坂口安吾
「桜の森の満開の下」(講談社文芸文庫)
坂口安吾
「桜の森の満開の下」(講談社文芸文庫)
円山公園の大きな枝垂れ桜の枝が風に揺れている。京都に出た折など、時間があるときは公園の中を歩いて、この桜の樹に会うことにしている。
咲き出す前の、つぼんでいる三月ころの桜の樹も、しんと静まった感じがあって好きだし、落葉のころの、どこか寂しげな佇まいもいい。今は六月なので、緑の葉がいかにも涼しげである。
近づいてみると、樹にも生きようとする意志があり、強靭な生命力が宿っているような、しっかりした枝の広げ方である。
満開のころは新聞で紹介されることが多く、四月に行くと、感嘆の声をあげながら、花に向かってカメラを構える人たちで賑わっている。
この樹は、実は先代の老樹が昭和二十二年に惜しまれつつ枯れた後に、植えられた子桜なのだという。
先代の樹は、樹齢二百年とも三百年とも言われたそうだ。植木職の佐野藤右衛門さんという人が、親桜の枯死を予感して予め種を取り、苦労して発芽させておいたものを、ここに植え直したそうである。
折悪しくその直後に近畿地方に台風が襲来し、佐野さんは若木が倒れるのを心配して駆けつけ、風雨の中で何時間も木を抱いて守ったそうだ。そういう風に愛情を注ぎ、見守って手入れをされてきた方々の努力のお蔭なのだろう、見事な花が再び見られるようになった。
桜の木の下にいると、坂口安吾の「桜の森の満開の下」を思い出した。昔読んだことがあるのだが、物覚えの悪い私はこのタイトルをしょっちゅう間違える。
「満開の桜の森の下」「満開の森の桜の下」もうパズルである。正解に辿り着くまで幾通りも試すことに。久しぶりにこの作品を読み直してみた。
「桜の森の満開の下」 あらすじ
・・・・昔鈴鹿の山に一人の山賊が住んでいた。人殺しも平気な男なのだが、実は満開の森の桜が嫌いで、何か恐ろしくてならない。その下に立つと、「花びらがぼそぼそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われて」おのずと心が狂ってしまいそうになるからである。
ある日、山賊は妻にしている美女にそそのかされ、その女の言うままに一緒に都に出て、女のためにさらに悪事を重ねていく。
やがてそういう日々に嫌気がさした男は、女を伴って鈴鹿の山に帰ろうとする。
二人は山に差し掛かる。桜を気にして避けていたはずなのだが、女に「自分をおぶって森を通り抜けるように」と言われ、男はついその通りにしてしまう。
男は女を背負って、満開の桜の下に来る。そのとき男は、背中にいるのが女ではなくて、全身紫色で髪の毛は緑色、口が耳まで裂けた鬼の姿をしたものであるのに気づいて驚く。
その途端、本性を現した鬼は男に襲い掛かかってきた。格闘の末に男は鬼を殺した。
我に返ってみると、それは鬼ではなくて、元のままの女だった。呆然とする山賊の上に、桜の花が降りかかる。やがて女の姿は掻き消え、男も消えて、花びらだけがその場に残る・・・・。
幻想的な雰囲気が漂う作品である。安吾の小説の中でも、比較的分かりにくい一篇だと思う。冒頭のページで安吾は、
「・・・・能にもさる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり、見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう・・・・」
という風に書いている。
桜ともの狂いを結びつける発想で、最初に読者の興味を引きつけようとしているのだろう。この部分は世阿弥の能「桜川」からの引用と注にある。
ただし能では、母親は花の名所桜川で、花をすくいながら連れ去られた子を思って狂乱した後、わが子とそこで再会するのだが・・・・。
人が鬼に襲われる話といえば、平安時代の説話集「今昔物語」がまず頭に浮かぶ。鬼の話は幾つか載っているが、その中からこの話をみてみよう。
今昔物語 巻二十七の八
「内裏の松原にて鬼、人の形となりて女をくらふ話」より抜粋
小松天皇のとき、武徳院の松原を、内裏の方へ歩いていた美女三人のうち、一人が松の木の下にいた男に話しかけられ、引き止められた。月の明るい晩だった。
他の二人は待っていたが、来ないので様子を見にいくと、誰もおらず、よく見れば切り落とされた女の手首、足首だけがあって、体のほうはなくなっていた。男もいなかった。女たちは驚いて逃げ出した。異変を聞いて集まってきた人々は「これは鬼が人の形になって女を食べたのに違いない」と噂したという。
場所は内裏の庭である。宮中だというのに、そこにはこんな気味の悪い深い松原があったらしい。この話では桜でなく、松の木の下で鬼が待ち伏せしていて、事件が起きたようである。鬼も襲われた人も、共に姿が消えるという点は似ている。
次に「太平記」巻二十三をみてみよう。ここにも安吾の作品と大変よく似た話が載っている。
「太平記」巻ニ十三 「大森彦七ガ事」より抜粋
伊予の住人に、大森彦七という大層勇猛果敢な男がいた。湊川の戦で軍功を立てたので、十分な恩賞を貰った。
その男が猿楽の舞台へ出るため、下人に衣装を持たせて、夜道を急いでいた。すると若い女に出会い、困っている様子だったので、親切心を出しておぶってやった。暗がりに来ると突如女は、
「二ツノ眼(まなこ)ハ朱ヲ解(トイ)テ、鏡ノ面ニ酒注ギケルガ如く、上下ノ歯クヒ違ヒテ、口脇耳ノ根マデ広ク割ケタ・・・・」
という風に、恐ろしい容貌の鬼に変わった。後ろから男を襲ってくる。取っ組み合いの末、田んぼに転がり込んだ。男が化け物を仕留めた、と叫び、人々が駆けつけると、化け物は消えてしまっていた・・・・。
昔話や民話、伝承など探す範囲を広げていけば、類似の話はもっと見つかるだろう。
鬼、美女、夜道を歩く人、これらは説話などによく使われる素材である。読んでみるとどれも似通った場面、共通する話の展開になっている。
安吾の心の中では、前述のような怪異譚や変身譚、怪談、その断片が数多く混ざり合っていたのではないだろうか。
複数のエピソードは撹拌されて沈澱し、やがて時間を経て熟成していく。そして作家の手により濾過されて、完成品となって差し出されたのが、他ならぬ「桜の森の満開の下」だったと思われる。
ではこの話は一体何を語ろうとしているのだろう。桜はそんなにも恐ろしい魔性のもので、一見美女と見えるものの正体は、実は鬼かもしれないと言っているのだろうか。
そういう側面も確かにあるだろうが、おそらくそのことだけをいいたかった訳ではないだろう。
山賊は満開の桜を見上げたときに、そのあまりの美しさに思わず我を忘れて見とれたのに違いない。人が何かに心を奪われた時ほど、無防備な時はない。その瞬間こそが、魔物にとってはまた絶好の機会なのだから。
桜に魅入られ花を見つめる、その忘我の人の一瞬の隙を狙って、森の樹の背後にひそむ魔物が、命を奪おうと男に襲いかかったのであろう。
満開の桜は、それ自体は別に魔性のものでも何でもなく、こうした物語によく出てくる美女も、いつでも鬼が化けたものとは限らない。
魔物は深い森の奥のどこかに身を隠していて、人が通る機会を窺い、満開の桜に感じ入って油断する旅人を襲うのだろう。
次にモチーフとして度々出てくる桜について、少し考えてみたい。
古来桜の花は私たち日本人には、特別な感じを起こさせるものだったようだ。
例えば古代では、朱桜(ははか ウワミズザクラのこと)の枝を、鹿の肩骨を焼いて占うときに用いていたと、古事記にある。桜は占いにも使われる神聖な木、というイメージがある。
また万葉集では藤原広嗣は、折り取った桜の一枝を女性に贈り、こんな風に歌いかけている。
万葉集(巻八)より
藤原朝臣(あそん)広嗣(ひろつぐ)、桜花を娘子(をとめ)に贈る歌一首
この花の一節(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の 言(こと)ぞ隠(こも)れるおほろかにすな
娘子からの返歌
この花の一節(ひとよ)のうちは百種(ももくさ)の 言持ちかねて折られえけずや
男が桜の枝に女への思いを託して歌ったのに対し、女の方は、
「この桜の枝は、あまりの言葉の重みで折れてしまったのではないでしょうか」
とさりげなくかわすように応じている。
この歌のやり取りから分かることは、自分の気持ちを相手に伝えようとするとき、大切な感情を託するものが、桜だったということである。その点に注目したい。
国文学者折口信夫はその著「古代研究」の中で、桜に関しての考察を次のように述べている。少し引用してみよう。
鎮花祭は・・・・此は夏祭りの部類に入るものである。やすらひ祭りとも言ふのは・・・・囃し詞「やすらへ。花や」を繰り返すからだと言ふ。
昔は木の花を稲の花の象徴として、其早く散るのを、今年の稲の花の実にいる物の尠(すくな)い兆とみたのだ。歌の文句も「ゆっくりせよ。花よ」という義で、桜に寄せて稲を予祝するのである・・・・。
つまり稲の生育を願って、桜の花の散ることを遅らそうとする農村行事があったというのである。
それがやすらひ祭り、つまり花鎮めの祭りといわれるものの起源だという説である。
桜の花の開花の様子に人々は神意を感じ、その年の作物の実り具合を占ったらしい。
折口説によると、神と桜と人の間には、古代から花を通しての不思議な交流があったと思われる。
そういう風に考えるとき、花は単に花ではなく、花を超えたものとして映ってくる。
人はさまざまな心で、咲き始める桜の花をいとおしみ、満開の花を称え、風に散っていく花びらを見つめていたに相違ない。
桜の樹はその命の赴くまま、開花のために力を溜めて地に立っている。そして時が満ちて、咲き続けた後は、自然の営みのままに散っていく。そのありようが、時として人の目にはこの上ない美しさと儚さが極まった形として映るようだ。
私たちの身近にある桜を、作品の中に生かし、このような狂おしいほどの美の世界に昇華させていくのは、やはり安吾の力量なのだろう。
古来桜は人を魅了して、歌にも多く詠まれてきている。最後に思いつくまま有名なものを二、三挙げておこう。
久方の光のどけき春の日に しず心なく花の散るらむ (紀友則)
ねがはくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃 (西行)
仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば (西行)
どれも味わい深いが、西行の後の歌がさりげなくて、私は好きである。
何はともあれ、文学に現れる桜は、花の美しさに感応する心を持ち、桜をめでる鋭敏な感受性のもとに描かれていると思う。
安吾の「桜の森の満開の下」もその例外ではないだろう。
〈参照〉
岩波古典文学大系 「今昔物語集四」 岩波書店
岩波古典文学大系 「太平記二」 岩波書店
「古代研究」 折口信夫 中央公論社
「万葉集」上巻 角川文庫