古代史の風景(6) 丹 波 の 四 女 王
古代史の風景(6) 丹 波 の 四 女 王
垂仁天皇のとき、「さほびこの反乱」により、后が亡くなったので、丹波の王の娘たち4人姉妹が、大和の大王に嫁ぐ話が、古事記に載っている。ゆかりの地を歩いてみた。
古事記「丹波の四女王」によると、長姉の比婆須比売(ひばすひめ)は后になって、数人の子供を生んだ。中の1人は景行天皇である。次の妹も妃となり、子をもうけるのだが、妹の円野比売(まとのひめ)と歌凝比売(うたこりひめ)の2人は、醜いという理由で送り帰された。それを恥じた円野比売は、「姿(かたち)醜きによりて、還さゆる事、隣里(ちかきさと)に聞えけむは、いと慚(やさ)しきこと」と言って、相楽郡で木に懸かって死のうとし、更に乙訓(おとくに)まで来たとき、淵に落ちて死んだ。
書紀では、丹波から5人の姉妹が大王に嫁ぎ、その名前も多少異なっている。5人のうち、竹野媛のみが帰されたが、帰途葛野で自ら輿から落ちて死んだという。ともに女性が落ちて死んだので、その地を堕国(おちくに)と呼び、それが訛って乙訓(おとくに)になったという地名起源説話になっている。
乙訓では、古代に女性が落ちた川は、小畑川だったのではないか、という言い伝えがある。
長岡京市内には、今も道路際に「丹波街道」の表示がみえ、今里地区や井ノ内近辺には、古墳や角宮乙訓神社、赤根神社などが古い面影を残している。
二つの神社の近くを流れる小畑川の岸に佇んでみた。小畑川は古くから氾濫を繰り返してきた川だったというが、今は細い流れになっている。昔は青く淀む深い淵だったのかもしれない、と思いつつ川岸を歩く。水草が生い茂る中で、コサギが1羽、しきりに餌をついばんでいた。
古代では、現在の京都府北部一帯も、丹波(たには)と呼んでいたという。その丹波への古の道は、ここ長岡の地から緩い上りとなって、山麓に入っていく。そして里山ののどかな情景の中を抜け、大原野を通って沓掛に至り、更に老ノ坂を経て、亀岡へと続いていく。
地図を見ると、その女性は、故郷へと戻る国境の山道を目前にした場所で、死を選んでいることになる。
古代の婚儀は政治と結びつき、同盟や服属儀礼として、行われた場合も多かっただろう。姉は次の天皇となる子を産み、妹のほうは送り帰されたといういきさつには、別の事情があったのかもしれない。当の女性が本当に醜かったかどうかも、不明である。ただ不名誉な記述とともに、後の世まで語り伝えられることになってしまった、若い女性の無念さを、私は川のほとりでひとり思うのである。
(2006・10・8)