一風と水の社一
龍田大社 廣瀬大社 亀の瀬
一風と水の社一
龍田大社 廣瀬大社 亀の瀬
JR河内堅上駅から徒歩、列車、自転車を利用し、大和川をさかのぼることにした。亀の瀬へ行き、地名の由来になった亀の瀬岩を見て、三郷(さんごう)駅まで歩き、風の神を祀るという龍田大社を訪れる。その後JR法隆寺駅前で自転車を借りて、水の神を祀るという廣瀬大社へ・・・・。さらに堤防の道を大和川の上流へと向かい、曽我川や飛鳥川との合流点を経て上流の初瀬川、佐保川との合流点の辺りまで進み、古を偲ぶことにした。
亀の瀬・亀の瀬岩
古の大和川には、亀の瀬という難所があった。距離にしてほんの数キロであるが、そこは峡谷になっており、川には巨岩が多い。急流のため舟を使えないので、古の人は手前で舟を降り、徒歩か馬で険しい山道を越えてゆき(竜田越え)、再び舟に乗ったという。亀の瀬とはどんな所なのだろう。地図でたしかめると、JR河内堅上駅と三郷駅のほぼ中間点、下流側の駅から徒歩で向かうことにした。
葡萄の産地として知られる河内堅上の駅に降り立った。山間のひっそりとした小さな駅で、すぐ背後に山が迫っている。細い道をたどって上流へと歩き始め、踏切を渡ってさらに川沿いに進んでゆく。亀の瀬岩はいわばこの峡谷を象徴するような存在、この亀が動くと、地すべりが起きるという言い伝えもあるそうだ。実は大和を訪れて、列車でこの辺りに差しかかるたび、この岩のことが気になって車窓から川の中を探すのだが、いつもどれか分からないまま、列車はトンネルを抜け峡谷を通過していくのであった。
集落の小道で出会ったおじさんに、亀の瀬岩のことを尋ねてみた。親切な方で、岩がよく見える所まで道を降りていって案内してくださった。地すべり対策工事現場の近くである。
浅瀬だが、激しい流れが岩にぶつかって水音を立てている。急流を見おろす右岸に佇んで、おじさんが指さす亀の瀬岩を見つめた。白く泡立つ流れを掻き分けて、大亀が下流に向かって泳いでいるように見える。ほかにも岩はいくつかあるが、この岩は確かに亀に似ていて盛り上がった背中、頭の形も亀そのもので堂々とした構え、なるほどと納得した。
おじさんは子どもの頃、よくこの辺りで泳いだのだそうで、地元では亀岩といっており、大雨になって水かさが増えると、亀さんは水没してしまうそうである。水量が少ないらしく今日はよく見えていた。幸運だったと思い、喜んでいると、
「この岩を、わざわざ見に来はったん」
物好きな人間にみられたのであろう。慌てて、
「はい、いえあの、このあと川沿いに龍田大社へ」
「歩いて・・・・」
どちらにしても変わった趣味やな、ということであろう。おじさんは古の竜田越えの山道や、山中に龍田大社の元宮の石碑があること、また近くには龍王社があることも教えて下さった。古道歩きには惹かれるものの、今から山越えでは時間もかかるし体力的にも無理なので、龍王社の方に立ち寄っていくことにする。
小高い位置に、流れを見守るように鳥居が立ち、ひっそりと龍神が祀られていた。龍王社である。さっきのおじさんの話では、昔は行者さんが修行する場だったとか・・・・。
後で調べてみると、明治の頃までは近くに滝があったようである(その後消滅したらしい)。役行者が葛城、金剛、犬鳴などの峰々を巡って修行し、二十八箇所の霊地に経を納めて回り、ここ亀の瀬の社に満願の経を納めたといわれている。龍王社は、葛城二十八宿経塚というそうである。
近くにあった説明板を読んでみると、江戸時代の大和川水運に関して「亀の瀬は巨岩が露出し急流なので、荷をここでいったん陸揚げして積み替え、河内側は剣先船で、大和側は梁(やな)船という船で航行した」などと書かれてあった。剣先舟は先端が尖っている船で、梁船とは底の浅い船のことという。
また別の伝承によると、片桐且元が年貢米を輸送するため、爆薬を用いて亀の瀬の開削を行った際、亀の瀬岩の首から血が流れたとも伝えられているそうだ。爆破という従来にない荒っぽい方法だったので、見ていた土地の人たちはおそれを感じ、なにかの祟りがあったという風に思ったのもしれない。
龍王社は山岳仏教に由来があり、役行者にまつわる謂れを持つようだが、位置からみて、その元は別の神(古の水の神)を祭祀していたのかもしれないと思う。土地の守り神、水を鎮める神として、古くから信仰されてきたかたちがあったのであろう。
この社に祀られた神も、流れの中の亀岩も、長い年月の間には、多くの船が往来し、船人や旅の人たちが行き交う姿を見つめてきたのに違いない。突如山が崩れ落ち、川が土砂で埋まり、集落が呑み込まれてゆく、というような緊迫した場面の数々も・・・・。争乱、事故、災害、おそろしい出来事は古から繰り返されたかと思われる。
竜田の地名は日本書紀にも載っている。神武天皇の軍が東征の折、竜田を超えて大和へ入ろうと試みたものの、山道が狭く険しいので諦めて引き返したというのである。
皇師(みいくさ)兵(つわもの)を勤(ととの)へて、歩(かち)より竜田に趣(おもぶ)く。而(しかう)して其の路、狭(さ)く険しくして、人並み行くことを得ず。すなはち還りてさらに東胆駒山(いこまのやま)を越えて、中洲(うちつくに)に入らむと欲(おもほ)す。(日本書紀 神武紀)
注によれば、神武軍は信貴越、または亀瀬越で河内から大和に入ることを試みた、とある。少し前を読むと、神武軍は、河内の国草香(日下)邑の青雲の白肩之津に至る、(枚岡の辺りとされている)とあるので、日下から山道に分け入り、信貴山系のどこかの山を越えようとしたのであろうか。それとも大和川あるいはその支流をさかのぼって亀の瀬で船を降り、竜田の山越えを試みたのであろうか。どちらにしても山道は急峻で困難、動きを察知した土地の長髄彦の軍が山中で待ち伏せし、行く手を遮ったとも考えられる。
竜田から引き返すことを余儀なくされた神武軍は、生駒山を越えようと試みる。日下の坂で長髄彦軍と戦うが、神武の兄の五瀬命が矢傷を負い、劣勢となって神武軍は海上に退却、五瀬命は亡くなり紀伊で葬られる。軍団はさらに南下し、上陸して熊野山中で難渋し、八咫烏に先導されて大和へ・・・・という展開になってゆく。
また時代が下って壬申の乱の戦闘の折、大海人皇子軍の将軍吹負(ふけい)は、河内から来る近江軍を防ぐためここに部下を配置して守らせた。
将軍吹負、乃楽(なら)向かひて稗田に至りし日に、人有りていはく「河内より軍多(さわ)に至る」といふ。すなはち坂本臣財(おみたから)・・・・を遣(つかは)して、三百の軍士(いくさびと)を率て、竜田に距(ふせ)がしむ。(日本書紀 天武紀)
このとき、龍田の平石野で宿った軍は高安に進み、近江軍は財(たから)等の軍が来るのを知ると「ふつくに税倉(ちからくら)を焚(や)きて、皆散(あら)け亡(う)せぬ」つまり田税を納めた穀物倉をことごとく焼いて、皆散って逃げた、と続き、近江軍の後退の様子が記述されていく。竜田の地が古代から軍事の要衝の地であったことがわかる・・・・。
次に亀の瀬峡谷の地形について、少しみてみよう。
太古、大和の地は巨大な湖であったといわれている。約一万年前、洪積期の最終期の頃だそうだ。その後地盤の隆起などで湖面が干上がってゆき、現在のような大和盆地の地形になったと考えられているという。(樋口清之氏による)
そういう視点でみると、有名な大和三山も遠い昔には、湖水に浮かぶ島だったということになる。気の遠くなるような年月をかけて湖は湿地となり干上がっていったのだろう。(ちなみに湖の最後に残った名残の池は、磐余池と呼ばれたと伝承されている・・・・拙稿、「幻の磐余池」の項 に書いている)
湖水が大和盆地から流れ出ていったといわれる隘路、それが生駒山地と金剛山地の間にあるこの峡谷であった。大和盆地が形成された後も、大和の多くの川が広瀬の地にひとつに集まって大和川と名を変えながら、やがて亀の瀬峡谷を通りぬけて、河内から海へと流れ下っていくのである。
生駒山、信貴山系の南端がここにあたる。そのため地盤が脆弱になっているらしく、この峡谷は古来たびたび災害に見舞われてきたという。古のことは記録がなくわからないそうだが、明治三十六年、地すべり発生の記録があるそうだ。昭和六、七年の地すべりではトンネルが崩落し、長期間鉄道が不通となり、川床が三十六メートル隆起、大和川は埋まり、王寺の町は大きな浸水被害を蒙ったという。一時的にダムのように水がせき止められたようである。そのためこのトンネルを放棄し、対岸(左岸)の明神山に新トンネルを通して関西本線は復旧したが、昭和四十二年になって再び地すべりが発生した。このとき鉄道被害はなかったものの、川床、および道路は約一メートル隆起したという。
この峡谷がもしせき止められればダム湖となり、決壊すれば下流域は洪水になるおそれがあるので、現在も国による対策工事が続けられている。その工法は、大量の巨大な杭を、深さ最大百メートルまで打ち込んで地盤を補強しているとのことで、亀の瀬岩の辺りは大規模な工事現場となっている。
工事用に架けられた橋を渡り、今度は左岸に回って亀の瀬岩を眺める。さっきよりも遠くなったせいで岩の質感や表情も異なり、どちらかというと蛙さんのように見えた。面白い岩である。振り返ると交通量の多い国道二十五号線とJR大和路線が併走し、トンネルがぱっくりと黒い口をあけている。この位置だと車窓から亀の瀬岩は見つけにくかったのだと、やっと理解できた。
今日は竜田山の古道へは向かわないので、三郷駅まで明神山に沿って国道二十五号線を歩き始める。大和川に近接する国道であるが、車が飛ばしてくるのでひやひやする。川面を眺めつつのんびりと歩きたいのだが、その川も豪雨時によほど水位が上ったのであろう、さまざまなごみが高い木の枝にひっかかったままで、良い眺めとはいえない。また国道は交通量が思いのほか多く、車とすれ違うたび風圧を感じ、緊張を強いられるのであった。
川岸にはぐっと山が迫っている。深くえぐられたような峡谷である。急流付近を実際に歩いてみると、古には船での行き来が難しく、また川岸伝いに安全な道を刻めるような地形ではないことが実感できた。そうなるとここは山を越えてゆくしかないのも頷けることであった。いわゆる竜田越えの古道は杣道も含め複数あったそうである。
この地は河内と大和の国境の峠であった。古来多くの旅人が行き来したのであろう。このあたりには楓の樹が多く植えられ、紅葉の名所として歌にもよく詠まれている。古歌の龍田川は、亀の瀬から三郷の辺りまでの数キロをいうらしい。よく知られた歌を挙げておこう。
ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは 在原業平 (古今集)
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり 能因法師 (後拾遺集)
川は大きく曲ってゆく。川の流れのうねり、重なる山並み、しばらく立ち止まって眺めていると、心はおのずと古へと回帰していくのであった。
龍田大社
三郷の駅前から山手に向かうと、ほどなく坂道となる。ゆっくり上ってゆくこと数分で龍田大社の大きな両部鳥居が見えてきた。安定感漂うどっしりした鳥居である。境内に入り参道を進んで拝殿に立つと、前方の森から風が通り抜けてゆくような感じを受ける。社殿の構造が開放的なので(壁がない)周囲からも自在に風が巡ってゆくような感覚、風の神を祀るお社らしいと思ったことであった。
祭神は天御柱命(あめのみはしらのかみ)、国御柱命(くにのみはしらのかみ)、別名では風神の志那津比古神、志那津比売神である。しなつひこ、しなつひめ、という神名の方が、神の息の長さや、吹く風の響きを思わせるので、古の風の神の醸し出す雰囲気にはふさわしいように感じられる。
創祀伝承は崇神天皇の御代。国中に凶作と悪疫が続いた折、天皇の夢見によってこの地に社を建て二柱の神を祀ったことによる。祭祀により国は安らかになったという。
天武天皇の御代になると、勅使が派遣されてきて、国の豊穣や安全を願い、悪しき風をしずめ、順風を祈る風鎮祭が行われるようになったという。
日本書紀の天武四年夏四月の記事に「美濃王、佐伯連広足を遣(つかは)して、風神を竜田の立野に祀らしむ」とある。同様に、川の合流点の廣瀬においても水神が祭祀されたと続く。以後たびたび「夏四月、竜田の風神、廣瀬の大忌神を祭る」の記事がみられるようになる。
また当地は河内、大和の境界に位置していることから、三郷には竜田の関が設けられたという。
天武八年十一月「是の月に、初めて関を竜田山、大坂山に置く」とある。万一の事態に備え防備を固めたのであろう。兵も常駐し人の往来も増え、それに伴って龍田大社も発展していったかと思われる。その後龍田大社は中世には衰退してゆくものの、明治期になると復活、毎年七月には風鎮大祭の神事が行われているそうである。
祭神が竜田山の御座ケ峰に降臨したとされる伝承があるそうだ。その地が元宮ということであろう。三室山山中にも磐座があって、そこが竜田古社という伝承もあるいう。ともに古には山中に神が降臨、祭祀が行われていたらしい。ここは亀の瀬峡谷をぬけて激しい風が吹きつけてくる地形、風災害がおそれられ、順風を願って風の神がこの地に祀られることとなったようである。自然の美しい峡谷であるが、河内との国境であり、水運、産業、軍事において要衝の地であった。
龍田の地は万葉集にも歌われている。境内にはこのような碑があった。
島山を い行き廻(めぐ)れる 川沿ひの 岡辺の道ゆ 昨日こそ 我が越え来しか 一夜のみ 寝たりしからに 峰(を)の上の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる社(もり)に 風祭(かざまつり)せな (高橋虫麻呂 万葉集)
(島山を巡っている、川の川沿いの岡の道を、昨日越えて難波に行ったが、たったひと晩のうちにも峰の桜の花は流れに散ってゆく。あなたがご覧になるその日までは、風よ吹かないでおくれ。風の神として名高い龍田の社で風祭りをしよう)
摂社には、境内に出現した白蛇を祀る白龍神社(岩に長い白布が二本、白蛇をあらわすかのように掛けられている)その横に西宮から勧請された恵美須神社、そして三宝稲荷社がある。いずれも薄暗く樹木が陰を落としていて、その奥の空間にひっそりと祀られている。そのため近づくのも自然とそっとした足どりになってゆくのであった。
鳥居を出て駅方向に少し戻ると、神奈備神社(境外社)がある。石段を上ってゆくと小さなお社が建ち、そこだけ丸くこんもりとした森になっている。付近は住宅地になってしまっているが、古には岩瀬の杜(もり)といわれたそうである。かつては深く美しい森が広がっていたのだろう。ゆかりの歌を挙げておこう。
神奈備の岩瀬の杜の呼子鳥 いたくな鳴きそ我が恋まさる 鏡王女 (万葉集)
神奈備の岩瀬の杜のほととぎす 毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ 志貴皇子 (万葉集)
廣瀬大社
JR法隆寺駅に着き、駅前のレンタサイクル店で自転車を借りる。当然法隆寺へ行くのだろうと、お寺での駐輪の場所などを丁寧に教えてくださる。申し訳ないが(法隆寺は以前訪れているので)今日は反対方向の廣瀬神社へとハンドルを回す。
地図を見ながら富雄川に沿って南下してゆく。ほとんどどちらの方向にも流れていないような動きのない川、水は濁りよどんでいる。やがて大和川との合流点に至って橋を渡り、走りやすい堤防の道に入って大和川をさかのぼってゆく。ほどなく前方右手に廣瀬大社の森が見えてきた。社殿の裏側から細い川に沿って南下し、反橋(太鼓橋)の所から回り込み、二の鳥居から入ってゆく。
社殿の前には砂が敷かれている。公園の砂場の砂を固めて広く均したような感じである。「砂かけ祭り」で知られる神社なので、おそらくここで行われるのだろうと思いつつ、砂を踏んでゆく。砂を雨に見立てて五穀豊穣を祈り、田人、牛、参拝人が砂まみれになって激しく砂をかけ合うのだとか。砂を投げつける音が雨の連想につながる、ということであろうか。古の荒々しい呪術を思わせる神事である。
社殿は風格があり朱に彩られてきれいである。参道は長く、豊かな森に包まれているお社という印象、河合という地名をみてもわかるように、曽我川、飛鳥川、寺川、初瀬川など多くの河川の合流点に位置している。
祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)、たおやかな姫神を思わせる名であるが、神名をとなえるのを忌み、廣瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)とも。別名もいくつか挙げられている。山谷の悪水を良水に変え、五穀豊穣、川の氾濫を防ぐ水の神であるという。姫神の水徳でもって水を鎮めるのであろうか。
創祀伝承は崇神天皇の御代、里の長に託宣があったことによるという。一夜で沼地が陸地に変わり、橘の木が多く茂ったという不思議により、当地に社殿を建て、神を祀ったそうだ。
洪水の影響で水が引いた後、地形が一変し植生も変わった、という風に解釈すればいいのだろうか。橘は香りが高く霊的な木、聖域にあるのにふさわしい植物なので、生育してゆく橘の若木に霊威をみて、社を定めることになったのであろう。
天武天皇の御代、勅使が遣わされ、豊穣や国家の安全を祈り、荒き水を鎮め良き水を願う祭祀が行われるようになった。四月、七月の定期的祭祀、また水害禍のたび除災、治水の祈願が行なわれたようである。
日本書紀の天武四年夏四月の記事に「間人連大蓋、曾禰連韓犬を遣して、大忌神を廣瀬の河曲に祭らしむ」とある。龍田大社と同日同時刻に、祭祀が行われる慣わしであったという。龍田の風神、廣瀬の水神と神名は対となって並び立ち、神格も祭祀も同格、霊威は広く世に知られたそうである。
相殿には櫛玉命、穂雷命が祀られている。櫛玉命とは饒速日命(にぎはやひのみこと)のことという。天武天皇のとき、社の斎主に任命された曾禰氏が物部系の人であったため、物部氏の祖神の饒速日命(その妻の三炊屋姫も)を祀ってきたという経緯があったようである。隠れ祭神として(三炊屋姫の兄の)長髄彦を祭っているという説もあるそうだが、もし仮にそうであったとしても、長髄彦は神武天皇に抵抗した賊徒の扱いであるので、公式祭神としてその名は出しにくく、またはばかられるのであろう。
長髄彦は、かつてこの地を領していた先住民の長であった。神武に先立って天下った饒速日命に仕え、妹を嫁がせている。神武東征の折、日下の初戦では長髄彦は神武軍と戦い、神武の兄五瀬命に矢傷を負わせた。五瀬命は海上で傷が悪化し、亡くなって紀国の竃山に葬られた。
後に神武軍が大和に侵攻してきたとき、饒速日あるいはその息子の宇摩志麻治が長髄彦を討ち、神武に帰順したと記紀は伝えている。(石見一宮 物部神社の項にも書いている)
歴史の真相はわからないけれども、(私見だが、長髄彦は自ら死を選んだのではないかと考えている)親族に討たれたとされる長髄彦の霊が、この地において密かに祭られていたとしても、特に不思議ではないように思われる。長髄彦は「登美の長髄彦」と呼ばれたこの地の長であった。先ほど自転車でたどってきた富雄川は今もその名を負い、彼の本拠であった地域を流れゆく川である。
石切剱箭神社の項でも長髄彦の伝承に触れて書いているが、隠れ祭神、裏祭神として長髄彦の名が挙がるとき、長髄彦の故地、物部氏の関連、という共通項があるのは興味深い。
自転車を回して参道を走り、一の鳥居まで戻る。再び長い緑の参道をゆっくり抜けてゆく。摂社もいくつかみられた。石の反橋も渡ってみて気が済んだので、堤防の道へと戻っていく。その途中、小さな池があったので佇んで眺めた。この池は昔ここが沼地だった頃の最後の名残の池なのだとか。神社の横にありひっそりとした雰囲気が漂い、道もぬかるんで湿気の多そうな窪地になっている。古にはこの辺りにどんな光景が広がっていたのだろう・・・・。
自転車を押して堤防に上った。周囲の地形をみると、神社のある位置はまさに河川の氾濫地域のただ中にあるようだ。社殿は川の下流側に建てられており、川の流れを拝する布置。古代の地形とは異なっているのだろうけれども、なんだか恐い場所にお社が建っているのだなと思ったことであった。もっとも川から離れた安全地帯に水鎮めのお社を置くのでは意味がないともいえるが・・・・。水の恐怖の中で、水の神を祀る。古の祭祀は命がけだったのだろうか。
大和川に沿って自転車を進ませる。曽我川との合流点まで来ると、青サギが大きく羽ばたいて飛び立っていった。おどかしてしまったらしい。そのまま少し曽我川をさかのぼってゆく。曽我川の源流は御所市の巨勢の谷、北流する間に葛城川を合わせ、さらに高田川を合わせて、ここで大和川に流れ込んでゆく。すでにここまでで三本の川が合わさっているので、水に勢いがあり川の瀬音も高らかに響いている。流れで餌をついばんでいる小サギを見ながら通り過ぎる。橋を渡り元の大和川へ戻ろうとするが、道がわかりにくくなっていてとまどった。なんとか大和川へ出て、堤防をさらに上流へ。
次の合流点は飛鳥川である。飛鳥川の流れは優美で、思いのほか細いものであった。以前上流の奥飛鳥、稲渕、栢森を歩いて、清冽な川の流れに沿って散策した日が懐かしく思い出された。自転車を止め、飛鳥川が大和川に注ぎ込んでいく様子を眺める。
その先は寺川と合流、さらに進んでゆくと、やがて佐保川と初瀬川の合流点が見えてきた。二本の川はここで出合うとそれまでの美しい名を失い、大和川と名を変えるのである。
佐保川の源流は柳生の山中であるが、奈良市内まで下ると、大仏殿の裏をうねりながらのどかに流れてゆく。以前春先の頃だったか、佐保川沿いに大宮まで散策したことがあった。その折に、水辺で芹や土筆を摘んでいる人を見かけ、町では緑が失われていく中で、佐保ではまだ自然が残っているのを知り、心和むものがあった。
初瀬川の源流は都祁村である。源流まで行ったことはないが、以前、小夫(おおぶ)天神社、化粧壷の辺りを訪ねた際、修理枝集落の谷は歩いており、源流に近い初瀬川とその支流を眺めた記憶がある。(元伊勢紀行 大伯皇女の旧跡を訪ねて、の項)そのとき往復の道から眺めた初瀬川は大岩を噛むような激しい水流で、白く泡立ちつつ岩を縫ってなだれ落ちていた。水は澄みきってとてもすがすがしい印象であった・・・・。
佐保川と初瀬川、万葉集にもよく登場する合流地点に佇む。冬枯れの情景の中にいると、冷たい川風が吹きおろしてきた。じっとしていると寒さを感じる。今日の散策はここまでとし、しばらく流れを見つめていた。古代にはどんな流れであったのか・・・・。
現代の大和川は、雑多な生活ごみの欠片や枯枝を浮かべつつ流れてゆく。これでも以前よりはよほどきれいになったらしいけれども。子どもの頃、大阪府で過ごしたので、もう少し下流の大和川で泳いだ記憶がよみがえってくる。そのときの川水も決してきれいとはいえず、濁っていてぬるかったのだが・・・・。
今日は河内堅上からここまで大和川に沿ってさかのぼり、古に思いを馳せた一日であった。川の流路は時代によって変わったであろうが、大和の多くの川が広瀬に集まり、亀の瀬峡谷へと流れてゆく様子を確認できて印象深いものがあった・・・・。
水辺に鳥が一羽、背黒セキレイであろうか、細長い尾を振りつつ降りてゆく。白と黒の愛らしい鳥である。川面をかすめてしきりに飛びまわるのを眺めつつ自転車を走らせ、夕暮れ近い堤防の道を法隆寺駅へと戻っていった。