一物部氏の社一
磐船神社 石切剱箭神社
一物部氏の社一
磐船神社 石切剱箭神社
磐船神社(交野市)
近畿圏には物部氏関連の神社が多くあるが、記憶に残るお社をいくつか紹介してみよう。ひとつめは交野市の磐船(いわふね)神社、ここは物部氏の祖神を祀る古社で、祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)である。
まず社殿の上の高さ十二メートル、幅十二メートルの舟形の大きな岩に驚嘆させられる。こんな重量感のある巨岩は珍しいであろう。この大岩がご神体である。天の磐船で饒速日命の一族が哮峰(いかるがのみね)に降臨したという伝承にもとづくという。神話的にはそうかもしれないが、一行は天から飛来したわけではなく、おそらくは船団を組み、新たに住む土地を求めてやって来たのであろう。瀬戸内海から淀川へ、さらに天野川へと遡り、船を下りて山へ分け入ったのだと思われる。その時点では彼らは侵入者とみなされても仕方ないので、土地の首長、登美の長髄彦(ながすねひこ)一族との戦いになる覚悟も持っていたのではないだろうか。(戦いを避けるため)饒速日一行は、笛の音でおごそかに舞いつつ山を下りて「降臨」してきた、という伝承もあるそうだ。神を演じたのであろうか。突然見知らぬ武装集団が出現すれば、土地の人々は驚愕して警戒心を抱くだろう。武力衝突も起こりかねない状況であったかと思われる。
移り住むにあたり、揉め事や戦闘があったかどうかは分からないけれども、大和郡山市の矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社には、饒速日命が降臨の際、空から三本の矢を射て、二番目の矢が落ちた所を住居(神社)と定めた、という伝承がある。ほかの矢も近距離に落ちたそうで、もう一箇所は現在はお寺になっているそうだ。複数の矢を射かけるとは、卜定とも交戦ともとれる表現であるが・・・・。
饒速日命は長髄彦の妹の登美夜毘売(とみやひめ、御炊屋姫、みかしきやひめ、とも)を娶ったとあるので、何らかの話し合いがあって和睦のかたちで決着、饒速日一族はこの土地に受け入れられたのであろう。お供の人たちもそれぞれこの地域に根を下ろしていったようである。登美夜毘売は宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)という男児を生み、長髄彦は饒速日命に仕えて、甥の成長を見守っていたようである。旧事本紀では饒速日命が早く亡くなったように記述されているが、日本書紀にはそういう風には書かれておらず、存命していたように受けとれる表現になっている。
書紀によれば、磐余彦軍(神武軍)が大和に攻め入ってきたとき、対峙した長髄彦は磐余彦に使いを送り「昔、天神の御子が天の磐船で天降り、自分の妹を娶って子もなしている。天神の御子はなぜ二人もいるのか。どうして人の国を奪おうとするのか」と問い糺した。饒速日の天羽羽矢(あめのははや)と歩鞆(かちゆき)を見せられた磐余彦は、それが天神のしるしであることを認め、自分も所持している同じ武具を長髄彦に見せている。けれども両軍は和議には至らなかった。
両軍が対峙し、不思議な金色の鳶が現れたとき、長髄彦の軍は呆然自失の状態に陥り、力を失ったと書紀にある。「鳶」のたとえは、このとき「登美」のある一族が寝返って、磐余彦の軍についたことを暗示するものであろう。信頼しきっていた味方の裏切りを知ったとき、長髄彦は戦意を喪失したようである。おそらく同族や甥のいる軍と刃を交える気はなれなかったのであろう。長髄彦の軍は崩れて後退し、生駒山へと敗走していったかと思われる。暗(くらがり)峠は河内へ抜ける最短の道、おそらく長髄彦たちは山道をたどって生駒山を越え、逃れようとしたのであろう。峠を越えればそこは枚岡、石切、日下の地である。
磐余彦尊の兄の五瀬命は、かつて日下での初戦の折、長髄彦側から放たれた毒矢を受けて負傷、その傷がもとで亡くなっていた。磐余彦はそのことを決して忘れておらず、それゆえ長髄彦がもし降伏しても許さなかったであろう。どちらにしても長髄彦は殺されたと思われる。
書紀では、饒速日命が長髄彦を殺して神武に帰順したとある。(先代旧事本紀では、宇摩志麻治が長髄彦を討って帰順している)長髄彦は自殺の可能性もあると思われるが、どちらにしても長髄彦の首を差し出し、神武に仕えることによってしか、この一族は生き延びられなかったのであろう。本来ならば宇摩志麻遅が父の後を継ぎ、この地域の支配者となるはずであった。
宇摩志麻遅命は磐余彦(神武)に神宝を差し出し、神楯を立てて神武天皇の即位儀礼に加わり、鎮魂の呪法を行うなどして恭順の意を示している。けれども宇摩志麻遅のその後を辿ってみると、平穏無事に過ぎたようではない。宇摩志麻遅は、異母兄の天香山命(あめのかごやまのみこと)とともに勅命を受けて剣を賜い、賊徒平定の任務のため大和を離れ、遠い地に旅立ってゆくのである。おそらく前述のような事情からみて、身分も力もある旧勢力の兄弟が、大和にそのままとどまれば、再び力を盛り返し、(政権側からみれば)脅威となる可能性もあるので、討伐を命じ大和から遠ざける意味もあったのではないだろうか。
この兄弟は物部の兵を率いて尾張、美濃、越の国を順に平定していったとされる。天香山命は越にとどまりその地で命を終えたとみられ、越後一宮の弥彦神社の祭神として祀られている。宇摩志麻遅のほうは、詳しい旅の経路はわからないが播磨、丹波、石見へと兵を進め、石見地方を平定、大和に戻ることなくその地で没して八百山に葬られたと伝えられ、物部神社祭神として祀られている。(石見一宮 物部神社の項)
饒速日命の降臨地として、山麓に候補地は三箇所あるという。交野市の磐船神社、南河内にある磐船神社、そして生駒山である。その中では生駒山と、交野市の磐船神社が有力視されているそうである。交野の磐船神社は、以前訪れたことがあった。天野川にかかるように岩窟があり、その奧には祠もあり、社務所に申し出ると「岩窟めぐり」ができる。そのときたまたま岩窟に入っていく人たちを見かけたので、こちらもついつられるように入ってしまった。
暗い岩屋に降りてゆくために設置された梯子を見たとたん、心に緊張感を覚えた。雨の後だったので足もとを激しく流れゆく天野川も勢いがあった。岩の間にかけられた小さな板橋を渡って奥へと進んでゆくと、地下世界はひんやりとしていて、岩の大きさや触れたときの冷たく湿潤な質感に圧倒された。古墳の内部はこんなであろうかと思うような大岩が積み重なっている。あるところでは低くかがみ、這うようにしないと岩角に頭をぶつけてしまう(事実ぶつけた)。洞窟内では感覚が鋭敏になるためか、物音がときに異様な感じに響いて聞こえるし、すぐ近くに昆虫のいる気配にびくっとし、何か出るのではないかと思って恐怖し、ひどく狭い岩の隙間を見て果たしてここを抜けられるのかと不安になり、体をねじるのにたいそう苦心した。狭い穴にようやくのことで体を入れると、すとんと下へ落ちるのである。すぐに着地するのでほっとするが、この穴くぐりが洞窟の最大難所であった。
一度死に、暗い死の世界をさまよった末、狭い産道をくぐりぬけて、新しく生れ落ちる、という設定になっているのだと思われる。岩窟めぐりは死と再生の擬似体験であろう。三十分くらいだと感じたが、ふだんあまり使わない筋肉をかなり酷使し、内部は暗い上に岩が濡れていて滑りやすかったので予想以上にこわく、やっと明るい所へ出ると心からほっとし、蘇生したような気持ちになったのを覚えている。印象としては静かで緑に包まれたお社であった。
石切剱箭神社
饒速日命が祀られる物部氏ゆかりの神社は多いと思うが、中でも石切剱箭(いしきりつるぎや)神社は異色のお社であり、ほかには見られない独特の雰囲気が漂っている。本当はここに長髄彦の霊がひそかに祀られているという説もあるが、真偽のほどはわからない。(裏祭神、隠れ祭神の伝承を持つ神社はほかにもあるが)仮にそうであったとしても、長髄彦は神武天皇に抵抗した賊徒の扱いであるので、公式祭神として長髄彦の名は掲げにくいであろう。
石切剱箭神社は近畿圏では民間信仰のお社として「でんぼ(おでき)の神さん」「石切さん」と親しまれており、特有の活気ある参道の賑わい、お百度詣が有名である。饒速日命が亡くなったとき、人々が祭壇の周りを何度も巡ったことが、ここのお百度の起源という伝承も・・・・。それは古代の呪術であったのだろうか。
祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)、その子の宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと、可美真手とも。名、その表記は史書により異なっている)。石切駅の山側にある上之社の宮のほうには、饒速日命と登美夜毘売が祀られ、下之社(本社)には、宇摩志麻遅命が祀られている。社伝では、宇摩志麻遅命が勅命を受けて、賊徒平定の旅に出るとき、宮山に(現在の上之社よりもっと山奧という)父饒速日命の霊を祀ったのが、石切剱箭神社の創祀であるとされる。
子どもの頃に何度か訪れたので「石切さん」の名称のほうに馴染みがある。こより紐で作った束を手にして回数を数えつつ、裸足になってお百度を踏む人をよく見かけたものである。憑かれたような目で走って回る人もおり、子ども心にもその人の真剣で何かしら激しい思いが伝わってきたのを覚えている。
近鉄石切駅からはじまる長い下り道は、子どもの眼には異世界への入口であった。坂の途中に、墨で蛇の絵を描いて占う女の人がいて驚いたこと、さかんに声掛けをしてくる易者さんがいたこと、また古い店先の大きな置物の石像と目が合うとこわかった。
漢方薬局の古びた壁面に描かれた、不気味な子どもの絵で解説される「かん虫」「ひきつけ」「かべつちをたべる」などの異様な症状におそれを抱き、また店内には奇妙で悲しげな表情の人体模型があったが、好奇心は刺激されるものの今にも動きだしそうで正視できず、独特の乾燥した薬草の匂い(通りにまで拡散していた)には頭が痛くなった。また漢方「坂本の赤まむし」の店内でガラス瓶に浸けられて並べられていたおそろしいものなども忘れがたい。そんなにおびえるのなら避ければいいのに、こわいもの見たさで惹き寄せられ、つい眺めてしまうのであった。
先日久しぶりに石切剱箭神社を訪れてみると、かつて参道に漂っていた薄気味悪さや得体のしれないあやしさは影をひそめ、個性的だった易者さんたちもその多くは街頭ではなく、建物の中に入ってしまっていた。当然のことながら、店主が奧にひっそりと影のように坐っていた漢方薬局、古めかしい構えの店舗は取り壊され、新しいきれいなお店がいくつも出現していた。その分わけのわからない異界めいた強烈さは薄まり、目に見えないものが住みついて自在に行き交っていたような空間、白日夢の世界に踏み込んだかと不思議な思いに駆られつつ歩いた、あの昔日の情景にはもう出会えなかった。消えてしまったのである。
昔の濃密であやしげな空間こそが本物で、今のこの近代化された情景のほうがまやかしではないのだろうか。魔に魅入られたような不可解な感覚に陥り、参詣人の行き来する参道にたたずみ、地元漢方製薬当主が多額の私財を投じて寄贈されたという、六メートルの「石切大仏」(子どもの頃にはなかった)を見上げた。いくら神仏習合とはいっても、物部氏なら神道であろうし、その物部氏の祖神を祀る神社の参道に、このような大仏様が忽然と顕れ鎮座されていていいのだろうかとも思うが・・・・。幻を見ているような気分になり、眼前にそびえる仏様のお顔をぼう然と仰いだのだった。
参道の両側には軒を寄せ合うように玩具、お漬物、和漢薬、土産物、衣服、雑貨などの店舗が並んでいる。飲食店のおばさんたちの活気ある呼び込みの声は、昔と変わりなく耳に響いたが、でもかつての謎めいた石切参道は変貌してしまい、普通にみられる縁日の賑わいと変わらない雰囲気になっていたのを知った。