黄色い猫
黄色い猫
その日、菜穂子の実家では、母の静子が台所の床にぺたんと座り込んでいた。
床は水浸しである。流し台の洗い桶に溜まっていた水か、あるいはやかんの水が床にこぼれたのだろう。見覚えのある古いステンレスの洗い桶が横に転がっていた。やかんも鍋も調味料も食器も、あらゆる物が足元に散乱していて、足の踏み場もない。
母は放心していてその目は虚ろだった。膝に一匹の猫をしっかり抱いている。見ると猫は怯えた目をして母の懐で丸まっていた。
飼い猫のトラだった。母は何故か濡れた床にじかに座っていた。ネルの寝巻きを通して冷えが染み通り、手足は強張り、唇は紫色で身体は氷のように冷たかった。電気もガスも途絶え、時計も止まった薄暗い部屋の中で、母と猫は互いにぴったりと身を寄せ合うようにして、暖を取り合っていた。
大地震に見舞われた日の午後だった。
独り暮らしをしている母親の静子の安否を気遣って、一人娘の菜穂子が、自転車で一時間近くかかって実家へ漸く辿り着いた時、隣家は崩れ落ちて見る影もなかった。
隣家は老女と会社員の息子との二人暮らしである。菜穂子は思わず息を呑んだ。膝が小刻みに震えて止まらなかった。実家はと見ると、玄関が壊れ塀が歪んではいるが、潰れずに何とか立っている。
「お母さあん」
大声で何度も呼んでみたが、中はしんとしていた。裏手へ回り、勝手口の戸を必死にこじ開けようとしたが、道具なしではとても無理だった。雨戸は皆閉まったままである。
庭には襖が一枚落ちている。散らばったブロック塊の上に、それは斜めに落ちた紙飛行機のように、半分裂けた形で着地していた。多分隣家のものに違いない。二階が崩れ落ちる時に、ここまで飛んで来たのだろう。
何とかして中へ入り、早く母の様子を見なければならない。再び屋根が壊れた玄関へと回り込み、扉に手をかけて強引に鍵を回した。キーは入ることは入るが戸はびくともしない。誰か男の人を呼んで来て、この戸を壊してもらうより他ないだろうか。中ではおそらく靴箱か何かが倒れて、戸口を塞いでいるのに違いない。
後の用心のことを思うと、道路に面した戸を破ることには、やはり抵抗がある。と言って、中では母の静子が今どうなっているのか皆目わからないのだ。
菜穂子は焦って、おろおろと庭を歩き回った。見ると、雨戸が一枚だけずれているところがある。以前からここはよく締まらなかった。もうここしかないと思った。爪が痛かったが、あるだけの力を込めて、立てつけの悪い雨戸を二枚程揺すり続け、遂に体当りした。何とか戸が外れたので、ガラス戸の施錠してある部分を石で叩き割ると、中へと入った。
床はあらゆる物が散らばっていた。家中の瀬戸物という瀬戸物、割れるものは全て、割れてしまったのに違いない。静子が寝ていたと思われる部屋を一番に見に行くと、その布団の上には和ダンスが倒れていた。それを見て一瞬心臓が止まったが、そこに母の姿はない。トイレ、洗面所と順に見て回り、最後に台所で置物のように座り込む母を見つけたのだった。
一瞬、母は正気を失ってしまったのだと思った。近寄って思わず空ろに見開かれた目を覗き込んだ。
「お母さん、怪我は」
大声で叫ぶと、母ははっと我に返り、確かめるように娘を見つめ、
「大丈夫。どこも怪我はないわ」
と震え声で言い、膝の上の猫をじっと見た。そして猫の背を愛おしむように撫で始めた。その目から大粒の涙が盛り上がって溢れ出た。
ああ、よかった。怪我もしていない。ほっと一息ついた。
「恐かった。菜穂子のとこは」
「ここと同じ。部屋中もうめちゃくちゃよ。ガラスだらけ。足の裏切りそうで、恐くて動けないの。手探りで靴探して履いて、やっと部屋の中歩けたわ」
見回すと何もかもが飛び出し、散乱していた。爆撃の後のような有様を見ていると、自然に又震えが来る。
ともかく濡れたものを何とかしなければ風邪を引く。母の着替えを取り出そうと思ったが、タンスは皆倒れてしまっていた。
思いついて風呂場の乾燥機の蓋を開けると、運良く一塊になった乾いた母の衣類が入っている。母はよく衣類をここへ入れたまま、取り出すのを忘れる癖があった。かじかむ手で母の濡れた寝巻きを脱がせ、着替えを手伝った。
「菜穂子、本当に無事でよかった」
母はまた涙ぐんだ。ここと家の中の壊れ方の程度はさほど変わらなかったが、隣の市のマンションで一人暮らしの菜穂子にも、幸い大きな怪我はなかった。
昨夜は妙に眠りが浅かったのだ。一度夜中に訳の分からない夢を見ては目覚め、それを気にしながら眠ったせいか、再びその続きとも思われる夢の断片にうなされた。
夢の中では体が縮んでいた。誰かに向かって何かを言おうと声を振り絞っているのだが、どうしても声が出ないのだった。やっとの思いで声が出ると、まるで蚊の鳴くような声だった。もどかしさに体を捩っていた。でも何を伝えたかったのか、一向に思い出せないのだった。
地震の最初の大揺れが来た時、実はタンスが足に倒れかかって来て、左足を挟まれかけたのだが、飛び起きるのが早かったのと、咄嗟に足を引いたので、一瞬難を逃れたのだった。
あまりの恐怖で、菜穂子はしばらくの間茫然としていた。その時足にかすり傷がついた以外、怪我はないのだが、身体中が金縛りにあったようになって、どうしても自由に動かなかった。地震だとは頭でわかっても、どう動けばよいのか見当がつかなかった。
まさかこの地方を大地震が直撃するとは、考えたこともなかった。これはたぶんどこか離れた地域で、関東大震災クラスの大地震が起きたのだと思った。ここでこんなにひどいのだから震源地はどんなだろう。地震による津波が起きて、海岸では人が大勢死ぬのだろうか。ぼんやりとそんな事を考えた。
飛び散ったガラス片を踏まないように、まず手探りでスリッパを履き、次に靴を探して履き替えた。靴のまま室内を歩き回って震えながら何とか服を着て、明るんできた朝の光の中、無残としか言いようのない部屋の中を見回しながら、母の身を案じ、どこかわからない遠くの震源地の被害のことを、また漠然と思ったのである。
「お母さん、お隣は」
母の目が大きく見開かれた。
「大揺れした後、しばらくしたら向かいのご主人が来てくれて、外から大声で、秋本さん、大丈夫ですか、怪我は、って何度も聞いてくれた。はい、どこも怪我も何もしてません。暗いし、もうちょっと明るくなるまでここでじっとしてます、って言ったら、わかりました。そうして下さい。また来ます、ってそれからどこかへ走っていかれた。
その内段々夜が明けてきて、ふっと台所の窓の方見たら、いつもそこからよく見えてるお隣の二階がないの。まさかそんなことが、と思って、その瞬間頭がぼうっとなって、そのままここに座り込んで・・・・。そのうちお隣に何人も近所の人が来て、下敷きになった友江さん親子を助けようとして・・・・。私も出て行こうとしたんだけど、腰が抜けたみたいになって、どうしても体がいうことを利かないの。でもここにいても、だいたい外の事は聞こえてきて、様子はわかったけど」
「それで、おばさん達は」
「二階にいた息子さんは軽い怪我だったけど、友江さんの方はどうも・・・・」
母は空ろな表情で言った。母は隣家の老女とはここへ引っ越して来て以来、ずっと親密に付き合っていた。
「だけどお母さんも、危なかった。さっき見たけど布団の真上にタンスが倒れてた。命助かったのが不思議な位よ。ちょうどトイレにでも立ったところだったの」
母は頷いた。
「トラが珍しく何回も鳴いてたの。お勝手のドアをかりかりひっかいて。こんな時間にどうしたのか、気になって見に行こうとして、その前に先にトイレしとこうと思った。廊下に出た所で、ドーンと来たわ。思い切り床に叩き付けられた。しゃがんで必死でドアの取っ手につかまって、振り回されながら一緒に揺れてた。
納まってからそろそろ這って台所へ行って、トラって何回呼んでも返事がないの。手探りで這い回ってたら、寄ってきて今度は離れないの。トラのおかげ。トラがいなかったらお母さん箪笥の下敷きになってきっと死んでた」
母は話しながら、次第に興奮してきて泣き始め、猫を抱き締めた。トラは一人暮らしの母を慰めてくれる、かけがえの無い存在だった。雑種だが体全体の毛足は長目で顔はふっくらしており、体は全身濃い縞模様の虎猫である。この猫は子猫の頃迷っていたのを母が見つけて保護し、飼い主が見つからぬまま家に居ついたのだった。もう何年になるのだろう。随分長い。
猫好きの母の最近の話題と言えば、いつも猫のあれこれのことばかりで、勤めを持っている菜穂子が、日曜日の午後に実家に行ってみると、母はすっかり動きが鈍くなって座布団で丸くなっている、柔らかい毛の塊のような老いた猫の背を、撫でながら繰り返す。
「食が段々細くなってきて、固いものはもう受けつけない。白身のお魚とかパンと牛乳ばっかり」
それは自分ではなくて、猫のことだった。トラは牛乳に浸したパンも好きなので、母は今まであまり買わなかった牛乳や食パンを、猫のために切らさない習慣になった。
「いいことだわ。せいぜいお母さんも一緒に飲んだら」
日頃、骨粗鬆症の予防にと、母に口うるさく牛乳を勧めても、軽くいなされていた菜穂子は笑った。母は豆腐の味噌汁と、アジの干物と青菜のお浸しは好きだが、乳製品はあまり口にしないのだ。
「お母さん、また揺れてる。これ余震よ」
不安そうに菜穂子は母と目を合わせ、庇うように身体を寄せた。天井からばらばらと砂が落ちてくる。
「こっちのほうが被害は大きいわ。お母さん、早く支度して私のマンションに行こう。また大きい地震が来るかも知れないし」
鍵が見つからず、マンションの部屋を中々出られなかった。やっとの思いで自転車を引き出して、肝の漬れる思いで国道を走り続け、川に沿って少し上がった。山側の道を真っ直に抜けて行ったので、沿道の家の倒壊の様子や、建物の壊れ具合を見て、実家に近づく程被害が大きくなってきている、と感じたのである。
「お母さん、大きいものは何も持てないわ。自転車だから。貴重品だけにして」
母は頷き、割りにしっかりした足取りで奥へ行き、どこか取り出し易い場所にでも保管してあったのか、通帳と印鑑、それに父の位牌を握り締めてきた。
「トラも連れて行く。命の恩人だもの」
「ええ、もちろん」
「この子がうちへ来てから、もう十五年になるかしら」
母がしんみり呟く言葉を聞いて、もうそんなになるのか、と思った。
確か菜穂子が大学に通っている時に、迷って来たこの猫を飼い始めたのだ。家に来た時はひどい掠れ声だった。元々そういう声の猫だと思っていたら、日が経つ内に次第に治ってきて、普通の細くて高い声になった。道で鳴き疲れて喉を痛めていたらしい。
猫がこの家で過ごしている間に、家族にも色々な変化が起きた。菜穂子は大学を終えて会社勤めをし、社内のサークルで知り合った人と交際するようになって結婚した。マンション住まいを始めたが、次第に夫とは気持ちがすれ違うようになり、段々しっくりいかなくなった。交際中はまだよく相手が見えていなかったのだろう。互いにわがままで神経質な一面があるのを、日々の生活の中で思い知った。些細なことに拘ってしまう気質も。菜穂子は気になることをどうしても追及し続けてしまい、それを抑えられないのだった。
自転車の前籠に、トラの身体をそっとバスタオルでくるんで入れようとしたが、不安なのか嫌がってしきりに逃げ出そうとする。事情がわからないのだから無理もない。古い籘編みのバスケットが物置にあったのを思い出して、菜穂子は急いで取って来た。何度も言い聞かせつつ、宥めて猫を入れる。
自転車を回して道路へ一歩出るなり、母は周囲を見てうわっと叫んで凍りついた。町内の様子は一変していた。ブロック塀や瓦屋根の家が、こんなに玩具のように脆く崩れやすいものだとは、一体誰が想像できただろう。
自転車の後ろの荷台に母を乗せると、菜穂子は慎重に元来た道を引き返し始めた。
小柄だが、母は以外に重かった。この自転車で人を乗せて走ったことなど、実はないのだった。母も又菜穂子の背に掴まって、自転車で運ばれることなど、考えたこともなかっただろう。
寒風が耳を突き剌すようだった。行き交う人の目は、ショックで茫然と見開かれていた。引きつった顔で、肉親や知人を探して走り回る人や、怪我した子供を連れた人もいた。また壊れた自宅の前でなすすべもなく無言で佇む人も、どこかしらぼうっとした空ろな目になっている。
皆、目の前で起こった出来事が、まだよく信じられないのだった。
二階が落ちたり道路に崩れた家の前を通る度に、胸が痛い程締めつけられた。中の人は無事に逃げ出せたろうか。助かったろうか。祈るような気持ちで、ひたすらぺダルを漕ぎ続ける。
「お母さん、そんなに私にきつくしがみつかなくてもね、大丈夫よ」
バスケットを抱いているせいでバランスが取りにくいのか、母の体がかちかちになっていた。母は横座りになって片手で籠を抱え、片手を菜穂子の腰に必死で巻きつけ、更に服の端を子供のようにぎゅっと握り締めてきた。
寒いせいもあるが、自転車に乗ったことのない母は、きっと振り落とされそうで不安なのだろう。幸いトラは大人しくしているらしい。母は昔から自転車が苦手だと言っていた。練習しようとも思わなかったらしい。若い頃、父の自転車の後ろに乗せて貰わなかったのだろうか。
「左右に揺れる度に、身体ごと同じように揺れていればいいのよ」
緊張してますます硬直する母に言い聞かせながら、菜穂子は右手の海岸寄りに、新しく狼煙のように上がり始めた、不気味な黒い煙の帯を見つめた。振り返ると、町の空にはもくもくと黒煙がのぼり、一面に空を覆っている。
「火事だわ」
母が呻くように言った。頭上を巨大な鳥のようにヘリコプターの影が掠めて行く。一しきり音を煩く響かせながら、西の方角へと遠ざかって行った。
「お母さん、あそこで少し休ませてね」
川沿いの公園の手前で自転車を止めると、母と一緒に、近くのベンチに崩れるように座り込んだ。息が弾んで苦しかった。大きく肩で息をしながら、目の前の光景を改めて怯えた目で見つめた。
川を隔てたビルが傾いているのだ。それをじっと見ていると、気分が悪くなってくる。すぐ横の児童公園の石の滑り台は、ぽきんと途中で折れていた。周囲の崩れた家。海岸に上がる煙。右往左往する車。今から避難する所なのだろうか。疲れた表情で荷物を抱え、汚れ切った手足の人が歩いて行く。とても現実とは思えず、どこか夢の中の廃墟の町にでも来ているようだった。
「ここはもう〇市なの」
「そう」
父の仕事の都合で移って来たが、母はそれ以前は父の郷里で過ごした期間が長かったので、この辺りの地理に自信がないのだった。母は父と暮らした田舎町を今でも懐かしむ。菜穂子は、中学と高校はこの町にある学校に通った。だからここはかつての通学路で、よく見知っている場所なのだった。
「あれが、菜穂子たちが迷った山だった?」
母が川の上手を指さして言った。これは母もよく覚えているらしい。菜穂子は中学生の頃、友だち三人と山で迷ったことがあるのだった。
友だちの家に遊びに行き、そこの家の犬を連れて、山の中腹にある滝まで行くことになった。滝まで川沿いにハイキングコースを歩いて行って、茶店でジュースを飲み、再び同じ道を取って返した。
途中、まだ時間があったので、裏の山に行って見ようということになり、脇道から上がって行ったのだった。当時この山は、まだ今のように道が整備されていなかったが、市内からはどこからでもよく見える位置にあるし、特に高い山ではない。形よく盛り上がった、小高い丘である。
頂上に少しいて、そのまま下り始めた。歩いているうちに、段々天候が怪しくなってきた。曇り空から時折冷たい風が吹き下ろしてくる。薄ぼんやりと霞がかかったような具合になってきて、周囲の景色も墨に滲んだようにぼやけて行く。
「私たち、さっきから同じ所ばっかりぐるぐる回っているのと違う」
友だちが不安そうに言った時、菜穂子はぞくっと背中が冷たくなった。雑木の中を、いくら歩いても見覚えのある所にはさっぱり出ない。さっき通ったはずの脇道はすっと掻き消えたようで、何とか元の道に戻ろうと思うのに、それがどうしても見つからないのだ。
こんなことがあるだろうか。友だちが連れている秋田犬も、心なしか尾を垂れたままで、さっきから元気がない。
それでも道に迷った、とは誰も思わなかった。深い山ならともかく、まさかこんな所で迷うはずなどないのだ。何か気味が悪くどこか変で、少し不思議な心持ちだった。次第に頭の芯がぼうっとなってくる。同じ所を回っている、という感じが確かにする。けれどどうしてよいのか、誰にもわからないのだった。
体がひどく疲れているのだが、何かの力で引っ張られるかのように、足が自然に動いて、どこまでも歩いてしまうのだ。
携帯無線を持ったお巡りさんに山道で出会った時は、三人とももうふらふらだった。あまり帰りが遅いので、事故を心配した友だちの母親が交番に相談に行ったのだった。
「あの時、何で迷ったのか、今でもよくわからないわ。すぐそこに町が見えてるのに。ちょっとの間、心がどっかへ行っていた、と言うか、自分がそこにいながら、そこにいないと言うか、時間が止まったようなと言うか、とにかく説明できない、奇妙な気分だったわ」
「わかる。お母さんもね、実は先週、おかしな事があったの。一人で町のデパートヘ買物に行って、地下で晩のおかず見つくろったついでに、おはぎを友江さんのお土産に買おうと思って、それでどれにしようかと迷ってるうちに、気がついたら、何と喪服売り場をぼんやり歩いてるのよ。
何でこんな所にいるんだろう。首捻りながら又地下へ戻って、おはぎを買って包んでもらって、それでしばらくして気がついたら、また喪服売り場のところに、足が自然に向かってるの。
はっとして、それから何だか知らないけど、ぞおっとしてきて。考えてもみて。友江さんにと思って買ったものを抱えて、何で喪服のところへ行かないといけないの。全く行くつもりもないのに。それも念入りに二回も」
「ふうん」
「今から考えたら、あれは友江さんが近いうちに亡くなる、って言う虫の知らせだったのかも知れない。今朝それをふっと思い出してた。心のどこかで、ああ、やっぱりと思った。あの時は、まだ松の内なのに喪服なんて、まあ何と縁起の悪いこと、と気になったけれども、まさか」
こんなことが起きるとは、誰が思うだろう。
母と友江さんはしょっちゅう甘い物をつまみながら、どちらかの家でよくお茶を飲んでいた。明るく高い声でころころと笑う人だった。友江さんが町に出かけた時は、柚子最中や栗まんじゅうを買ってくる。蜂蜜に潰けたかりん酒や梅酒も分け合い、手間のかかる巻きずしなどを作った時には、互いに届け合う。
時には小さな諍いや気持ちの行き違いも交えつつ、仲直りの印に花の種や苗などを遣り取りし合ってまたやり直した。二人はそうやってずっと長年近所づき合いを続けてきたのだった。
「菜穂子、足痛めたの」
そっと足首を揉んでいた菜穂子の手元を、目ざとく見て母が言った。タンスが倒れかかった時に、引いた方の足がやはり痛む。普段ならともかく、この程度の軽い捻挫では、怪我人が殺到している病院に、とても診せに行く訳にはいかないだろう。
「何か、力が入らない感じ」
考えてみれば、朝から菜穂子も母も何一つ口には入れてはいなかった。お腹は空いているのだが、ショックのせいか絶え間なく襲ってくる余震のせいで、胃が緊張するのか気持ちが悪く吐き気すらする。母もそうだと言う。
「ずっと、気分が悪いわ」
「ほんと」
「さあ、行くわ、お母さん乗って」
じっとしていると、目まいがして、山から吹き下ろして来る風に、寒さが一層身に染みてくる。菜穂子は自転車を回しつつ母を促した。
母が大切そうに猫のバスケットを抱えて自転車に横座りになる。ゆっくり進んでいくうちに父が入院していた病院の建物が近づいてきた。
「菜穂子、あの時はお父さんの看病に通ってくれて、ほんとによくしてくれて、助かったけど、ずっと済まないと思ってたの。それがあなた達の離婚の原因にもなったような気がして。だけど、お父さんも手術後二年保たないで逝ってしまって・・・・」
母はそのことを密かに気に病んでいたらしい。
「お母さん、そんな風に考えない方がいいよ。済んだことはもう忘れよう」
それが、離婚の直接の原因になった訳ではないのだ。
夫が何かを隠しているという感じは以前から確かにあった。そんな時夫は言い訳がましい口調になる。
「急に出張になったんだよ。仲々連絡出来なくって」
夜更けになって、菜穂子にかかって来た電話の向こう側で、ふと微かに夫に寄り沿う、若い女の気配を感じたこともあった。ほんの一瞬のことだったが、受話器の近くで音量を絞ってつけたテレビの音と、それに重なって小さく咳き込んだ女の声・・・・。
鋭敏になっていた耳は、どんな些細な物音も聞き逃さなかった。それを聞き取った時、二人の体が絡み合う情景が生々しく浮かんできて、心臓が音を立て始めた。惨めで悔しかった。もう夫とは、このまま終わりになるかも知れないと感じ、空しい思いで受話器を置き、しばらくぼんやりとしていた。
夫には結婚前からつき合っていた女がいて、一旦は切れていたらしいが、また最近よりが戻っている様子なのを、折々の夫の様子から察していた。
嫌な思い出を振り切るかのように、東へ向かって再び自転車を走らせ始めた。耳に冷たい風が突き剌さるように吹きつけて来る。手も痺れる程冷たい。
「菜穂子、そこの家、石垣が膨れてる。そばへ寄ってはだめ。早く道の真ん中へ出て」
慌ててハンドルを回した。母の言う通り、地震で石垣が緩んでいるのだった。石垣の中程が太鼓腹のように不気味に膨らんでいた。僅かな衝撃で道路に崩れて来る恐れがあるのだ。迂闊だったと思った。
「菜穂子、ここ前に来たことがあるような気がする」
「そう、私は今日が初めてなのよ、この道。お母さん、いつ来たのかしら」
母は考えていた。
「ずうっと前に住んでた所によく似てる」
父と長く暮らした田舎のことを言っているらしい。町並みの様子が、過去の何かの思い出に繋がっているのだろう。母の基準は、常に過去のある時期に固定されているから、母の思いはいつでも簡単にすっと遠い昔に還って行くのだ。
「若い頃住んでたところも今はすっかり変わってしまって。あそこもちょうどこんな風に洒落た町になる前、元は田圃や畑がずっと広がっていたのよ。そこでいつだったか、ひどい目に遭ってる猫を助けたことがあったわ」
初めて聞く話だった。
「それ野良猫なの」
「そうだと思う。ときどき来るから裏口に餌置いていた。野良だから警戒しててね、そう懐いて寄って来てはくれなかったけど、確かに見覚えのある白い猫だった。それが何と肥溜めに落とされてるの。昔は田圃のあちこちに肥溜めっていうものがあってね。覆いも蓋もしてあったけど簡単なもので、そこら中よく臭ってた。その中へ猫が落とされて、かわいそうにもがいてるの」
縁に這い上がろうとしては猫は黄金水の中に沈む。どうしても爪が縁に掛からないのだった。その様子を村の悪童たちが息を呑んで見つめている。母が通り掛かった時、猫は必死に浮き沈みを繰り返していた。
猫好きの母は悲鳴を上げた。どうかして助けてやりたいと思い、素早く辺りを見回した。ふと見ると見物している村の子供たちの何人かは、虫捕り網を持っているではないか。母は一人の男の子に近づくと、
「お兄ちゃん、おばちゃんにその網貸して。ね、後で新しい網買って返すから」
事態は切迫していた。母の剣幕に押され、嫌とは言えなかった男の子の手から、母は網をほとんど引ったくるようにして奪い取り、猫を救うべく黄金水の中につけた。
しかしながら網はどこかが綻びていたのだろう。猫は一旦網に引っ掛かったものの、掬い上げられた拍子に自身の体の重みで網が大きく破れ、もうちょっとという所でぼちゃんと再び汚水の中へ落ちてしまったのだった。
「ああ、また落ちた」
横にいた子が言った。
猫が自分からこんな所にはまる訳はないから、たぶんこの子たちの誰かが、最初この猫を掴まえ、面白がって投げ込んだのだろう。そう思うと怒りも沸いたが、母はもう必死であったから、破れた網を放り出すなり、再び子供たちを見回し、比較的新しい網を持っていた子に走り寄って叫んだ。
「貸して。新しいいいのを買うから」
男の子は大声に驚いて網を差し出した。
今度のは大きくて丈夫だった。見ると猫はかなり弱ってきている。母は狙いを定めてうまく猫を掬い取り、黄金色の滴をぽたぽた落としながら地面に着地させた。
助かったものの網の中で猫はぐったりしていた。
(無理もない)
母は次にこの哀れな猫に水をかけて、ざっと体の汚れを流してやろうと思った。
(いくら野良猫といえども、汚穢に塗れたこの体とこの臭いでは、猫の仲間内でもたちまち嫌われるに違いないし、第一日々の餌を貰いに行くにしても困るだろう。こんな体中臭い猫に近寄って来られたら、どの家でも迷惑だ。餌も出して貰えなくなる)
母はそう考えた。
その頃村の家の門口には、防火と赤字で書かれた、ブリキのバケツに水を張ったものが常に置かれてあり、不意の失火に備えてあった。
戦争は終わり戦後になっていたのだが、村の人々はこの習慣を良いものとしてまだ続けていた。それは時に通りがかりの犬が、ちょっと顔を突っ込んで飲んだりすることもあったし、縁台での夕涼みの際、子供の花火の始末に使われたり、また水撒きや鉢植えの朝顔の水やりに使われることもあった。誰かが使えば必ず補充させておく習わしなのである。
母は取りあえず自分の家までこの猫を連れ返り、家の防火バケツの水をまずかけてやろうと思った。
(それから庭先でホースの水で洗ってやってもいい。ひどい災難に遭った上、このままの状態ではいくら何でもかわいそうだ)
母は近づいてしゃがみ込んだ。子供たちも後ろからそっと様子を覗き込む。
その途端今までぐったりしていたはずの猫は、意識を取り戻し、俄かに起き上がって、体についた黄金の水滴を弾きとばそうと、ぶるぶるっと体を大きく震わせた。
母は顔にまともに汚水の直撃を受け、近くにいてその飛沫を浴びた子供たちも、わあっと悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように一散に遠くに飛びのいた。その隙に野良猫はどこかへ走り去ってしまった・・・・。
「もうあれにはびっくりしたわ。その時着てたものは全部着替えたし、結局それは色も臭いも染みついてて二度と着られなくなって捨てたんだけど。お風呂場で何遍も頭も顔も気が済むまで洗って洗って、けどいつまでも黄色い臭いがとれないような気がしてね。本当に困った。あの臭いはまた特別強烈なのよ」
事件後、何日か経って母は再びその猫を見かけた。飢えて母の家の戸口に現れたのである。ひどく痩せ衰えていた。元々白猫だったが、まだ心なしか地色が黄色く染まったままである。
近寄るとやはりひどく臭う。哀れんだ母は、出汁を取った後の煮干しと焼き魚の残りを庭先で与えた。それ以後猫は度々母の所に来るようになった。臭うために他の家では嫌われているらしい。
来ると塀の上に座ってじっと母の姿を目で追う。母が言葉をかけてやると、哀しそうに首を傾げて鳴き、目を瞑って甘えてみせる。
(きっと、体に染みついた臭いが取れなくて辛い、と訴えているのだろう。それに命を助けられたことを多分わかっているのに違いない)
と母は思った。
「その猫が高い所にいると、風向きの具合で座敷に臭いが流れて来るのよ。日曜日、お父さんが縁側にいると、何だこの臭い、ってもう機嫌の悪いこと。その猫のせいでよく怒られた。
昼間知らない内に、猫が縁側から入って座敷を駆け抜けたことがあって、慌てて雑巾で畳拭いて回ったけど、臭いが残っていたらしくて、夕方帰ってきたお父さんにまた怒鳴られた。
あれ程入れるなって言ってるのに、またあの臭い猫入れたな。もう庭にも絶対入れるな、って。そんなの無理。猫は好き勝手に歩き回るのに。その猫はまた運の悪い猫で、尻尾の先が変な形に折れ曲がってた。
あれはいつの夜中だったか、庭で悲しそうにいつまでも鳴いてたことがあって、その内雨も降り出してきて、気になって懐中電灯持って庭に出て見たら、細い植木の茂みをくぐり抜けようとしてしっぽが引っ掛かったらしいの。前に前に行こうとして、どうしても外せなくて困って啼く鳴いてた。体をほんのちょっと後ろへ戻してやったら簡単に抜けたのよ。猫は後戻りする知恵がなかったのかしらん、一体何の木に引っ掛かってたのだったかしら、刺が指に当たってひどく痛かったことを覚えてるけど・・・・」
母の言葉が独り言のように背中から響いてくる。黙って聞いていた菜穂子は、その出来事を今初めて聞くにも拘らず、既に全部を知っているような気がした。心のどこかに鮮明な記憶がある。細かい情景の一つがふと蘇り、
「それはね、お母さん、庭にあった薔薇だったのよ。紅い小さな花が沢山咲いて、蜂がぶんぶん喧しい程飛び回ってた。思い出した?近くに防空壕を埋め戻した跡もあったでしょ。雨が降るとそこだけ浅い水溜まりになってて。田舎の家には珍しい蔓薔薇が植えてあってね、八つ手の隣に。そこを通り抜けようとする度にちくちくと腕や体に刺さるから、私苦手だった」
言ってしまってからはっとした。
どうしてそんなことを子細に覚えているのだろう。本当はその家を知らない筈だった。無論行ったことなどない。
第一菜穂子はその時はまだ生まれていない。その家の写真もない。戦後すぐの間はまだ生活に余裕がなかったらしく、家庭内の色々な記録が写真の形で残り始めたのは、菜穂子が生まれた後のことなのだった。
母は娘の言葉がよく聞き取れなかったのものと見え、新たに目に飛び込んで来る両脇の家の潰れた有様を見ては、ふうっと大きな溜息をついている。
(何故その家のことを知っているのだろう)
疑問に思いつつ自転車を漕ぎ続けた。スピードは遅い。ペダルが重いのだった。よろけそうになりながら懸命に踏む。
家だけではない。さっき母が話していた肥溜めや田圃、肥えたごを担いだ麦藁帽の人がよく通った畔道も知っている。頭の中で地図が描ける位に。
畔は道幅が狭く、両脇になずなやつめ草がびっしり咲いて、吹く風に揺れていた。紋白蝶や揚羽蝶の動きを飽きずに見上げ、蛙の声を聞きながら草の間をゆっくりと歩いた。浅い眠りの邪魔になる暑い盛りの蝉は、ただうるさいばかりで嫌いだったが、やがて塩辛トンボが空を舞う頃になると、草の間を跳ねるバッタを追い回しては遊んだ。
肥溜めの確かな記憶もある。これまで実物に接したこともないはずなのに、それは実に生々しく蘇る。乾くと上が白い層になって、ふやけた新聞紙と混ざって盛り上がり、もう遠くから見ただけで怖じ気づく。近寄りたくもない。あんな強烈な悪臭発生装置を人はよく拵えるものだと思う。思わず知らず鼻をつく強い臭気が胸に込み上げてきて、菜穂子はうっとなった。
考えてみれば、猫好きの母が災難に見舞われた猫を放っておけなくて、自分もそんな目に遭いながら、助けようと必死だった気持ちは何となくわかるような気がする。
事実母の周辺には、今でも近所の困った猫が寄ってきており、空き地に捨てられた子猫は言うに及ばず、斑に毛の抜け落ちた皮膚病の猫やら、行き場のない迷い猫、他の猫と喧嘩の末、追い出されたらしい雄猫、怪我をした猫、体の弱った妊娠中の猫などの面倒を母は順次みてきたのだった。
わざわざ母の家の玄関先に、段ボール入りの子猫が数匹、置き去りにされていたこともある。最後の子猫の落ち着き先が決まるまで、母は学校帰りの子供たちに声をかけていた。
「もうくたびれるからやめるわ」
愚痴を言い、事実しばらくは止めて放っている。けれど救いを求める辛そうな様子の猫の目と出会うと放ってはおけず、
「人はその時の自分の都合で、まるで物みたいに簡単に猫を捨てるんだわ」
嘆きつつ、母は迷いながらもまた世話をし始めるのだった。
それは案外手間も時間もお金もかかる。神経も使う。猫嫌いの家も割にあるから、糞や鳴き声のことで迷惑をかけていることも気にもなるし、近所への気兼ねもある。一時に多くの猫の面倒は見られない。小柄な体を更に縮めて母は遠慮がちに餌を置くのだった。
そう言う母の家だって、庭を子猫に荒らされ続けて実は困っているのだった。何度大切にしているプランターを引っくり返されて、そこら中土だらけにされたことか。
ほじくり出した球根をボール遊びに使われ、干してある洗濯物を爪で引っ掛けて落とされ、落ちた手袋や靴下をくわえて放り投げて遊ぶ内、どこかへ持って行かれてしまう。
それでも母はどうしても猫が好きで、猫と縁を切ることが出来ないのだった。母はこんな風にして、生涯に一体何匹の不幸な猫と係わり合ってきただろう。
菜穂子の知る限り、家に猫の姿がとぎれたことはなかった。
前方に瓦礫の山が見えてきた。道路側に建物が大きく崩れているようだ。母にも下りて歩いて貰うことにし、自転車を押しながら近づいて行った。漕ぐ時も歩く時も足首は痛い。
「ああ、ひどいこと」
瓦礫の前で母が涙声になる。中にまだ人がいるのだ。男の人たちが懸命に重いものをどけようとしていた。どの人の手も服も汚れている。彼らの目は必死だった。中にいる人たちは苦しい思いで救助の手をひたすら待っているのに違いない。
目の前の光景にまた重なって、不意にある場面がはっきりと思い出された。
黄色い汚水の中でこれでもう自分は死ぬのだと覚悟していた。空しくもがいて浮き沈みを繰り返しつつ、力の限り汚物の海を掻き分けていた。腕がだるく精も根も尽き果てそうになって沈みかけた、まさにその時に差し出された救いの虫捕り網。竹の柄を持った若い女の人の真剣な目。
まだ思い出す。庭の薔薇の木の幹に尻尾が引っ掛かった時の恐怖。何故かどうしても抜けなかった。動けば動く程更にきつく食い込んでゆく。刺が当たる。痛みに思わず悲鳴をあげていた。雨が降っていた。体中が濡れて寒かった。その時も傘を差して同じ女の人が助けに来てくれたのだ。
更に思い出す。木陰の柔らかい草の上で眠っていたが、どうもその日は体の具合が悪かった。いつものようにあの女の人の家に餌を貰いに行ったのだが、生憎留守で勝手口は朝から鍵が掛かっており、別の家に回ってみたが、そこも閉まっていた。餌がないのには慣れていたが、どうにもひもじかったので我慢出来ず、つい溝の側で見つけたひどく弱っている鼠を掴まえて食べてしまったのだ。
嫌な予感がした。次の日、起き上がろうとすると体がふらついていた。手足が痺れて思うように歩けないのだ。何も食べたくない。冷たいきれいな水が飲みたかったが、とても水場まで行けそうもなく、仕方無く草の上に横たわっていた。やがて空に星が出始めた。
風に草がそよぎ、一晩中くつわ虫やキリギリスが鳴いているのをじっと聞いていた。次の日気分は更に悪くなっていた。舌も痺れている。体中熱っぽくて苦しく草の上を転々とした。あの女の人にもう一度だけ会いたかった。そして助けて貰いたかった。でも望みが叶わないのを知っていた。
三日目の夜、白い半月が空に輝いているのを横になったまま動けずに眺めていた。体は鉛のように重く手足はもう自由に動かない。月が白い。その輪郭が次第にぼやけて行った。目を左右に動かすが何も映らなかった。でも虫の声だけはよく聞こえていた。誰かの足音がする。ふとあの女の人かも知れないと思った。
違っていた。足音はそばを通り、やがて遠ざかって行った。誰も通らなくなった。見えない目であの女の人の姿を思い出そうとしていた。はっきりと聞こえていた虫の音が、次第に遠く小さくなって行く。音が弱まって行く。今死ぬのだと思った。微かに響いていた音がふっと途絶えて、それきり静かになった・・・・。
気がついた時、暖かい心地好い海水の中で眠っていた。目が覚めると、どこからか懐かしいあの女の人の笑い声がゆっくりと響いてきた。それは内部で反響する。自分は今どこにいるのだろう。まだよくわからなかった。再び眠くなって気持ちよく眠りこけた。
目が覚めると、今度ははっきりとあの女の人のしゃべる声を聞いた。人の声はよく聞き分けられた。壁の外側から聞こえてくるのだった。幸せな気分だった。とても安心して眠れた。この安全な場所がどこなのか、やがて薄っすらとわかってきた。憧れたあの女の人の子宮の中だったのだ。あの人の胎内にいた。
でもこの至福は長くは続かない。それもわかっていた。誕生のためには再び深い眠りを眠らねばならないのだった。その間にそれまでの一切の、記憶と言う記憶は全て消え去ってしまうのだ・・・・。
情景は次々に鮮明な映像となって蘇る。それにしてもこの記憶は信じられるものだろうか。菜穂子は考え続けた。猫、そう私は確かに猫だ。猫だったのだ。母が助けたという哀れな汚れた野良猫。そうだ。それに違いない。はっと閃いたその考えを裏づけるかのように、縺れ合っていた色々な記憶の糸が一本に纏まり始めた。
小さい頃から異常な位トイレが嫌いだった。例え水洗であってもその臭いに耐えられない。余程切迫するまで絶対に行こうとは思わない。そのために幼児の頃は失敗が多かった。母は随分困ったらしい。
両親に連れられ田舎へ行って、親戚の家で始めて本格的な汲み取り式のトイレを見た時は、怯えて足がすくんだ。覗き込んで恐怖に近い表情になってがたがた震えていたそうだ。実際便壺に真っ逆さまに落ちて行く自分を思って、ただもう怖かったのである。トイレを苦痛とする余り、黄色も嫌いになった。それなのに自分の名前が黄色い菜の花を連想させるのは、またなんと言う皮肉なことだろう。
それともう一つ苦手で密かに本能的に避けたいものがあって、それは刺のついた薔薇である。花はきれいだと思うものの、茎にびっしりついた尖ったあの細かい刺を見ると、もう駄目なのだ。一瞬見ただけで鳥肌が立って来る。ちくちくと二の腕や脇腹を鋭い痛みが走って行くような気がする。
ついでに言うなら雨嫌いである。何故か雨が降る前日には、微妙に空気が湿っているのを感じ取ってしまう。雨の前には独特の匂いがある。ちりちりと皮膚が痒くなる。それでわかる。明日はきっと降ると思うと必ずそうなっている。どんな天気予報よりも遥かに正確である。少しでも濡れるのが嫌なので、雨模様の空を見ると、延ばせる用なら必ず後回しにすることにしている。
それもこれもかつての生の記憶のせいだったのだ。今にしてやっと分かった。それで納得がゆく。
猫に関しては、可愛いとか好きとか特別な感情は持っていない。むしろ空気や水みたいなもののように感じる。でも彼らの姿には強い関心がある。
タマとかミーとか、野良猫にまで名前を付けて可愛がる、猫好きの母には及ばないが、住まいの近くなどで飼い猫を見かけたりすると、まず見逃しはしない。雄雌の別、模様、性格、どんなタイプの猫かちゃんと観察して頭に入れておく。だから近所の猫の顔も気質も全部知っているし、気の合うその中の一、二匹とは仲良しで、彼らも菜穂子を見ると挨拶代わりに背中を撫でて貰いに寄って来る。
今母が抱いて運んでいる虎猫とも、小さい頃から馴染んでいた。もう付き合いが長いから家族同様に感じる。どうしているのかと、ちらっとトラの方を振り返って見ると、ふとバスケットの網目ごしに、トラとかちりと視線が合ったような気がした。微かに何かにまた別の記憶に思い当たる。
そう、昨夜のことだ。夜中、私は夢を見てうなされたのだった。実に苦しい夢だった。次第に夢の情景の記憶が戻ってくる。
町が壊れている。人が息絶えていく。でも町は不思議に静かだった。黒い煙が何本も空に上がって行く。高く広がって空を覆っていく。風はない。音は消えている。けれど潰れた町の中を、人々は右往左往しながら逃げて行く。夢の中の夢かも知れない。
一切何の声も聞こえてきはしない。まだ皆昏々と眠っている。夜明けに起きることを何も知らずに、何も思わずに。でも敏感な生物はちゃんと知っている。飼われている犬や猫や小鳥は、言いようのない不安を感じて浅い眠りの中にいるか、または眠れずに起きている。彼らにはわかっているのだ。
早く伝えないといけない。でないとあの女の人は重い箪笥に押し潰されてしまう。怪我をする。死んでしまうかも知れない。早くそのことを教えなければ。
トラ、まだ寝ているの。ぼんやりしていないで。起きて。早く起きなさい。起きて、あの人が目を覚ますまで大きな声で鳴いて。ドアに思い切り爪を立てて。何か音を出して。トラ、母さんが気がつくように。母さんを今起こして。必死で起こして。危険がすぐそこに迫っている。もう間に合わなくなる。早く・・・・。
男たちの手で崩れている重い柱の一つがどけられようとしていた。母は祈るように手を合わせていた。もうちょっとというところで力尽きるのか、動きかけた木材は元に戻る。あーと溜息が漏れる。皆疲れ切っているのだ。黙々と作業が続く。
新たに二、三の若い人たちの手が加わって、再び掛け声と共に必死の力で柱が揺り動かされる。金色に髪を染めた若者も、片耳にピアスの子も、中年の男たちも白髪の老人も、一斉に力を込める。皆の顔が苦痛に歪む。
今度は成功したようだ。小さな男の子が自力で這い出て来ようとするのを、何本もの手が伸びて、皆で体を掴んで助けている。中にはまだもう一人残っているらしくて、励ましの声が飛び交う。見ていた人たちから安堵の声が上った。母は既に涙ぐんでいる。
その場を通り過ぎ、次の角で再び自転車に母と猫を乗せた。母は気がかりな様子で背後を振り返りつつ、こわごわ猫と荷台に跨がる。
「あの小さい子を皆でよく助けてあげた。あの人たちは皆菩薩さん」
母の言葉に大きく頷いた。でも肥溜めの中という絶望的な空間で見たあの時の母も、本当に救いの神に見えた。しかし母には何一つ言うまい。密かにそう決意していた。無闇に語るのは禁忌なのだ。菜穂子にはわかる。
異世界で起きたことは決して声高に人に漏らしてはならない。この現実の世で母の娘として生きようと思うのなら、迂闊に知っていることをしゃべってはいけないのだった。自分一人の胸に、生涯畳み込んで秘しておく。それは異世界を知っている者に対して課せられる、暗黙の掟の一つだった。
例えば浦島太郎の話を思い出して見るといい。太郎は亀の背中に乗って、竜宮に辿り着く。つまり冥府と思われる海底の異世界に至って、そこで妻も得て平穏な暮らしを手に入れる。
でも、どうしてもかつての世界への執着が断ち切れず、元の世に帰っていくことを決意する。そうやって自ら望んだ現世に戻った時に、約束を破って、異界から持ち帰った玉手箱を開いて見てしまう。それは自分が異界に在ったことの証拠、根拠となる唯一のものだった。
それは禁忌を守れるかどうか、太郎の意思の強さをみるための試しの品ででもあった。だが誘惑に負けて、太郎は封印された異界の「記憶の箱」を開いて、自らの過去の記憶を取り戻す。箱を開け、異界に在った時の自分を思い出し、経緯も時の推移も知ってしまう。異空間の存在を知って、過去の時間が蘇った太郎は、掟により、最早この世にもとどまれなくなってしまう。禁忌を破れば、その先には厳しい報いが待っている。
異界の神や住人と、現世の人間との間に交わされる約束事はただ一度きり、失敗すれば弁解もやり直しも一切許されない。約束に違反すれば、自らの死を以て償うしかない。それが掟なのだった。
太郎はこの世に生き長らえることを許されず、たちまちの内に翁となって、その肉体は滅び去る。また一説によると、太郎は鳥に変じて飛び去り、大空に消えて行く。つまり罰として、再び別の異界へと太郎は追放されてしまうのである。
自分がかつて猫の世界に在ったことは、今限り忘れよう、と菜穂子は思う。忘れたことも忘れよう。固く心に誓う。これは本来あってはならない記憶の再現だったのだ。
前代未聞の大地震という異常な事態に遭遇したために、普通なら戻ることのない前世の生の記憶を、時空を越えて心の中に呼び戻してしまったらしい。
直前に天地の異変を感じ取ったのも、小さな兆候を見過ごさない、動物としての危険を察知する本能の一つだったのだろう。何らかの形でそれを伝えようとしたのも、防衛本能が自然に機能した結果だ。野生動物なら常に体で感じているし、また当然わかっていることだった。
母の静子には余り感じられないらしいが、確かに今まだ大地は不安定に振動し、揺れ動いている。大地の波動、地中の熱いエネルギー、微かな地の律動、不規則な波が五感に時折伝わってくる。
動物としての感覚が確かにそう感じさせてくれる。じっと神経を研ぎ澄ませていると、空気の層も微妙に震えているのがわかる。こんな時、案外その裂け目には、本来なら再現される筈のない遠い過去の時間がちらちら空間に見え隠れするし、僅かな亀裂からは、未来が一瞬顔を覗かせてやって来るものなのだろう。
でも私はこれ以上自分の過去生を思い出したくないし、また強いて未来を覗こうとも思わない。母と生きる今の時間。それこそが今の私には一番大切なのだ。
「お母さん、寒くない」
「大丈夫、菜穂子の方こそ寒いでしょう」
「やっと近づいてきたわ。マンションまで後もう少しよ」
寒風が頬に突き刺さる。耳が冷え切って痛い。両手の指が痺れている。肩で大きく息をする。よろめく自転車を必死に立て直し、周囲に気を配りながらハンドルをぎゅっと握り締める。それでもかけがえのない大切な母を無事に救い出せた安堵感と、大きな喜びがいつしか全身を駆け巡っている。
漸く見慣れた道筋、通い慣れた町並が見えてきた。ほっとして少しスピードを上げる。風景が左右に別れて風になって流れて行く。
(早く部屋に着いてあの散らかった場所を片付け、疲れた母を休ませてあげたい。まず何か暖かいものを飲ませてあげたい。確か携帯コンロが押し入れにあった。携帯燃料も新しいのがあったはずだ。壊れていなかったら多分お湯は沸かせる)
今思うのはそのことだけだった。
もう寒さもあまり感じなかった。菜穂子は体の芯から残る力を振り絞って漕いだ。いつしか背を丸め、目を見開き両耳をぴんと誇らしげに立てていた。ちょうど若い薄黄色い雄猫の姿勢になって。
(初出「とろっこ」に加筆)