もっとよく見ようと社の左側から近寄っていった。茂った枝が重なり合い、絡み合って緑は深く濃く、特にその中の一本の古樹が何ともいえない迫力を持ってそこに在るのに打たれ、畏怖の念を持ってしばらく眺めていた。
それは欅であったろうか、榎であったろうか、青々と揺れる藤の葉に似ている木もあって、それらを同時に見上げたように思う。そのときすっと血の引く思いがした。大樹を見て怖いと感じたことは今まであまりなかったが、このときは何やら恐ろしいような力のあるものに接したように感じ、思わず知らず後ずさった。
引き返し社殿の前にたたずんでいると、土地の方であろうか、車でおじさんがやってきて、社殿の扉を大きく開き、ほうきでお掃除をはじめた。隅のほうまで丁寧に掃き清めていく。そのおかげで、ふだん閉めてある内部を見せてもらうことができた。じっと眺めていると、おじさんは私が拝礼すると思ったのか、ほうきの手を休め扉を全開したまま脇へどいてくださった。あわてて二拝一柏手一礼をする。
特に何かを願うでもなく、ただ生きてここにあることに感謝をし、顔を上げて目の前を見つめると、拝殿の中は何もない静かな無の空間が広がっているばかりだった。
社殿の横でしばらく休憩していた。自然に心が落ち着いてきて満たされ、周りの原風景とでもいうべき光景と溶け合っていく。次第に心が不思議な感覚に捉われていく。社が消え、現代の情景が消え、その中からふっと真の古代が立ち現れてくるような感じ、古層にじかに心が触れていくような感じを受ける。漠として広がる水と樹と岩と山の原初の光景、神と古の土地のかもし出す雰囲気に魅了されてなかなかこの場を動けなくなった。
周囲を見回してみると、お参りの土地の人に混じって観光客もいるが、どの人も皆ゆったりとした歩調で社の周辺を巡り、風景を眺めて寛いだ表情を浮かべている。じっと石の上や草の中に座り込んだままの人もいる。ここはそういう場所なのだ。溢れる陽光と水と風の中で自然に心が開放されていく。いいところへきたと実感できる、平安が深く心に染み通り懐かしく感じられるこのような場所は、滅多にあるものではない。忘れられないひとときであった。
午後はバスに乗って諏訪湖畔を回ってみた。テレビで放映中の「風林火山」効果で、道には何本もののぼりがはためき、信玄ゆかりの場所がにわかに脚光を浴びているようだ。信玄の側室である諏訪御料人(由布姫)が暮らしていたという丘の上に続く道をゆっくり登っていくと、そこからは湖がよく見渡せた。小坂観音院というお寺があり、境内にある諏訪御料人の供養塔には溢れんばかりの花が供えられ、絶えず香の煙が流れていく。人気のほどがうかがわれた。
宿に戻って休憩し、夕方になると外に出て、湖に日が沈んでしまうまで岸辺に座って過ごした。暮れていく湖が少しずつ光を失ってやがて一枚の黒い滑らかな鏡のようになり、周囲の山並みの輪郭がシルエットを形づくっていくのを、ただ眺めていた。
下社 春宮 秋宮
次の日はバスで再び湖畔を回り、諏訪下社を訪れた。
春宮を拝し、そこから五分のところにある万治の石仏を見にいった。大きな丸石の上に小さめのお顔があって、何とも独特の力強い造形である。み仏というよりも異郷の男神という風貌で、路傍の石仏にしては大きく、風変わりであった。
そのあと徒歩で秋宮のほうに回ったが、春宮、秋宮はともに巨大な御柱が立ち、双子のように似通った作りの社殿であった。人の流れも多く、土産物屋や店舗の並ぶ通りは明るく賑わっていて、昨日の上社の森厳な雰囲気とはまた違うものがあった。
最初にここへ来れば、また別の感想を持ったかもしれないけれど、何しろ昨日の前宮があまりにもすばらしかったので、もう何を見ても特別の感慨が起きず、頭の中に広がるのは、ただただ昨日の前宮の山の緑と小川の水と慎ましやかな社殿の情景であり、その強い印象なのであった。 (2007)
巡ったコース
諏訪大社 上社本宮~前宮~小坂観音院~下社春宮~万治石仏~秋宮