一大伯皇女の旧跡を訪ねて一 元伊勢紀行
化粧壷 泊瀬斎宮(小夫天神社)
滝蔵神社 夏見廃寺跡
一大伯皇女の旧跡を訪ねて一 元伊勢紀行
化粧壷 泊瀬斎宮(小夫天神社)
滝蔵神社 夏見廃寺跡
六六一年のことである。唐の助力を得て新羅に滅ぼされた百済を救援するため、老齢の斉明女帝は、百済の求めに応じて船団を率い、難波を出て瀬戸内海を進み、伊予の熟田津に向かっていた。船は伊予を経て筑紫に向かう予定であった。
大伯(大来とも)皇女はその西征の旅の途中、大伯の海上(岡山県)で生まれた。父は大海人皇子、母は大田皇女、書紀はその生誕について次のように記している。
・・・・御船、大伯海(おほくのうみ)に到る。時に、大田皇女(おおたのひめみこ)、女(ひめみこ)を産む。よりて是の女(ひめみこ)を名(なづ)けて、大伯皇女(おおくのひめみこ)といふ。・・・・御船、伊予(いよ)の熟田津(にぎたつ)の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊(は)つ。 (日本書紀 斉明紀)
船団には、斉明女帝、間人大后、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、またその后の大田皇女、鵜野讃良皇女(後の持統天皇)など王族の主だった人々、重臣らが同行していた。兵も含め大変な人数だったと思われる。
「御船、大伯の海に到る」の箇所は、大伯の港に入って、とも考えられるが、普通に読めば、大田皇女は戦いに赴くその船上で出産した、というように読める。書紀が皇女の生誕場所について記しているのは、それが滅多にない出来事だったからだろう。出征の船旅における皇女の生誕。そのことは決して平穏ではない人生を予感させる。出産を手伝い見守った人たちも、そのような感じを持ったかもしれない。
当時の慣習のことはよく知らないのだが、戦いに際し、皇子の妃たちが同行していることにちょっと注目してみたい。
これより古く、景行天皇の時代、東国制覇に向かった日本武尊命(やまとたけるのみこと)の船が、走水の海で嵐に遭った折、海神を宥めるために、妃の一人である弟橘媛(おとたちばなひめ)が、海に飛び込んでいる。史書が述べているように、妃が進んで入水したのかどうかはわからないが、とにかく嵐の海に若い女性の命が捧げられ、その結果無事に船を進めることができたとされる。
そのことを踏まえて、西征の船旅に妃たちを同行させたという説もあるそうだ。景行天皇の頃からは時代を経ている。まさか日本武尊命の故事に倣い、妃を海に沈めなければならないような事態を想定して、旅に妃たちを伴ったとは思えないのだが・・・・。
古代のまつりごとの形では、霊力のある妻が神の声を聞いて神意を知り、夫が政治をみるという、ヒメ・ヒコ制があった。その名残がこの時代にももしあったのなら、神託、祭祀、神事に携わる必要性から、妃たちも夫の戦に同行したであろう。
歌人として有名な額田王も、斉明帝を助けて神事を行うなど、巫女的な役割を担ってこの旅に加わっていたと思われる。大田皇女や鵜野皇女に霊力があったかどうかまではわからないが、万葉集には、持統天皇が夫天武天皇の死後、夢の裏(うち)に習いたまへる歌・・・・つまり神から教わった歌、というのが載っており、それは、
・・・・神風(かむかぜ)の伊勢の国は 沖つ藻も 靡(な)みたる波に 潮気(しほけ)のみ香(かを)れる国に 味凝(うまこ)り あやにともしき・・・・
何か不思議な意味の取りにくい雰囲気の歌である。あるいは鵜野皇女は、神の声を聞くような霊的な人だったのかもしれない。
大田皇女は臨月に近かったにもかかわらず、遠征の旅に同行したことになる。当然船上での出産の覚悟を持っていたことだろうが、大和に残るよりも、父(中大兄皇子)や祖母(斉明帝)、大海人(夫)など一族の人たちとともに行動するほうを選んだのだ。このときの大田皇女の年齢は不明だが、おそらくは十八から二十歳前後と思われる。船には、大田皇女の同母妹で、ともに大海人皇子に嫁いだ十七歳の鵜野讃良皇女も乗っていた。旅は長期に及ぶ可能性も強かったから、夫を巡り、姉妹で張り合う気持ちもどこかにあったのかもしれない。
姉妹の生母、遠智娘(おちのいらつめ)は、蘇我山田石川麻呂の娘であった。石川麻呂は、中大兄皇子の乙巳の変にも加わった人であったが、異母弟の蘇我臣日向に讒言され、中大兄皇子に対するいわれなき謀反の罪で、兵を差し向けられてしまう。石川麻呂は山田寺にこもり、妻子八人とともに非業の死を遂げるが、遠智娘は突然の悲報に打ちのめされてしまい、心傷ついて病み、まだ幼少の子供たちを残し、若くして世を去っていた。大田皇女も鵜野皇女も、出産に際し、頼るべき実家も生母もすでに失っていたのだった。そのことを思えば、夫と行動をともにすることに、姉妹とも迷いはなかったのかもしれない。
船団が小豆島の北方に達したとき、時満ちて赤子は生まれ、その地名にちなんで大伯皇女と名づけられた。大伯というのは現在の岡山県の邑久郡の海、と書紀の注にある。(私事であるが、偶然先月小豆島に旅をしてきたばかりだったので、フェリーから眺めた瀬戸内海の穏やかな青い海の色、大小の小島が波間に次々に見え隠れする情景はまだ記憶に新しい)
船団はそのまま瀬戸内海を航行し、伊予の塾田津に停泊、やがてそこから娜大津(博多)に向けて船出していく。このときの額田王が詠んだ祭祀の歌は有名である。
熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今はこぎ出でな (万葉集巻一)
娜大津では二年後、大田皇女は皇子を産み、やはりその地名にちなんで大津皇子と名づけられた。鵜野讃良皇女にもその前年、草壁皇子が生まれている。
老齢の斉明女帝にとって、長旅はやはり負担であったのか、女帝は六六一年、朝倉宮で病を得て亡くなった。朝倉の社の木を切ったことで神が怒り、宮が壊れ、鬼火が現れるなどの怪異がみられ、また遺骸を行宮に移す際にも、笠を被った鬼が山から葬列を見下ろしている怪事があったことを、書紀は伝えている。
それらはまた来るべき戦にとって不吉な予兆でもあった。
六六一年夏、倭軍の将、安倍比羅夫らは、日本にいた百済の豊璋王を帰国させるべく東北の兵五千、軍事物資とともに海を渡った。唐軍は一旦引き上げ、情勢は落ち着いたかにみえたが、六六三年冬、再び新羅が侵攻、倭軍も前回を上回る筑紫の兵を中心とする二万七千の大軍を整えて、同年八月、白村江において唐の軍と戦ったが、大敗する。豊璋王は姿を消し、百済は滅亡、大和軍は壊滅した。そして投降し捕虜になった兵士を残したまま、船団は百済遺民らとともにかろうじて帰還した。
唐・新羅の軍勢が追撃してくることも予想され、本土で迎え撃つ恐怖に人々はおびえたことだろう。急ぎ海岸線に防衛準備をする一方で、大和守備のため、兵は順次大和へと帰還していったことと思われる。大田皇女は、この年に大津皇子を出産しており、その心労は大きかったのではないだろうか。
その後、没年はわからないが、大田皇女は若くして亡くなっている。後に斉明女帝(六六一年没)、間人皇后(六六五年没)が合葬された折に、その陵の前の小墳に葬られたことが、書紀に記述されている。
六年の春二月・・・・天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市(をち)岡上陵に合せ葬(かく)せり。是の日に、皇孫(みまご)大田皇女を陵の前の墓に葬す。(日本書紀 天智紀)
このとき大伯皇女は七歳、大津皇子は五歳であった。そして六六七年、唐や新羅の攻略に備えるため、都は大和から近江へと遷されていく。
後ろ盾となる生母を早く亡くしたということが、大伯、大津姉弟のその後の運命を大きく変えていくことになる。それにしても幼い姉妹の面倒は誰がみたのだろうか。その後の姉弟に対する冷酷な仕打ちをみれば、叔母の鵜野皇女が親代わりになって育てた、とはとても思えない。おそらくは母方の親族の女性(遠智娘の妹、姪娘・天智妃)などに引き取られ、祖父の天智天皇にも、目をかけてもらっていたのではないだろうか。
天智天皇は晩年病を得た折、皇太弟であった大海人皇子に後を託すことを持ちかけるが、天皇の真意が大友皇子への譲位にあるのを知る大海人は、固く辞退する。身の危険を感じた大海人皇子は、宮中で直ちに僧形になって、鵜野皇女と草壁皇子らを伴い近江を出、その日のうちに大和の島の宮に入り一泊、翌日吉野へと逃れる。
天智天皇が亡くなって半年後、鵜野皇女らとともに、吉野を出て挙兵した大海人皇子は、朝明郡の川のほとりで遠く伊勢の大神を拝み、戦勝を祈願する。大海人の軍はいち早く不破の関、鈴鹿を押さえたことで有利になり、伊勢、伊賀、美濃、大和の諸豪族を味方につけ、近江から脱出してきた高市皇子の進言や助力も得て、巧みに兵を進め、近江軍を打ち破った。六七二年夏、壬申の乱である。大友皇子は山前の地で殺され、近江朝は終わった。
大伯、大津姉弟の運命もまた変転していくことになる。大津皇子は九歳だったが、近江から脱出して、父のもとに合流することができたという。
大伯皇女のほうは、おそらくは額田王や十市皇女たちと行動をともにして、戦乱を逃れ、一時的に近江から離れたのではないだろうか。
大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し(天武天皇)、鵜野皇女は皇后となる。そしてその二ヵ月後には、戦勝祈願の礼として、大伯皇女を伊勢の大神に献じたことを、書紀は記している。なぜ数ある皇女たちの中で、大伯が選ばれたかについては、よく言われている説であるが、皇后鵜野の意思が強く働いたとされる。ここではこの説を紹介しておこう。
・・・・天武には十人の皇子と、七人の皇女がある。七人の皇女のうち、すでに母を失っていたのは、大来皇女のみであり、大来はもっとも高貴な出自にあってしかも最も心細い立場にあり、皇太子にふさわしい資格を持つ大津皇子の姉だった。
幼時天智に愛された、俊秀無比の大津は、旧近江朝廷側の貴族・大豪族にクーデターによって擁立される条件を備えていた。
生みの子草壁を如何にしても日継としたい、この姉弟の叔母皇后鵜野は、大来皇女が強力な貴族・豪族と婚姻して、大津が決定的な後見を得ることを怖れた。しかも大来皇女自身、推古、皇極の例によって、女帝たり、中皇命たる有資格者である。
しかも、同母との兄弟との婚姻は禁じられているが、異母兄弟との通婚に禁忌はない。大津を除いた九人の皇子はいづれも大来皇女を妃とすることができた。
未婚の御杖代として、遥か傍国の伊勢の辺境に遠ざけ、神聖隔離するうちに、大来皇女の婚期は過ぎる・・・・。 「斎宮志」山中智恵子著より
十三歳の大伯皇女は、卜定によって伊勢の大神に仕えることになり、初瀬の斎宮で一年半潔斎した後、伊勢に向かい、斎宮としての日々を過ごしていく。天武天皇の治世は十数年続き、天武は後継を草壁皇子と定め、皇后とともに他の六人の皇子たちにもそのことを吉野で誓わせた(吉野の盟約)。
大津皇子は成長するに従い、文武にすぐれ人望も高まっていった。どちらかというと虚弱な草壁皇子よりも、帝位を継ぐのにはるかにふさわしい器とみなされるようになっていたようだ。そのことは皇后鵜野にとっては、わが子草壁皇子の行く手をはばむ危険な存在と映り、疎ましく思えたのであろう。大津皇子を排除する動きも蔭で画策されていく。
六八六年、天武天皇が病で亡くなると、その翌月に大津皇子は草壁皇子に対する謀反のかどで捕らえられ、訳語田(をさだ)で処刑されてしまう。妃の山辺皇女は、それを知ると、髪を乱し裸足で走り出て殉死した、と書紀は伝えている。
天武天皇の死の前後、自分に迫ってくる不穏な動きに、大津皇子は何かを感じ取ったのだろう、ひそかに伊勢の大伯皇女に会いに行っている。
大津皇子の伊勢下向は、姉に別れを告げたかっただけなのか、あるいは今後の身の処し方の相談に行ったのかは不明だが、その再会が姉弟には最後のものになった。
前述の山中氏「斎宮志」の中には「・・・・大来は弟の死を予感していた。大津は蜂起してもしなくても謀殺される・・・・」とある。大津皇子の死がもはや逃れられない運命的なものであったということだろう。
このとき弟を救う手立てを見出せないまま、見送った大伯皇女の歌は哀切である。
わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて 暁露にわが立ち濡れし
二人行けど行き過ぎがたき秋山を いかにか君が独り越ゆらむ
任を解かれた大伯皇女は、十二年ぶりに大和に戻ってきた。その折の歌。
神風の伊勢の国にもあらましを いかにか来けむ君もあらなくに
見まく欲(ほ)り吾がする君もあらなくに いかにか来けむ馬疲るるに
大津皇子は二上山に葬られた。皇子ではあるが罪人なので、当初は山麓の烏谷口古墳に簡単に埋葬され、あまり丁寧な扱いではなかったらしいが、祟りを怖れてか、後に二上山の雄岳山頂に移されたといわれている。大伯皇女の哀しみの歌。
うつしみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟世(いろせ)とわが見む
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに
どの歌も哀しく、清らかで美しい。どんなに弟が大切な存在だったか、唐突にもぎ取られた悲しみが痛いほど伝わってくるし、調べには心に染み入るような叙情性がある。当時の人々もきっとそう感じたのではないだろうか・・・・。最愛の弟を失った大伯皇女はやがて孤独のうちに大和を離れ、名張の夏見寺に入って晩年を過ごし、四十一歳でその生涯を終えたと伝えられている。
前置きが長くなってしまったが、今回は大伯皇女の足跡を辿る形で、潔斎の日々を過ごした長谷の山中、小夫(おおぶ)の斎宮趾など所縁の地を訪れたいと思う。
冬の初めの日であった。近鉄長谷寺駅を降りると、山には薄く靄がかかっている。駅は坂の上にあり、長谷寺は谷筋に位置しているため、そこからは坂を降りていくことになる。石段を下り、橋を渡り、土産物屋の並ぶ朝の門前町を抜けてそぞろ歩くこと二十分、ようやく長谷寺の山門が見えてきた。ここまでは約一キロの距離である。
長谷寺は六八六年の建立とされ、天武天皇の病気平癒を願って浮き彫りにした銅板仏を安置したことが起源という。長谷寺も好きなお寺なので、時間があればゆっくりお参りしたいと思うのだが、今日は上流の山中を歩き回る予定なので、割愛させてもらうことにする。
山門前で立ち止まり、小夫集落まで十キロの表示があるのを見て、考え込む。集落までの定期バスが廃止になったことは知っていたので、数キロなら、充分歩けるとみていたのであるが、往復二十キロとなると少々きつい。せめて片道だけでもタクシーにしようかと迷い始める。そういうこちらの心を読んだかのように、その横にタクシー会社の案内板が・・・・。結局往路はタクシーのお世話になった。
小夫の集落へ抜ける道は渓流沿いの道である。途中ダムを通り、その後は初瀬川の流れを見ながら車は登っていく。山を背景にした実に清らかな流れである。ところどころ急流となっていて、大きな岩が見える。山中から流れ下る初瀬川はここから桜井市に向かい、大和平野を進んでいく。河内平野に入ると大和川と名を変え、やがて海に注ぎ込んでいく。私は大和川の流域の市で育ったので、子供の頃遊んだ大和川(いつも濁っていたが)は懐かしい。その源流がこの川なのだ。澄みきった流れ、渓谷の情景を見ていると感慨深いものがあった。
小夫の集落には斎宮趾といわれる天神社があり、十三歳の大伯皇女はそこで潔斎の日を過ごしたという。禊を行ったという化粧川には、化粧壷と呼ばれる遺跡があると聞いていたので、今日はまずそこを訪れるつもりでいた。
小夫近くの道路脇に、化粧壷の案内板を見つけたので、頼んで山道を少し上がってもらう。運転手さんは、化粧壷の名は聞いたことはあるものの、まだ行ったことはないそうで、地元でもあまり知られていないようであった。やがて左手にある修理枝集落の入り口で再び案内板の矢印を見たので、そこで車を降りた。あとは徒歩になる。
静かな山間の集落であった。細い流れに沿って少し進んでいくと、瀬があって水が流れ落ちている。その辺りで、早くも道が分からなくなる。誰かに訊こうと思い、待っていたが、誰も通らず村の中はひっそりしている。やっとおじいさんが一人、山道を降りてきた。
「え、化粧壷、あそこはあんた、なーんにもないとこですよ。最近は、誰かが看板立ててますけどな、行ってもなんにもありませんよ。昔そこで水を汲んで、なにかしたということらしいですがな。今はなんにもない」
「それは、あのまあわかっているんですけど、ぜひ行ってみたいので・・・・」
というやり取りの後、道を教わる。まず流れに沿って上がっていくと、橋に出る。その橋を渡り、流れを左にみながら、山道を進む。山中に入る分かれ道が右手に現れるが、まっすぐ進むと、か細い流れがある。小さな橋を渡ると、前方に畑が開けており、さらに上がっていくと、右手に化粧壷の立て札がある、ということだった。かなり見つけにくい場所らしい。
その通りに十五分ほど歩くと、畑の向こうに化粧壷の表示が見えてきた。そこへ行くには畑を回り込むしかなく、畑の周囲には猪よけであろうか、フェンスが張ってある。どこから入ろうかと思案していると、一箇所だけフェンスが倒されていて、化粧壷へ行くにはそこから入るしかない。
さっきのおじいさんは、最初道を説明するのに消極的であったが、実はよそ者に畑を荒らされることを、案じておられたのかもしれない。前夜の雨で道はぬかるんでいたので、なるべく踏み荒らさないように気をつけて歩いた。
特徴のある黄色い岩が露出した流れがあった。岩に含まれる成分の関係であろう。流れには注連縄が張ってある。そこが化粧壷であった。滝壺というほど大きなものではないが、岩肌を川水が勢いよく流れており、その下の窪みには水が溜まっている。
すぐ横に田畑が迫っていて、そのせいか滝壷の水はあまりきれいではなく、枯葉やごみが浮いているのが残念であった。
ここで大伯皇女は禊を行ったと伝えられている。往時、ここは草原が広がり、流れは清冽であったろう。初瀬川の源流ともいえる、この化粧川の流れのほとりに仮屋を立てて、皇女は川水に身を浸したのだろうか。
・・・・大来(おほく)皇女を、天照太神宮(あまてらすおほみかみのみや)に遣侍(たてまだ)さむとして、泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)に居(はべ)らしむ。是は先づ身を潔(きよ)めて、稍(やや)に神に近づく所なり。(日本書紀 天武紀)
しばらく流れ落ちる水を見つめていた。水は黄色い岩を打ち続ける。静かな山中を縫って流れる清流は、大和から遠ざけられた皇女の耳にどのように響いたろうか。今でもひと気のない寂しい山中であるが、当時はどんな風であったろう。おそらく人里離れた清らかな緑の広がる野、そこを流れる透明な水は、触れればたちまち身が引き締まるような冷たさであったろう。
神の御杖代(みつえしろ)という名のもとに、政治的に巧妙に仕組まれた卜によって選び出されたことを、十三歳の皇女は直感で感じ取っていただろうか。その詳しい意味はわからないまでも、おそらく知っていたような気がする。
他の皇女たちは都に暮らし、適齢期になれば、ふさわしい相手と婚姻していくのに対し、自分だけはその権利を奪われ、ただ一人の弟と引き離され、いわば追放にも等しい仕打ちを受けているのだ。犠牲になることとの引き換えに何があっただろう。悲しく、心は不安だったと思う。
過去に斎宮に選ばれた皇女の中には、伊勢に向かうことなく、大和の中で大神を祀って過ごした皇女も多くいた。大伯皇女もずっと初瀬にいられれば、と内心では願っていたのではないだろうか。けれども一年半ののち、皇女はここを旅立っていくのである。
伊勢の祭祀権とのかかわりの中で考える場合、在来の豪族で祭祀権を握っていた渡会(わたらひ)氏の力を抑止し、天武朝の権威を伊勢に浸透させるため、皇女が斎宮として伊勢に派遣されるようになった、という見方もあるようだ。
仮に政治上の駆け引きの道具に使われたのだとしても、皇女にはどうしようもなかっただろう。庇ってくれる母のない皇女は、もはや誰を恨むこともなく、諦めとともに静かな祈りの日々を受け入れようと心に決め、与えられた責務を自分なりに果たしていこうとしていた、そんな気がする。
大伯皇女が伊勢で滞在したのは、多気郡にある斎宮と思われる。当時の規模がどのようなものであったかはわからない。皇女はそこに十二年住み、年に三度、そこから伊勢神宮に赴き、三節祭の祭祀を行ったとされる。
化粧壷を後にし、山道を引き返した。小夫天神社に向かうことにする。このままずっと下ってもとの国道へ出て、小夫集落まで上がるのが、一番わかりやすいし道に迷う心配のない行き方なのだが、地図を見ると、修理枝の集落から小夫の上之郷集落へ抜ける近道がある。それはさっきのおじいさんが言っていた、分かれ道のことであろうかと思われた。
分かれ道に立ってしばらく迷っていたが、結局惹かれるまま、山道のほうに入っていった。しばらく歩くうちに、前方の視界が開け、隠れ里のような佇まいの集落が忽然と現れたので、内心ほっとする。それが上之郷集落であった。ここに住む人々は、綏靖(すいぜい)天皇の兄、神八井耳(かむやいみみ)命の末裔の多(おお)氏の子孫なのだそうで、小夫(おおぶ)の名もそこに由来するという。国道を隔てて緑濃い山々がなだらかに連なっており、その景観に思わず見とれながら集落内を歩いていくと、ほどなく目指す天神社へ出た。
斎宮山を背にした、清浄感の漂う社殿であった。境内には大きな欅の木があり、立て札を読むと、顕宗天皇の時代、神前田にあった磐境の木ということであった。樹齢千五百年以上とされている。
この社は、泊瀬斎宮趾ということで、主祭神天照大神に副えて、大伯皇女も祀っている。天照大神を宮殿から出し、初めて笠縫邑で祀ったと伝えられる皇女豊鋤入姫、またその後継の倭姫も合わせて祀られていた。
由緒書きを読むと、豊鋤入姫がここに神祠を建て、天照大神の祭祀を行ったという伝承があるので、元伊勢ということになるという。社伝ではそのようにいっている。もっとも笠縫邑の候補地は、大和に何箇所もあって、(有名なのは檜原神社であろうか)あまりにも古代のことなので、諸説あってどこと特定されてはいないが、社伝によれば、ここがその笠縫邑なのだという。
境内に佇んでいると、清々しい冷気が伝わってきた。大伯皇女だけでなく、古の豊鋤入姫も倭姫も、かつてここで神祀りの日々を過ごしたのだろうか。豊鋤入姫は大神を奉載して大和を出て丹波、吉備、紀伊の各地を巡っているし、倭姫は三輪を出て宇陀、伊賀、近江、美濃、鈴鹿、伊勢を巡り長旅の末に伊勢へたどり着いて、大神を祀っている(伊勢神宮の起源)。
豊鋤入姫も倭姫もその少女期を神に身を捧げて過ごし、また苦しい旅の日々を強いられた皇女たちだと思うが、神の御杖に選ばれ、大和から長く遠ざけられるかたちになるその背景には、大伯皇女の場合と同様、時の王位継承に絡む何らかの事情があったものと推測される。
大王の時代に選び出された古の皇女たちもまた、化粧川の清水に身をすすぐため、山道を輿に揺られ、滝壷の禊に通ったのだろうか。さっき歩いたばかりの山中の様子が、蘇ってくる。この地に追いやられた高貴な若い女性たち、その厳しい潔斎の日々や、禊の儀式を心のうちに思い浮かべていた。
社殿は斎宮山を背にしている。勾配が急な石段を上がって社殿に進み、手を合わせていると、静かに雨が降ってきた。時雨である。社の周囲の木々が揺れて滴が落ち、地面が濡れ、遠くの山々が霞み白い霧に包まれていく。水墨画のような山里の情景に心打たれ、言葉もなく見入っていた。
雨がやむのを境内の軒下で待つ間、お弁当を出して昼食をとることにした。山中のため気温が下がって少々寒かったが、魔法瓶に詰めてきた熱いお茶で温まりながら、しばらく時を過ごした。
どこからか小鳥のさえずりが聞こえてきて、次第に空が明るくなり、少しずつ霧が流れ始めた。山の稜線がはっきりとした輪郭で現れ始める。スケッチブックを持っていたら、描きたくなるような心に染みる清澄な大和の里の情景であった。忘れがたく貴重なひと時を過ごせたことが心に残った。この周辺の山奥にはきっと立派な磐座などもあると思われるが、それを訪ねていると、時間が遅くなるので、ここから先へ進むことはせず、長谷寺まで戻ることにする。
集落から国道へ降りる途中に、スクールバスの停留所があるのを見た。定期バスはなくなったが、子供たちはバスで通学しているらしい。それにしても集落の人たちは、日常の買い物や通院などはどうしているのだろう。車のある家ばかりとは限らないだろうに・・・と余計なことを心配しながら、歩いていった。
国道を少し下がったところで、滝蔵(たきのくら)神社へと向かう道を見たので、立ち寄ることにする。滝蔵神社は長谷寺の奥の院とされ、このまま車道を降りるよりは、滝蔵山を通るほうが距離的に近いとも思われる。しばらく歩きやすい上り道が続いていき、春にはきっと見事に咲くのだろうと思われる桜の古木があり、その横を抜けていくと、やがて滝蔵神社の境内に出た。
祭神は伊弉諾命(いざなぎのみこと)伊弉冉命(いざなみのみこと)、その御子神。ここは滝蔵三社権現ともいうそうだ。拝殿脇には磐座があり、奥に行くと、見上げるような急斜面の上に本殿があった。ここはほとんど滝蔵山の山頂といってよいであろう。石垣の上に張り付くようにして建てられている。
滝蔵明神は、もともとは初瀬の地主神であり、現在の与喜天神山に鎮座していたという。あるとき託宣があって菅原道真にその座を譲ることになり、山腹には天神社が建てられ、そのときから山の名も与喜天神山というようになったらしい。滝蔵の神は、自ら滝蔵山中に退いたとされる。何らかの事情により、その時代に祀る神の交代が行われたのであろう。旧来の神が新来の神に社地を明け渡し、別地へ遷ることを余儀なくされる例はここだけではない。
滝蔵の神は長谷寺の境内でも祀られており、滝蔵山にあるこの滝蔵神社は、やがて長谷寺の奥の院として崇敬されるようになったという。
「長谷寺の観音信仰は、三輪山信仰を仏教化したものとみなされる」(「アマテラスの誕生」筑紫申真著より)という考え方もあるように、長谷寺には神仏組み合わさった信仰のかたちがみられるようだ。ご本尊の十一面観音像の脇持は、雨宝童子であるが、これは天照大神像のこととされているし、境内には滝蔵権現が祀られている。
古来長谷寺に詣でる人は、片手落ちになるというので、必ず滝蔵山にも足を運び、滝蔵神社にお参りする習慣があったらしい。けれども今はどうなのだろう。滝蔵神社には人影は全くみられず、山中には実に静かな時間が流れていた。地域の人に大切にされているらしい、山間に営まれるひっそりしたお社であった。
下りの道は、車が通る新道と山道の二本があり、より古い時代の雰囲気を感じたかったので、鳥居下の旧道を抜けていくことにした。落ち葉が厚く積もった傾斜の強い滑りやすい山道をゆっくりと降りていく。昔の人は、この急坂の道をあえぎつつ上がったのであろう。辺りは冬の木々に覆われ、今はほとんど使われていない道のようであった。
ほどなく山が終わり道路に下りる。ふっと現代に戻った気がした。ここからは車の通る道を川沿いに下ることになる。覗き込むと初瀬川はところどころ急流が渦を巻き、渓谷を縫って流れていく。荒々しい自然がまだこんな形で残っているのだった。
やがてまほろば湖が見えてきた。この下が初瀬ダムである。往路タクシーで通ったときは、ちらっと眺めただけであった。右手に広がる人工湖を見ながらさらに下る。ダムの反対側の車道沿いに見廻(みかえり)不動尊の表示があったので、気になって立ち止まった。初瀬川を眺め下ろす位置に、黒々とした岩塊が広がっている。樹木が覆い被さるように茂り、背後の木立は深い。岩は樹木と絡み合って一体化しており、弘法大師が刻んだという像はもはやどれがそうなのか、目を近づけてもよくわからないのだが、全体に重量感のある岩塊で、そこにはなにか言いようのない無言の迫力があった。
左手に与喜天神山が見えてくる。磐座も多くあるそうなので、また別の機会に上がってみたいと思う。豊鋤入姫や倭姫が天照大神を祀ったという伊豆加志(いつかし)宮の伝承地で、ここも元伊勢の一つである。
長谷寺の山門に帰り着くと、界隈はお参りの人で賑わっていた。やっと出発点まで戻ったわけだが、実際に歩いてみた感覚では小夫集落からここまで十キロとは思えなかった。七キロぐらいの距離という感じであろうか。
再び門前町を駅まで戻り、今度は急坂を上ることになって、かなりくたびれた。
近鉄電車に乗って名張の夏見廃寺を訪ねることにする。電車の中は暖房で暖かく、短い間だが少し眠ってしまった。
名張の駅から徒歩二十分ほどのところに、夏見廃寺がある。時間に余裕があれば歩くつもりだったが、もう夕方に近く、駅前で路線バスを探すが、行き先に合うバスが見つからず、あきらめてタクシーに乗る。ずっと名張川に沿って進み、辺り一帯緩い丘陵地で公園になっているところで降りると、一角に資料館があり、その背後が夏見廃寺ということであった。
あとで資料館に寄ることにして、まず斜面に残っている礎石の列を眺めにいく。どんなお寺だったのだろう。講堂、金堂、塔、僧坊らしい建物の礎石が草の上に点在している。最初からこのように整っていたのではなさそうだ。大伯皇女が来たときには、まだ小規模な寺院であったのだろう。
「薬師寺縁起」に、大伯皇女が父天武の供養にと発願し、名張に建立した昌福寺の記述が見え、それが夏見寺のことであるとされている。ここで発掘された塼仏(せんぶつ、 浮き彫りの仏)に刻まれた年号から、寺の建立は、六九四年頃と見られている。伽藍は徐々に整っていったようだが、十世紀になって夏見寺は焼失している。
皇女は何年間をこの地で過ごしたのだろうか。伊勢から退下したのは、二十六歳のとき、名張に来たのはいつかわからないが、もし寺の建立年前後にここに来たのだとすれば、三十代半ばから数年間過ごしたことになる。その没年は四十一歳という。
皇女は名張に来るより、本心は弟の眠る二上山の近くにいたかったのではないだろうか。ここから大和は遠く、その気配はもう感じられない。夏見寺は、緩やかな斜面に位置しており、伽藍の礎石は大和の方角には向いておらず、その先にはただ静かな草地が広がっている。
伊勢から大和へ戻ったとしても、そこもまた皇女にとっては安住の地ではなかっただろう。罪人の姉という立場であれば、親しんでくれる人もまた限られていたことと思われる。
大津皇子刑死から三年後、草壁皇子は病死し、その子(後の文武天皇)がまだ幼少であったので、鵜野皇后自身が即位して統治した。また六九一年には、大津謀反の密告者であった川島皇子も亡くなった。そして六九四年には、都は飛鳥浄御原から大和三山に囲まれた藤原京へと移されていく。
大伯皇女は、時代の推移をどのように受けとめていただろう。どこにいても喪失の思いは消えず、おそらくは醒めた眼で次々と起きる出来事を見つめていたことだろう。せめて弟の眠る二上山の近くで過ごすことが、皇女にとって心の慰めであったような気がする。はたして自分の意思で名張へ去ったのかどうか・・・・。おそらく誰かの意思に沿って、そうせざるを得なかったような気がしてならない。弟への思いを哀しみを込め、すぐれた歌に託して詠み続ける大伯皇女の存在は、持統天皇にとってはさぞ目障りなことであったに違いない。
伊勢の斎宮から、大和に戻り、今度はまた夏見寺に・・・・。あるときは神に仕え、また仏に仕え、常に命じられるまま居を移し、漂うように俗を離れて生きるしか他に道はなかったとしても、どこにいても大伯皇女はひたすら絆の深かった弟のことを、心に思い続けて過ごしたのであろう。
資料館に入ってみる。今日最後の入場者であったらしく、閉館間近の内部はひっそりとして誰もおらず、職員の人がスイッチを入れてくれた、ビデオの音だけが静かな館内に鳴り響いた。何気なく画面を見ていると、最初は実写であったが、途中からはアニメーションに切り替わり、里中満智子さんの「天上の虹」のキャラクターそのままの映像が流れ始めた・・・・。
奧の間に行くと、ほの暗い空間に、鮮やかに塗られた朱の柱が林立していた。中央には無数の塼仏群が並んでいて、その数に圧倒されて立ち尽くしていた。これは実物大の復元模型なのだそうで、往時の様子が偲ばれる。その彫刻の細かさ、丁寧さにじっと見入っていた。
ビデオが終わると、館内は再び静かになった。ガラスケースの塼仏、瓦の破片などの展示品を見てから、外へ出ると、細い雨が降っていた。林の中に、資料館で見てきたばかりの幻の寺院を浮かび上がらせてみる。たたずんでいると、やがてその残像も夕暮れの雨の中にはかなく消えていった。
参照文献
「斎宮志」山中智恵子 大和書房
「アマテラスの誕生」筑紫甲真 講談社学術文庫
「天智伝」中西進 中公文庫